第九話 『それぞれの想い』
刺激的な出来事なんて、簡単に発生することはない。
四月、五月と刺激的なことが連続して起きたが、そのようなことがいつまでも続くわけもなく、忙しく仕事に追われる日々が流れてゆく。残業、残業の毎日ではあるが、先輩達に扱かれながらどうにか業務をこなし、いつの間にか六月も終わって七月へと突入していた。
七月になると毎年、新入社員が各部署に配属されるのだが、残念ながら祐麒の部門に新人は配属されず、従って祐麒は今もって一番下っ端という身分だ。楽しみにしていただけにがっかりしたが、会社も不況のあおりをくらって業績も悪化していたために、新入社員を減らしていたから仕方がない。来年こそは誰かが下に入ってくるのを待ち望もう。
「……しかし、暑いっすね。もうちょっとエアコン、効かないんですか?」
「駄目駄目、節電で空調の温度は決められているからね」
室内の温度は28度に設定されている。普通ならばそれくらいの温度でも大丈夫なのだろうが、人がそれなりの人数いて、PCなどの機器類が沢山置いてあるフロアでは十分な温度とはいえない。
団扇で扇いだり、USB接続のミニ扇風機を使用したり、エアコン以外のものでどうにか涼を取って凌いでいるのが現実だ。
「でも確かに、どうにかしてほしいよね、あっつぅい~~って、福沢くん、目つきがエロいぞ、どこ見ておるのかに?」
「モニタですが何か」
「ち、つまらん後輩だ」
たまたま周囲に人が少ないのを良いことに、風見は胸もとを指で広げて団扇で風を送り込んでいた。見ようによっては色っぽいのかもしれないが、おっさんくさいとしか思えなかった。
「これくらいやらないと、やってられないわよ~」
目のやり場に困るといえば困る。風見も、他の人が席にいるときはやらないのに、祐麒だけとなると態度が変わる。昔からそうだが、どうも祐麒は女性から異性扱いされないというか、安心されてしまうというか、そういう扱いを受けることが多い。それを機に距離を縮めればとも思うが、それが出来ないから今まで彼女が作れていないのだ。
「――ほら風見さん、しゃんとしなさい。気持ちは分かるけれど。衣服の乱れは心の乱れでもあるのよ」
「うわ、はい、すみません」
会議が終わったのか、戻ってきた景に声を掛けられて慌てて体勢を立て直す風見。その様子を見て軽く微笑み、景は自分の席へと戻る。
「うへぇ、さすが加東さん。この暑さの中でも涼しげな顔してるもんね」
風見の言うとおり、景の様子はいつもと変わりない。
「加東さんって、服装もいつもきっちりしているし、部屋とかもすんごい綺麗に整理整頓されてそうよねぇ。出来る人はやっぱ違うのかしら、とてもまねできないわー」
「そ、そうですね……」
曖昧に笑って受け流すしかない。
会社ではいつもきっちりしている景だが、部屋はとんでもなく乱れていることを誰が信じてくれようか。祐麒だって、たまたま自分の目で見なければ全く信じることなどできなかっただろう。
おまけに意外と失敗もするし、変なコスプレはするし、会社で見せる有能な顔からは想像もつかない面も持っている。そしてだからこそ、そんな景に惹かれている自分がいる。
「…………えっ?」
思わず声に出して呟いてしまった。
自分は今、何を思ったのか。
景に惹かれている? 確かに景は美人で有能でもあるから、一人の先輩として尊敬しているし惹かれているのもおかしくはないが。
「どうしたの、福沢くん?」
「え? あ、いえ、別にその」
「風見さん、福沢くん、いつまでお喋りしているの。そろそろ、修正した設計書、私のところに届かないのかしら?」
「す、すみません、もうすぐですっ」
景に睨まれ、風見と二人、仕事に戻る。
しかしキーボードを叩きつつも、先ほど頭に浮かんだ思いにどうしてもとらわれ、なかなか効率が上がらないのであった。
☆
