春休みのある日の朝、祐麒は心地よい揺れに身を任せていた。ゆらり、ゆらりと、適度な揺れは眠気を増進させる。
一体、何だろうかという思いは頭の隅にあったが、考える以上に気持ちよさに包まれてしまい、思考は長くは続かない。
「もう祐麒、起きてってば」
「……なんだよ、休みの日だってのに朝っぱらから」
「朝っぱらって、もう十時だよ。夜遅くまでゲームなんかしているから」
起こそうとする祐巳を無視して、布団にくるまろうとする。祐巳の言うとおり、昨夜は小林から借りたゲームにはまり、終わりどころを見失い、深夜にまでいたってしまった。そんなわけで祐麒は非常に眠いのである。
しかし祐巳はそんな祐麒の事情などおかまいなく、なんとか起こそうと、祐麒の二の腕を掴んで再び体を揺すってくる。
いい加減にしろ、と文句を言おうと眠気で落ちそうになる瞼を無理矢理に開ける。
瞬間、祐麒の意識は一気に覚醒した。
ぼやけていた視界がクリアになる。瞳にとびこんできたのは、ベッドに手をつき、上半身を前屈みにした祐巳の姿。胸元の緩いシャツを着ていて、開いた部分から中が覗いて見えた。姿勢のためか、ささやかだと思っていた胸が重力により緩やかな谷間を作っているのが、わずかに見える。滑らかな肌と、描かれる曲線を目にして、祐麒は動揺したのだ。
「ばっ、馬鹿、起きるからどけよ、重いだろっ」
「うわ、失礼ね、そんなに体重かけてないもん」
不満そうに頬を膨らませながらも、祐巳は素直に祐麒の上から退いた。祐麒はゆっくりとベッドの上に体を起こし、まだ眠いんだとアピールするように顔をこすって自らの狼狽を取り繕う。
いくら実の姉とはいえ、寝起きで頭が働いていないときにあんなのを見せられたら驚くだろと、自分の中で言い訳をする。
「……で、なんだよ、朝から」
頭をかきながら、目の前に立つ祐巳に問いかける。
「なんだよ、じゃないでしょ。今日は買い物に付き合ってくれるって言ったじゃない」
「いつ?」
「昨日の夜。生返事だったけれど、確かに『うん、いいよ』って頷いたよ」
言われてみれば、確かに何か言われた記憶はあった。おそらく、ゲームに熱中していて、祐巳の言葉などきちんと頭の中に入っていなかったのだろう。ゲームの方に集中したかったから、とりあえず適当に頷いて祐巳を追い返したのだ。
「うーっ、マジかよ、そーいやそんな気も」
「思い出した? じゃあ早く着替えて朝ごはん食べて、準備してよ」
「分かった、分かった」
祐麒はのっそりと立ち上がった。
そして、先ほど目に入った光景を振り払うかのように、頭を振るのであった。
早く支度しろとせっついてくる祐巳の声を聞きながら、祐麒は顔を洗い、リビングに足を運ぶと、祐巳がキッチンに立って料理をしていた。
「あれ、なんで祐巳がご飯作ってるんだ」
寝ぐせで跳ねている髪の毛を指でつまみながら、素朴な疑問を口にすると、フライパンを手にしたまま祐巳が振り返った。
「何言っているの、今日から私と祐麒で当番制じゃない」
「なんで?」
「は? 忘れたの、今日からお父さん達、いないじゃない」
「なん……だと……」
そこで祐麒はようやく思い出した。父親が建築関係のセミナーで地方に出かけることになり、そのついでに久しぶりに夫婦で旅行することとなって、一週間ばかり不在になるのだ。こんな大事なことを忘れていたなんて、どうかしていたとしか思えない。確かその話を聞いたとき、「これから一週間、祐巳と二人きりで生活するのか!? なんかヤバい、どうしよう」とか考え、落ち着こうと思って小林に借りたゲームを手に取った。
昨夜、遅くまでゲームをしていた理由を自覚し、祐麒は軽く頭を叩いた。
「しっかりしてよね、もう。ほら、さっさとご飯、食べちゃって」
祐巳が用意してくれたのは、焼いたトーストにハムエッグというものだった。何の変哲もない朝飯だが、祐巳の手作りというだけでなんとなく有り難い気がしてくるから不思議。
「ちょっと、眺めていないで早く食べちゃってよ」
「はいはい、分かりました」
祐巳にせっつかれるようにして朝食をすませ、身支度を整えた。だから、家を出て街に到着した頃には、既にお昼を過ぎていた。
「もう、祐麒が時間かけるから、遅くなっちゃったじゃない」
「別にいいだろ、それともそんなに急がないとなくなるようなものなのか?」
「そういうわけじゃないけれど、今日は買う気満々でいたから、早く買いたいなって」
