ばたばたと白いセーラーカラーを軽く翻し、スカートのプリーツをわずかに乱しながら駆けて、部室の扉を開いた。
「ごきげんよう、皆様!」
一声、ご挨拶。
みんなの顔がいっせいにこちらに向けられる。
表情はさまざま。「今日はいったい、何の話かしら」と思っている顔、「いつも飽きないわねえ」といった感じに苦笑する先輩、「もう少し静かにしないと怒られるよ」と心配顔の同級生。
そして。
「こら、桂」
と、脳天にチョップを落とされる。
頭をおさえながら顔をあげると、そこには。
「いつも、静かに入ってきなさいって言っているでしょう。あなたまた、ばたばたと走ってきたわね」
眉を吊り上げているお姉さまの美しいお顔が。
「みんなにも迷惑でしょう。ああ、こんなに制服も乱れちゃって」
「だって、だってお姉さま聞いてくださいよ!」
怒られているというのに、なぜか心の中は嬉しくなってしまう。
「ああもう、分かった、聞くからもう少し落ち着きなさい」
困った顔をするお姉さまは限りなく優しくて。ため息をついて、眉をひそめながら、私のくだらない話を聞いてくれる。
私はそんなどうでもいいような瞬間が、何よりも好きだった。
「あのですね、なんとさっき、白薔薇さまが……」
部室にいるほかの部員の皆が、私たちのことを見て笑っている。話に参加してくる人もいる。
そんな日常を、私は愛していたのに。
馬鹿は死ななきゃ直らない、なんていうけれど、私はきっと死んでも自分の馬鹿さ加減はよくならないのではないかと、我ながら思う。
秋も深まり、むしろ冬の方が間近に見え始めた季節。
事件は、起きた。
<その1>
私は興奮するとともに、混乱をしていた。
先ほどお会いした、令さまの言葉。いつもは凛々しく、上級生からも下級生からも人気があり、目出度く『ミスターリリアン』の称号を受けた令さまがうつろな瞳をして、ぶつぶつと呟いていたのを聞いてしまった。
由乃さんに、ロザリオを返されてしまったということ。
つい先日、『ベストスール』に選ばれたばかりの二人だというのに、なぜそんなことになってしまったのか。最初はただ興奮して、思わず出会った祐巳さんにぺらぺらと喋ってしまったけれど、徐々に興奮よりも困惑の方が大きくなってくる。
由乃さんは細くて、可憐で、色白で、瞳が大きくて、お下げが似合う女の子。病弱ということもあるが、まさに『守ってあげたくなる』ような女の子で、上級生からの人気は絶大だった。
一方の令さまは先ほども言ったように、凛々しい顔立ちにベリーショートの髪がよく似合う、まるで美少年と見間違えてしまうような方。剣道部のエースでもあり、その格好良さは下級生、上級生を問わず憧れの的だ。
そんな二人だから、並んだ姿はまさに『深窓のお姫様と、護衛の騎士』といった言葉がぴったりで、誰が見ても素敵な姉妹だった。だから私も、お姉さまと素敵な姉妹関係を築いていきたいと刺激されたものだった。
そんな二人がなぜ、破局を迎えたのか。
私には、想像がつかなかった。
翌日にはすでに、黄薔薇姉妹のことで話題は持ちきりだった。
私もすぐに、友達の会話の輪に参加する。話の中心は、「どうして、二人は別れてしまったのか」ということになる。
朝のHRが終わり、授業の合間の休み時間が過ぎ、たちまちのうちにお昼休みになった。その頃には、話の内容は随分と変わっていた。曰く、由乃さんが身を引いたのだと。令さまは来年には黄薔薇さまとなり、由乃さんは黄薔薇のつぼみとなる。しかし、体の弱い由乃さんは、自分が黄薔薇のつぼみとなっても多くの手伝いはできない、むしろ足を引っ張ってしまうことになるだろう。であるならば、愛しい姉のためにも潔く身を引き、新たな妹を作ってくださいと涙ながらにロザリオを返したのだと。
昨日、令さまの口から聞いた話は、一体どうだっただろうかと思い返してみる。しかし、令さまから出ていた言葉は、「怒った由乃にロザリオを返された」ということ。どちらかというと、身を引いたというよりは突き放したという感じを受けた。
「いじらしいわよね」
