バレンタインデー。女の子が、好きな男の子にチョコをあげる日……?
現在、特に好きな相手もいない祐巳とっては、それほど気になる日ではない。クラスメイトに義理チョコをあげようかどうしようか。
その辺を、友達の女の子とあわせるだけだ。ただ、祐麒には渡さざるを得ないだろう。
祐麒は他の9人の姉妹からチョコを貰うだろうから、祐巳だけがあげないというもの何だし。まあ仕方がない。
どうせ、姉妹以外の女の子からチョコなんてもらえないだろうし、ここはひとつ、姉として姉らしいところをみせてあげようではないか。
「ということではい、祐麒」
「わっ、なんだよいきなり。って、あ、バレンタインのチョコレート? サンキュー」
「ちょっと、せっかくあげるんだから、もっと嬉しそうにしなさいよ。言っておくけど、私がちょこれーとあげるの、あんただけなんだから」
「なんだよ、他にあげる相手がいないだけだろ? だから俺が貰ってあげるんだっての」
「な、なんですってー?」
と、朝の教室内で繰り広げられる、傍目にはバカップルにしか見えない姉弟。もちろん、二人とも天然である。
クラスの男子、女子が、羨望のまなざしで二人のことを見ていることにも気が付いていない。
「うあぁ……朝イチであれ見せられちゃうと、ちょっと引いちゃうよね……」苦笑しているのは、同じクラスの武嶋蔦子。
「姉弟と分かっていても、間に入っていくのが躊躇われるというか、ですね」頷いているのは、山口真美。
祐巳は明るく気さくで、どんな男子に対しても態度を変えることがないので、密かに男子生徒には人気がある。
祐麒もまた、可愛らしくて母性本能をくすぐるということで、そこそこ女子に人気がある。
しかし、二人の夫婦漫才にしか見えない姿を見せつけられると、姉弟と分かっているのに、二の足を踏んでしまうのだ。
「あー、でもちょうど腹減っていたんだよな。よし、食べちゃおう」と、早速包装を破ってチョコレートを食べようとする祐麒。
「あ、ちょっと祐麒、せっかくあげたのに、そんな腹ごしらえ的に食べないでよ」
「いいだろ、食べることに変わりないし。あ、これ美味いじゃん」
「う……見ていたら、私も食べたくなってきちゃった。ねえ祐麒、一個ちょうだい」
「なんだよ、結局それか。しょうがないなあ、ほれ」
「あーん……えへへ、美味しい~っ♪」
あーんと口を開けた祐巳の口の中に、指でチョコレートを押し込んで食べさせる祐麒。幸せそうに食べる祐巳。
バカ姉弟ップルは、今日もまたクラスメイトを知らず知らずのうちにどん底に突き落とすのであった。
「うぅ、寒いなやっぱり。あー、早く帰ろう」2月の寒さに震えながら、校門を出る。
家の最寄り駅に到着し、改札を出たところで見慣れたおかっぱの後ろ姿をみかけたので、声をかける。
「乃梨子、どうしたんだこんなところで突っ立って。誰か待っているのか? 笙子か?」
「あ、に、兄さん。別に、これから帰りところ。誰も待ってなんかないもん。自惚れないで」
「そうなのか? じゃあ、一緒に帰るか」
「兄さんがどうしてもというなら、一緒に帰ってあげてもいいけれど」ツンと横を向く乃梨子。
苦笑しながら乃梨子の横に並び、二人で家路につく。
「そういえば、今日はどうだった兄さんのクラスは? バレンタインで、騒いでいる馬鹿な男子とかいた?」
「あー、そうだなー、特にいつもと変わりなかったと思うけど、うちのクラスは」
「ふーん……で、兄さんは? まあどうせ、誰からももらえていないだろうけれど」
「そ、そんなことないぞ。ちゃんと、蓉子姉さんと祐巳から貰って……」
「はいはい、姉妹からだけでしょ。やーっぱり、兄さん、女の子にモテないもんね」
「そ、そんなことは……」言い詰まる祐麒。実際に、姉妹以外の女子からチョコをもらった記憶は、ほとんどない。
ちなみに、他の姉妹達があらゆる手を使って邪魔、妨害していることを、乃梨子は知っている。
しばらく、無言で歩き、やがて家が近づいてくる。住宅街ということで、人の影もなく、二人の足音だけが小さく響く。
コートのポケットに手を突っ込み、風に肩をこわばらせていた祐麒の前に乃梨子の手が伸びたのは、そのときだった。
