「――アクア君は人の心が分かってないね」
アクアに遠慮なくそう言ってきたのは、『Bar さみだれ』のマスターだった。
更に続いて。
「いや、甘えている、と言った方が正しいかな」
とも言われた。
何を言っているのかとも思ったが、やがてBarにやってきたミヤコの口から出てきた思いを耳にして、マスターに言われたことが正しいとアクア自身も認めるしかなかった。
ミヤコに気がつかれないよう裏口から外に出て夜風にあたって頭を冷やす。
十年以上も一緒に暮らしてきて、育ててくれて、感謝はしている。
前世の記憶があるとはいえ、アイが死んだときは小学生にすらなっていない子供であり、一人で生きていけるはずもない。
親戚も身寄りもないアクアとルビーをミヤコが引き取ったのは、責任感によるものが強いと思っていた。
壱護が行方不明となって一人となったミヤコ、それまでも多忙なアイの代わりに慣れない子育てを担い、メンタル的に大変な時期があったのも見てきた。
アクアとルビーを引き取ったところでなんの得もないし、義務があるわけでもない。ミヤコはまだ若かったし、二人を施設にでも送って人生をやり直すことだって十分にできたはずだった。
ただ、アイを死なせてしまったという、本来ミヤコが背負うはずのない責任を、なんだかんだ人の良いミヤコは持ってしまったのだと考えていた。
実の親ですら子供に対して愛情を抱くかどうか怪しいのに、血が繋がっていない子供を、それも二人も引き取りシングルマザー的立場で育てるなんて、考えられなかった。
「――いや、考えようとしなかった、のか」
息を吐き出し、呟く。
実の娘の死に目にも立ち会おうとしなかったさりなの母親。
母親というものに理想を抱きつつも、裏切られることを恐れてもいた。
『本当にうちの子になりませんか?』
ミヤコのあの時の言葉を受けて、ルビーはミヤコに抱き着き、アクアは立ち尽くしたままだった。
ただの幼児ではない、大人の時の記憶も持ち合わせたアクアのとった行動は、そのまま本人の気持ちでもある。
あの時のアクアは、積極的にミヤコの言葉を受け入れたわけではなく、他に選択肢もなかっただけのことである。その後、復讐を誓ってからは尚更、芸能界に近づくためミヤコの子供でいた方が都合良いと考えたものである。
感謝はしている。
ミヤコからの愛情もあろう。
だけど、血の繋がりはない。
血の繋がりが全てだとは言わないが、特に女性であれば自分の腹を痛めて産んだ子供かどうかは大きい事ではないだろうか。
男のアクアは漠然とそんな風に考え、ミヤコからの愛情を心の奥底ではどこか信じきれなかったのかもしれない。
更に日々復讐のことを考えつつ五反田のもとで演技や技術の指導を受け、ルビーのことも気にかける。
ミヤコはミヤコで壱護が抜けた苺プロを慣れない社長業で切り盛りしていく必要があり、コミュニケーションが多い親子だとは言えなかった。
ミヤコもルビーに対しては本当の母親のように接して育てていたが、大人びていたアクアに対してはどこか一線を引いているようにも感じていた。
「それがまさか、な……」
思い出す。
『分かってるけど いつもあの子達は素顔を見せないのよ』
『私だって本当はいつもそばで見ていたいわよ!』
弱っているミヤコの口から出た言葉に裏は感じられず、嘘とは思えなかった。
ルビーに対してならともかく、アクアに対しても同じように思ってくれているというのは、アクアとしても意外だったのだ。
「甘えている、か。そうなのかな」
アクアには分からなかった。
親に甘える、という経験がなかったから。
夜空を見上げてアクアは思う。
もしかしたら、それが分からないこと自体が、甘えていたということなのかもしれないと。
アクアは、自分の考えをルビーに伝えることに躊躇した。
言えば、恐らくまず間違いなくルビーの成果的に乗り気になるだろう。
何が問題かというと、アクア自身が本当にできるだろうか、ということ。
葛藤はあったが、ルビーをその気にさせることで自分自身の退路を断つことにもなると考えた。
予想通りに、ルビーは食いついてきた。
むしろ予想以上で、驚いたくらいだった。
「――意外だな、そこまでやる気になるとは。アイ以外はママと認めない、とは言わないのか」
「もちろん、本当のママはアイ唯一人だよ。だけどさ、ミヤコさんの愛情も本物じゃん」
ミヤコの誕生日を兄妹で祝うというささやかなサプライズを合意したあと、そんな話の流れになった。
「本物の愛情かどうかなんて誰にも分からないだろ」
「うわっ、そういうこと言っちゃうのお兄ちゃん? そーゆートコだよ?」
