第二話 『デキる女』
多忙な日々は流れ、そうして四月一日を迎えた。
会社は新たな年度に入り、祐麒は社会人二年目へと突入することになったが、新入社員が配属されるまでは一番下っ端であることに変わりないし、仕事が大きく変わるわけでもない。
二十四歳の誕生日という記念の日でもあるが、誰が祝ってくれるわけでもないし、今日が誕生日ですと会社の同僚に吹いて回るような性格でもない。いつもと変わらない一日を過ごすだけだと思っていたが、会社に到着すると少しだけ変化があった。
四月一日というのは、大きな人事異動が発令される日でもある。新たな年度を迎え、会社内の各部門なども新たな体制を整えたりするのだ。
「いよいよ今日だねぇ、新しい人がくるの」
隣の席に座る、二年先輩の風見が話しかけてきた。
ちらりと、斜め前の席を見る。
もともとチームのリーダーだった沢村の席だが、沢村は体調を崩して長期療養中のため、その荷物は片づけられ別の場所に移動されている。今、その席は新たな主を待つべく、綺麗な状態になっている。
「やっぱできる人みたいですね」
同期の友人から情報を仕入れてみたが、かなりできる人のようだった。そんな人をよく手放す気になったものだとも思うが、会社全体のことを考えて困っている部署に有能な人材を送ってくれたのであろう。また、その人が在籍していた前のプロジェクトがちょうど三月で終了したということで、タイミングも丁度良かったとのこと。
ただ、有能ではあるが厳しくもあるので気をつけろ、という有難いアドバイスも受けていた。
「厳しいのかー、怖くなければ良いんだけれどね」
風見がため息をつくようにして言う。
そうこうしているうちに始業時間となり、年度始まりということで朝礼にて部長の挨拶があり、続けて人事異動の話となった。
部長の隣に、一人の女性が立つ。
黒髪ストレートに眼鏡、パリッとした身なりと、見た目からして「デキる女」オーラが出ているように感じられた。
「四月一日よりこちらに着任しました、加東景です。分からないことも沢山あると思いますが、皆さんの力となるよう努めますので、よろしくお願いいたします」
簡単な挨拶の後に頭を下げると、皆から拍手が起こる。
そんなこんなで仕事が始まる。
新リーダーが着任したとはいえ、一日予定していた仕事が変わるわけでもない。着任したばかりで、荷物の整理だとかPCの各種設定、業務の把握等、やらなければいけないことは沢山あるはずで、初日から祐麒達の仕事と絡むわけでもない。だから、挨拶だけしてすぐに自分の仕事に取り掛かった。やらねばならないことは、新年度になっても沢山あるのだから。
仕事に集中しているうちに瞬く間に時間は過ぎていき、業務時間を終了し残業へと突入していく。
「お先ーー」
「お疲れ様です」
二十一時過ぎに風見が帰宅し、協力会社のメンバーも既に帰宅していなくなっており、チームメンバーは祐麒一人となる。
更に仕事を続け、いつしか時間は二十三時に迫っていた。
「福沢君、まだ仕事終わらないの?」
「えっ? あぁ、はい、まあ」
不意に声をかけられて顔を上げると、景が自席から立ち上がって祐麒のことを見つめていた。
景はそのまま机を回って祐麒の傍までやってくると、祐麒の机の上にそっと缶コーヒーを置いた。
「お仕事お疲れさまと、これからよろしく、の印に」
「あ、ありがとうございます。いただきます」
お礼を言うと、軽く微笑む景。
第一印象はお堅い女性と思ったが、意外とそうでないのかもしれない。まあ、新しい部門に異動してきて、色々とコミュニケーションをとらなくてはいけないのだろうが。
「加東さんも、遅いですね」
「異動のタイミングで新しいPCにしたから、設定やらデータ移行やらで時間とられちゃって。それに、業務のことも新しく色々と覚えないと、今のところ福沢君にだって知識は及ばないわけだし」
「いえいえそんな、何言っているんですか」