六月の頃から蒸し暑かったが、七月に入ると本格的に夏到来といった感じで、暑さも半端ないことになってきている。近年の気温上昇度合いは激しく、節電の影響もあってフロア内はエアコンが入っているにも関わらず快適からは程遠い。社員たちが口々に文句を言うのも分かるが、景自身は文句を口には出さない。口にしたところで同じことだし、逆に口にすることで暑さが増すような気がしてしまう。
そんな蒸し暑い七月最初の休日、昼前にようやく起きた景は乱れた髪の毛を手櫛で少しだけ整えながら、冷蔵庫からペットボトルを取り出して口に付ける。
キャミソールにショートパンツという露出の高い格好だが、色気よりも先にだらしなさを感じてしまう。
お腹をかきながら部屋に戻り、ベッドの上にもう一度ひっくり返ると、なかなか起き上がることができそうになかった。
「うぅ……洗濯物……」
さすがに下着を洗濯しないわけにはいかないが、疲れてもいるし面倒くさくもある。確かまだ洗ってあるやつが残っているはずだし、次の週末位までは大丈夫なのではないかと考え出すと、途端にやる気を失う。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。学生時代は洗濯物をためるなんてことはしなかったし、掃除もしたし部屋の片づけもした。ところが今はどうだ、洗濯物はまとめて最低限の頻度で行うだけで、片づけなんて全くやりもしない。すべては仕事が忙しく、日々の疲れが休日でも抜けないのがいけないのだ、なんて言い訳して。
「やっぱ、学生時代はお金がなかっただけなのか……」
お金がなければ物も買えなく、部屋に物自体が少なかった。また、人の家の部屋を間借りしていたから私物を増やしたくなかったというのもある。
ところが社会人になってマンションで一人暮らしをするようになり、人への遠慮というものは不要になった。そして働けば給料が入ってくる。家賃や生活費がかかるとはいえ、会社から住宅補助は出るし、遊ぶ時間が少なくて残業が多いからなんだかんだでお金に困ることはない。
服とか本とか、好きなものを買っては捨てることも出来ずに貯まる一方で、最初の頃はともかく、どうせ使うのだからと片づけることもほとんどしなくなってしまったのだ。
掃除も、最近ではやるだけ無駄なのではないかと思ってしまう。捗らないのには理由があって、片づけるとなると部屋の各所に置いてある本を整理しなければならないのだが、どれを捨てるべきか読んでいるうちに意識が本の方に向いてしまい掃除のことを忘れ、気になると関連する他の本を探し初め、余計に乱れていく始末。
生ごみをためているわけでなし、「まあ、いいか」となってしまうのである。いや、いけないだろうという思いはあるのだが。
元々アクティブな方ではなくインドア派なので、あまり外出しなくても問題ない。さすがに食料がないとまずいので、最低限の身支度をして近くのスーパーに出向き、土日を過ごせるだけの食料とお酒を買い込んで帰る。日曜の明日も家から出ない気満々であることがわかってしまう。
好きな本を読みながらビールを飲むという、休日の昼間にしては堕落した活動をこなす。暑くてじっとりと汗をかいてきたので、ほろ酔い加減のまま風呂に入ることにした。暑くても湯船にお湯を張って入るのが、景の流儀。
のんびりゆったりと湯船につかっていると、それだけで幸せな気分になれる。
湯船から出ると、体を髪の毛を洗う。わしゃわしゃと泡立てて髪の毛を洗っていると、ふと嫌な予感に襲われる。そして、すぐにそれは予感から現実のものにかわる。
「…………うわ」
一気にやってきた。
しかしまだ体も髪の毛も泡まみれだし面倒くさい。もう少しくらいどうにかならないかと思ったが、一度やってくると押し返しようもない。
仕方なく立ち上がる景だったが。
「……くぁ……」
