卒業式を終え、予備校が正式に開講する4月中旬までの間、空白のような時間帯ができてしまった。
勉強は積み重ねが大切で、特に真美のように平凡な頭脳の持ち主にとってはそれこそ言うまでもない。一応、家で勉強はしているものの、やはり受験が終わってしまったこと、4月になれば予備校が始まることなどから、ついつい、力を抜きがちになってしまう。どうせ、今くらいしかゆっくりできないんだろうし、と。
そんな調子だったから、春期講習の申し込みもうっかり忘れてしまっていて、今はかなりの割合で休憩モードに入ってしまっていた。
「これじゃあいけない、ってのは分かってるんだけど」
椅子に座ったまま両手を上にあげて、伸びをする。
と、そこへ携帯電話の着信音が鳴り響き、びっくりして椅子から転げ落ちそうになる。なぜって、その着信音が鳴るのはただ一人しかいないから。
慌てて携帯電話を手に取って、耳にあてる。
『あ、真美さん。今、大丈夫?』
「はい、あの、大丈夫ですっ」
耳に入ってくる声に、少し胸が弾む。
電話の主は、当然のように祐麒さんであった。ついこの前にも会ったけれど、物凄く久しぶりのような気になるのは、なぜだろうか。
電話の向こうから、声は続く。
『えーっとさ、明日、暇?』
その言葉に、真美は考えもせずに肯定の返事をしていたのでああった。
急いで駅前まで出てきて、周囲を見渡す。
「うっわー、髪の毛、大丈夫かなあ」
突貫工事でセッティングしてきたので、かなり心配である。髪の毛は短いけれど、実は意外と癖っ毛なので整えるのには結構、時間がかかる。どうにか直してきたつもりではあるけれど、やっぱり気になって手で頭をおさえる。
こんなことにならないよう、早めに起きて支度をしたはずなのに、どうしてこうなってしまうのだろうか。きっと、服選びにぐずぐずしていたのがいけなかったのだ。いや、そもそも早めに起きたといいつつ、つい二度寝に落ちてしまったのが悪い。それもこれも振り返れば、興奮して夜、なかなか寝付けなかったのが原因か。となると、今日のこの誘いが発火点なのか。
「大丈夫、ちゃんとしてるよ」
「わひゃっ!?」
髪の毛をいじりながらどうでもいいことを考えていると、いつの間にあらわれたのか、祐麒さんがすぐ近くにまでやってきていた。指で髪の毛を改めて整え、はねていないことを確認する。受験勉強が本格化してからカットしていなかったので、今は結構な長さになっている。ちょうど、肩にかかるくらいで、あまり慣れない長さでもある。
「お、驚かさないでくださいよぅ」
「ごめん、そんなつもりはなかったんだけど」
笑いながら謝る祐麒さんを見て、真美も頬が緩むのを感じる。
「それじゃあ、行こうか」
「はい」
そうして向かった先は、スケート場だった。
祐麒さんからの電話は遊びの誘いで、その行き先というのがスケート場だったわけなのだけど、なぜスケートなのかと尋ねてみると。
「今年度のうちにさ、思う存分、滑っておきたいじゃん」
と、笑って答えてくれた。
受験生にとって『滑る』、『落ちる』なんて言葉は禁句だ、というのはよく聞く話。真美自身は正直、そこまで気にするほどのことではないと思うが、それでも実際に落ちた身となると、耳にして嬉しい単語であるはずもない。
だけどこうして誘われると、滑るというのも決して悪いものではないな、なんて都合よく思ってしまう自分もいる。
スケート場について、スケート靴を借りて、準備をする。スケートということで、暖かなロングパーカにブーツカットのパンツという動きやすい格好である。
しかし。
「うわ、わ、あ、あ、あ、ちょっと、ダメ」
「大丈夫、落ち着いて真美さん」
「わ、私、運動まるで駄目なんでした」
へっぴり腰で、脚なんかもちょっとガニ股気味で、情けなくリンクの手すりにしがみつきながら、真美はどうにか体を支えていた。
浮かれていてあまり考えていなかったが、運動音痴の真美が初めてのスケートでまともに動けるわけもない。こんなことなら中学の時、友達に誘われた際に行っておけばよかったと今更ながらに後悔。
祐麒さんは、決して得意ではないと言っていたけれど、それでも普通に氷の上に立って、移動するくらいは問題がないようである。
「じゃあ、俺が教えてあげるから」
「むむむ、無理ですっ。あの、私に構わず滑ってきてください」
どう考えても、ちょっとやそっとで滑れるようになるとは思えない。本当に、真美は運動音痴なのだから。
しかし、祐麒さんは手すりにつかまっている真美の腕を取り、引っぱり出した。
