学校が夏休みの間、先生たちは日まで羨ましいなどと思っている人もいるらしいが、それは違う。
教師だって働いて給料を貰っているわけで、夏休みだって当然ながら仕事はある。授業はないかもしれないが、その分、生徒達が登校している間はできない勉強会、研修などがあるし、学校行事が盛りだくさんの二学期に向けた準備もある。三年生なら受験に向けて本格化していくし、普段はやりたくでも出来ないことに手を付けられるようになるのが長期休みの期間なのである。
それは養護教諭である栄子も同じことで、夏休みの間も学校に来て溜まっていた様々なタスクをこなしている。また、夏休みといっても部活動は行われており、運動部であれば怪我をすることもあるし、季節柄、運動部だろうが文化部だろうが熱中症などのリスクが高くなる。
休みで生徒の数が少ないが故に、逆に人の目が届きにくいこともあるので勤務時間には校内を見て回ったりもする。
今も栄子は額に汗を浮かべながら学園内を歩いていた。
「しかし暑いな……」
言わなくてもよいことも自然と口を突いて出てしまう。
学園に居る時は遠目でも栄子だとすぐわかるように白衣を着るようにしているが、当然ながらその分だけ暑くなる。
白衣の裾を翻しながら運動部だけでなく文化部の活動も様子を見る。運動部の方は常に体調に気を配っているが、文化部の方がその辺はなおざりにしがちなのである。室内にいようが、水分補給を怠ったり熱が体内にこもったままになったりすれば危険である。生徒達と軽く話をしながら歩いて回る。
「栄子ちゃん、おつかれさまー」
「今日も暑いねー」
二人組の女子生徒が親し気に声をかけてきた。
確かバスケ部の子で、一人はショートカット、一人はポニーテールにしていた。
「栄子先生、でしょう」
何回言われようと、栄子はしつこく繰り返す。
「いいじゃないですか、親しみを込めているんですから」
「駄目駄目、私とあなた達は教師と生徒なんだから、ちゃんとそこの線引きはしておかないとダメよ」
「えーっ、教師と生徒の一線を越えちゃった栄子ちゃんがそれ言います?」
「ぶっ!?」
いきなりぶっこまれて栄子は噴き出した。
落ち着け、と内心で自分自身に言い聞かせる。この手のからかいは最近よくあることだ。いや、さすがにここまで踏み込んできた生徒は初めてだったが。
「だって栄子ちゃん、花寺の生徒会長様とお付き合いされていたんですよね」
「卒業してからよ。在学中にそんなことあるわけないでしょう」
本当は祐麒が高校生の時からデートをしたり、手を繋いだり、キスしたりなんやかやとしていたのだが、それを馬鹿正直に告げられるはずもない。生徒に教える立場としては身に疚しいことばかりなのだが、それもこれも全て祐麒が悪いのだと栄子は思う。あんな風に、学生の頃から強引に栄子を求めてくるから悪いのだ。
断り切れなかった自分自身を棚に置いて栄子はそんなことを思う。
「でも生徒会長様が卒業されてから、まだ四ヶ月くらいじゃないですか。ということは、生徒会長様が在学中からお付き合いされていたと考えた方が自然で、無事に卒業されてからカミングアウトされたのでは」
女子生徒は、恐らく多くの者が考えていそうなことを堂々と口にしてきた。
「違う、卒業してからよ。あなた達だって、ある日突然告白したりされたりしてお付き合いをすることもあるでしょう」
「それはそうなんですけど、でも栄子ちゃんと生徒会長様は失礼ですが年の差があるじゃないですか。告白されたからってすぐに、というのはちょっと不自然かと。そう考えるとやはり以前から……」
「すぐにではないわ、四ヶ月もあるじゃない。それだけあれば、お互いを知ることも出来るわ」
