真紀と正式に付き合うことになった、信じられないようなことであったけれど、間違えようのない真実でもある。
ただ、祐麒は学生で真紀は社会人、生活のリズムが合わないのは当然のこと。学生である祐麒の身からしてみれば、自由になれる時間のメインは授業を終えてからの放課後だが、真紀はその時間はまだ働いている。
真紀からしてみたら仕事を終えてからの夜こそが比較的空く時間となるが、学生である祐麒は既にその時間であれば家にいるし、夜遊びに感嘆に出て行けるような家でもない。
となれば休日にということになるが、真紀は部活の指導や次の週の準備などで時間を取られることが多いし、祐麒も同様に部活があったりして日にちを会わせるのが意外と難しい。加えて、同じ学校に通う生徒と教師という関係もあり、気さくに身近な遊び場所に出かけるというのも躊躇われ、デートも困難である。
そんな祐麒にとって楽しみの一つは学校で出会えることであるのだが、付き合っていることを知られるわけにもいかないので、そうそう親しくするわけにもいかない。とはいえ、授業中や廊下ですれ違う時に二人しか分からないようなやり取りをする、といった秘密の関係を意識させるようなことがあればまだドキドキできたかもしれないのだが、真紀は素知らぬ態度で祐麒のことなど大勢の生徒の中の一人でしかない、そういったものを崩すことは無かった。
大人の態度なのであろうし、正しい姿なのだとも分かるので祐麒も我慢するしかないのだが、そうなると"付き合っている"という実感が全くわかないのも事実。
「――どうかしたの福沢くん、あまり練習に身が入っていないようだけれど」
競技かるた部の練習、15枚差という圧倒的な差をつけられて敗北した祐麒に対し、心配そうな目を向けてくるのは部長である筒井環。
「ごめん、ちょっと考え事してた」
練習中に考えるようなことではないと反省する。相手が真剣に打ち込んでいるなら尚更である。
「何を考えていたんですか、祐麒さま?」
と、ここで口を出してきたのは一年生で今年の新入部員である朝倉百だった。
「こらモモッチ、そんなこと聞くものじゃないわよ」
「でも、気になるじゃないですか……特に環さまのほうが気になるんじゃないですか?」
「ちょ……モモッチ!」
「ん?」
百に言われて頬を赤くする環だが、部長として部員のことを気にするのは当然だろう。何か考え事をして上の空になっているならば、悩み事があるのではないか、相談に乗れるようなことはないだろうかとも思うだろう。三年生の祐麒は実力的にも団体戦メンバーには欠かせないし、調子を落とされたら困るに決まっている。
「個人的なこと。申し訳ない、切り替えるから」
軽く頬を這って気合を入れる。
交際することが出来たからといって力を抜くわけにはいかないし、これで力が落ちて結果も出なかったら一体なんだったのかとも言われかねない。気持ちを入れ替えて祐麒は改めて練習に臨んだ。
「……うう、祐麒さま、容赦ないです」
「そう言われても、朝倉さんは手加減してほしい?」
「ぜっったいに嫌です!!」
その後の練習では持ち直し、一年生相手にも本気でかかって大差で勝ちを収め、環とも良い勝負をして自分自身でも納得の結果を出すことが出来た。
部活を終えて着替えて帰途に就く。陽は随分と長くなり、外を見ても暗くはない。そんな中を、環と百の二人と並んで歩く。
「どうすればあたしもお二人みたいに強くなれるんでしょうか?」
「モモッチは"感じ"が良いから、もう少し音を丁寧聞いた方がいいと思うわよ」
「ああ、それは俺も思った。多分、"感じ"に関しては朝倉さんが一番良いと思う」
「そうなんですか? そう言われましても、自分自身ではあまりピンとこないんですよね、なんか」
部活の事、今後の事、学園の事などをお喋りしながら歩くのは楽しい。真紀とのことはもどかしくあるが、学園生活としては充実しているといえるだろう。部活に力を入れ、部活の仲間とともに精進し、それでいて楽しみ、おおっぴらには出来ないけれど恋人までいるのだから。
「しかし、随分と暑くなってきましたよね」
ぱたぱたと手で顔をあおぐ仕草を見せる百の言う通り、じっとりと蒸すような暑さを感じるようになってきた。
「早いもので、高校生活最後の夏ね」
「受験も近いね」