濡れた体で風呂から出て床を汚してしまうのは避けたいが、だからといってきちんと体を拭いて出て、また戻ってくるというのも嫌だ。
そうこう悩んだ後、景はとうとう諦めてしまった。
ぶるるっ、と体が震えたあと。
「あっ……」
慌ててしゃがみこんだ直後、体内から放出されてゆくもの。体が一気に弛緩し、溜まっていたものを出す解放感にしばし浸る。
ある意味これは、エクスタシーだ。
「うわ……まだ出る……やっぱビールは危険ね。あ~、とうとうお風呂場でしちゃった」
とか呟きながら止める気はない。
浴室の床のタイルに跳ね、流れてゆく小水を見つめながら景は艶めかしい息を吐く。
シャワーから出ると、適当に下着を穿いてシャツを着てベッドに腰を下ろし、タオルで髪の毛の水分を拭きながら、自分の女子力の激しい低下を嘆く。こんなんでは、気になる男性にだって呆れられてしまうだろう。
「……気になる男性って、誰よ?」
自分で美門に思い、口に出す。
思い浮かぶのは、なぜか最近縁のある後輩の顔。
「まさか、ね」
色々と変な所を見せてしまい距離が近くなっているのは確かだが、だからといって何か男女の関係的な仲に発展しているわけでもない。
「大体、福沢くんには可愛らしい彼女がいるわけだし」
有馬菜々、祐麒の大学の後輩だという女の子。
休日にデートしたり、部屋に遊びにきてご飯を作ってあげたり、相手に好意を抱いていなければ行わないようなことを喜んでやっている。というか、あからさまな好意をあれだけ祐麒にぶつけてきているのだ、祐麒だって気が付いていないわけがないだろう。
若くて可愛い女の子だ、好きになったって不思議じゃない。菜々よりも、いや祐麒よりも年上の景の方がそういった意味では分が悪い。
「……って、だからそういうのじゃないってのに」
頭を振る。
変に菜々に対抗意識を燃やしてしまったことは認めるが、それは生来の負けず嫌いの性格からくるもので、それ以上のものではない。
冷蔵庫から取りだしたビールを呷る。火照った体に冷えたビールは心地よい。
「ああ、美味し……」
口元の泡を指で拭いながら。
少なくも今の景の祐麒に対する思いは、その程度のものでしかない。
そう、考えていた。
☆
分が悪くなりつつあることは悟っていた。
元々、年上好みだという情報は入手していたし、またキャラ的にも年上からモテそうだなということも察していた。
幸い、祐麒はモテそうな割に女運は乏しいらしく彼女がいなかったので、必要以上にべたべたとくっついて他の女性が近づいてこないようにした。また、あえて『変』なところを強調し、そんな変な菜々と一緒にいる祐麒に近づきづらいように思わせた。
策略は成功して祐麒に女性が近づいてくる雰囲気はなかったが、逆に菜々としても祐麒から異性として意識されにくくなるという事態にもなってしまった。それでも、仲良くしていれば自然と近づき、やがて過ちも発生するだろうと楽観的に考えていたのだが、祐麒のヘタレ具合は菜々の思っていた以上だった。
二人きりで一緒にいて、菜々がいくら隙を見せて誘惑しても、一向に手を出してこないのだ。
そうこうしているうちに祐麒は大学を卒業してしまい、会える時間が少なくなってしまった。加えて、社会に出ることで祐麒を取り囲む周囲の人間も変わり、菜々という可愛い後輩がいるという認識も自然とリセットされてしまった。
そしてとうとう、景という異分子の登場である。
年上の美人、黒髪ストレートに眼鏡でスレンダーと、祐麒の好みのツボを全て知ったうえでわざと準備したのではないかと思わせる女。菜々が踏み込むことのできない、職場という空間での出会いと触れ合い。
祐麒が惹かれるのも時間の問題と思えた。
それでも、景が祐麒に全く興味を抱くような女性でなければよかったのだが、どうもそうではなさそうで。
初めて会ったイベント会場でのことを思い出す。
自己紹介のとき、明らかに祐麒と菜々のことを意識していた景。