「まあ、確かにそうかもですけど、そんなに警戒しなくてもいいじゃないですか。最近はそういうの流行りですよ」
「そうですよー、私の読んでいるラブコメ漫画でも、主人公の男の子が選んだヒロインは同級生の女の子じゃなくて、教師だったんですよ」
「そうそう、最後には元教え子の男の子と結婚しちゃうんですから」
「な……何、その漫画は」
「あ、気になりますぅ?」
「いや参考までに……って、そうじゃなくてほら、いつまでもサボっていないで、部活なんでしょう。くれぐれも水分補給と休息を十分にとるようにね」
まだ何か言いたそうな女子生徒との会話を切り上げ、栄子は歩き出した。
本当に、最近のリリアンの生徒はお嬢様というのが憚られるほどあけすけになってきたものである。
色恋沙汰が気になるお年頃といえば可愛いが、これではどこかのゴシップ誌の記者きみたいではないか。
栄子は肩をすくめると、降り注ぐ太陽の光に目を細めた。
「――とまあそんな感じで、最近の若い子はなんというか、はぁ」
栄子は大仰にため息を吐き出しながら言った。
「お疲れ様です」
そんな栄子を見て祐麒は微笑み、栄子の肩を揉んでくれている。
首を捻った肩越しに祐麒の顔を見て、栄子は不満げに口を尖らせる。
「なんだその顔は」
「あぁ、いえ、最近の若い子って、俺も同じくらいの年齢なんですけど」
「悪かったですね、どうせ私はおばさんですし」
「そんなこと言ってないじゃないですか」
「言ったも同然だ。やっぱり若い子の方がいいんだろう、そうだよな、今日のあの子達だってすらりと細くスタイル良くて、ショートパンツからのびた脚も長いし、胸だって……」
口にしていて自分で空しくなっていく栄子。
本当に、今の高校生の女の子たちのなんとスタイルの良いことか。それだけではなく、栄子が持っていない肌の瑞々しさ、艶やかさも加えて持っているのだ。
毎回毎回、こんなことを祐麒に対して本心で言いたいわけではない。だが、それでもつい口にしてしまうのは。
「えーこちゃん」
祐麒の腕が肩から降りてきて栄子の体を抱きしめてくる。
何度、こうして抱きしめられてもドキドキする。
それでも、表情には出ないようにして問い返す。
「……なんだ?」
「俺にとっては、誰よりもえーこちゃんが一番、魅力的な女性ですから」
「……ふん。それで?」
「誰よりも、えーこちゃんのことが大好きです」
祐麒のこの言葉を聞きたくて、つい、若い女の子に対する嫉妬めいた言葉を吐き出してしまうのだ。
言葉にしてくれないと、安心できないから。
年が離れていることに、誰よりも不安を覚えているのは栄子自身だから。
「……よく聞こえなかったが?」
「大好き」
嬉しい。
嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。
「そう簡単にホイホイと好きと言われると、言葉が軽く感じるぞ」
そんなことはないのに。
どうしてこう、憎まれ口を叩いてしまうのか。
「えーっ、じゃあ、あいしてます」
「ばっ、バカっ、言葉を変えればいいってもんじゃない」
言いながら、頬が熱くなるのを止められない。
ずっと年上なのに、加えて面倒臭い性格、というか見栄っ張りだ。呆れられないか不安になるのに、そんな栄子を祐麒はいつも笑って受け止めてくれる。
そんなこと全て分かっていますよ、とでも言うように。
「えーこちゃん以上の女性なんていませんから」
果たして、これから先、栄子が老いてもそのようなことを言ってくれるだろうか。
信じているのに、不安になる。
だから、色々と欲しくなる。
言葉で、そして行動で。
「……そ、それで、祐麒、あの」
「あ、やばい、もうこんな時間。バイト遅れちゃう」