「だだだダメですって、た、倒れちゃうっ。わ、ああっ」
転ばないように、バランスをどうにか保持するために、祐麒さんのトレーナーの袖を強く握りしめる。
ほとんど、祐麒さんにしがみつくような体勢になっているのだけれど、恥ずかしさとかそんなことを感じる余裕さえ無い。転倒しないように踏ん張るだけで、精一杯なのだ。
「もうちょっと体から力を抜いて。まずはまっすぐに立ってみようか」
そんなことを言われても、それができれば苦労はしない。がくがく震える足、どうしたって伸びない腰と背筋、下を見ることしかできない顔、どうしようもない。手をつかんだ祐麒さんに引かれるようにして、ほんのわずかに滑ったが、それだけでたちまちのうちにバランスを崩してしまう。
「う、わ、わあっ!」
大きく傾き、とうとう祐麒さんの手も離して尻もちをつく。衝撃がお尻を通してきて、ジンとした痛みと、そして冷たさが広がる。
祐麒さんに手を貸してもらい、どうにか起き上がるものの、またちょっと滑ろうとすると転倒。真美が転ばないよう、祐麒さんも手をつないでいてくれるのだが、大きくバランスを崩し、祐麒さん自身も不安定なスケート靴で氷の上となると、容易に支え切れるものでもない。
何度も転んだところで、小休止をいれることにしていったん、リンクから上がる。
リンクの周囲のスタンドベンチに腰を下ろし、大きくため息を一つ。たいして時間もたっていないのに、もう体が痛くなってきている。なんとまあ、情けないことかと思っていると。
「はい、ホットレモネード。美味しいよ」
目の前に差し出される缶。見上げればもちろん、祐麒さん。真美は素直に受け取ると、手袋越しに熱さを吸収する。
「あの、ごめんなさい。私、全然滑れなくて。楽しく、ないですよね?」
申し訳なくてそう言うと。
「そんなことないよ。俺は、楽しい。別に、凄い滑らかに、速く滑ることが楽しいってわけじゃないからさ、スケートは」
「はあ。そういうものですか?」
ホットレモネードに口をつける。ちょうど良い甘酸っぱさが口の中に広がると同時に、身体の内側から温められる。
「俺こそごめん。あの、真美さんがいやなら、他のところに行っても」
「わ、私は楽しいですっ」
慌てて否定する。
確かに転んでばかりで大変だけれど、嫌だという思いは沸き起こってこないのは不思議なことだった。自身で口にしたとおり、真美は運動はからっきしダメで、当然、好きでもないのだが、それでも転んでばかりのスケートをやりたくないとは思わなかった。
「本当ですから、祐麒さんの方こそ嫌でなかったら、また教えてください」
「こっちはいくらでもOKだから。スパルタでいくかもよ?」
「お願いします、コーチ」
ぺこりと頭を下げて、再び上げて。
二人は笑い合った。
とは言うものの、運動音痴のうえにセンスもないときたら、ちょっと練習するぐらいで滑れるようになるわけもない。休憩を終えてリンクに戻っても、さっきまでと変わるところなどない。
どうにか一人では立つようになったものの、ただそれだけで動けはしなかった。
「真美さん、そのままエッジを横に押し出すようにして」
「え、何? 無理無理、ムリですよぅ」
無様に手を動かしながら、どうにか立っているだけで精いっぱいだというのに、何を要求してくるのか。祐麒さんはしきりにアドバイスを送ってくれるけれど、頭の中には入ってこない。
またもやバランスを崩し、体が後ろに反る。危ない、と思っておもいきり前方に体をふるようにして元の体勢に戻そうとしたら、今度は勢いがつきすぎて前方に体が傾く。
「わっと、だいじょうぶ、真美さん?」
ちょうど前に立っている祐麒さんの胸に飛び込む格好になってしまった。トレーナー越しだけれど、胸に顔を埋める形となる。
「ご、ご、ご、ごめんなさいっ」
慌てふためき急いで、とはいっても足もとが覚束ないのでかなりゆっくりと、身体を祐麒さんから引き離す。
事故とはいえ、抱きついてしまったことはかなり恥ずかしい。
と、そこでふと思い浮かぶ。
滑って抱きついてしまったが、ひょっとすると逆のパターンなんかもあったりして。漫画なんかで見かけるのは、滑って転んだ男の子に覆いかぶされるようになってしまうシーン。現実にはありえないだろうけれど、妄想するのは自由だ。
やだやだどうしよう、もしもそのはずみでキスなんかしちゃったりしたら、なんて考えて一人で手をぱたぱたしていると。
「どうかしたの、真美さん?」
不審に思われたのか、不思議そうな顔をして声をかけてくる祐麒さん。なんでもないと、慌てて自分の妄想をかき消そうとして頭をぶんぶんと振る。
