<その3>
その日の練習は、昨日以上に身が入らなかった。
お姉さまのことが気になるけれど、怖くてまだ見ることが出来ない。加えて、理沙子さまのこともあって、それこそ練習どころではなかった。
ちらちらと様子をうかがう限り、お姉さまも理沙子さまもごく平静に練習をしているように見える。内心、どのようなことを考えているのかわからないけれど、行動に迷いや悩みが出ているようには見られない。なんでもないボールを空振りしたり、転がっているボールを踏んづけて転んだりしているのは私だけのようだった。
お姉さまとのことを知っているせいか、上級生のお姉さま方も特に厳しく叱り付けてはこなかったけれど、このままでは皆に迷惑をかけてしまうだけだと判断し、私は具合が悪いといって早退することにした。
「失礼します」
深々とお辞儀をしてコートを去るとき、背中に視線を感じた。
果たしてそれは、お姉さまのものだったのか、理沙子さまのものだったのか。振り返ることもできずに、私は逃げるようにテニスコートから出た。
テニスコートを出た私は真っ直ぐに部室に向かわず、まず水飲み場へと足を向けた。喉が渇いたというのもあったが、転んだときに膝をすりむいてしまったので、軽く洗おうと思ったのだ。
水飲み場には誰もいなかった。
私は足を上げて、膝小僧を水で流す。冷たい水が、気持ちよい。
「――お、色っぽいアングル。お嬢さん、視線もこっちにいただけますか?」
「え?」
突然、声をかけられて体勢を崩してしまった。
「きゃっ?!」
どたん、と無様に尻餅をつく。
「これは開脚大サービスね、桂さん」
「つ、蔦子さんっ?!」
慌てて脚を閉じ、手でスカートをおさえる。
アンスコとはいえ、見られて嬉しいものではない。
「お、おどかさないでよう。そ、それにエッチな写真、撮らないで」
口を尖らせながら、立ち上がる。お尻が痛い。
「あはは、大丈夫、大丈夫。これは私だけが大切に保管するから」
全然、大丈夫じゃない。一体、そんなものを何に使うつもりなのか。まあ、怪しげな雑誌に投稿するような人じゃあないけれど。
構えていたカメラから手を離し、縁なしメガネのフレームを指で軽く押し上げて、私の方に視線を向ける。
「ど、どうしたの?テニスコートなら向こうだよ」
女子高生を限定に被写体としている蔦子さんは、色々な部活動に足を伸ばしては撮影をしていて、テニス部にもよく現れる。これが蔦子さんじゃなかったら、ただの変態さんなのだけれど。
「知っているわよ。さっきまで居たもの」
全く気が付かなかった。相当、ボーっとしていたみたいだ。
「もう、撮影は終わり?」
「ええ。だって、モデルが練習を切り上げちゃったから」
「モデル?」
「そ」
言って、蔦子さんは私に向けてウィンクする。
「それって……え、私?」
自分自身を指差しながらも、周囲をきょろきょろと見回してしまった。蔦子さんは苦笑しながら、頷く。
「そうよ。しっかりしてよね、大切なモデルなんだから」
「なんで……私?」
「なんでって、ひらひら揺れるスカートからにょっきり伸びた桂さんの太ももは、そりゃあ魅力的よ。そして時折、見えるか見えないかというアンダースコート。迸る汗、汗に濡れて透ける下着のライン、わずかに揺れる胸、うん、素敵」
「蔦子さん……エロオヤジ?」
どこまでが本気なのか、この人は分からないところがある。
私はため息をついた。
「私なんかより、もっと他の人をモデルにすればいいじゃない。もっと、モデルに相応しい人は、いっぱいいるわよ」
「相応しい人、って?」
「そりゃあ……祐巳さんとか、志摩子さんとか、薔薇さま方とか」
私なんかよりずっと綺麗で、華やかで、美しい人たち。文化祭で展示されていた、祥子さまと祐巳さんの写真は、ため息がでるくらい素晴らしかった。私を撮ったところで、町内の写真コンクールの佳作にだって選ばれないだろう。
