<後編>
合鍵を使って、祐麒の部屋に入る。祐麒も今日、友人たちと飲みに行くといっていたから、まだ帰ってきていないようである。明かりを灯し、中に足を踏み入れる。
上着を脱ぎながら、さして広くもない室内を見てみると、洋服や本、飲食物のゴミなどが散らかっていた。汚いというほどではないが、前に江利子が訪れたのが三日前、それからあまり整理していないのだろう。
祐麒はそれなりに綺麗好きだし、江利子が訪れるということもあって、あまり散らかしっぱなしにしないが、それでもこういうときはある。江利子は上着をクローゼットにしまい、ごく自然に部屋を片付け始める。
少し酔いもあり、面倒くさいことのはずだけれど、そんなことは気にならないし、気にしたこともない。江利子は部屋を使わせてもらっている身だし、祐麒のものを片付けるのは楽しかった。
洋服をたたんでしまい、Tシャツは洗濯かごへ。本は積み重ね、お菓子の空箱はゴミ箱へ。食器類はとりあえず流しに置いて、まずはクイックルワイパーで床を拭いて、続いてローテーブルを雑巾で拭く。流しに戻って食器類を洗い、ひとまず完了。以前、あまりやりすぎて、触れてはいけない祐麒の私物を乱してしまい、怒られたことがある。だから、手をつけていい場所と悪い場所は、きちんと把握している。
掃除を終えたところで、フローリングの上に置かれたクッションに、ぺたりと腰をおろす。見慣れた室内だけれど、それでもいつも、実は内心でドキドキしているのを、祐麒はきっと知らないだろう。だって、男の子の部屋にいるのだから。
「……少し、汗かいちゃったかな」
お酒も飲んだし、シャワーを浴びたいところだ。
少しためらった後、江利子はユニットバスに向かう。
しばらく前までは、勝手にシャワーを使うことはしなかった。ここはあくまで祐麒の部屋であり、祐麒がまず使用し、さらに使用許可を得た上で使うのが当然だと思っていた。
だから、今日みたいに江利子が先に部屋に居ても、江利子は待っていた。それを知った祐麒は、祐麒がいないときでも自由に使って良いと言ってくれた。江利子ははじめ、そんなこととんでもないと拒否したが、待っていられる方が辛いと言われ、それならばと頷いたのだ。
服を脱ぎすてて裸になり、浴室に入る。シャワーを浴びる前に排水溝をチェックし、絡まった髪やごみくずを綺麗に取り除く。
熱いシャワーを浴びると、身体の芯から心地よさが浮かび上がってくる。こうして祐麒の部屋でシャワーを浴びるとき、江利子は入念に体を洗う。もしこの後、祐麒に身体を晒すことになっても恥ずかしくないように。
洗いながら、江利子はいつも赤面する。本当に祐麒に求められた時のことを想像して。
実際のところ江利子は、セックスという行為について詳しくは知らなかった。男性のものが、自分の中に入ってくるということはかろうじて分かるが、それ以外はさっぱりだ。友人たちの話を聞いて、手や口や胸で、なんてこともようやく本当の意味が分かったが、そもそも小さいころに父親や兄とお風呂に入って以来、男性の性器など目にしたことがないのだから、想像がつかない。それ以上の行為なんて、考えられるわけもない。
そんな自分なのに、祐麒の前になると驚くほど大胆になる。自分は何でも知っている、とでも言うような姿勢で、言動で、祐麒を惑わす。そんな自分が不思議ではあったが、おそらく、正式に恋人になるまでは、祐麒が無理矢理に襲ってくるようなことはないと、無意識のうちに理解しているから大胆になっているのだろう。
シャワーで泡を洗い流し、自分の体を見てみる。スタイルは、良い方だと思う。友人からも、えっちな体つきをしていると言われる。
今さらながら、性の知識をつけるべきなのかと考える。しかし、家にパソコンはあるけれど兄のものだから、変なことはできない。エッチなDVDを借りたり、本を買ったりするのはハードルが高すぎる。大学の友人たちには今さら聞きづらく、聖や蓉子に訊くというのも正直、恥ずかしい。
結局、友人たちの会話から聞きかじったことから得た、小さな情報を自分なりに解釈しているものの、そもそもの前提知識がないのだから、結果は知れたもの。リリアンという箱庭で育った自分が、本当に世間知らずなんだなと思い知らされる。いや、リリアンに通っていても、知っている子は知っているし、やっている子はやっているのだ。
バスタオルで濡れた体を拭き、鏡に映る自身の姿を確認する。
