講堂の裏手で銀杏並木を見つめながら、真美はため息を吐き出した。
一体、自分は何をしているのだろう。一人で思い悩み、自己嫌悪に陥り、落ち込んで、膝を抱えてうずくまって。
でも、きっとこれは罰なのだ。マリア様が、真美に課した罰。だからきっと、甘受しなければならない。
苦しくても。
辛くても。
あの写真を撮ったとき。真美は、こうなることを予感していたのかもしれない。
由乃さんがあの写真を見れば、傷つき、令さまや祐麒さんとどうなるのか。きっと三人の関係は、今までのようにはいかなくなる。それが分かっていながら、真美は心のどこかで期待していたのだ。由乃さんに見つかり、そうなることを。
あの日、わざわざあんな場所で写真を広げていたのも。
「私、なんてことを……」
泣きそうになってくる。
取材をしていてわかったのだ。祐麒さんは、由乃さんに惹かれ始めている。話をしているときだって、由乃さんの姿が見えると、無意識に視線がその姿を追っている。そして、そんな祐麒さんのことを、由乃さんも見ていた。
最初はなんとも思わなかった。いや、意識的に、なんでもないと思おうとしたのだ。でも、日が経つにつれて、そんなことも出来なくなって。
「私って、嫌な子だったんだ」
友達の不幸を願っていたのか。
そんなことはないと言いたいけれど、自分では言えなくて。でも、そんな気持ちを誰にも話すこともできなくて。
暗澹たる思考の泥沼にはまりかけていた。
「……こんなところで何をやっているの?」
「っ?!」
不意に声をかけられて、びくりと体を震わせる。
誰。
いや、確認するまでもない。聞いた瞬間、考える前に分かっていた。
「お、お姉さま?」
「はー、よっこいしょ」
まるで年寄りのようにそう言いながら、三奈子お姉さまは真美の隣に腰を下ろした。視線が合い、慌てて横を向いた。
「ちょっと、真美。あなた、泣いているの?ど、どうしたの、どこか痛いの?それとも、誰かにいじめられでもしたの?!誰、相手を言いなさい」
お姉さまは、なぜか真美以上に取り乱して、真美の肩を掴んで揺すってきた。
「お姉さま、落ち着いてください。別にどこも痛くもないし、いじめられてもいませんから」
「じゃあ、なんで泣いていたのよ」
「これは……自分自身が情けなくて」
「何?スランプ?」
スランプか。その方が、ずっとマシなような気がする。だってそれなら、きっといつかは抜けることが出来る。でも、後悔の傷跡は、小さくなることはあっても消えることはないはず。
「そうじゃないです。はぁ……」
「なんなのよ、一体」
お姉さまは、隣で口を尖らせている。
「……お姉さまは、自分自身の失敗に落ち込んだりはしませんか?」
「しないわよ。だって私、失敗なんかしないもの」
「でも、イエローローズのときは」
「うっ……あ、あれは、まあ。そういう時も、たまにはあるかもしれないわね。でも、いつまでも引きずっても仕方ないでしょう。常に前進あるのみよ」
「お姉さまは単純でいいですね」
「真美は考えすぎなのよ」
そうなのだろうか。
でも今は、そんなお姉さまが羨ましい。
「……私、嫌な子です」
「知ってるわよ」
「なっ……!」
そんな風に返されるとは思ってもいなかった真美は、つい、お姉さまのことを鋭い目で見つめてしまった。
別に慰めて欲しいとか、そんなことを思っていたわけではないけれど、多少なりともフォローするとか、否定してくれるとか、そういうことを言ってくれてもいいではないか、仮にも真美の姉なのだから。
だけど、お姉さまは、そんな真美の視線など全く気にした様子もない。
「だって、妹のくせに姉である私に思ったことを言うし。遠慮もしないし。一年生達が見ている前でも、私のこと叱るし」
先輩のくせに、叱られるようなことばかりする方が問題あるのではないか、と思うけれど。
「ホント、イヤな子よね」
「うう……」
「でも」