「もちろん、山百合会メンバーは被写体として申し分ないし、撮影させてもらっているわよ」
なら、どうして。
「祥子さまと一緒にいるときの祐巳さんと、テニスをしているときの桂さんは、同じよ」
何を、言っているのだろうか。
蔦子さんはカメラのレンズを何やらいじりながら、独り言のように続けている。
「それがここ数日の桂さんは、曇っている。そりゃあもう、梅雨空も真っ青なくらい」
分かっている。それくらいは、分かっている。自分自身が何より、憂鬱なのだから。
「いや、分かっていないわね。それとも、本当は分かっているのかしら?」
さっきから蔦子さんは、何を言っているのだろうか。
少し、放っておいてほしい。私は、軽く頭を下げてその場を去ろうとした。
「待って、桂さん」
呼び止める、声。
振り向くと、冷たいレンズの向こう側に、蔦子さんの瞳。
「大切なことは……あなたの心の中にあるものだけじゃないのよ」
そう言って、ポケットの中から一枚の写真を取り出した。
「あげるわ。本当は、ルール違反なんだけれど」
私の手に残される、写真。
遠ざかる蔦子さんの背中。
「…………!」
写真を見て、私は声もなく固まる。
そこに写っていたのは、汗を迸らせ、真剣な表情でプレイするお姉さまの姿だった。
夕食を終え、テレビを見て、お風呂に入ってパジャマに着替えた私は、部屋に戻るとベッドに寝転がりながら蔦子さんから貰った写真を眺めていた。
家に帰るまでに、そして家に帰ってからも何度見たか分からない。
蔦子さんは何を考えて、この写真を私に渡したのだろうか。きっと、私とお姉さまのことを既に知っていて、今日の行動があったのだろう。だとしたら、お姉さまの写真を渡したということは、仲直りしろということなのか。
「むーっ」
写真の中のお姉さまは、素敵だった。
今まで一緒にいたけれど、こうして一こまを写真で見せられるとまた違うお姉さまが見えてくる気がする。それもこれも、カメラマンの腕がいいからだろう。
まさにボールを追いかけているといった瞬間の、躍動感溢れるお姉さまの姿は今にも動き出しそうに見えて。表情は物凄く真剣なのだけれど、心から楽しんでいるということが私には分かる。
公式の試合か、練習試合か。それともただの練習の風景か。
お姉さまがアップで撮られているから分かりにくいが、場所はリリアンのテニスコートだ。
分からない。
これを見て、私にどうしろというのだ。
平凡な私の頭脳では蔦子さんの真意を理解できず。
ただ、写真の中のお姉さまを眺めて寝返りをうつだけだった。
「桂ちゃん」
お昼休み、いつもの友達とお弁当を食べようとしていると、教室の入り口から声がかけられた。
「り、理沙子さま?」
驚き立ち上がると、ばたばたと入り口に駆け寄った。
「こら、桂ちゃん、みんなお昼なんだから走ったら駄目じゃない。埃が立つわよ」
「あ、す、すみません。で、でもどうしたんですか?」
「ちょっと、良かったら一緒にお昼でもどうかと思って」
涼やかな笑みを浮かべる。
う、背後から視線を感じると思ったら、同じテニス部の恭子さんだ。そういえば確か、恭子さんは理沙子さまの大ファンだったか。
私はみんなのいる机に引き返すと、あたふたとお弁当を持って教室を出た。かなり、視線が痛かった。
私たちは連れ立ってホールへと足を向けた。混雑していたけれど、席はそれなりに空いていたので適当に腰を下ろす。理沙子さまは途中で購入した紙パックのお茶にストローを刺し、お弁当を広げ始めた。ならって、私も自分のお弁当を出す。
「あの、一体、どうしたんですか、いきなり」
疑問をまず、口にした。
「もっと、桂ちゃんに私のことを知ってほしかったから」
「と、いいますと」
「姉妹の件、覚えているわよね」
「はい……もちろん」
忘れられるわけがない。
考えがまとまっていない私は正面を見ることができずに、お弁当に視線を落とす。美味しそうな肉団子を箸で転がしながら、惑う。