と、大げさに頭を振ったせいか、またもバランスを崩しそうになる。思わず祐麒さんの腕をつかんでしまうが、祐麒さんも真美を支えようと手をのばしてくる。だけど今回は、祐麒さんも体勢をくずしてしまい、そのままもつれるようにして体が傾く。
え、嘘、まさか本当に? なんて考えたのも一瞬、次にはリンクの上に二人して倒れてしまった。
「い、痛た」
「だ、大丈夫、真美さん?」
「あ、はい、私は……」
そこで気がつく。
妄想の中では真美の方が押し倒される形となっていたが、まったく逆の体勢になっていた。すなわち、真美の方が祐麒さんの上に乗っかっているのだ。祐麒さんの肩をつかんで、押し倒しているような格好だ。
「ご、ごご、ごめんなさいっ」
「あわてなくていいから」
と、言われても焦ってしまう。氷の上だということを忘れて立ち上がろうとして、またも足が滑り、祐麒さんの上に倒れこむ。すごい勢いで祐麒さんの顔が迫り、目と鼻の先で止まる。
見開いた祐麒さんの目。真美の目も大きく開き、祐麒さんをとらえてる。
「えっ……と、大丈夫?」
「は、はい……あ、あ、すみませんっ」
「ほら、ゆっくりでいいから」
またも急いで立ち上がろうとした真美だったが、祐麒さんに腰をつかまれて浮かせかけた体をまたおろす。
祐麒さんもゆっくりと上半身を起こし、上に乗っかっている真美と再び正面から見つめ合う。
「怪我とか、ない?」
「だ、大丈夫ですっ」
「じゃあ、ゆっくり立とうか」
「は、はい……あ」
そこで真美は、祐麒さんの太腿の上あたりにまたがっている格好となっている自分に気がついた。
そして一気に赤くなる。これって、なんか物凄く恥ずかしい体勢なんじゃないだろうかと。
「落ち着けば大丈夫だから。ほら、じゃあ一緒に立とうか」
真美の表情を見て何か勘違いしたのか、安心させるように微笑んでくる祐麒さん。手を組み合わせ、ゆっくりと立ち上がる。
「ほら、大丈夫だった」
「は……はい」
氷上で。
転んだ時についた膝は冷たかったけれど。
顔と胸の内は、熱くて仕方なかった。
午後になって、スケート場をあとにする。
結局、たいして滑れるようにはなれなかったけれど、それでも楽しかった。
「私、明日になったら筋肉痛になってると思います、絶対」
「明日の筋肉痛より、お尻の方は大丈夫かな?」
「うっ、ひどいですっ」
からかわれて、また恥ずかしくなる。本当に、今日はいったい何度、尻餅をついたことだろうか。あまりにお尻をつきすぎて、ちょっとばかり濡れてしまったのが気持ち悪い。
「ごめん、でもこれだけ滑っておけば、来年はもうきっと大丈夫だよ」
「うふふ、そうですね」
呑気に笑い合う。受験も終わったばかりで、来年の受験まではまだ随分と時間があるから、こうして笑っていられるのだろう。願わくは、来年の今もこうしてお互いに笑っていられるとよいのだけど。
「まだ時間も早いし、どこか行く?」
「そうですね……」
真美もまだ別れがたかった。とはいえどこに行ったものか、と、なんとなくキョロキョロとしていると。
「あ」
「どうしたの?」
「いえ……ちょっと、目があっちゃって」
「?」
真美が顔を向けている方に、祐麒さんも目を向ける。
そこは、前にクリスマスとバレンタインに二人でアルバイトをした、ケーキ屋だった。お店の中にいるおじさんが笑っている。
祐麒さんと顔を見合せ、なんとなく苦笑いしながら店の方に足を向ける。無視をするのもなんだったし、ちょっと気になることもあったから。
自動ドアを開けて中に入ると、ほんのりと甘い香りが体を包んでくる。
「こんにちは、おじさん」
「やあ真美ちゃん。デートかい?」
「そそ、それは、その……っと、それよりおじさん、いつの間にかお店、変わった?」
そう、気になることというのは、様子の変わった店である。ケーキを売っているのは変わらないけれど、お店が広くなっていて、テーブル席がいくつか置かれていて小さな喫茶店のようになっていた。
するとおじさんは、嬉しそうに笑って頷いた。
「去年、リニューアルしてね。前から夢だったんだよ、売るだけじゃなくて、こうした店にするのが」
こじんまりとはしているけれど、お洒落で可愛らしい店内は若い女性客で賑わっていた。アルバイトだろうか、可愛い制服に身を包んだ女の子がトレイにケーキと紅茶を乗せて運んでいる。
