お昼時ということもあり、祐麒のクラスの喫茶店はかなりの賑わいを見せていた。シフトに入った祐麒はウェイターとして教室内をせわしく動き回り、遅れて戻って来た蔦子も、すぐさまウェイトレスとして働き始めてお客様たちの相手をする。
「うわっ、なんだこれ、いきなりこの忙しさって、シフトの交代時間間違ってないか!?」
「いいから、口よりも体を動かしてっ」
注文を取り、後片付けをして、新たな客を案内して、精算をしてと、色々な役をこなさなければならないので、目が回るようなとはこのことかと、一人心の中で納得する。
そんな賑わいを見せる教室に足を向ける二人の女性がいた。他にお客でいっぱいのため列になって順番を待ちながら、一人の女性が教室内に目をむけて表情を綻ばせている。
「はぁ……祐麒くん、ウェイター姿が格好いい……」
「ちょっと蓉子、声ひそめなさいよ。あなた、まがりなりにも教師なんだから、男子生徒を見て涎垂らしたりしないでよ」
「なっ……た、涎垂らしてなんかないわよっ」
赤面しながら慌てて手の甲で口もとを拭ったのは蓉子で、その蓉子を呆れたように見ているのは江利子だった。
教師たちは学園祭において見回りなどを行っているが、学園祭を楽しむことが出来ないわけではない。自分に与えられた仕事をこなしていれば、適度な範囲で学園祭の出し物を見て回り、参加することも許される。蓉子と江利子も、そんな中で祐麒のクラスへとやってきたというわけである。
「わざわざ、意中の男子生徒のいる教室に来るんだものね」
「そ、そうじゃないわよ。私はただ、教え子たちの成果を見るために来たんだから」
「はいはい、そういうことにしといてあげる。あ、入れるみたいよ」
「だから本当にっ」
席が空いたのであろう、呼ばれて立ち上がった江利子に続いて蓉子も座っていた椅子から腰を上げる。
教室内に目をむけると、ウェイターとして働いている祐麒と目があい、気が付いた祐麒が蓉子たちの方に向かってくる。笑顔で手を振りたいのをぐっとこらえ、大人の女性らしく毅然とした態度で足を踏み出す。
「いらっしゃいませ、お待たせしま――」
言いながら寄ってきた祐麒だったが、他の客を避けたタイミングでバランスを崩した。床にこぼれていた水で足を滑らせたのだ。
「ぶわっ!!」
「――あら」
そうして思わず倒れかけた先に立っていたのは江利子だった。
激しい衝撃はやってきていない、むしろ柔らかなクッションによって受け止められたような感じであり、もしやと思っておそるおそる祐麒が顔を上げると。
「大丈夫、福沢くん? 危ないわね」
退廃的、いや艶美な笑みを浮かべた江利子が見下ろしてきていた。
そう、説明するまでもないかもしれないが、祐麒は江利子の豊満な胸に顔を埋める格好となっていたのだ。
「う、うわぁっ、す、すみませんっ!!」
慌てて身を離すが。
「あ、いやん」
埋もれた顔を引き離そうとして、江利子の胸を思い切り掴んでしまっていた。
「ちち、違うんです今のは、あの、俺っ」
「――ふふ、いいのよ、分かっているわ。事故だものね。それより怪我はないかしら?」
「あ、はい、お蔭様で……いえっ、そ、そういう意味ではなくっ」
「それなら良かったわ、私の胸が役に立ったのなら」
なぜか楚々と微笑んで見せる江利子に、祐麒は真っ赤になってわたわたと手を離すも、どう対応してよいか分からず困惑している。
「蓉子じゃあ、そうはいかなかったでしょうしね」
「そ、そんなことないわよ。私だって、寄せてあげれば……」
「どんな風に?」
「だから、こう……って、やらせないでよっ!」
赤面しつつ江利子の肩を叩く蓉子。
「それで、そろそろ席に案内してくれないのかしら?」
「あ、す、すみません。ええと、こちら……」
「二名様、こちらへどうぞ!」