文句を言いながらも、隣を歩く祐巳は嬉しそうだった。
今日は、バッグが買い物のメインということだった。バッグだったら祐巳も幾つか保有しているように記憶していたが、四月から最上級生になるわけだし、気分も一新して新しいバッグが欲しいとのこと。良く分からない理由だが、女の子はバッグが好きなんだなということだけは分かった。ちなみに、バッグ以外にもシャンプーやら、蜂蜜やらといった重いもの、かさばるものを購入する予定のため、女友達ではなく祐麒をお供にしたらしい。
「でも、この時間じゃあなあ、お腹すいちゃったし。先にどこかでお昼食べようか?」
「俺、さっき食べたから、あんま腹減ってないし」
「私がお腹すいたの」
「分かったよ」
ということで、買い物に先んじて腹ごしらえをするためにデパートのレストランフロアへと足を向けたのだが。
「……さすがに、凄い人だな」
お昼どきということもあり、どの店からも人が溢れんばかりで、人気のある店には長蛇の列が出来ている。
何が食べたいのか訊ねてみたが、祐巳は、パスタがいいけれど、でもオムライスもいいかな、ラーメンというのも捨てがたいし、意表をついてインド料理の本格カレーもいい、でもどこも混んでいる、などと様々な店に目移りして、なかなか決まる様子がない。
どこでもいいから早いところ決めてくれないかと、祐麒はただ無言で立ち尽くしていたのだが。
不意に、服の肘のあたりが何かに引っ張られた。
視線を移せば、祐巳が親指と人差し指で祐麒の服をつまんで祐麒のことを見上げていた。
「ねえ祐麒、どこにしよう?」
「いや、祐巳が食べたいんだろ。自分で決めろよ」
「うーん、でも目移りしちゃって。それだったらむしろ、祐麒の決めたところにしちゃおうかと」
なんだれそれは、と思いはしたが、余計なことを考えて時間を浪費しても勿体無いので、祐麒は適当に選ぶことにした。
「――そうだな、じゃ、他より空いているみたいだから此処にしよう」
適当に選びすぎたかもしれない。
他より空いているというのも当たり前で、レストランフロア内で他の店より確実にワンランクは上の、高級中華料理店だったのだから。
まず店内に案内されたところで間違いを悟ったが、今さら引き返すのもバツが悪く、そのまま窓際の眺めの良い場所に着席する。
席に着いてメニューを見て、また驚く。何しろ、どれもこれも値段のはる料理ばかりだったのだから。
二人して声をひそめ、どうするか、恥しくても今から店を変えるかと相談したくらいだったが、一応ランチメニューが手ごろな値段であったので、どうにか傷を広げずにすんだというわけである。
「もー、本当に逃げようかと思ったわよ」
「悪かったって。でも、結果オーライだろ?」
ランチは手ごろな値段の割にはボリュームもそれなりにあって、何より味が良かった。舌が肥えているとはお世辞にもいえない二人であったが、それでも何かが違うと思えるような食事であった。
「眺めも良かったしね。なんか、薄いカーテンみたいので仕切られて個室みたいだったし」
「あ、ああ」
祐巳は無邪気に喜んでいたが、そのことに関しては、祐麒は口を濁した。
明らかにあの席は、恋人同士とか、そういった客が座るのにふさわしかったから。他に空いている席もあったから、店員がきっと気を利かせて案内しただろうというのは、祐麒の考えすぎだろうか。
まあ何にしても腹を満たし、当初の目的であるショッピングを始めたわけだが。
どうしてこう、女性の買い物は時間がかかるのだろうか。
もちろん、そうはいっても祐麒が知っているサンプルは祐巳と母親くらいだったけれど、それでも思ってしまうのだ。
祐麒なんかは、買い物に行く場合、まず買いたいもの、あるいは見たいものを先に決めてから出かけ、決めたもの以外を見に行くということはあまり無い。見る予定のなかったものを見たいと思わないし、時間も勿体無い。早く家に戻って、買ったものを手にしたいという思いもある。
だから、こうして色々な店をふらふらと見てまわる祐巳の考えが、どうしても理解できないのだ。
バッグを見に来たはずなのだが、雑貨小物屋、文房具店、洋服と、様々なショップに足を運んでは楽しそうに商品を眺めている。祐巳が楽しいのは良いが、待たされる身にもなって欲しい。雑貨などはまだ祐麒も一緒に商品を眺めて楽しめるが、女性用の洋服の店では身の置き場に困るし、時間も持て余してしまう。
「やっと終わったか」