「せめてもうちょっと事前に時間があればね、異動するのは予定通りだったんだけれど、急遽、こっちの部門に変更になったのよ。それで、あまり事前に勉強する時間もなくて」
沢村の体調不良による異動が急な話であったのだろう。それでも異動させることに踏み切ったのは、やはり景が優秀だからなのだと思う。何せ今携わっているのは会社の中でも重要なプロジェクトの一つで、失敗は許されないものだ。期間的にもさほど余裕はなく、誰もが忙しくて新しいリーダーに細かい手ほどきをする時間もないはずで、そんな状況下でも景という新たな人材を受け入れると部長が判断したのだ。充分に仕事をこなせるとみなしていなければ、受け入れなどするまい。
「あ、そうだ加東さん。加東さんの歓迎会を開くんですけれど、今週の金曜日は空いていますか?」
「今週の金曜? えーっと、その日はちょっと。他の日にしてくれるとありがたいんだけれど」
週末ということで、デートの約束でもあるのだろうかと、余計なことを頭の中で考えつつ重ねて問う。
「じゃあ、来週の火曜日はどうです?」
「うん、その日ならOK」
「良かった、それじゃあ来週の火曜でお願いします。詳細はまたメールで報知しますんで」
この手の飲み会の幹事も下っ端の務めである。調整や店決め、集金、当日の追い出し、挨拶の依頼等、意外と面倒くさいので飲み会が重なると結構時間をとられてしまう。
「私はそろそろ帰るけれど、福沢君はまだ終わらないの?」
「ええ、もう少し」
「そう。まだ週初めなんだし、あまり無理しない方がいいわよ」
「そこまで無理しないんで、大丈夫です」
こうやって気を遣って尋ねてくれるだけでも有難いというモノである。最近は色々とうるさくなってきたとはいえ、それでもまだ「残業して当たり前」という風潮が完全に払拭されているというわけではないのだ。
「ちなみに、今は何をしているの?」
「はい、俺はデータ移行用のツールの設計をしているんですけれど、設計とか初めてなんで苦戦していまして」
「ふうん……ちょっといい?」
興味を覚えたのか、景が近寄ってきたかと思うと、上半身を屈めて端末を覗き込んできた。右手でマウスを握り、左手で垂れてくる黒髪を抑える。
思いがけず接近してきた整った横顔、髪の毛をかきあげるという何気ない女性の仕種に、どきっとさせられる。
こんなにも女性と近づいたことなど、実姉である祐巳以外では経験したことがない、鼻孔をくすぐる香りは、景自身のものか、それとも香水か何かであろうか。
「なるほど、確かに、イマイチね」
「あ、はは、そうなんですよね」
はっきりと言われてしまったが、祐麒自身自覚しているので、文句などつけられようはずもない。
景は一旦腰をのばし、ほっそりとした指を形の良い顎にあてて何かを考える。
そして何を考えたか、いきなり隣の風見の席に腰をおろした。
「福沢君、ちょっとだけ時間、いい?」
「あ、はあ、別に構いませんが」
まさか異動初日のこんな遅い時間帯からお説教でもくらうのだろうか、と思っていると。
近くにあった廃棄予定の用紙を机の上に置き、ボールペンでおもむろに何かを書き出した。
「設計をするにあたり、まず何を設計書に落とす必要があるか」
「あ、はい」
どうやら困っている祐麒を見かねて、アドバイスをしてくれるようだった。申し訳ないと思いつつも、いつしか景の話に引き込まれていく。
とても重要な要素を、若造である祐麒に分かりやすいよう、シンプルにそれでいて必要なことが抜けることもなく教えてくれる。時には簡単なイメージ図を描き、時には言葉で補足して、考え方を説く。
時間にしてみればそれは十五分ほどのことであったが、祐麒にとっては目が覚めるとでも言うか、固く閉じられていた扉に隙間が出来て光が差し込んでくるように感じられた。
「……と、こんなところかしら。どう?」