見かねたのか、いきなり蔦子が横から現れて二人を席に案内してテキパキと注文を受けると、戻りしな祐麒の袖をつかんでグイグイと引っ張っていく。
「もう、何やっているのよっ」
眼鏡のレンズの下から鋭く睨みつけられて思わずたじろぐ。
「悪い、蔦子に手間取らせちゃって」
「そうじゃなくて、江利子先生にデレデレしちゃって、みっともないわよ」
「で、デレデレなんかしてないだろっ」
反論すると同時に、違和感も覚える。
こういったアクシデントの時に由乃が目を吊り上げて怒ってくるのはいつものことだが、蔦子はたいてい面白そうに眺めてから由乃をなだめる役目だった。それが、なぜか由乃の代わりのように怒ってきている。まさか本当に由乃の代理で怒っているなんてことはないだろうが。
「そりゃ、江利子先生には敵わないかもしれないけれど、胸だったら私だって……」
「えっ?」
「ななっ、なんでもないわよっ。ほら、ぐずぐずしないの。人手が足りないから片付けの方に、そうね、ちょうどいいからゴミ捨てに行ってきて」
追い立てられるようにして裏手へと回される。
しかし見た限り、人の入りの方が多くて店内の人出の方が足りないように思えるのだが。
「そこは、私達がどうにかするから。それより、そっちはほら、力が必要だから」
「分かったよ、それじゃあこっちの方は頼むぞ」
なぜか明らかに不機嫌丸出しな蔦子の傍にいるのは危険に感じたので、ここは素直に応じることにした。
そうして室内を後にする祐麒の背中を目で追いかけ、蓉子はがっくりと肩を落とす。
「そんなぁ、せっかく祐麒くんのとこに入ったのにぃ」
「え、何、祐麒くんのがズッポリと入ったの? や~らしい」
「まだ入ってないわよ!」
手の平でテーブルを叩き、頬を紅潮させる蓉子。
「――申し訳ありませんお客様、他のお客様の迷惑になりますので、あまりそのようなことは」
と、やってきた店員姿の蔦子に注意され、他の客の視線が集まってきているのを理解した蓉子は赤面しながら小さく「すみません」と謝るしかないのであった。
「――これでよしっと」
所定の場所にゴミを捨てた祐麒は、両手を上にあげて伸びをした。しかし飲食を扱うから衛星に注意するのはわかるが、そこまで急いで捨てるほどの量でもなかった気がする。蔦子のこだわりだったのだろうか。
「さてと、せっかくだから少しくらいどっか覗いてから戻ってもバチは当たらないだろう」
肩をぐるぐると回しながら、どこを見ようかと視線を周囲に向けると、真っ先に目に入ってきたのはグラウンドである。運動部が何やら出し物をしているようで、野球部であればテレビ番組でおなじみ、9分割された的を投げて射抜くもの、サッカー部であればリフティング競争やPKトーナメントなどが開催されているようだった。
楽しそうではあるが、参加していたらさすがに蔦子に怒られるだろうから横目で眺める程度に留め、校舎に向かって歩き出す。
「――あ、祐麒くんっ! いいところにめっけ!」
「うわぁっ!?」
そこでいきなり背後からタックルをかまされた。すんでのところで体勢を立て直して転倒を避け、失礼な輩は誰かと振り返ってみる。
「なんだ、三奈子さんじゃないですか。なんですか突然」
立っていたのはいつも通りのポニーテールを揺らしている三奈子、いつもと異なっているのはジャージ姿だということ。
「何よー、つれないわね。学校の先輩にしてバイトの先輩でもある私に向かって」
「いくら先輩でも、不意を突いて背後からタックルは危険ですって。で、なんなんですか?」
「そうそう丁度良かった、こっちきて」
三奈子は、有無を言わさずに祐麒の腕を掴んでグイグイと引っ張っていく。
「ちょっと、俺クラスの方に戻らないといけないんですけど」
「暇そうにブラブラ歩いていたじゃない。それに、すぐに終わるから」