時計を見て、祐麒が立ち上がる。
離れていく温もり。
「え、もうそんな時間か」
「はい、すみません」
「いや、仕事は大切だ。遅刻するようでは信頼も失うからな」
栄子が定時で上がり、祐麒がバイトに行くまでのわずかな時間。
本来なら、わざわざ会いに来るほどの時間でもないのに、わざわざ栄子の家まで寄ってくれていたのだ。
栄子も立ち上がり、祐麒の背中を見つめる。
「えーと……バ、バイトは大変か?」
「大変だけど、楽しいですよ」
「そうか……あ、あの」
「はい?」
「え、ええと、ええと、パ、パワーは満タンか?」
「え?」
栄子の言葉に、祐麒がきょとんとした顔をする。
栄子も、自分で言ったことに内心では「アホか」と突っ込みを入れながらも、今さら取り消せない。
「い、いや、ほらバイトは大変だって、体力も必要だって言っていただろう。だから、わざわざ私のところまで来て疲れていないかなって」
段々と早口になってくる。
「ああ……別にこれくらい大丈夫ですよ」
「そ、そうか…………」
尻すぼみになる。
何を言っているのだ、言い年した女のくせに祐麒を困らせてどうするのだ。
「……あー、でもそうですね、やっぱりバイトを乗り切るのにパワーが足りないかも」
「え?」
見ると。
祐麒が頬をかきながら、栄子を見てくる。
「だから、えーこちゃんがキスしてくれたら、パワー漲るかも」
「なっ……ほ、本当か?」
「はい、駄目ですか?」
可愛らしい目をして栄子を見つめ、わずかに顔を隠しながらそんな風に訊いてくる。
キスをおねだりしてくるなんて、可愛いじゃないか。
「バイトで失敗したら迷惑をかけるからな……仕方ないな」
「やった!」
万歳して、素直に喜びを表現する祐麒。
「ほら、時間がもったいな……時間がないのだろう」
「あ、はい」
そして祐麒と向かい合う。
栄子は祐麒の肩に手を置いて、軽く背伸びをして顔を近づけると、唇を触れ合わせた。
柔らかい、ぷにっとした感触。
何度重ね合わせても、なんでこんなに飽きることがないのだろう。
「ん……ちゅっ」
唇が離れる。
名残惜しい。
もともと会う予定がなかったのなら別に問題なかったのに、急に会うことになって、でもほんのわずかの時間で何もせずに別れてしまうなんて、逆に悶々としてしまう。
足りない。
全然、物足りない。
でも、そんなこと言えるわけがなくて。
「えっと……もう終わりですか? 全然、足りないんですけど」
「え?」
「もう、ぜんぜん、ぜーんぜんっ、パワー不足です」
「なっ……わ、我が儘なやつだな、ほら」
今度は祐麒の首に手を回し、抱きついてキスをする。
「ん、む……」
唇を重ねるだけではない、互いに舌を絡ませあい、求めあうキス。
夏場、薄いシャツ一枚を通して感じられる互いの肌の熱さ、ぬくもり。
「…………んっ、はぁ……こ、ここまでだ。ほら、バイトに遅れるぞ」
これ以上は、逆にまずい。
栄子自身が、我慢できなくなりそうだった。
「はい、それでは行ってきます!」
「ああ、しっかり働けよ」
「はい、えーこちゃん、また連絡しますね」
玄関から出て、元気よく走り去っていく祐麒の後ろ姿を栄子は見送り。
「……さて、私も残っている仕事をやらないと」
ブラックめいたことを呟いていた。
数日後。
「アイタタタ……」
体育館のフロアにうずくまっている生徒の側に近寄ってしゃがみ込む。
「動かすな、ほら見せてみなさい。捻ったのか?」
バスケの練習試合で足を痛めた生徒がいるということでやってきた。下手に動かさず、まず現場で状態を確認しようと思ったのだ。
「すみません、栄子ちゃん」
「保科先生、だ」
相手は先日、栄子に祐麒との関係のことをぶっこんできたポニーテールの女子生徒だった。