「いや、その、すごい助かりました! ありがとうございます」
頭を下げると、景は苦笑した。
「分かってくれたならいいけれど、分かった気になっているだけかもよ? 実際に形にしてみないと、本当に何を理解できたか分からないしね」
「そうですね、ちょっと忘れないうちに形にします」
端末に向かう。
「明日にしたら? もう遅いし……って、ごめん、こんな遅い時間から私の方が時間とらせちゃったのよね」
「いえ、助かりましたから、全然大丈夫です」
何も教わることなく、明日以降、苦戦して時間をとられることを考えれば、この二、三十分ほどの時間頑張れば良いのならむしろ万々歳である。
「そう? ごめんね」
「いえいえ、大丈夫ですって」
祐麒は差し入れの缶コーヒーを手に取ってプルタブを開け、口をつけた。少し甘めのコーヒーは、疲れた身体に沁み渡っていくようだ。
「いやー、でも今日はついてましたよ」
「ん、何が?」
自分の机に戻り、帰り支度をし始めた景が顔を上げる。
「今、教えていただいたこともそうですし」
コーヒーを机に置き、伸びをしながら景を見る。
「それになんたって、誕生日に女性から物をいただけましたから」
周囲に誰もいない、ということもあり、冗談めかして誕生日が今日であることを口にしたて笑う。
「え、今日が誕生日なの?」
祐麒の言葉を耳にして、きょとんと眼を丸くする景。
「そうなんですよー、実は。だから加東さんからコーヒーもらえてラッキーだなって」
「あー、ごめんなさい。そうだと分かっていれば、もっとマシなものを」
「いえいえいえ、あの、別にせびろうとしているわけじゃないんで」
思いがけず本気にとらえられて、逆に祐麒の方が慌てる。
大体、この手の「今日が誕生日なんですけど」というのは、お決まりごとのようなもので、本気でプレゼントなんかを渡すことはない。せいぜい、今回の景のように飲み物でも奢ってくれれば御の字だから、そういった意味では本当に丁度良いのだ。
「しかも、ただでさえ遅いのに、余計に遅くしちゃって。早く帰らなくて、大丈夫?」
「帰ったところで誰か待っているわけでもないですし、大丈夫です」
「福沢君は、一人暮らし?」
「そうです、だから遅くなっても大丈夫です」
「そう? 申し訳ないわね」
朝に挨拶をして以来、会話をするのは初めてであったが、この調子なら同じチームとしてうまくやっていけそうな気がした。
「それじゃあ、私はこれでお先に失礼します」
引き出しに鍵をかけ、コートを羽織り、黒髪を手で梳いて背中に流し、姿勢良く景は出口に向かって歩いていく。
「お疲れ様でした」
背中に向けて、声をかける。
景は振り返ることなくフロアを出て行く。
既にフロア内に、祐麒以外に同じ部門の人はおらず、離れた場所に別の部門の人が数人残っているだけになった。
「さて、俺もこれだけやって帰るか」
端末に向かって仕事を再開する。
キーボードを打ちながら、ちらりと缶コーヒーに目を向ける。
綺麗な黒いストレートの髪の毛に、眼鏡の下の理知的で涼やかな目、ほっそりとした体つき。
男である悲しい性というか、やはり女性ということで意識して見てしまうのだが、眼鏡美人でポイントはかなり高かった。部門内の女性としても、トップクラスではなかろうか。
偶然ではあるが、そんな女性から誕生日に缶コーヒーを貰った。ただそれだけのささやかな事で、非常に良い年になるのではないか、なんて単純に思ってしまった。
福沢祐麒、二十四の誕生日のことであった。
☆
かろうじて倒れずに済んだ。
全身全霊を使ったために、もはや力など残されていないかと思ったが、僅かばかりに残された魂に火を灯し、地に膝をつくことには抗った。
相手は強大すぎた。そして、自分は未熟すぎた。
分かっていた結末だったかもしれない。それでもダメージは大きく、早期回復は見込めない。かといっていつまでも寝ているわけにはいかない、例えどんなに強大な相手だとしても、それを乗り越えられなければ未来はないのだから。