と、強引に連れていかれた先の看板には『二人三脚障害物タイム走』と書かれていた。文字通り、二人三脚で障害物走を行ってタイムを競い合い、タイムによって景品なども出るらしい。
面白いのは、たとえばタイムで下二桁がそろえば『ぞろ目賞』、走る前に宣言したタイム通りにゴールしたら『ぴったり賞』、誤差が3秒以内なら『ニアピン賞』など、速く走れなくても楽しめるという点。もちろん、速いタイムを叩きだしたペアにも良い賞が贈られることになっている。
「一緒に出場する人を探していたんだ。ほら、気合入れていくよー」
もはや反論などできるはずもなく勝手にエントリーされてしまう。
「これに出るため、ジャージに着替えたんですか?」
「ん、違う違う。実は水場で転んでスカート濡らしちゃって、それで着替えたの」
「なるほど、ドジですね」
「ホントだよー、パンツまで染みてきてさ、実は今もまだちょっと冷たいんだよね」
言いながらジャージのズボンのウエスト部分を引っ張り、お尻に目をむける三奈子。
「ちょ、ちょっと、何してんですか先輩っ」
隣に立っている祐麒からだとパンツが見えそうになり、というかちらりと見えて慌てて手でおさえつける。結果、三奈子のお尻を思い切り触る形になってしまった。
「こらっ、祐麒くんのエッチ!」
ぺちんと手を叩かれてしまった。そもそも三奈子が余計なことをしたからだというのにと、納得いかない思いを抱いたままスタートラインに向かうと、何やら周囲からの視線がやけに痛い。
「ほら祐麒くん、トップを狙うんだから、そんな離れていちゃダメでしょ」
互いの脚を結び合った後、三奈子の方から腕を背中に回されると、祐麒の方も三奈子の腰に手を回す。当然、互いの体は密着するようになるが、二人三脚で良い結果を出そうと思ったらその方が好ましいだろう。
しかしどうやら、そうして密着することで余計に周囲の気持ちを煽ってしまったようだった。こんな競技に男女で参加する姿はあまり見られず、参加したらカップルがいちゃついているようにしか見えないからかもしれない。
やや肩身の狭い思いを抱きながらスタートする。
待ち受ける障害は、ハードル、風船割り、トンネルくぐり、平均台といった感じで、大人なら有利だというものではない。
走り出すと、練習をしたわけでもないのに意外と息はぴったりで、まずハードルを難なく跨ぎ越え、続いて風船も三奈子のお尻で割り、トンネルへと至る。小さい子供ならともかく、祐麒達くらいになると四つん這いにならないと通ることはできない。さっそく二人して地面に両手と膝をついてトンネルの中に入り込む。
「よっし、ここもサクサクいくよ」
「ちょっと待ってくださいよ、三奈子さんっ」
祐麒より小柄な三奈子の方が、狭い空間では僅かに動きやすかったようで、三奈子の方が少し先に出たが、足が結ばれているので勝手に進むことはできない。
「わ、こら祐麒くん引っ張らないでよっ」
「引っ張ってるのは三奈子さんですって、だから、うわっ」
慌てて追いつこうとするも狭いトンネル内で四つん這いではうまくいかず、地面の砂で手を滑らせて顔面から激突してしまった。と思ったのだが、顔面にぶつかってきたのは砂利ではなくてふんわりとした柔らかな感触。どうやら三奈子のお腹あたりに倒れ込んでしまったようで、慌てて起き上がろうとして勢いよく頭をトンネルにぶつけてしまった。
「祐麒くん、だいじょうぶ……ひゃっ?」
「ぶふっ」
そして今度こそ本当に、三奈子の胸に顔から落ちて行ってしまった。二つの柔らかな塊はふんわりと祐麒の顔を包み込むように受け止めてくれる。ジャージ姿の三奈子だが、前のファスナーは開けていたためTシャツの上からなので、肌の熱さやもっちり感がかなり直接的に伝わってくる。
「ご、ごめ、三奈子さ」
「あ、やっ、変なところで喋らないで、くすぐったいよ~」
「もがっ、うむむっ……!」