言いながら立ち上がったお姉さまが、ふわり、と背後から優しく抱きついてきた。
「あなたはとっても優しい子だってことを、私は知っているわ。そんな優しいところや、嫌なところも含めて、私は真美が大好きよ」
「お、お姉さまっ……」
なんて恥ずかしいことを、すらっと言うのだろう。真美はといえば、抱きしめてくるお姉さまの柔らかな感触と、ストレートな言葉に真っ赤になっている。
「別にいいじゃない。人間なんだもの、嫌なところくらい誰だってあるわ」
「お姉さま……」
「ふふっ」
「……あの……お姉さま……」
「いいのよ、もっと甘えても。うーん、真美たん可愛い!」
「いえ。セクハラするのはやめてください」
背後から真美のことを抱きしめていたお姉さまの手は、いつの間にか真美の胸の上に置かれていた。
「え?あら。真美ったら、前の時よりちょっと成長したんじゃない……ぐふっ!」
お姉さまの体が崩れ落ちる。
真美の肘打ちが、モロに入ったようだ。
「いい加減にしてください、聖さまじゃあるまいし!」
「ま、真美を元気付けてあげようとしただけじゃない……ちょ、ちょっとくらい役得があっても……げふん」
「そんなもの、ありません!」
うずくまって体を小刻みに震わせているお姉さまをその場に残して、真美は歩き出した。でも、内心では感謝している。お姉さまはいつも、真美の悩みの種ではあるけれど。いつも、真美に元気を与えてくれるのもまた、お姉さまなのだ。
スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻さないように、それでも少し早足で、真美は歩いてゆく。
落ち込んでいても、何も始まらない。
真美はちょびっとだけ元気を取り戻して、動き始めた。
……しかし、マリア様は意地悪なようで。
校内を抜けて、校門の近くまで行くと、校門のところに立っている男の子と目が合ってしまった。
「祐麒さん」
驚きながらも、吸い寄せられるように近づいてゆく。校内新聞の取材ということで、少しだけ親しくなった、花寺の生徒会長。
そんな祐麒さんは、真美の姿を見て軽く手をあげる。
その姿を見て、真美の心臓が跳ねる。
「真美さん、こんにちは。よかった、誰もいないからどうしようかと思っていたんですよ」
「あ、じゃあ、私が一緒に行きますね」
並んで歩き出す。
「今日も、劇の練習ですか」
「ええ……まあ、そんなところです」
「でも、今日は他の皆様は。お一人なんですか」
「今日は、実はちょっと個人的な問題があって」
「はあ……」
横目で祐麒さんのことを見る。同年代の男の子にしては、少しあどけない顔。でも、真っ直ぐな瞳。
「?何か、俺の顔についていますか」
「いいいいいえっ、な、なんでもないですぅ」
見つめられて、顔をそらす。
あうー、なんでだろう。なんでこんなにも、平常心でいられないのか。分かっているけれど、分からない。真美は、動揺しまくる。
しかし、そんな真美に対して、現実は容赦なくて。
「そうだ、真美さん」
「は、はいっ?!」
「えと、由乃さん、どこにいるか知っています?」
「え……」
「ちょっと、どうしても由乃さんと話をしたくて。今までずっと、出来なかったけれど、今日こそ……」
隣で祐麒さんが話している。手を伸ばせばすぐに触れられる距離にいるというのに、果てしなく遠くに感じられて。
落ちていく気持ち。
凍りつく鼓動。
――ああ、マリア様。これが、私に課せられた罰なのでしょうか――
なんなのだろう、この空気は。薔薇の館を包み込む、ぴりぴりしたというか、緊張に包まれたような感じ。
祐巳だって感じるのだから、絶対に他の人たちだって分かっているはず。そして、その張本人はといえば。
令さまと。
由乃さん。
薔薇の館に来てからも、ほとんど目をあわせようとしないし、話もしていない。劇の練習だって、なんかばらばらだ。