「……福沢君、だいじょぶ?」
「あは、あはははっ、だ、大丈夫です……」
隣の席で見かねたのか、風見が声をかけてきてくれた。
祐麒はたった今、景とのレビューを終えてきたのだが、容赦なく、完膚なきまでに打ちのめされて戻ってきたのである。
もちろん、祐麒の成果物の質が悪くて景は指摘をしているわけで、一方的に叩くだけでなくヒントやアドバイスも散らばらせ、非常に勉強にもなるのだが、全てを駄目出しされるようでは落ち込みもする。
「私も午前中に叩かれたけれど、加東さん、まだ業務なんか全部理解しきれていないのに、凄いよね。やっぱ基本的な考えが身についている人は、どこでも通用するんだね」
自分の席に戻り、涼しい顔をして端末に目を落としている景を見て、祐麒も力なく頷く。既に景とのレビューや打ち合わせを何度か行っているが、鋭く的確で、そして容赦のない指摘に全て撃沈している。
「福沢君ももう二年目なんだから、新人のときと同じ気持ちでいてもらっては困るからね」
と、釘もさされた。
自分自身の力量のなさは事実であり、景も別に祐麒を責めるわけではなく、あるべき事を指摘しているので文句を言うなど見当違いだというのは理解している。だけど人間、正しいことが全てではないし、理性ではなく感情的な部分もあるのだから、心が折れそうにもなる。
景が働き始めてからまだ数日だというのに、景のことは瞬く間に部内に広まった。祐麒以外のチームメンバーも例外なく景に手ひどく跳ね返されている。景自身が五年目と非常に若いため、年次が上の部下もいるわけだが、景は変わることない。勿論、相手が年上であれば年上に対する敬意は払うし、言葉には気を遣うが、それでも指摘すべき個所に関しては容赦しない。
チームリーダーということで、他のチームのリーダーとリーダー同士の打ち合わせもあるのだが、その場でも物怖じせずに発言をしているようだ。
同期の伝手で、景が前に所属していた部門の情報を集めてみたが、前の部門でも同様で、優秀であり尊敬されつつも恐れられていたとのこと。それで異名は『氷の女帝』とか。凛とした態度、誰を相手にしてもクールで怜悧さを失わないことから、陰でそう呼ぶ者が現れたとかどうだとか。
そんなわけで、景はわずかな時間で優秀であることを知らしめると同時に、畏怖をも周囲に与えた。
「う~、修正間に合うかなぁ」
「頑張れー、ちなみに今日は飲み会だぞ幹事クン」
「うあ、そうだった! 気合いで終わらせます!」
「福沢君、そういう気合い論ではなく、きちんと計画立てて、他のタスクとの兼ね合いを考えて、現実的な予定を立てるように」
風見との会話もしっかりと耳に届いていたようで、離れた席から景の注意が飛んできた。
「は、はいっ、すみませんっ」
頭を下げ、慌てて仕事に戻る。
隣の風見も、つられるようにして真顔で端末に向かっていた。
優秀なのは良いが、これは下で働く方も大変だと理解したのであった。
結局、仕事は全て終わらなかったが飲み会の幹事のため、週明けに回すことにして切り上げた。
飲み会は、会社の最寄駅周辺にある居酒屋で開催し、幹事として色々と忙しく立ち回っているうちに予定の二時間を過ぎ、二次会へと突入する。二次会は人数も減り、お腹も膨れているので、幹事とはいっても店さえ決めてしまえばさほど忙しくはならない。一次会では色々と立ち回っていたせいで食い足りない気がしたので、二次会では食べることにも注力する。
適度に周囲と話しながら食べて、飲んで、少し時間が過ぎた頃に後ろから肩を叩かれた。顔を向けると、風見がやって来ていた。
「福沢君、幹事で忙しくて、我らが新リーダーにまだ挨拶してないでしょ?」
そんなことを耳打ちしながら指差して見せる方向には、景の姿。主役であるから当然、二次会にも参加している。
