正月の初詣で微妙に空気が重くなってから二人の関係は変わり始めた……なんてこともなく、栄子は少し拍子抜けした。むしろ、受験勉強がなくなったのを良いことに、毎週のように週末にはデートに誘われている。卒業まであと少し、ここで誰か学校関係者にでも見られたら全てご破算になるというのに、そこまでは我慢できないらしい。
とは言いつつ、誘いがあったらなんだかんだで受けてしまっている栄子も人の事は言えないのだが。
受験勉強がなくなってバイトもしているようだが、だからといって高校生の祐麒と毎回のようにお金をかけたデートをするわけにもいかない。なので、ウィンドウショッピングをしてお茶したり、ぶらぶらと散歩をしたり、あとはせいぜい映画を観たりと、なるべくお金をかけないようなデートをしている。
「あと二か月……か」
ふと、そんなことを呟く。
もちろんそれは、栄子が答えを出すまでの期間で、三月末ではなく祐麒の卒業式だと考えると更に半月以上は早まる。
ここまで祐麒の栄子に対する気持ちは変わっていないように見える、どころかむしろ強まっているようにも思える。栄子だってまだ若いつもりでいるし、今時の三十代なんて実際に若いのだろうが、高校生から見たらおばさんだ。まさか、本当に一年以上もずっと想いつづけてくれるなんて思わなかったけれど、もう答えを先延ばしにできない時期までやってきてしまった。
悩む。
これだけ好意を寄せられれば栄子だって女だ、嬉しくないとは言わない。生まれて初めてできた彼氏、だけど、やはり祐麒の将来を考えれば。
「美月だったら、こんな私を見て笑うのかもしれないがな」
肩をすくめ、苦笑する。
もしも自分が十五歳若ければ、こんなに悩むことはなかっただろう。だが、恋愛経験がなくとも、人生経験はある。積み重ねてきた年月が、決断させることを躊躇させる。
お店のショウウィンドウに映る自身の姿を見つめる。
三十半ばになった女、それ以上でも以下でもない。
「あ…………」
栄子は目を見開いた。
☆
なんと、栄子の方から呼び出された。
これは嬉しい、何事だろうかと浮かれ気分で祐麒は部屋を出た。
「何よ祐麒、にやにやして気持ち悪い」
「うるさいな、ちょっと出かけてくるから」
「また? 最近多いわね。もしかして、彼女でも出来たとか?」
「まだそんなんじゃないよ。それじゃあな」
「はいはい、言ってらっしゃい…………って、まだってどういうこと!?」
祐巳の声を背中に受けて外に出ると、寒気が体を覆ってくるけれども気にならない。好きな女性にこれから会いに行くのだ、緊張と嬉しさでむしろ熱くなってくるくらいだ。
何度会っても、そういう気持ちは変わらない。デートを重ね、キスまでしたけれど、祐麒の告白に対して返事をしてくれたわけではないし、完全に祐麒を受け入れてくれたというわけではないのだろうし。
気持ちは変わらない、たとえ倍近い年上だろうとも栄子のことが好きだ。周囲は反対するかもしれないけれど、自分に嘘はつけない。
「だけど、OKしてくれるかなー」
好意を抱いてくれているのは間違いないと思うが、結婚となると話は別だろう。栄子の年齢ともなれば結婚は真剣で切実な話であり、そう簡単に決められることでもないはずで、おまけに相手がまだ学生とあっては。子供が欲しいならば若いうちが良いだろうが、そうすると大学生で稼ぎもない祐麒が相手では将来も不安だろうし、恋愛と結婚は別だと考えられるかもしれない。実際に働いて給料を稼ぐことのできない祐麒では説得力もないわけで、不安はぬぐえない。
もうすぐ、あと一か月半もすれば卒業を迎えるわけで、栄子から返事を貰える時が近づいている。早く返事が欲しいとずっと思っていたが、ここにきて怖さも感じるようになってきた。
祐麒が思い悩んだところでどうにもならないとは分かっているが、考えずにはいられないのだ。
そんなことばかり考えながら、待ち合わせの場所へと到着する。
「保科先生」