「うああ、嫌なことは言わないで。せっかくの夏休みなんだから、もっと楽しいことを考えましょうよ。そうだわ、部の皆で合宿をするなんてどうかしら」
「いいですねー。でも環さま、本当は祐麒さまと二人きりで……」
「モモッチ!」
仲良くじゃれ合う二人の女子を笑って見ている祐麒であったが。
「…………?」
振り返る。
「――どうかしたの、福沢くん」
「いや……なんでもない」
何か視線を感じたような気がしたのだが、振り返ってみたところで校舎のどこに誰がいるかなんかわからないし、たまたま誰かが三人が歩く姿を見ていただけなのかもしれない。気を取り直して祐麒は帰宅した。
翌日。
この日は部活が休みの日だったということもあり、テニス部の方に足をのばしてみた。もちろん目当ては真紀であるが、あからさまに真紀ばかり見るわけにもいかないので練習風景に目を向けるが、考えてみればテニス部員は女子ばかりで、しかも可愛らしいテニスウェアを身に着けている。三年生の祐麒が今さら部活見学でもあるまいし、どう考えても女子を見に来た下心満載の男子生徒という風にしかならない。
練習をしている女の子達も、男子がいったいなんでこんな場所に、という感じでちらちらと祐麒に目を向けているのがわかる。
会いたい気持ちばかりが先走って失敗したと悟り、そそくさと踵を返そうとした祐麒の背に向けて声がかけられた。
「あっ、祐麒くんっ!」
元気な声でぱたぱたと駆け寄ってくるのは桂だった。
ショートスリーブのシャツにショートパンツ姿、色気よりも健康的な可愛らしさの方が全面的に押し出されて感じるのは、桂自身の持つ性質によるのだろう。
「……どぉしたの、こんなところに。何か用事でも?」
声のトーンを落とす桂。
「いや、それが……なんとなく」
「ええー、ちょっとまずいよ、皆へんな目で見ているよ?」
テニスコートのある場所は、用もないのにふらついてやってくるような場所ではない。他の場所への近道にもならないし、他の施設が奥にあるわけでもない、テニスコートに用事がある人しか訪れないような場所だ。
「あ……意中の人って実はテニス部員?」
「そうじゃないけど」
顧問ではあるけれど部員ではないから。
「そっか、もう仕方ないなぁ……コホン」
小さく咳払いすると、後ろから注目の視線が注がれていることを承知のうえで桂は口を開いた。
「――ありがとう祐麒くん、忘れていたの気が付いてくれて」
と言いながらさりげなく取り出したのはハンドタオルだった。ショートパンツのポケットに入れてあったのだろうが、さも祐麒から受け取ったかのようにしている。なるほど、これならば用事があってテニスコートに来たのだと思われるかもしれないが、それはそれで逆にまずい。
女性物のハンドタオルをわざわざ届けに来るなんて、ただのクラスメイトがするわけがないし男なら尚更だ。そんなことをするのは余程親しい間柄、男女であれば付き合っているような。
「それじゃあ練習に戻るから、またね」
手を振ってコートへと戻ってゆく桂だが。
「――桂さま、羨ましいです。恋人がわざわざ差し入れに来ていただけるなんて」
「桂さん、練習中なんだからあまりイチャイチャしないように」
「え、えー? なんのことかなー?」
適当に笑って誤魔化そうとしている桂。祐麒の意中の人がテニス部にいないと聞いたからの行動なのかもしれないが、最も見られたくない人は存在するのだ。
(…………でも、今は丁度いなかったのかな? 良かった)
見た限り、真紀の姿は見当たらなかった。
内心で胸を撫で下ろしつつ、そそくさと祐麒はテニスコートを後にしたのであった。
桂のテニスウェアには癒されたが、そもそもの問題は解決していない。本当に真紀に告白されて付き合い始めたのかも分からないほど変わらないというか、むしろ真紀との接触が少なくなっている気がする。
今日は真紀の授業があったけれど問題で指名されることもなく、目を合わせることもなく終わってしまい、がっくりと机に伏してしまった。
力が出てこず、昼飯はなんとなく教室から外に出てぶらぶらと歩き、人の少ない場所を探していると校舎裏までやってきてしまった。さすがに人の姿もほとんどなく、一人で手近な場所に腰かけて紙パックの紅茶を啜る。
「こらこらどうしたの祐麒くん、暗いぞー?」
「ん……桂さん? どうしたの、こんな場所に」