すっかり、由乃さんに同調してしまったらしい友達が、瞳を潤ませている。他の皆も口々に言っており、聞いていると実際にはそうだったのかと思い始めてくる。
「桂さんは、どう思う?」
「えっ?」
いきなり振られて、我に返る。
皆の目が、集中する。
「そう、ね。やっぱり、そうなのかもしれないわね」
思わず、そう口にしていた。
心は、ざわついていた。
家に帰りついたときには、疲労でぐったりとしていて、部屋に入るなりバッグを置いてベッドに倒れこむ。
色々と余計なことを考えてしまい、部活の練習にも身が入らなかった。おかげでいつも以上に失敗をして、部活の仲間や先輩にも迷惑をかけてしまった。私が"へま"をすることなんて珍しくもないけれど、さすがにボールを頭で打ち返してしまうと、先輩方も随分と心配してくれた。慌てて、笑って誤魔化したけれど。
お姉さまは、どうせまた違うことでも考えていたのでしょう、と苦笑していた。当たっているのだけれど、私の気分はまた重くなった。
そんなこんなで、練習の間中ずっと変なことばかり考えていたせいか、精神的にも疲労していたし、肉体的にも厳しいものがあった。いつもなら気持ちの良い疲れを感じるのに、今日はただ、体が重く気だるいだけ。
最悪の気分だったけれど、いつまでもぐったりしているわけにもいかない。私は体を無理やり起こすと、着替え始めた。
「……あ」
と、制服を脱ごうとしたときに、首筋に光る『それ』が目に入った。着替えの手を止めて、そっと握り締める。
「お姉さま……」
私の手の中で、ロザリオは何を言うこともなく、静かに銀の光を放っているだけだった。
練習が終わった後、後片付けや着替えをことさらゆっくりしていたら、帰宅するのが最後になってしまった。
部室の中を見回し、忘れ物がないことを確認して鍵をかける。所定の場所に鍵をしまって、歩き出す。空を見上げれば陽は落ち、周囲は随分と暗くなってきている。すっかり、日が暮れるのも早くなっていた。
部室棟を出て、正門へと続く道に出たところに、お姉さまは立っていた。
「遅かったわね。さあ、帰りましょう」
にっこりと笑って、お姉さまは私が来るのを待っている。
いつもは同学年の友達と帰宅することが多いけれど、ときどきお姉さまとこうして、一緒に帰ることもある。
私の話すくだらないおしゃべりを、楽しそうに聞いてくれるお姉さま。だけど今日は、授業中に発生したトラブルのことも昨日のドラマのことも、楽しく話すことができなかった。
マリア像の前に着くと、いつものように立ち止まり、手を組んでお祈りをする。私は手を組みながら、そっと薄目をあけて隣に立つお姉さまの横顔を見た。
どちらかというと、はっきりとした顔立ちのお姉さま。肩にかかる髪の毛は美しい漆黒で、肌は健康的な色艶をはなっている。
大好きな、大好きなお姉さま。
「――どうしたの、桂?」
お祈りを終えたお姉さまが、私の視線を感じてこちらを向く。
凛々しい眉毛が少し吊り上る。女の子だから、こんなにはっきりとした眉毛って嫌なのよね、とお姉さまは時々愚痴っているけれど、私は大好きだった。意志の強さを表しているようで、とても格好いいと思う。
時間も遅いせいか、周囲に他の生徒の姿は見えない。
ただ、マリア様だけが静かに見守ってくれている。
そういえば、祐巳さんと祥子さまはこのマリア様の前、ふとしたきっかけで初めて触れあい、そして姉妹となった。
いったい、どれだけの数、姉妹が誕生する瞬間をこのマリア像は見守ってきたのだろう。
「お姉さま」
声を絞り出した。
胸が苦しくて、手でおさえる。うつむいたまま、顔をあげることができない。
「桂」
少し強い口調に、思わず顔を上げると。
いつもと変わらない、穏やかで凛々しいお姉さまの瞳が、全てを見透かすかのように私の姿を写していた。
「お姉さま、わたし―――」
口を開いたら、もう後戻りはできない。
でも、足りない頭でも色々と考えて、導き出した結論。私はそれを、お姉さまに伝えなければならない。
足が震えている。
声も、自分のものではないみたい。
それでも。
「これを―――」
そうして私は、お姉さまからいただいた大切な、大切なロザリオを、お姉さまのもとに戻したのであった。