淡いグレーのコート、目深にかぶった帽子が可愛らしい栄子の姿に目を奪われる。
「すみません、待たせました? 寒かったでしょう、どこかお店に入りますか」
「――いや、少し歩こう」
背を向け、すっと歩き出す栄子に違和感を覚える。外で会う時につっけんどんな態度を取るのはいつも通りだが、いつもはその中にも照れや可愛らしさがあるのだが、今の栄子は少し刺々しいように感じた。
機嫌が悪いのか、気分が悪いのか、それでも祐麒は栄子について歩いてゆく。
賑やかな町から離れるように進み、やがて公園の中に足を踏み入れる。冬場の公園ということで人の姿も少なく、より寒々しく感じる。
「こんな公園に来て、どうしたんですか」
背を向けている栄子に声をかけると。
無言で振り返った栄子の視線に少し驚く。
感情を押し殺したような瞳が見つめてくる。
「……なあ、祐麒」
「は、はい」
栄子の雰囲気、声色に緊張が増幅させられる。
何を言われるのだろうかと、今までにない状況に身構える。
「…………お前、私のこと、やっぱりからかっていたんだろう」
「――は?」
「とぼけても無駄だ、分かっているんだ」
「いや待ってください、何を言って」
突然のことに頭が混乱する。
だが、栄子は硬い表情、硬い声色で続ける。
「付き合っている彼女がいるのだろう。それなのに、私に声をかけて、二股……いや、私の反応を見て楽しんでいたんだろう」
「ちょっと栄子ちゃん、意味が分からないんですけど。それとも、俺のことが嫌いになったんですか? なんで俺が二股なんて」
「誤魔化されないぞ、だって私は見たんだからな!」
「何を見たっていうんですか一体」
身に覚えのない疑惑、あらぬことをいきなり吹っかけられて、戸惑いもそうだが怒りも湧き上がってくる。
「お前、可愛らしい女の子と腕を組んで楽しそうに街を歩いていたじゃないか!」
「え?」
「あれは、どう考えても友達とか以上の関係だった。ものすごく親しく、祐麒だって笑っていたし」
「そんな相手いませんよっ! 何かの間違いでしょう」
「わ、私が祐麒を見間違えるわけないだろうっ」
「そんなこと言われても、一体いつの話ですか」
「ついこの前の日曜日だっ。ふ、ふん、私みたいないい年をした女をからかって楽しかったか? 三十路の女が高校生の男子に熱を上げる姿を見て内心では笑っていたんだろう。で、そ、それを彼女に話して笑い話にでもしていたんだろう……っ」
ぷるぷると震え、どこか瞳を潤ませたような感じで見つめ上げてくる栄子に焦りながら、祐麒は慌てて口を開いた。
「ちょ、ちょっと待って栄子ちゃん! それ違う、彼女なんかじゃない、祐巳ですよ」
「そんな彼女の名前を言われたところで知らんっ!」
「祐巳、福沢祐巳、俺の姉ですよっ。リリアンに通っている紅薔薇さま、栄子ちゃんも知っているでしょう?」
「だ、騙されないぞそんなことに。大体、全然違ったし」
「学校では髪を結っているかもしれないけど、普段は下ろしているときもありますし、よく思い出してくださいよ、その日のこと」
「ふんっ、髪を下ろしたところで……………………」
栄子の動きがぴたりと止まり、やがて、急速に顔が赤くなってゆく。
「……分かって、くれました?」
「い、いや、本当にそうかは分からないし」
急に声が弱くなっていく栄子。
「だったら、確認してみます?」
言いながら祐麒はスマホを取り出して祐巳にかける。
『――何、祐麒? どうしたの』
栄子が耳を近づけてくる。
「いやさ、この前の日曜日、お前何してたっけ」
『この前の日曜って……何って、祐麒も一緒に行ったじゃないのスペシャルケーキを食べにさ』
「ああ、そうだった。俺は別にそこまで食いたくなかったのにな、あまりの甘さにその日はずっと胸焼けしていたんだった」
『しょーがないじゃん、だってカップル限定だったんだから。それにお金は私が支払ったんだからいいじゃない。それで何、わざわざそんなことを聞くために電話してきたの?』