現れたのは桂だった。なぜこのような場所に桂がと訝しむと。
「それはこっちの台詞だよー、とぼとぼと一人で歩いている姿見かけたからさ、気になって後をついて来たらこんな場所で一人でランチ? って、飲み物だけ?」
「あー、なんか、つい」
「つい、じゃないよ、駄目だよそんなんじゃ力出ないよ。よし、あたしのを分けてあげよう」
「え、それは悪いよ……って、量、多っ!?」
桂が手にしていた惣菜パンの量を見て目を丸くする祐麒に、ほいほいと幾つかのパンを渡してくる桂。カレーパン、卵パン、クロワッサン、カレーパン、全般的にカレーパンの量が多い。
「部活でお腹空いちゃうからさ、遠慮しないで」
「それじゃあ、ありがたく頂きます……」
そんな桂とのランチの間はずっと桂が話し続けていて、余計なことを考える暇などなかった。
「――っと、そろそろあたし、戻らないと。次、教室移動だから」
昼休みが終わる15分ほど前に桂は立ち上がると、爽やかな笑顔を見せて校舎の方へと戻っていった。本当に色々と気を遣ってもらってばかりで申し訳ないと思うと同時に、有難いと思う。
ゴミをまとめてゴミ箱に放り込み、祐麒も午後の授業に向かうべく立ち上がって伸びをする。そうして歩き出して校舎裏から表に出るべく、校舎の角を曲がったところで。
「――うわっ!? え、鹿取先生?」
すぐそこに真紀がいて、ぶつかりそうになって慌てて立ち止まる。
すると。
「――――!?」
ギロリと鋭い目つきで睨まれたかと思うと、次の瞬間、わき腹に痛みがはしった。
「い、イタタタっ!?」
真紀の手がのびてきて、シャツの上からわき腹の肉を強くつままれていた。
「せっ、先生…………?」
「そろそろ戻らないと、午後の授業に遅れるわよ」
それだけを言い残して、真紀はスタスタと先に校舎の方へと戻っていってしまった。
果たして真紀の行動はなんだったのだろうか、午後の授業中もそればかりが気になって時間が過ぎ、気が付けば放課後となっていた。しかしさすがに今日は部活にも集中できず、申し訳ないが早めに上がらせてもらうことにした。
真紀の触れたわき腹をさすりながら階段の踊り場に向かおうとする祐麒だったが、次の瞬間、激しい痛みが足の甲を襲った。
「いっ――――痛っ!?」
丁度踊り場から出てきた誰かに、すれ違いざまにハイヒールのヒールで思い切り踏まれたのだ。
「……ごめんなさい」
ちらと祐麒に目を向け、軽く頭を下げただけで行きすぎようとする。さすがに祐麒もムッときて、近くに生徒がいないのを確認し、廊下の方に歩いていこうとする真紀の腕を掴んで階段の踊り場に引き戻す。
「ちょっ……痛いわ、離して」
「あ、すみません……って、そうじゃなくて。昼休みといい今といい、なんなんですか、一体」
「何って、別になんでもありませんけれど?」
顔を横に背けて言う真紀。
「いやいや、そもそも校舎裏の方に向かってきていたのに、俺のわき腹だけつねって戻るとか、今考えたら変ですし、俺が何か怒らせたなら謝りますから言ってくださいよ」
とにかく理由が分からないことが最もモヤモヤするが、どうやら真紀が機嫌を損ねていることだけは間違いないようなので、その根本原因を突き止めなければならない。久しぶりに直接話が出来たということも忘れ、とにかく真紀の機嫌を直すことに注力する。
「……どうせ、やっぱり、若い女の子の方が良いのでしょう?」
「――――はい?」
「やっぱり桂さんとお付き合いしているのではないかしら? 一緒にあんな人気のないところでお昼ご飯を食べて、昨日はわざわざ部活動に忘れ物を届けに来て……」
「…………」
「それに、桂さん以外にも。筒井さんや朝倉さんと仲良く一緒に帰っているみたいだし、そういう訳だから……」
言いながら、わずかに真紀の頬の色が変わってきているように思えた。恐らく、喋っている間に自分でも分かってしまったのだろうが。
「……もしかして鹿取先生、俺にやきもち、やいてくれてました?」
「――――」
更に、頬が少し赤みを帯びる。
「そ、そんなわけないでしょう。なんで私が、福沢くんに……っ」
と、いきなり俊敏に動いて祐麒から離れたかと思うと、スマホを耳にあてる真紀。
「――はい、そちらで構いませんので在庫の方は――ええ、はい」