「もう、せかさないでよね、女の子の買い物は色々とあるんだから」
ようやく買い物を終えた祐巳に、疲れた顔を見せながら少しばかり嫌みを言ったら、逆に口を尖らされた。
「彼女ができたら、きっとこんなもんじゃすまないよ。あ、そうだ、今日は私が彼女になってあげるから、そのつもりでデートしようか」
「はぁ!? な、何を言っているんだよ」
「いいじゃん、いいじゃん。普通に買い物するより、彼女とデートと思った方が祐麒だって気分が違うでしょう?」
「ば、ばか、姉弟じゃんか」
言いながらも、心臓の動きが速くなるのを抑えられなかった。彼女? 祐巳が? デート? 単語が頭の中を左右に踊る。
「そう言わずにさ、いいじゃない、ねえ」
「ま、まあ、祐巳がどうしてもっていうなら、考えないでもないけど」
「じゃあ、どーしてもっ」
「し、仕方ないな。それなら、まあ付き合ってやるか」
「やった、それじゃあ、アイスご馳走して」
「…………」
祐巳が指さしているのは、有名なアイスショップ。
無言で、祐巳の顔を見る。
「ここはやっぱり、『彼氏』がご馳走してくれるべきでしょう?」
にっこりと笑顔で言われて、祐麒は逆らうことが出来なかった。
二段重ねのアイスクリームを奢らされ、単にこのために『彼女』なんてのを持ちだしたのではないかと、疑いの目で見てしまう。
「次はどこへ行こうか?」
アイスを舐めながら、祐巳が尋ねてくる。
「そろそろ帰るか」
「えーっ、なんで。まだバッグ見ていないのに」
「だったら、さっさと見に行こう。大体、それが本命の買い物だろう」
「買ったらかさばっちゃうから、後回しにしているんだって」
「とにかく、行こう」
「あ、わ、待ってよ、まだアイスが」
歩き出す祐麒の後を、慌てて追いかけてくる祐巳。別に意地悪をしたいわけでも、本当に帰りたいわけでもない、ただ単に照れくさくて恥しいのだ。
なんだかんだいいつつも祐巳につきあい、色々な店を見て回った。結局、気に入った品がなかったのか祐巳はバッグを購入しなかったが、それでも楽しんでいたようだった。
帰りがけにはレンタルショップに寄ってDVDを借り、スーパーで夕飯の材料を購入した。
『デート』だなんていうのは名前だけで、終わってみれば単なる姉弟での買い物で終わった。当たり前だ、本当の姉弟なんだから、恋人同士みたいなデートになるわけがないのだ。
スーパーのビニール袋を手に提げ、夕暮れの街を歩きながらぼんやりとそんなことを考えていると。
荷物を持っていない方の腕が、不意に重くなった。
なんだ、と思って視線を転じると。
「な、なんだよいきなりっ」
祐巳の手が、祐麒の腕を掴んでいた。
「いやー、まあほら、一応、今日は彼女だなんて言っておきながら何もしなかったから、ね。人が沢山いるときは恥しいけれど、今なら、ね」
家に近づき、住宅街となって人の姿は随分と減っている。だから、少しばかり大胆なこともできるというのか。
神経が、祐巳と触れあっている部分に集中する。ささやかな膨らみが肘にあたる感触に、下半身が反応しそうになるのを、必死にこらえる。これは姉だ、姉に変な劣情を抱くなと命じるが、そう簡単にはいかない。
「どうしたの祐麒、硬くなっちゃって」
「ばっ! ま、まだなってないよ!」
「まだ?」
「いや、ちがっ、そうじゃなくて」
「照れているの? 祐麒ってばけっこう、可愛いところあるじゃない」
悪戯な笑みを浮かべて体をぐいぐい押しつけてくるが、そうすると必然的に女の子の体の柔らかさを感じさせられて、余計に意識してしまう。
玉ねぎやじゃがいもの入ったスーパーの袋の方が、ずっしりと重い。
だけど、それ以上に祐巳の手がからんだ腕の方が、重く感じた。
夕食はカレーである。作りやすく、市販のルーを使えば失敗する可能性も少なく、それでいて美味しいという、非常に優れたメニューである。
「よーし、それじゃあ作るよー」
言いながら祐巳が腕をあげ、髪の毛を後ろで束ねてポニーテールにする。続いて、エプロンを首にかけ、腰の後ろで紐を結ぶ。
そんな一連の仕種を見つめて、祐麒は息を吐き出した。
「…………いい」
思わず、そんなことを呟いてしまう。
「ん? 何が」
「いや、なんでもないから、包丁を持ったままいきなり振り向くな」
まさか料理の準備をしていた姿に見とれていたなど、口が裂けても言えるわけがない。
「失礼、失礼。それよりほら、さっさと祐麒も準備してよ」