「ああ、ちょっと店の名前を知りたくてさ」
『もう忘れたの? <アラルガンド>でしょ……何よ、まさか祐麒、本当に彼女でも出来たんじゃないでしょうね?』
「いやいやサンキュー、それじゃあな」
電話の向こうで祐巳が文句の声を出すよりも早く通話を切って栄子の方を見てみると、どこかきまり悪そうに横を向いていた。
「これで、分かってもらえました?」
「い、いや、その…………うん、まあ」
恥ずかしそうに小さな声で頷く栄子。
「うぅ……う、疑って、悪かった」
素直に謝る。相手が年下であろうが、この辺は栄子の良いところだろう。
だが実のところ祐麒はむしろ嬉しかった。
「えーこちゃん、焼きもちやいてくれたんですね」
「やっ……!? ち、違う! ただ、騙されていたのかと思って怒りが湧いただけだ!」
「そうですか」
「な、なぜ笑っている!?」
栄子が照れ隠しを必死にしているようにしか見えず、しかもそんな風に慌てているのが可愛いのだ。
「だ、だ、大体だな、私というものがありながら、実の姉とはいえ腕を組んで街中を歩き、カップル限定に出されるケーキを食べに行くなんて、お前が明らかに悪いだろう!?」
「そう言われると……確かにそうですね、ごめんなさい」
「う、うむ」
「えーこちゃんを不安にさせてごめんなさい。これからは、軽率な行動はやめますから。俺が好きなのは栄子ちゃんだけですから」
「ちょ、やめろっ」
正面から包み込むようにして抱きしめると、小柄な栄子はすっぽりと祐麒の体に包み込まれるようになる。
栄子は嫌がる素振りを見せるも、本気で逃れようとはしない。祐麒が力をいれて抱きしめると、やがて大人しくなる。
「それくらいじゃ……し、信じられないからな」
「じゃあ、どうすれば」
「自分で考えろ、それくらい」
と言われても困るのだが。
少し体を離し、どうしようか考えつつちらりと栄子を見ると。
俯きつつも、ちらちらと様子を窺うようにして栄子が、もの言いたげな瞳で見上げてくるのが目に入る。
祐麒は理解し、首を傾けて栄子に顔を近づける。
目を閉じる栄子。
睫毛が風に揺れる。
乾燥気味の唇で触れると、ふっくらとした栄子の唇が押し返してきて、しっとりとした感触が祐麒の乾いた唇を僅かに潤す。
「――――あーっ、ちゅーしてる!」
「ねえねえ、おねえちゃんたち、こいびとなのー?」
いきなり飛び込んできた元気な子供の声に、ぎくりとして身を離すと、興味深そうに目を輝かせた三人の子供が二人を見つめていた。
「な……い、いつから見ていたんだっ!?」
口元を手の甲で隠しながら栄子が尋ねると。
「んー? えっとねー、こっちのおにーちゃんが、おねえちゃんをぎゅーっとしたとこ」
髪の毛の長い女の子の答えに、たちまちのうちに真っ赤になる栄子。もっとも恥ずかしいところから全部を見られていたということになる。人が少ないとはいえ昼間の公園の中、あまりに無防備だったか。
「い、行くぞ、祐麒」
「あ、はい」
子供たちに背を向け、急ぎ足で公園を出ようとすると。
「えー、ちゅーしないのー?」
「はずかしがらなくていいのにー」
などという子供たちの声が聞こえてくる。
「ま、まったく、今の子供ときたら……っ」
怒る様子を見せているが、羞恥の方が前面に出てしまっているため迫力がなく、むしろ頬が緩みそうになる。もちろん、祐麒だって恥ずかしいことは恥ずかしいのだが。
「……何を笑っている。まだ、私は許したわけじゃないぞ」
栄子に追いついて横に並ぶと、口を尖らせた栄子に睨まれた。
「え、そんな。許してくださいよ」
「そうだな、それじゃ……」
ちらりと祐麒に目をむけると。
「……その、スペシャルケーキとやらをご馳走してくれたら、許してやる」
「えー、あれ、滅茶苦茶甘いんですよ?」
「なんだ、嫌なのか。それじゃあ」
「とんでもない、行きましょう、何せ"カップル限定"ですからね」
「ふ、ふん……」
ふて腐れて見せる栄子の手を取る。
小さな手は、拒むことはなかった。
おしまい