足首の様子を診て軽い捻挫だと判断する。数日、安静にしていれば自然と治癒するだろうが、念のため湿布を貼って固定した方が良いだろう。
「あとは保健室で手当てを行うわ。私の肩に捕まって」
「すみません」
少女の隣に位置をずらして肩を貸すように体を傾ける。
少女の手が栄子の肩に置かれたところで。
「――あれ、栄子ちゃんも怪我してる?」
「私は怪我なんてしていないわよ」
「でも、赤い痣が」
「痣?」
少女の視線を追うと、栄子の胸元に向けられていた。暑くてブラウスのボタンも一つ外し、さらに前屈みになったせいで中が覗いて見えたのだろう。
とはいえ、怪我をした覚えはない。
「分かりました、もしかしてあれじゃないですか、キスマーク」
「そんなわけないでしょう」
「そうですよね、家を出る前にチェックしましたよね」
「ええ」
「…………え?」
「…………ん?」
何かまずいことを言ったか。相手の引っかけに対して冷静に反応することが出来たはずだが、と栄子は考えたがすぐに失言に気付いた。だが、まだ今なら会話に集中していなくてなんとなく頷いてしまっただけと言える。怪我の手当の方に神経を向けていたのだから不自然ではないはずだ。
「ああ、今のは違うわよ」
焦ってはいけない。なんでもないことのように言えば良いのだ。
「えっ、じゃあチェックし忘れですか、うっかりすぎじゃないですか!」
「違うそうじゃない、ちゃんとチェックはしたわよ!」
「あ、やっぱり」
「あっ……」
口元を手で抑えるがもう遅かった。
いや、でもまだ。
「その割にはちょっと甘すぎませんか、見えちゃってますよ」
「だからこれは違うと言っているでしょう」
「なんでそう言いきれるんですか」
「付けられたのはお腹と太腿だったからよっ」
「ほほう」
「って、な、なにを言わせるのよあなたはっ!?」
そして気が付けば。
「栄子先生、昨夜は……」
「え、なに、どういうことですか?」
「あ、大仲のキャプテンさん、実はうちの学校では公然なんですけど……」
「えっ、こ、校医さんが、花寺の生徒会長様と好意を寄せあって校内で行為をっ!?」
バスケの練習試合の相手校である大仲女史のバスケ部員達まで集まってきて、栄子の方を見てお喋りに花を咲かせていた。
「な、な、な……ち、ちがーーーーーーうっ!!」
必死の言い訳もむなしく栄子はその後、教頭から派手に叱られた。
(そして別に、根本的に大きく違ってはいなかった)
「ああもうっ、全て祐麒のせいだからな!」
栄子は憤懣やるかたない感じで言った。
女子生徒にからかわれ、リリアンどころか大仲女史の生徒にまで知られた挙句、騒ぎを聞きつけた教頭先生に呼び出されて叱責まで受けた。
祐麒との関係がバレたときも色々と説明して納得してもらうまで大変だったのに、それからさほど時を置かないでこれである。年頃の女の子たちに悪い影響を与えないように云々とこってり絞られた。
「いや、全部聞いても俺のせいだというところが分からないんですけど……」
「祐麒がキスマークを付けたからこんなことになったんだ」
「えーこちゃんだって、付けていいって言ったのに……」
「文句あるのか?」
「ありません、俺が全面的に悪かったですすみません」
「分かればいいんだ」
祐麒が素直に頭を下げたところで、栄子は胸の前で組んでいた腕を解いた。
そして祐麒の肩を掴んでそのままベッドに押し倒す。
「あの、えーこちゃん?」
「…………だから、今日は私が祐麒に付けてやる」
「え、ちょ、明日バイトが」
「うるさい、覚悟しろっ、て、なんで嬉しそうな顔しているんだっ」
結局翌朝、お互い夏場で薄着になるので苦労する羽目になったのであった。
おしまい