祐麒が心から江利子のことを好いてくれて、そのことを言葉と態度で表してくれたら、楽なのに。
それとも、自分から動かないと、どうしようもないのか。でも、今だって十分に刺激的なことをしているつもりだし、こうして何度も祐麒の部屋に寝泊りをしている。
一緒にいて、祐麒から江利子に対しては、好意以上のものを感じる。江利子だって女だ、祐麒の態度から、それくらいは分かる。だけど、もう一歩、決め手がない。
ショーツを手に取り、脚を通す。さすがに毎回、新品をおろすなんて出来ないけれど、それでも祐麒の部屋にはお気に入りのもの、可愛いものを中心に取り揃えている。果たして、それがいつになったら役に立つのか、まだ分からない。
ルームワンピースに着替え、まだ乾いていない髪の毛はタオルでまとめている。冷蔵庫から麦茶を取り出してコップ半分飲みほし、部屋に戻ってクッションに再び腰をおろす。
「……意外と私って、小心なのよね」
呟いたところで、外から足音が聞こえてきた。祐麒の足音だ。
その通り、直後に部屋の扉が開かれる。江利子はタオルを取り、慌てて立ち上がって玄関へと出迎えに向かった。
☆
友人たちの罵声を一身に浴びながら、祐麒は帰途の道を急いでいた。帰ると言い出した時、友人たちは一斉に引き止めた。なぜ、この状況で帰るのかと。今日は朝まで飲み明かすのだから、諦めて此処にいろと。男の友情を深めることに大きな意義があると、それぞれがそれぞれに主張した。
対して、「江利ちゃんが来るから」と馬鹿正直に祐麒が答えると、今度は揃って罵詈雑言とやっかみの嵐であった。
腹上死してしまえとか、やりすぎで腰を壊してしまえとか、いやそれってある意味羨ましくないか、などと様々な恨みの声を受けて、友人の部屋を後にした。
元々、今日は江利子が訪れることになっていて、友人たちからの誘いは後から入ったのだから、江利子を優先しても筋は通っているはずだが、世の中は理不尽なのだ。
しかし、随分と遅くなってしまった。本当なら軽く飯を食って帰るはずだったのだが、友人達が捕まえて離してくれず、終電にまでなってしまった。メールで連絡はいれておいたし、江利子の方も友人たちと出かけることにしたということだったので、遅くなっても問題はないはずだったが、それでも自然と足は速くなる。
自分勝手で振り回してくるように思えるけれど、あれで江利子は意外なほど大和撫子的行動(?)をとるところがあり、祐麒が帰ってくるまで先に寝たりすることがないのだ。祐麒の部屋だということもあるだろうが、以前、飲みつぶれて朝に帰った時に玄関で出迎えてきたのには驚いたものである。
不思議な関係だった。
周囲からはずっと恋人同士だと思われてきたけれど、実際にはキスすらしたことがない清い関係である。
誰も信じてくれないかもしれないが、真実なのだ。
なぜ、清い関係のままでいられたのか。江利子は時に大胆に迫ってくる。祐麒は聖人君子などではなく、年相応に女性の体に興味がある男子。江利子を自分のものにしてしまいたいと、欲望の炎が灯ったことだってある。それでも、踏みとどまってきているのはなぜなのか、自分でもよくわからなかった。
埒もなくそんなことを考えていると、いつの間にかアパートの前に到着していた。部屋を見上げると、窓に明かりがともっているのが見えるから、江利子は先に来ているのだろう。これ以上待たせてはと、階段を一段飛ばしで駆け上がる。
「ただいま」
鍵を開けて中に入ると、やはり玄関には江利子の靴が置いてあった。狭いキッチンを抜けて部屋に足を踏み入れる。
「あ、お、おかえりなさい」
慌てて立ち上がり、祐麒を出迎える江利子。ピンクのルームワンピースに包まれた肌は、シャワーを浴びたばかりなのか、しっとり感のある健康的な桜色。髪の毛もまだ完全に乾いているわけでなく、首筋にはりついている。
「ごめんなさい、先にシャワー、使わせてもらっちゃった」
「別に、謝る必要ないですって」
以前、祐麒が帰ってくるまで汗をかいたまま部屋で待っていたことがあり、気にすることなく使って良いと言ってあるのだ。
「あ、お酒臭い。ほら、祐麒くんも早くシャワー、浴びてきたら?」
「うん」
背中を押されるようにして、浴室へ入る。何か、いつもの江利子と様子が違うような気がしたが、とりあえずシャワーを浴びて汗とアルコールを流す。
江利子が用意してくれていた新しいシャツに袖を通し、浴室から出て部屋に戻ると、江利子はベッドの上に横たわっており、もう寝てしまったのかと思い、いつもの通り祐麒もローテーブルを端に寄せ、床に座布団を敷いて寝ようとする。