何やら教材の業者からの電話か何かのようだと思えたが、そもそもタップも何もせず耳に当てただけのような気がするが。そう思っていると、下から階段を上がってくる女子生徒の姿が見えた。どうやら、先に気が付いた真紀が誤魔化しのために見せた芝居のようだった。
逆に不自然ではないかと思いつつ、祐麒は階段を下りるふりをして少し進んでから、女子生徒達がいなくなったのを確認して踊り場に戻る。
「……そんなに慌てなくても、むしろ授業の話とかしていた方が自然じゃないですか?」
「そんなことより、私がヤキモチをやいていたなんて取り消してもらいます。そもそも、私と付き合う気がないなら素直にそういえばいいでしょう」
「え、いや、どうしてそうなるんですか。俺は鹿取先生と……付き合えるなんて、天国にも昇る気持ちなくらい嬉しいのに」
「その割には、桂さんや筒井さん達とよく一緒にいますし、仲が良いようですけど」
「なっ……そ、そんなこと言われても、俺だって彼女たちじゃなくて鹿取先生と話したり、お昼ご飯を食べたり、その、色々としたいですけれど、鹿取先生は学校じゃ殆ど話してくれないどころか視線も殆ど合わせてくれないじゃないですか」
言われて、祐麒も少しカチンときたというか、分かってくれないことに苛立ち、思っていたことを口にしてしまった。子供っぽいと言われてしまうかもしれないけれど、それでも止めることが出来ない。
「だから本当はもっと先生に話しかけに行ったりしたいですけど、何かあったら迷惑がかかるのは先生だし、だから話すのも近づくのも我慢して、ええと、それで、だから……」
言うことが纏まっていなかったので言葉に詰まる。なんか情けなくて子供っぽくて、恥ずかしくて顔が熱くなってくる。こんなんでは、早々に愛想を尽かされてしまうのではないかと一人で不安になっていると。
「…………そういうことだったの」
と、ぼそりと呟くような声が聞こえた。
俯けていた顔を上げてみると、先ほどと比べると表情の和らいだ真紀がいて、祐麒のことを見ていた。
「まあ、確かに、誰かに知られたり、ばれたりしたら困るわよね。でも、だからって私が見ている前で他の女の子と仲良くするのはナシじゃあないかしら?」
「イタっ!?」
ツン、と指先で額を弾かれたけれど、悪い気がしないのは真紀の雰囲気が変わったからか。先ほどまでの硬質な感じはなくなり、言葉遣いもやたら丁寧なものからいつもの少しくだけた感じになっている。
「いや、あれは仲良くというか、日ごろの付き合いというか……」
「言い訳無用」
と、再び真紀の右手が凸ピンの形を作って目の前まで迫って来たので、思わず目を瞑ってしまう。
真紀の左手が祐麒の前髪を上げ、凸ピンの気配が迫り――
ちゅっ
痛みではなく、代わりに柔らかく、少しひんやりとした感触が額のやや右寄りに押し当てられた。
目を開けると、やや得意げな顔をして片目を瞑ってみせる真紀がいて、その唇に人差し指をそっと当てている。
「……これで我慢して。髪の毛で、見えないように気を付けて」
そう祐麒に言いつけると、素早く踵を返して廊下の方に出てゆく。直後、三人組の生徒が祐麒のいる階段の踊り場にやってきて、ちらと祐麒を横目で見てから階下へと足を運んでゆく。
慌てて額を手で隠すが、その頃はとっくに女子生徒達はいなくなっていた。
「う…………」
熱をもったように感じる額に、確実に熱の上がった顔。
先ほどまで持っていた不満や不安など、あっという間にどこかへ消え去ってしまっていた。
一方で真紀は。
(あんなに積極的だったくせに、いざ付き合い始めると全然話しかけても来ないし、誘っても来ないし、やっぱり若い女の子の方がいいんじゃないのって思っていたけれど、そんな風に気を回していたなんてね)
真紀は真紀で、あの告白の時以来まったくと言っていいほど積極的にやってこない祐麒の態度に、内心で苛々していたのは事実だった。
(……でも別に、焼きもちなんかじゃないけれど)
なんで自分が、一回り以上も年下の女子高校生達に嫉妬しなければいけないのか。
それにしても先ほどの祐麒の表情、ただおでこにちょっとキスをしただけだというのに、あんな真っ赤になってしまうなんて。
(…………可愛いなぁ、もう)
手に持っていた教科書とノートをギュっと腕に抱きしめ、真紀は全く用事などなかったフロアの廊下を歩いてゆくのであった。
おしまい