「乃梨子?」
「……はい、あげる。兄さん可哀想だし、姉妹で私だけあげないってのも、なんだし」
ぶっきらぼうに言いながら、綺麗にラッピングされた箱を差し出してくる。思わず、頬が緩みそうになる。
「か、勘違いしないでよ? 別に、兄さんのことなんて何とも思ってないんだからっ」
「うん、ありがとう乃梨子」
「な、何笑っているのよ! 義理よ、義理も、超ど義理なんだから! ま、まあ、ちょっとは、ほんのちょっとはそうでない部分もあるかもだけど……」
「やー、嬉しいなぁ、開けるのが楽しみだ」
「ちょ、聞いているの兄さんっ?」
冬枯れの街、二人の掛け合いは家に到着するまで続いた。
バレンタインのチョコレート、それは乙女が気持ちを伝えるために、なんとも最適な手段ではないだろうか。
まあ、何年も前からあげ続けているけれど、何にも変わらない現実があるのだけれど。
ため息をつきそうになりながらも、笙子は気合いをいれてチョコレートの包装を見つめる。
手作りチョコレートでは令には絶対にかなわない。それでも気持ちを込めればとも思うが、今回は既製品で勝負することにした。
やはり、正攻法が一番だ。いつだかの蓉子みたく、自らにチョコレートコーティングしようとして失敗する馬鹿なことはしない。
嗚呼、本当に、あんな頭がいいくせに馬鹿な姉だ。チョコレート風呂だとか、私を食べてとか、本気でやろうとするか普通。
と、余計な雑念を振りほどき、笙子は鏡で再度確認。髪の毛も、制服も、ほんのりリップもきまっている。
朝一番で、渡すのだ。誰よりも早く、チョコレートを渡す。これが笙子が自信に課したノルマだ。
といって、早朝に無理に起こして渡すようなことはしない。ちゃんとタイミングを見計らって、しかるべきときにあげるのだ。
そして、それがまさに今。朝食を終え、学校に行く準備をしつつ、なんとなく中途半端に余った時間。
「お兄ちゃん、はいバレンタインチョコレート! 笙子の気持ちを、たーくさん、詰めてあるからねっ!」
「……既製品なのに?」
「乃梨ちゃん、うるさい。はい、お兄ちゃん」家で渡すとなると、他の姉妹もいるのが無念なところだが仕方ない。
「ありがとう笙子、嬉しいよ」
「えへへー、お兄ちゃんが喜んでくれると、私も嬉しい」
近くに乃梨子しかいないので、遠慮なく甘えるように祐麒にすり寄る。祐麒が笙子の頭を撫でる。子供扱いされているようだが、嫌ではない。
「私、先に行くよ?」気を利かせたのか、乃梨子が出て行ったので、笙子はもう少し甘えちゃおうか、なんて思ったのだが。
「いや、今年は早いな。もう二個目だよ」
「……え? ど、どういうこと? あ、そうか、昨日とかに早めにもらったの?」バレンタイン当日の一番にこそ意味があるのだ。しかし。
「あ、いや、朝起きたら菜々からもらってさ。一番に渡した、って喜んで、可愛いよな菜々は」
「は……はは……」祐麒が末っ子の菜々にだだ甘なのは、笙子も理解しているが、なんてことだ。笙子は震えた。
「お、お兄ちゃん。菜々ちゃんのチョコは、もう食べたの?」
「え? さすがに朝飯前だったし、まだ食べてないよ。学校から帰ってきたら、食べるかな」
「じゃ、じゃあ、笙子のチョコレートを今食べて! 誰のチョコよりも先に。ほら、私が食べさせてあげる、あーんして」
「ど、どうしたんだよ笙子、そんな、朝飯食べたばかりで」
「だって、他の人のより、私のあげたチョコを先に食べてほしかったから……駄目?」
上目づかいで懇願してくる笙子に勝てるわけもなく。祐麒は笙子の手ずからチョコレートを食べさせてもらうのであった。
夕食を終え、部屋に戻る。時間が流れてゆき、夜の9時を過ぎると、部屋の扉をノックする音がした。
「どうぞ、開いていますわ」と、瞳子が答えるとほぼ同時に、部屋の扉が開いて祐麒が姿を見せた。
「お待たせ、えっと、今日は数学だっけ?」
「はい。申し訳ありません、祐麒お兄様。お兄様もお忙しいのに、毎日のように勉強を見ていただいて」
「気にしなくていいって、そんなに忙しくないし、可愛い妹のためだからね」
その言葉に、ごくごく僅かにだけ、赤くなる瞳子。