「……祐麒、くん」
ベッドの上から、声がかけられる。
「あれ、江利ちゃん、寝ていたんじゃないの」
「これから寝るけど……祐麒くんもこっちで一緒に寝ましょうよ」
「え……」
ゆっくりと上半身を起こし、見上げてくる江利子。
「でも、それは」
視線をそらす。
ワンピースの裾から伸びた太腿が眩しい。
江利子は無言で立ち上がり、少し背伸びをするようにして祐麒の首に手をまわし、抱きついてくる。押し付けられる胸の柔らかさが、心地よい。
「え、え、江利ちゃん?」
「……あのね、いつも祐麒くん、我慢しているでしょう。でもね、我慢しなくても別に、いいよ」
「え?」
今まで長いつきあいだけど、その中でも見たことがないような江利子の態度に、動揺する。江利子の息が、首をくすぐる。
「祐麒くんが、心から求めてくれるなら、いいよ」
何がいいのか、なんてことはさすがに聞き返さなかった。
しかし、なぜ、いきなりこんなことを言い出してきたのか。疑問に感じながらも、江利子の魅力に心が揺れる。
「江利ちゃん……」
抱き寄せようとしたところで、江利子の方から祐麒を引っ張りこむようにして、ベッドに倒れこむ。
「え、江利ちゃん?」
離れようとするけれど。
「だから、いいって言っているのに」
無防備にベッドに倒れたままの江利子。ワンピースがめくれ、ミントグリーンのショーツが奥に見えていて、目が吸い寄せられる。
「江利、ちゃん?」
返事はない。
胸の動悸が速くなる。唾を飲み込む。今までと違う、本気の香りが江利子から出ているのを感じる。
そっと手を伸ばし、ショーツに程近い内腿に触れる。吸いつくような肌ざわりで、指が肌に沈み込んでゆく。
「…………っ」
ピクッ、と江利子の体が震える。
祐麒の中の男に火が灯りそうになる。思う存分に江利子を抱きしめ、その魅惑的な体を堪能したいという思いが溢れてくる。手のひらで太腿をさするようにしながら脚を押し広げて持ち上げ、もう片方の手を乳房に伸ばす。豊かな膨らみに触る直前、江利子の方を見やる。
その瞬間。
なんとなく、分かってしまった。今まで、江利子と最後の一線を越えなかった理由を。
江利子の表情は、いつもとさほど変わらないように見える。だけど、長く付き合ってきた祐麒にはわかる。今の江利子は、物凄い緊張と恐怖に包まれている。手をずらし、二の腕に触れてみると、また、ぴくりと反応する。分からないかもしれないけれど、これは震えだと理解する。
どんなに妖艶なふりで誘って見せても、どれだけ大人っぽく見えたとしても、傍から見れば大胆に祐麒を誘って余裕があるように見えても、江利子は恐いのだ。
きっと今までも、そんな江利子の態度を祐麒は感覚的に察していたから、最後の最後で超えることができなかったのだ。江利子が、無理をしているのがわかるから。
しかし、どうすればいい。この体勢、状態で引いたら、それこそ江利子を傷つけてしまうだろう。
最後までいくしかないというのは分かるが、本当によいのか。江利子は本当に、自分のことを好きでいて、望んでいることなのか。迷いはあるが、それでも止めることはできない。ワンピースの中に手を差し入れ、柔らかいお腹をさすりながら、目を瞑って身を硬くしている江利子の首筋にキスをしようとして。
不意に、視界が闇に包まれた。
「えっ!? な、なんだ」
「どうしたの……あれ、真っ暗」
「なんだ、停電か?」
「え、ちょっと……」
起き上がり、手探りで部屋の電気のスイッチのところまで行くが、スイッチを押しても電気がつく気配はない。
「ちょ、ちょっと祐麒くん、どこ?」
「江利ちゃんは、そこにいていいから」
祐麒はそう言ったが、江利子は結局祐麒のところまでやってきて、腕をつかんだ。そのまま玄関まで行き、ブレーカーが落ちたのかと確かめようと思ったが、また不意に天井のライトが点滅したかと思うと、明るくなって部屋を一気に照らし出した。眩しさに一瞬、目を閉じ、再び開けると目の前に江利子が立っていた。
「ほんの少しだけ、停電していたのかな」
「そうかもだけど……別に停電したからって、やめることはなかったんじゃないかしら? とゆうか、むしろちょうど良かったと思うのだけれど」
「え?」
言われてみれば、あのまま江利子を抱くのであれば、部屋の電気が消えたというのは別に悪いことではなかったはずで、無理に停電かどうか確かめる必要もなかった気がする。