三奈子がぎゅっと頭を抱きかかえてきて、顔が胸に挟まれる。江利子も大きかったが、三奈子もまたかなり立派な大きさである。
「こ、こうゆうことは、こんな場所じゃなくて祐麒くんのお部屋とかで、ね?」
「何言ってんですか、ち、違いますよ、転んだだけでっ」
「じゃあ、早く離れてよぉ。タイムがっ」
「分かっているんですけど、あれ、なんかジャージのファスナーが引っかかって……くっ」
トンネル内で悪戦苦闘する祐麒と三奈子。
二人がなかなかトンネルから出てこないので、係の生徒が不安になって様子を見に近寄ってくる。
「すみません、大丈夫ですか……」
トンネルの中に声をかけると。
「やんっ……入っちゃったの……?」
「動かないで、俺がすぐに……くっ」
「あ、あんまり激しくすると裂けちゃいそうだよ……もっと優しくゆっくりと抜いて……そう、うん、もうちょっと」
「ご、ごめん、うまくできなくて……もう少しだから我慢して……はっ、はぁっ」
「私は大丈夫……あう、パンツが濡れてるのが気になる……」
中から漏れ聞こえてくる声を耳にして、係の生徒は。
「な……なっ、中でナニやってんすかーーーーーーーっ!!?」
と、真っ赤になって絶叫したのであった。
そんな感じで誤解を受けながらようやくトンネルを抜け、平均台でも落ちそうになったところで抱き着かれた三奈子の胸が押し付けられるということがあった後、どうにかこうにかゴールした。タイムは当然遅かったし、何か特別な賞を貰えるような結果でもなく、参加賞の飴玉を貰うにとどまった。
「ちぇーっ、もう、祐麒くんが発情しちゃったせいだよ」
「してませんから……大体、なんでわざわざ俺と組んだんですか。もっとクラスの友達とかいるでしょうに」
「でも、やっぱり一番相性がいい人がいいじゃない。そう思ったら、バイトも一緒で阿吽の呼吸でイケる祐麒くんがいいじゃん」
「そうすか……」
確かにバイトでは息があっているかもしれないが、それは三奈子の行動パターンというかドジパターンを祐麒が覚え、先回りしてフォローしているということなのだ。
しかし、疲れただけで手に入れたのは飴玉一つとはと思うが、こういうイベントは参加して楽しむことに意義があると思えばよい。隣の三奈子も、口では文句を言いつつも楽しそうに笑顔を浮かべている。
祐麒は丁度喉も乾いたので飴玉の包みを開き、ピーチ味の飴玉を口元に運ぶ。
「あ、ちょっと祐麒くん」
「ん?」
呼ばれて顔を向けると、三奈子が顔を寄せてくる。
「私、ピーチ味の方がいいな……ぱくっ」
と、唇にほぼ入れかけていた飴を、三奈子の薄紅色の唇がとらえる。ほぼ唇同士が触れ合いそうな距離、三奈子の吐息は確実に祐麒にかかっている。
「……へへっ、美味しい」
「ちょ、な、な、何するんですかっ……んぐ」
「そんなに慌てなくても、私の飴を上げるから、こっちはマスカットだね」
三奈子の指につままれた飴玉を口の中に押し込まれる。甘く爽やかなマスカットの味が口の中に広がってゆく。
「こっ……こうゆうことも、簡単にしちゃだめですよ」
「え、どうして?」
「だって、あやうく触れそうになったじゃないですかっ」
そう言うと、三奈子は口の中で飴玉をコロコロと転がして。
「私だって、誰にでもするわけじゃないよ? したいって思う相手にしかしないよ」
「え、それって」
「それに――」
ポニーテールを揺らし、にっこり満面の笑顔で。
「祐麒くん、私のおっぱいで良い思いしたんだから、私だって良い思いしたっていいじゃない?」
「そ――それって」
「あ、そろそろ戻らないと真美に怒られちゃうっ! じゃあね祐麒くん、またねっ」
手を大きく振り、尻尾を振り、胸を揺らして三奈子は去って行った。
その後ろ姿を眺めながら。
「…………どういう意味ですか、まったく」
一人で真っ赤になり、明後日の方向を見ながら呟く。
マスカットの味を、噛みしめながら。
おしまい