前に、おばさんが紅茶に凝っていると聞いたことがあるから、その辺を生かしているのだろう。メニューを見ると、簡単な食事もできるようだ。受験生だったこともあり、クリスマスの時は母がケーキを受け取りに行っていたので、お店が変わっていることも知らなかった。
「良かったら、寄っていかないかい? 春の新作も出たばかりなんだよ」
見れば、イチゴのモンブランが目に入った。ロールケーキの上にイチゴムースが乗り、さらにイチゴクリームがモンブラン状に絞られている。もちろん、イチゴだってちゃんと乗っている。
「うわーっ、すごい、美味しそうっ!」
思わず、大きな声を出してしまうくらい。
ちょうど席も空いていたので、素直に寄っていくことにした。真美は一目で気に入ったイチゴのモンブランを、祐麒さんは抹茶のトルテを注文する。 ケーキは文句なく美味しくて、お店の雰囲気も明るくて良い感じ。
「あーあ、でも今日は恥ずかしい姿ばかり見せちゃいましたね」
滑れないだけならまだしも、祐麒さんを巻き込んであんなことになってしまうなんて。祐麒さんは笑って、何も言いはしないけれど、ひょっとしたら呆れちゃっているんじゃないかと、ちょっと心配になる。
「本当、初めてなのにあんな、祐麒さんを押し倒して上に乗っちゃって。それに痛いし、濡れちゃうしで、もう……」
晒した醜態を思い出すと赤面してしまい、両手で熱くなった頬をおさえる。
そのまま、ちら、と祐麒さんの方を見てみると、なぜか祐麒さんまでもが顔を赤くして手で目を隠していた。
「あの、真美さん、あまりそういう発言をするのはよした方がと」
「え? わわ、私なにか、変なこと言いましたっ?」
「……真美さんって、ちょっと天然?」
「えええ、何がですか。あの、どうゆうことですかっ?」
意味が分からず、一人でうろたえる。何度も聞いてみたのだけれど、結局、祐麒さんは意味を教えてくれなかった。
そうこうしているうちに、美味しいケーキはすっかり胃袋の中におさまっていた。
「水のお代わりはいかがですか?」
「あ、お願いします」
店内を歩いていたウェイトレスの女の子が、水の残りが少なくなったのに気づいて、グラスに水を注いでくれる。ぺこりとお辞儀をして、歩いていく後姿をなんとなく追いかける。そして、顔を戻すと。
その女の子の背中を、やっぱり追いかけている視線を見つけてしまった。
「――可愛い子ですね」
「うん、そうだね……って、いや」
思わずうなずいてしまったのか、慌てて口を閉じる祐麒さんだったけれど。
「むーっ」
「いや、真美さん?」
「ふーん。祐麒さん、ああいう女の子が好みなんだ」
少し茶色の入った髪の毛を後ろで束ねたポニーテールに、顔立ちは目鼻立ちのくっきりしている美人系。どこか、リリアンでの姉であった三奈子を思い出させる容姿だ。
「ち、違うよ真美さん。俺はただ、可愛い制服だなって」
「へえー、制服マニアだったんですね」
「そうじゃないってば。大体、俺の好みはっ」
言いかけて、止まる。
「好みは、なんですか?」
「いや、だから、~~~~っ!」
テーブルの上で拳を握りしめ、顔を赤くして、酸欠の金魚みたいに口をぱくぱくさせる祐麒さん。
何を言おうとしたのか分からないけれど、仮にも女の子と二人で一緒にいるというのに、他の女の子に目を奪われるなんて、酷いではないか。そりゃ、別に真美とは付き合っているわけではないけれど、今日のことは祐麒さんの方が誘ってきたのに。
「……あの制服、真美さんに似合うだろうなと思って見てただけなんだけど」
「はい?」
俯いて、何か小声で呟くようにしているけれど、よく聞こえなかった。
「な、なんでもない」
誤魔化すように、紅茶を口に含む祐麒さん。今日はスケート場で助けられてばかりだったけれど、そういう仕種を見ると少し幼くて、思わず笑ってしまいそうになる。
「何、笑っているのさ」
「笑ってなんか、いません」
「いや、笑ってるって、ほら」
「そんなことないですよー」
笑いながら、べえと舌を出す。
だけど祐麒さんは気がついていないだろう。こんな風に他愛もないおしゃべりをしているときも、実は心臓はどきどきしていることを。
いつだってそう。今日なんかはさらに、色々なことがあったからいつも以上に鼓動は速かったかもしれない。
「――私が早死にしたら、祐麒さんのせいかも」
「え、何、いきなり?」
「なんでもないですー」
そんなふざけながら、スケート場でのことを思い出してちょっと期待する。
祐麒さんの上に倒れたとき、その胸に顔を埋めるような格好となったときに聞こえた祐麒さんの心臓の音は。
真美とおなじくらい、速いリズムを刻んでいたと思うから。
おしまい