おそらく、祐麒の部屋にいた景。あの日の祐麒の様子はどこか変だったし、今までに感じたことのない女性の気配というか匂いを室内から感じ取った。
一線を越えるようなことはしてないようだが、早くもそこまで踏み込んできたのかと考えると、戦慄を覚える。
「……というわけで、年増に打ち勝つにはどうしたらよいでしょうか、ハイダー先輩、コバ先輩」
菜々の前には灰田、小早川の両名が座っている。
ファミレスのボックス席、休日ということもあり周囲の席はほぼ埋まっている。灰田と小早川は、なんとはなしに顔を見合わせる。
「あ、さすがにこの場は私の奢りですから、遠慮なく注文してください。あ、でもお一人1000円まででお願いします」
「や、さすがに俺ら働いているし、後輩の学生に奢らせたりしねーよ」
苦笑しながら頭をかく灰田。
「それより就活どうなのよ。今の時期で決まっていないって、ヤバいでしょ」
「いざとなれば家族のコネでなんとかするから大丈夫です」
「……平然と、そういうことを口にするな」
事実だから仕方ない。
菜々の家は特別な富豪というわけではないが、色んな方面に結びつきがあることは事実で、菜々をどこか小さな会社に押し込むことくらいならできるだろう。そうではないとしても、地元の商店街に幾つか顔見せをしていて、「どこも行くところなかったらウチに勤めればいいよ」と幾つかの店からも言ってもらっている。
まあ、どこまで本気か分からないが。
「――しかし、ユキチのやつが会社の女上司とねぇ。俺んところ、そんな気起こさせるのいないぜ?」
「まあ、あいつの性癖からすれば不思議な事ではないな」
「で、状況がヤバくなって俺らに相談ってわけか、ナナッチは」
この二人にしか打ち明けられないというのは辛いところだが、他に菜々の気持ちを知っている親しい人間がいないのだから仕方がない。背に腹は代えられないというところだ。
「いや、思っていること口に出して言ってるよナナッチ? ひでー言いようだなぁ」
「いえいえ、頼りにしているからこそ、こうしてお呼びしたわけじゃないですか」
そう、二人に対して菜々は既に自分の気持ちは晒していた。つきあってみて、軽そうに見える灰田も、見るからに堅そうな小早川も、軽々しく人の気持ちを当の本人や周囲に言いふらすような人間ではないと判断したから。こう見えても、その辺の人を見る目には自信があった。
ついでに言えば、灰田と小早川に対しては男としての興味を持っていないと伝え、変に勘違いさせないという目的もあった。
もっとも灰田は菜々のような小柄な女の子より巨乳でむっちり系が好みだったし、小早川は騒がしい女性より静かでしっとりした方が好みで、菜々をタイプとしていなかった。
「それでも、長く一緒に居れば私のような可憐な美少女には好意を抱いてしまうものでしょう?」
「自分で言うか?」
「それよりも、今日の趣旨は違うだろう」
「そうですよ、脱線してないで良いアイディア出してくださいよハイダー先輩!」
「相変わらず調子いいな……ま、それがナナッチらしいけどよ。そうだなー、その会社の人と親密になったっつったって、まだヤッてるわけじゃないんだろ?」
「ヤられてたまるもんですかっての」
「だったら簡単だろ。ユキチのやつは意外と真面目で融通きかなくて童貞なわけだから、寝取っちまえってとこだな。そこまでいったら無責任に知らん顔するような奴じゃないし」
「それができたらとっくになってますよ。私がいくら隙を見せても、今まで何もしてこなかったような先輩ですよ?」
「物足りないんだよ、隙を見せるんじゃなくてさ、もっと積極的に。跪いてパンツ下ろしてしゃぶってやるか、上に跨って挿入させてやりゃ、いくらユキチでもヤルだろ」
「そういう破廉恥で痴女なのは駄目です。私が襲うんじゃなくて、祐麒先輩が私を襲うんじゃないと駄目です」