「え、俺も手伝うの?」
「当たり前でしょう、嫌なの?」
「だってほら、彼氏の立場としては、彼女の手料理が食べたいわけじゃん」
「え、何それ、まだその設定続いているの?」
「今日一日、だろ?」
「う、そう言ったけどさー」
わずかに頬を膨らませる祐巳。
口にした祐麒はかなり恥しかったが、こういうのは照れてしまった方が負けだと思い、平静を装う。
「それなら私は、彼氏も一緒に食事の支度を作ってくれた方が、嬉しいな」
しかし、お返しとばかりに祐巳にそんなことを言われ、瞬間的に顔が熱くなってしまった。言った方の祐巳は、「にやり」といった感じで微笑んでいる。
「……何、手伝えばいいんだよ」
「そうね、とりあえずじゃがいもの皮をむいて」
「了解」
あっさりと敗北してしまった祐麒は、動揺してしまったことを誤魔化すように、ピーラーを手にしてじゃがいもを掴む。背後では祐巳が玉ねぎの皮をむき始めている。
「一緒にカレーなんか作っていると、キャンプみたいだよね」
「家の中だけどな……っと、むいたらどこに置けばいい?」
「まな板の上でいいよ。うっ、この玉ねぎ、強烈かも」
早くも目に染みだしたのか、祐巳が玉ねぎから顔を背ける。
髪の毛が揺れ、ポニーテールからちらりと覗いて見えるうなじや、あまり目にすることのないエプロンをした後ろ姿に、つい吸い寄せられる。
しばらく前から祐巳のことを意識するようになってしまい、駄目だと思っているのに、変な目で見そうになってしまう。
抑えようと考えても、春休みで、おまけに両親不在で二人きりの生活、祐麒に意識しろと言わんばかりの状況に、心は乱れる。
何を考えているんだ、相手は実の姉だぞと、心の中で警鐘を鳴らしても。
「ほら、美味しそうに出来ているよ」
カレーの鍋をお玉でかき回しながら、嬉しそうな顔をして言われたら、ふらふらと近寄ってしまう。カレーを見るふりをして、祐巳の背後から抱きしめるような格好で、祐巳の肩越しに鍋を見る。
強烈なカレーの匂いと同時に、ほんのりと祐巳の香りも感じられる気がする。
「よし、じゃあカレーはこのまましばらく煮込んで、その間にサラダを作ろう」
祐巳の指示に従って、支度を進める。
料理をした記憶など数えるほどしかないが、こうして祐巳と二人でキッチンに並んで立って、色々と言い合いながら料理するのは楽しかった。
「祐麒って、実は料理好きだったとか? こんな楽しそうにするとは思わなかった」
「別にそんなんじゃないよ、きっとたまにやるからそう感じるんだよ、こんなのは」
「何それ、じゃあ明日からは手伝ってくれないの?」
レタスを水で洗っていた祐巳が、不満そうに見つめてくる。
「――ま、母さんたちのいない一週間くらいなら、別に手伝ってもいいけど」
素っ気ない口調を装って、言ってやると。
「やった、じゃあ、これから一週間、よろしくね」
素直にお礼をされて。
祐麒は祐巳に背を向けて、「ああ」とだけ答えたのであった。
カレーもサラダも美味しくいただき、満腹になった後の食後。後片付けをして食器を洗っている祐巳の姿をちらちらと横目で見つつ、ソファでくつろぐ。やがて片づけを終えた祐巳は、リビングに入ってくるなりレンタルしてきたDVDを手に取った。
「祐麒、どれから観る?」
「そんな慌てて観なくたって、DVDは逃げないぜ」
「これ面白そうだよね、これでいいよね」
人の話を聞いていないのか、祐巳は一人で勝手に決めると、DVDのディスクを取り出してプレーヤーにセットする。
面白そうなテレビ番組もなかったし、まあいいかとテレビ画面に目を向けると、DVDをセットし終えた祐巳がとてとてとやってきて、祐麒の隣に腰を落とした。
「お、おい……」
「これって、去年話題になった映画だよね。祐麒、観たことある?」
「いや……観ていたら、借りないだろ」
「あ、そか。桂さんが面白いって薦めてくれたんだ、楽しみ」
にこにこしている祐巳だが、気が付いているのだろうか。近すぎる。触れ合うどころか、祐巳は隣に座る祐麒の腕に体重を少しばかり預けている。完全に、祐巳の重さを、温もりを感じる距離。
なんのつもりか、彼女だなんてふざけていた言葉の続きか、それとも単なる無自覚か。
「ゆ、祐巳」
「ほら、始まるよ」
いつの間にか、他の作品のCMが終わっていた。
画面の中では、映画の本編が始まり。
思いがけない二人きりの生活は、一日目の夜が始まった。