ちょうど風見が座っていた場所なのか、景の隣が空いており、そこに行けという指示なのであろう。祐麒は自分のグラスを持って立ち上がり、景の隣へと移動した。
「どうも、お疲れ様です加東さん」
「あ、幹事お疲れ様、福沢君」
挨拶代わりにグラスを掲げて見せ、一口飲む。
「福沢君、何飲んでいるの?」
「梅酒です。加東さんは、焼酎ですか?」
「そう。福沢君も焼酎、飲む?」
と、当たり障りのないところから会話が始まる。
その後も、新しい部門には慣れたかとか、祐麒は会社の寮に住んでいるだとか、とりとめもないことを話していたのだが、十分ほど経過したところから様相が変わりだした。
「福沢君はね、まず仕事をする際のプランの立て方が身についていないのよね」
「報連相っていうけれど、ただやればいいってもんじゃないのよ、わかる?」
「二年目だっていってもね、コストは意識しないと駄目よ。あなたの一分間の作業に対し、どれだけのお金が支払われているか、知っている?」
なんというか、『説教酒』だった。あるいは、『仕事のこと語り酒』だ。
真面目な内容であり、祐麒にとっては上司であるため適当に聞き流すわけにもいかない。喋っているうちに熱くなってきたのか、ひたすら祐麒に対し説いてきて、その間にも焼酎をどんどん喉に流し込んでいく。
他の周囲の人間は、完全に見て見ぬふりを決め込んでいる。飲み会の場で、しかも既にかなり酒の入った二次会の場、いくら会社の人間しかいないとはいえ仕事の話を率先してしたいとは思わないのだろう。
助けを乞おうと風見の方に視線を向けてみると、無言で『頑張れ』のエールを送ってきた。これはおそらく、風見は景がこうなる前に逃げ出してきて、かわりに祐麒を押し付けたに違いない。
「ちょっと福沢君、聞いているの?」
「はい、聞いてますともっ」
眼鏡の下、どこか据わった目つきで睨みつけてくる。
景の説教で面倒なのが、ちょくちょく祐麒の考えや意見を訊いてくることだった。自分の考えを訥々と語るだけならば、我慢してひたすら聞いていれば、聞き流していればよいのだが、色々と尋ねてくるので適当に聞いているわけにもいかないのだ。
「そうなのよねー、だから大切なのは……」
焼酎を呷りながら止まることなく話し続ける景。美人なだけに、やたらと迫力がある。
女性と話すことができるのは嬉しいが、どうせだったら仕事のことばかりでなく、もっと楽しいことを話したい。
「分かっているの、福沢君。飲みが足りないんじゃないの?」
結局、二次会の間中で解放されることなく、景の歓迎会を終えたのであった。
翌日、あやうく遅刻しそうになった。
昨日の飲み会では最後まで付き合い、最終電車にギリギリ飛び乗ってようやくのことで帰宅した。一息ついて、シャワーを浴びてから寝たのが三時ごろで、二日酔いも手伝って完全に寝坊してしまったのだ。
始業時刻とほぼ同時に自席についた祐麒のことを、斜め前の席から景が見つめてきている。
「福沢君、始業時間というのは会社に到着する時間ではないのよ。業務を開始する時間、だから始業時間になったらすぐに仕事ができる状態になっているべき。分かっているかしら?」
「うっ……す、すみません」
到着したばかりの祐麒は、当然のことながら端末もまだ起動しておらず、昨日から受診しているメールの確認も出来ていない。仮に今、取引先から電話がかかってきたとして、すぐに対応できるかどうかもあやしい。
朝一番で会議などが入っていたら、準備も何もできていない状態で、とてもではないが仕事がすぐにできるようにはなっていなかった。
「謝ってほしいのではなくて、理解しているのか尋ねているのだけれど」
「は、はい、分かっています」
「では、分かっていて遅れそうになっている理由は、何かしら」
昨日の飲み会以外に理由などないのだが、それは理由にならなかった。なぜなら、祐麒以外の景も、あるいは風見も、既に自席で仕事を開始しているのだから。同じように飲み会に参加し、一緒に最後まで居たというのに、祐麒だけが遅れていた。