当たり前だ、ハイダーの言うとおりにやったら単なる変態だ。そして、それで仮に祐麒が菜々のものになったとしても嬉しくない。
「……なあ、菜々くん」
それまで、菜々と灰田のやり取りを黙って聞いているだけの小早川が口を開いた。
「素直に『あの事』を伝えてしまえばいいのではないか?」
その一言に、菜々の体が硬直する。
俯き、スカートの裾をギュっと握る。
「おい、コバお前」
「アレさえ知れば、ユキチとて君のことを無碍に扱うこともできまい」
「コバ先輩、駄目……ですよ、それは。それは出来ません」
呼吸が乱れてくるのが自分で分かる。大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。それを何回か繰り返すことで落ち着いてくる。店内は空調がきいていて涼しいくらいなのに、じっとりと嫌な汗が浮かび上がってくる。
「菜々クン。君の気持ちは分からなくもない。ユキチとただ付き合いたいだけなら別に俺だって無理強いはしない。だが、本当にユキチの事が好きなら……それこそ、将来を添い遂げたいと思うなら、伝えないわけにはいかないのではないか? もちろん、言わなかったところで問題があるわけではないが、君はそれでいいのか?」
「コバ、いい加減にしろよ。それは、俺らが決めていいことじゃない、ナナッチだけが決めていいことだ」
「……そうだな。すまない、菜々クン」
「いえ…………」
大丈夫、既に呼吸も心臓の動きも落ち着きを取り戻している。汗のせいで肌にまとわりつくシャツの感触が気持ち悪かったが、それくらい我慢できる。
笑え。笑え。いつものように、お調子者で、ちょっと変な女の子の自分に戻れ。
「……コバ先輩が、真剣に私の事考えてくれたの、分かりますから。大丈夫です」
顔をあげ、へらっと笑ってみせる。
「あはは、でもやっぱ、強引にでも祐麒先輩の純潔を奪うくらいじゃないと駄目ですかねー。祐麒先輩、草食系ですもんね、だったらこう肉食系女子になって美味しくパックンちょしちゃうくらいじゃないと」
我ながら痛々しいことを言っているなと思いながら、止めることは出来ない。
「コバ、お前があんなこと言うから」
「――すまん。だが、言わずにはいられなかった」
「ほらお二人とも、そんな暗い顔しないでくださいよー。そりゃ確かに、憂いを帯びたコバ×ハイも良いですけどー」
そう、有馬菜々は腐っている。それは間違いのない事実。
三人の姉に影響されて小学生の頃からBLにはまった根深さは、決して身について離れることはない。中学から本格的に始めた剣道よりも、付き合いは深いくらいだ。
だけど、腐っているのは趣味だけではない。
自分から告白する気はないのに、愛されたいとは思っているなんて、心根が腐っていると自分では思う。なんとゆう図々しさか。
複雑な気持ちが、いつも菜々の精神を掻き乱す。
憎いのに、誰よりも愛しい。
「とにかく……俺らはナナッチの味方だから。あの鈍感野郎、こんだけ可愛い後輩に好かれて、なんでスルーしてんだか」
頭の後ろで手を組み、呆れたように舌打ちする灰田。
小早川は相変わらず澄ました顔だが、眼鏡の下の目は鋭く菜々を見つめてきている。
忘れることなどないけれど、こうして第三者の口から言われると、改めて痛い。
分かっているのだ。確かに小早川の言うとおり、『あの事』を告げればきっと祐麒は菜々の方を向いてくれる。だが、それだけは出来ない。祐麒が『あの事』を知らないままで菜々を選び愛してくれたなら、いつか告げられるかもしれない。だけど、今の曖昧な状態で言うのは、菜々自身が許せない。
「どうして……なんでしょうね」
思わず、そんな言葉が口をついて出る。
「祐麒先輩を思う気持ちに嘘はないのに……」
そして、それ以上の言葉は出すことが出来なかった。
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