「でもね、やっぱり私のことをもっと知ってもらわないと、考えるのも難しいと思って。だからこうして、食事を誘いに来たというわけ」
お弁当のおかずを端正な口元に運びながら理沙子さま。タイミングをあわせて、私も肉団子を口に入れた。
「もちろん、都合が悪かったら言ってね。今日も、お友達と一緒に食べる予定だったのでしょう?ごめんなさいね」
「い、いえっ、それなら大丈夫です。ちょっと、いきなりだからびっくりしただけで」
「そう、よかった」
お昼休みということでホール内は混雑している。見回せば、仲の良い友人同士で雑談しながら昼食をとっている生徒や、姉妹で仲良くお弁当を広げている生徒の姿がどこの角度からも目に入ってくる。
果たして、今の私たちは他の人の目から見たらどのように映っているのだろうか。姉妹のように見えるのだろうか。
お姉さまとは何度か一緒にお昼ご飯を食べたことがある。自分は、好き嫌いは殆どないけれど、お姉さまは意外に偏食で、海産物が苦手だった。私が美味しそうにほっけを頬張っていると、「信じられない」といった目をしていたものだ。今、思い出してもあのときのお姉さまの表情は笑える。
と、いけない、いけない。
今は理沙子さまと一緒にお弁当を食べているのだ。お姉さまのことばかり考えているなんて、失礼だ。しかも、今やもうお姉さまですらないというのに。
「やだな、お母さんったら。私が豆類、嫌いなの知っていて」
「え」
ため息交じりのその声に前を見ると。
理沙子さまのお箸がお弁当箱の中の、ひとつのおかずの上で止まっていた。見るにそれは『五目ひじき』のようで、確かに大豆の水煮が入っている。
「お嫌いなんですか?」
「ええ、食べられなくはないけれど、出来れば口にしたくはないわね」
本当に嫌いなようで、思いっきり苦い表情をしている。
「美味しいのに」
「じゃあ、桂ちゃん、食べる?」
「え、本当ですか?あ、でもせっかく理沙子さまのお母様が作ってくださったのに、私が食べてしまったら」
「そうねえ……じゃあ、桂ちゃんが美味しそうに食べてくれたら、私も食べたくなるかもしれないわ」
「えっ」
「ねえ、ほら」
なんか、いきなり責任重大になってしまった。私がどのように食べるかで、理沙子さまが食するかどうか決まるなんて。かといって、今さら断るというわけにもいかない。正面では、理沙子さまがにこにこと私のことを見ているし。
覚悟を決めて私は理沙子さまのお弁当に箸を伸ばした。
「―――美味しいっ!!」
ただの五目ひじきではない。一緒に、刻み野菜の天ぷらが入っていて、天ぷらの味がひじきに染み込んでいて、同時に野菜の味もして、これはもう「五目」を超えた美味しさだ。うん、今度お母さんに作ってもらおう。
口にした瞬間、5秒前に考えていたことなどすっかり忘れて、口の中に広がる風味にすっかり酔いしれていた。
すると。
私のことを、目を丸くして見ていた理沙子さまは。半信半疑の表情で手にしたお箸を動かし、五目ひじきをすくいあげた。もちろん、大豆も含めて。
ゆっくりと手を動かし、口の中に入れて咀嚼する。
「美味しいですよねっ?!」
期待に目を輝かせて問うと。
「…………」
眉尻を下げ、見たことも無いような情けない表情で、理沙子さまは私のことを見た。
「り、理沙子さまっ?」
「う~、桂ちゃんに騙されたわ。本当にあんなに美味しそうに食べるから、美味しいと思ったのに」
「えええ、お、美味しいじゃないですかっ」
「桂ちゃんのうそつき」
「な、なんで私がですかっ?!」
そんな言い合いをしながら、いつしか私たちは笑っていた。
今まで、ほとんどお話なんかしたことのなかった理沙子さまが、急速に近づいてくる。隙の無い人だと思っていたけれど、そんなことはなくて。普通に笑って、情けない表情をして、たった一度、一緒にお昼ご飯を食べるだけで一気に親しみがわいてきて。
どうしよう。
理沙子さまのことが、急速に好きになっていく。