そう思っていると。
「いい加減にして頂戴!」
祥子お姉さまの一喝が、建物内に響き渡った。みんながいっせいに、お姉さまの方を向く。といっても、一年生の三人はクラスの出し物の準備ということで、今日は少し遅れてくるから、今はまだいない。
お姉さま、令さま、志摩子さん、由乃さん、そして祐巳という五人だけが、今、薔薇の館にいるメンバーだった。
来ているメンバーだけでも練習を進めようとしたものの、令さま、由乃さんは全く身が入っていないというか、心ここにあらずという感じで、学園祭も間近に迫った今、お姉さまが大きな声を出すのももっともな気がした。
「由乃ちゃん、体の調子が悪いのなら、休んでいなさい」
「いえ、大丈夫です。体は別に……」
由乃さんの言葉も、どこかいつもより歯切れが悪い。
「そう。体の調子が悪くないのなら、精神的な問題かしら」
びくり、と由乃さんが震えるのが分かった。
そんな由乃さんから視線を転じて、またお姉さまは口を開いた。
「令、あなたもよ。やる気が無いのなら、居ないほうがマシだわ。他のみんなの迷惑にもなるのよ、分かるでしょう」
「祥子……」
うわ、いくら同学年だからといって容赦ないお言葉、さすがお姉さま。聞いている祐巳の方が、恐くて身を縮めてしまいそうだ。
「学園祭はもう目の前まで迫っているのよ。それなのに、この調子では、出来るものも出来なくなってしまうわ」
そう、それはお姉さまの言うとおりなのだ。今はもう、本番に向けてラストスパートをかけないといけない時期なのに、こんな状態ではとてもじゃないけれどゴールまで辿り着けそうにない。
薔薇の館の中に、そんな嫌な雰囲気が充満していた。
すると、果たしてその空気を入れ替えんとばかりに、正面の扉が開かれた。
「ごきげんよう。花寺の生徒会長、福沢祐麒さんをお連れしました」
そこに姿を現したのは、真美さんと、そしてなんと祐麒だった。一斉に、みんなの視線が注がれる。
その中でも、令さま、由乃さんが著しく反応して真美さんと祐麒のことを見つめていた。どこか驚いたような、どこか狂おしいような想いを込めた瞳で。
比喩ではなく、明らかに空気が変わった。
令さま、そして由乃さんを取り囲んでいた何かが。
「……そう、ね。丁度いいわね」
お姉さまが、静かに口を開いた。
「ここで、はっきりさせたほうがいいのではないかしら。令も、由乃ちゃんも、このままではどうしようもなさそうだし」
その言葉を聞いて、令さまと由乃さんの表情が固まった。
いつの間に、風が出ていたのだろう。開け放たれた扉から風が入り込んできて、令さまのベリーショートの髪を、由乃さんのお下げを揺らす。それはまるで、どこか生命を持っているかのように波打ち、さざめいている。
入り口に目を転じれば、真美さんが胸の前でお祈りをするかのように手を組んでいる。その目は、すぐ目の前に立っている祐麒の後ろ姿に何かを訴えかけているようで。
いつもは真美さんの髪の毛をぴっちり留めているピンが、まるで逃げるかのようにするりと落ちて、乾いた小さな音を立てて床に転がった。
真美さんの髪の毛が、スカートが、風にたなびく。
お姉さまも例外ではなく、長く、美しい黒髪を揺らしながら、射抜くような視線で祐麒のことを見据えている。
「そうでしょう、祐麒さん?」
問いかける。
祐麒は一度、大きく息を吸って、でも落ち着いた声で。
「……はい、俺も、そのつもりで来ましたから」
その言葉に、令さま、由乃さん、真美さんは、三者三様の反応を見せる。
令さまは、どこか切なげな、儚い表情で祐麒のことを見つめている。
真美さんは哀しそうな、不安そうな瞳を揺らしている。
そして由乃さんは、祐麒からも令さまからも視線をそらし、感情を読み取らせない頑なな表情で、床の一点を凝視していた。
志摩子さんは何も言わずに、ただ静かに佇んでいる。
風は、更に強くなっていた。