非常に間の抜けた話で、お互いになんとなく顔をあわせづらく、至近距離で正面から向かい合っているのに、顔を反対方向に向け合う。
どうしようかと考えていると、先に、江利子の方が祐麒のシャツを握ってきた。
「あの……つ、続き、する?」
頬を赤らめながら上目づかいで問いかけてくる姿は、凶悪なほど可愛らしい。だけど、その瞳には、どこか怯えの色が見える気もするわけで。
なんとなく、祐麒は微笑む。そして、そっと江利子の頭の上に手を乗せて、ゆっくりと撫でる。まだしっとりとした髪の毛が、吸いつくようで心地よい。
江利子はくすぐったそうにするが、嫌がる様子もなく、祐麒のことを見上げている。
「江利ちゃん、無理しなくて、いいから」
「え、私、別に無理なんかして」
「焦る必要、ないから。いや……俺がこんなえらそうなこと言える立場じゃないのは分かっているけれど。江利ちゃんを焦らせたのは、無理させているのは、俺のせい、なんだよね? でも、俺は江利ちゃんのこと」
「え」
江利子の心臓がひときわ大きく跳ねる。江利子の頭からおろされて祐麒の手は、今度はその細い肩を優しく抱いている。
「俺は江利ちゃんの……あれ、痛……たた」
「……は?」
いきなり訪れた鈍い腹痛に、顔をしかめる。やがてその痛みは、次第に激しくなってくる。
「なんだコレ、痛い、アイタタ」
「ちょ、ちょっと祐麒くん、大丈夫? どうしたの突然」
「わ、分からないけれどお腹が……あ、あれか!? 夕飯で出た謎の物体……」
友人の部屋で出された、よく分からない男の料理。昼ごはんは江利子が作ってくれた弁当を食べているし、前日の夜はチェーン店の牛丼だから、それくらいしか思いつかない。
「ご、ごめん。ちょっと、トイレ」
呆然としている江利子を残し、祐麒は腹をおさえながらトイレに駆け込むのであった。
照明の消された部屋の中、ベッドの上で体を丸めながら、祐麒は情けなさに身を切り裂いてしまいたかった。
「……ごめん、江利ちゃん」
「仕方ないわよ、お腹が痛いんじゃ」
痛みはだいぶ和らいだとはいえ、完全に収まったわけではない。それでも、こうして体を丸め、お腹をおさえていると随分と楽ではある。
安堵の吐息を漏らすと、背後では江利子がため息を吐き出していた。
「……情けないわねぇ」
「返す言葉もありません。申し訳ない」
「もう、いいわ。なんかもう慣れたし」
言いながら、江利子が身をすり寄せて来た。
「江利ちゃん?」
「いいから」
背中から抱きついてくる江利子。背中に胸があたる。江利子の腕がのびてきて、そっと抱きしめるようにお腹にまわしてくる。そのまま、細い指で優しく、ゆっくりと腹を撫でてくれる。
「……ねえ、さっき、何て言おうとしていたの?」
首筋におでこをくっつけるようにして、江利子がきいてくる。
「それは」
「ううん、やっぱいいや。こんな状況で言われても、ね」
何も言い返す言葉がない。
江利子を不安に陥らせているのは、自分のせいなのだ。もしかしたら、江利子は臆病なのかもしれない。だから、素直に自分の感情をあらわさないし、いつもはぐらかしてくる。それは不安と恐怖の裏返しかもしれなくて、そしてそれは祐麒も同様で、お互いにこの中途半端な状況というのが、きっと心地よいのだ。変なところで二人は似た者同士なのかもしれない。
二人しかいなければ、二人の世界ならば、それでもいいのかもしれない。だけど、大学という新たな世界に来て、状況は変わってきている。いつまでも今の状態でいていいわけがないのだ。誰にとっても幸せなことにはならないのだから。
「ね、これからはこうして、一緒に寝ましょう。一緒の方が温かいし、気持ちいいもの」
「……」
「それとも、私と一緒じゃ、眠れない?」
「そんなことは、ないけど」
「なら、いいじゃない。私は、構わないのだし」
「うん……」
「……そして、いつか、教えてね。祐麒くんの気持ちを。そうしたら私も……ちゃんと自分の気持ちを伝えるから」
「うん」
江利子をずるいとは思わないし、思う資格がそもそもない。断ることもできたのに、ずるずると関係を続けてきた非は明らかに祐麒にあるのだから。
はっきりさせないといけない。
そう思いながら祐麒は、柔らかな江利子に包まれて、いつしか眠りに落ちているのであった。
そして。
「馬鹿……」
小さな、小さな、江利子の声は、しんとした室内の空気に吸い込まれ、誰に届くこともなかった。
おしまい