「それに、いよいよ受験まであとわずかだしな。ここまできたら、あとは体調管理の方が大事だぞ」
「はい……でも、やっぱり復習もしておきたいので、見ていただけますか?」
「もちろん、よし、それじゃあ始めようか」
「はい」
そうして小一時間ほど勉強を続けて、休憩する。瞳子は、ちらりと祐麒を見上げる。
「疲れただろう? 何か飲み物と、甘いものでも持ってきてあげるよ」
「あ、ちょ、ちょっとお待ちください、お兄様」少し慌てた口調で、腰を上げた祐麒を止める瞳子。
「どうした? お腹、空いていないか」
「い、いえ、そうではなくてですね、その……」もじもじと、落ち着かない様子の瞳子。
だがやがて、意を決したかのように、机の陰に隠してあった袋を取り出して、ずずいと祐麒の方に押し出した。
「良かったら、これを食べていただけたらと思いまして」
「これは……美味しそうなチョコレートじゃん。あ、ひょっとして、バレンタインだから」
「か、勘違いしないでくださいまし。たまたま今日がバレンタインだから、夜に食べるなら、と思って買ったんです」
「そっか、まあそうだよな。受験生だもんな、バレンタインとか浮かれている場合じゃないだろうし」
「そ、その通りですわ」
チョコレートを、二人でつまんでいく。さすがに全部食べることはなく、いくらか残る。
「残りは、お兄様に差し上げますわ。ささやかですけれど、私からのバレンタインということで」
「ありがとう、ありがたくいただくよ。いや、凄い美味しいチョコだね」
「当然ですわ、私が選んだんですもの」
ちょっとだけ得意げで嬉しそうな瞳子であった。
冬の布団の中というのは、ある意味天国だ。とても暖かくて気持ちよくて、そう簡単に抜け出そうとは思えない。
朝、起きる時間が近づいても、布団の誘惑は強くてなかなか起きようという気にならないのだ。
「うー、ぬくいのう……気持ちいい」
「うん……ぬくぬく」
「って菜々、またこっちに潜り込んできたのか」
「だって、一人で寝ていると寒いんだもん。こうして、おにぃの布団で、おにぃと一緒に寝ている方があったかいよ。おにぃもでしょ?」
「うーん、まあ、それはそうだな。菜々はあったかいなぁ」
と、傍から見れば爛れた関係にしか見えないようなシチュエーションを、ほのぼのと満喫する二人。
しかし突然、菜々が身を起こした。布団の隙間から冷気が入り込んできて、一気に意識が覚醒する祐麒。
「な、菜々? どうした? トイレか?」祐麒の言葉を無視して、菜々は布団からはみ出ると、自分の机に駆け寄る。
と思ったら、すぐに戻って来て、また布団の中に潜り込んでくる。
「はい、じゃじゃーん、チョコレート! ナナからおにぃに、バレンタインのチョコレートなのです」
「おー! それは嬉しいけれど、なんでまたいきなり?」チョコレートを受け取りながらも首を傾げて尋ねてみる。
すると菜々は、仰向けに寝ている祐麒の胸の上に乗っかって、頭から布団をかぶった状態でにこにこと笑う。
「だって、ナナが一番におにぃにチョコレート渡したかったんだもん」
「菜々……おまえはなんて、可愛らしいやつなんだ!」ぐりぐりと、頭を撫でる祐麒。
「わーっ、くすぐったいよ、おにぃ。あ、そうだ、あとそれから……えっと、えいーっと」
「ん、どうした、菜々?」
「えっと……あそうだ、んとね、チョコレートと一緒に、ナナも食べてほしいな。ナナのミツもね、チョコに負けないくらい甘いんだよ?」
「ぶはあぁっ!!!?」菜々の衝撃発言を耳にして、計り知れないダメージを受けて祐麒は悶絶した。 痙攣するようにして苦しむ祐麒を見て、菜々は目を丸くして慌てだした。
「え、お、おにぃどうしたの? ナナ、なんか間違ったこと言った? 確か、今ので合っていると思ったんだけど」
「い……今の発言は、な、なんだ……?」
「え? あのね、友達のかすりんが教えてくれたの。こう言えば、おにぃが絶対に喜んでくれるって。かすりんね、色んなこと知っているんだよ」
「いかん! そ、そのかすりんの言葉をうのみにしちゃ駄目だ。菜々は、知らなくていいこともあるんだ!」
兄馬鹿の祐麒は血涙を流して菜々を抱きしめるのであった。