「……いや、分かっているつもりではある。じゃなけりゃ、20代後半から30代を潰して俺たちを育ててくれた意味が分からないからな」
女として輝ける時間の多くを、ミヤコは自身以外のことに、アクアとルビーのことに費やしてきた。
愛情がなければそんなことは――
「もー、だからお兄ちゃんはそういうロジックに頼っちゃうからいけないんだよ。素直じゃないんだからぁ、こういうのはハートだよ、心だよ!」
「お前にそんなことを言われるとはな」
小さく息を吐き出しつつ、だけどもしかしたらルビーの言う通りなのかもしれないともアクアは思う。
面倒くさいことを抜かせば、ミヤコは間違いなくアクアにも愛情を注いでくれていた。
何せ小さい頃は一緒にお風呂にも入れてくれていたわけで――
「…………」
「……お兄ちゃん、なんか顔赤くなってる?」
「なってない」
思わず余計なことを思い出しそうになり、頭を振る。
アイの時と同様、風呂場では頑なに目を閉じるか、そっぽを向くようにしていた。アイでないとしても、罪悪感が消えるわけではない。
そもそも一人でも風呂に入れると言っても、ミヤコは頑なにそれを受け入れてくれなかった。小学生の低学年まで一緒に入浴するというのは果たして平均的なのか、アクアには判断できなかった。
そこで、はっとする。
アクアが小学校低学年までずっと一緒にお風呂に入ってくれていたというが、それは苺プロダクションが最も多忙でもあった時期。
稼ぎ頭であるアイを失い、失踪した壱護の後を継いだミヤコが慣れない社長業に苦戦しながらも所属タレントや社員達を必死に守っていた時期。
それでも、毎日お風呂に入れてくれていた。
自宅が事務所を兼ねており働いている途中で抜けることができるといっても、である。
義務感だけで出来るか?
数日や一ヵ月くらいなら可能かもだが、数年にもわたって可能なものだろうか。
「……いや、だからこういう考えが駄目ってことか」
「??」
ルビーがきょとんとした目をアクアに向ける。
「確かにこれは、甘え、なのかもしれないな」
思わず苦笑いが零れる。
ミヤコがアクアに対してそんな愛情を抱いているわけがない。
だから、アクアがどんな行動をとったところで迷惑さえかけなければ良い。
そんな風に考えていたこと自体、ミヤコに甘えていた証拠だということか。
『社長にあんま心配かけるなよ? この前も……ああいや、これは言うなっていわれていたか』
五反田監督のそんな言葉。
『成長期なんだから幾らでもお食べ! ミヤコさんからもね、アクア君が何を食べたか聞かれるのよ。でね、材料費はお出ししますとか言われちゃうんだけど、そんなの変わるもんでもないし、こっちも好きでやっていることだからねぇ』
五反田監督の母親のそんな言葉。
思い返してみれば、色々なところでヒントは出ていたのに気がつかなかった。
いや、気がついてはいたけれど、意識下に封じ込めていたのか。
ミヤコなら――と考えている時点で、それは甘えだったのか。
まさか自分が、そんな風に甘えていたなんて。
それも、無意識に、無自覚に。
「いやー、でも楽しみだなー。ね、ミヤコさん泣いちゃうかな?」
「別に泣かないだろ、これくらいで」
「そうかなー、泣いちゃうかもしれないよ、なんたっていつも仏頂面のお兄ちゃんにそんなこと言われたら、ねえ?」
「うるせえ」
ルビーの言葉を受け流しつつ、マスターの言葉を思い出す。
「――まあ、でもいいんじゃない? 甘えられるのは、アクア君の家族だからでしょ」
言われて、思わず言葉に詰まる。
そう、なのだろうか。
「大体アクア君だって、心配だからってわざわざ店に来て様子を窺おうとしてるんでしょ?」
「そういうつもりじゃ……ただ、あの人が本当に来るかどうか確認しに」
「別に、今日来なければ次のタイミングでも良いじゃない。変に格好つけないの、男なんてみんなマザコンなんだから」
「うるせ……って、俺、裏にいるから」
「え、ちょっと、急にどうしたの」
「もう来ただろ」
すっと店の裏に姿を隠すアクア。
程なくして店のドアが開いてミヤコが姿を現す。
疲れ切った足取りでカウンターまでやってきてスツールに腰をおろし、“いつもの”を注文する。
マスターは肉野菜定食を準備しながら内心で苦笑していた。
(――いくらこの時間でも、足音だけで母親が来たって確信するとか、ちゃんと分かっているんじゃない)
深夜の東京の一角で。
星空を見上げるアクアの心は珍しく波立っていた。
<あとがき>
アクアがもしもミヤコの愚痴を聞いていたら?
というifです。
アクアもこんな甘いか? とは思いますが、まあそういうところも含めてミヤコさんには幸せになって欲しいんですよ!