「――昨日の飲み会で寝不足になるのは分かるけれど、だからといって遅れていい理由にはならないのよ。まあ、今日は厳密には遅刻じゃないけれど。気を付けてね」
「は……はい」
がっくりとうなだれる祐麒。
景の言っていることは正論なだけに、落ち込む。
「ま、あんまり気にしないで。私も五分ほど前に来たばかりだし」
隣から風見が、励ますように小声で話しかけてきた。
「いや、自分が情けないっす」
寝不足と二日酔いでいまだにぐらぐらする頭を上げて景を見てみれば、昨日にあれだけ飲んで説教をしてきたのが嘘みたいに、背筋は真っ直ぐ、眠さもだるさも全く感じさせない凛々しい姿で端末に向かっている。
「加東さん、今朝、七時半くらいには出社してきていたんだって」
「えっ、マジすか? なんでそんな早く」
「昨日、飲み会で早く上がったじゃない? だから、早めに来て未読メールとか回覧書類に目を通すため……らしいよ。すごいよねー」
改めて景を見て、感心する。
仕事に対する姿勢が真面目であり、どこまで真剣。当たり前のことなのかもしれないが、だからといって実際に出来る人は少ない。朝はゆっくり寝ていたいし、夜は早くに帰りたいと思うのが人というもの。
景の場合、部門異動してきたばかりで色々と覚えなくてはならないことが沢山ある、という事情もあるのだろうが、単に頭が良いとかいうだけでないのは、充分に理解できた。見習うべきことは非常に多いが、だからといって一朝一夕にできるものでもなく、祐麒はとりあえず目の前の仕事に没頭することで倦怠感を追い払うことにした。
どうにかこうにか仕事を進め、午後になってから少し休憩を取ろうと席を立った。喫煙者は煙草を吸いに行くということで休憩を取りやすいが、煙草を吸わない祐麒は休憩といっても特に向かう場所がないので、デスクワークで固まった身体をほぐすべく会社内を適当に歩くことにしていた。
この日もいつもと変わらず、フロア内を出口に向かって歩いていると、パーティションで区切られている打ち合わせスペースの方から不意に声が欠けられた。
「あ、福沢君。ちょうどいい、ちょっとだけ時間、いい?」
景だった。
そこで打ち合わせをしていたのか、書類とノートをまとめているところだった。既に、他の社員の姿は見当たらない。
もしかしたら、また何か叱られるのだろうかと内心でびびったが、休憩しようとしていたところで何も用がないので、無視して通り過ぎるわけにもいかず招かれるままに打ち合わせスペースに入り景の正面の席に腰を下ろす。
眼鏡の下の目がいつにもまして怜悧さを発しているような気がして、自然と俯いてしまいそうになるのを必死に堪える。
「福沢君」
「は、はいっ」
身構えて次の言葉に備える祐麒であったが、景の口から発せられたのは予想外のことだった。
「……ごめんなさい」
謝罪の言葉とともに、頭を下げる景。
「え、あの、何がですか?」
思いがけない事態に、祐麒は一層戸惑うばかり。
謝られるようなことを景にされた覚えはまるでない。いや、あるとしたら飲み会で延々と説教をされたことくらいであろうか。
「朝、皆の前で注意してしまって……」
「でもそれ、私の方が悪いからで、別に加東さんが謝るようなことじゃ」
「人を褒めるときは皆の前で、叱るときは一対一でというのが基本なのよ。叱られる、注意されるというのは、やっぱり嬉しいことではないじゃない。それが大勢の前だというならなおさらで、人によっては怒られた内容よりも、皆の前で恥をかかされたと思って思い悩んだり落ち込んだりするから。それなのに私ったら……」
自嘲するように額を手でおさえる景。
祐麒からしたら、そうなんですか、くらいで済むような内容なのだが、景は気にしているようだ。
「とにかく、それを謝りたくて」
「そ、そうですか。あ、大丈夫です、そんな気にしていませんし、注意されて目が覚めたというのも確かなので」
「そう……あ、そうそう、それから、これ」
言いながら今度は、ポケットから錠剤の入った袋を取り出してテーブルの上に置いた。
「福沢君、二日酔いがまだ収まっていないでしょう。今更かもしれないけれど、良かったら飲んで。少しは良くなると思うから」
「あ、ありがとうございます」
どうやら二日酔いの薬のようだったので、実際にいまだ体調がいまいちな祐麒は、ありがたく薬をもらうことにした。
「仕事の能率が上がらないようなら、今日は早めに帰りなさい。残業すればよいってものでもないしね。明日頑張れば、終わる仕事量よね」
「ま、まあ、そうではありますけれど、何せ初めてやることだから終わるか不安で……」
「作業の前に私と摺合せしたでしょう。理解してくれていれば、問題ないはずだけれど、不安があるなら今日の内にもう一度、今時点でのもので摺合せましょうか」
「お願いできるなら有り難いです」
いつの間にか、面談の様相を呈してきた。
「福沢君は残業が多いのよね……慣れない仕事でというのは分かるけれど、きちんと適切な仕事量を割り当てられていないせいもあるのよね。来月くらいからはもう少しなんとかするから、申し訳ないけれどもう少し頑張ってちょうだい。でも、無理はしすぎないように。身体を壊したら何にもならないから」
仕事だけではなく、体の心配までされた。
上司というのは、色々なところに目を光らせ、気を付けなければならないものだと改めて気づかされる。
「――そんなところかしら、と、随分と時間をとらせちゃったわね、ごめんなさい休憩時間中に」
「いえいえ……って、休憩中だって言いましたっけ?」
「だって福沢君、毎日、この時間になるとフロアを出て、十五分くらい戻ってこないじゃない。多分、休憩しているんだと思って」
「あは、あはは……」
まるで自分の行動が全て見透かされているようで、恥ずかしくなる。ずっと一緒に働いているならともかく、異動してきてまだ一週間ちょいの景にこうもあっさりと悟られるとは、優秀すぎるというのもやはり困りものであった。
「ま、まあ、加東さんと有意義な時間を過ごせましたから、大丈夫です」
「それなら、良かったけれど」
軽く微笑み立ち上がる景。
パーティションを出て、景は自席の方へ、祐麒はトイレへと向かう。別れ際、ふんわりと漂ってきたのは柑橘系の香り。景の化粧か香水かわからないが、香しいものだった。
五年目というと、祐麒とは三年しか違わないはずだが、とてつもなく大きな三年のように感じられた。少なくとも、祐麒自身が三年後に景のようになれるとは、とてもではないが思えなかった。
年上の、有能で美人な上司。
好みのタイプかどうかと問われれば、間違いなく好みであるが、高みの存在すぎて尊敬とか憧れとか、そういった類の感情は自然と抱くが、恋愛感情などは持ちようがなかった。
「ああいう人と付き合う男ってのは、よっぽど優秀じゃないと、無理そうだよなぁ」
一体、どんな男と付き合っているのか想像してみると、ベンチャー企業を若くして経営している青年実業家とか、あるいは大手企業の部長を務めている有能なおっさんとか、そんなイメージだった。
優秀すぎる女性だと、付き合う男の方がよほど大変そうだと思うが、自分自身には関係ないことだと考える。
洗面所に行ったところで、景からもらった薬を飲み、席に戻って仕事を続ける。
薬を飲んで大分マシになったとはいえ、本調子からは程遠かったので、景のアドバイス通りに残業はほどほどにして、早めに切り上げることにした。
片づけをして席を立ち、挨拶をしてフロアを出る。
振り返ると、端末に向かって黙々と仕事をしている景の姿が目に入ったが、そのまま帰途に就いた。
新年度は始まったばかり。
しかしながら祐麒の恋物語は、まだ始まる様相も見せなかった。
第三話に続く