由乃さんに叩かれたあの日以来、彼女と話す機会もないままに、ただいたずらに時間だけが流れていた。なぜ、あそこまで怒るのかとも思ったが、リリアンに通うお嬢様、男に対しても潔癖であるべきだと考えているのか、それとも他に思うことがあるのか。本当のところは、分からない。
何があったのか、聞いてみたい。彼女が何を考え、どういう気持ちで接してきたのか、知りたい。でも、どうやって接触をすればよいのか。
直接、リリアンに向かい、下校するのを待ち構えるというのは得策ではない。お嬢様学園のリリアンでは、不審な男が近くをうろついていたら警備員に捕まってしまう。たとえ、学生服を着て、花寺の生徒だということが明らかでも、校門前で待つわけにはいかない。他の生徒に見られたら、由乃さんにも迷惑がかかってしまう。
かといって、由乃さんの家は学校から徒歩ですぐに辿り着くような場所だという。帰宅途中で待ち受けるような場所もない。
電話というのも考えられるが、いきなり電話して、何を話したらよいのかも具体的にわからず、家族の人が出たらどうしようかと余計なことも考えてしまう。
祐巳に頼む選択肢は、最終手段だと思った。
良い連絡手段がみつからない。しかし、そこでふと思い出されるのがこの前の約束。いや、約束といえるほど確かなものではない。祐麒が返事をする前に結局、有耶無耶になってしまったのだから。
クリスマスの日、六時に駅前に―――
頷いたわけではなかったが、否定をしたわけでもない。
由乃さんは果たして当日、来るだろうか―――
悩み、考えている間にも、時はいつもと変わることなく過ぎて行くもので。いつの間にか学期末試験も終え、世間は完全にクリスマスモードになっていた。これがあと数日もすれば、年末年始モードへと切り替わる。どちらにせよ、街はさわがしく、人は忙しなく、日々は流れてゆく。
試験期間中は一時中断していた家庭教師も、再開となった。
学期末試験の問題の答えあわせをするとともに、間違った箇所の復習。採点をしてみれば、点数は少し上がっていた。英語の点数が一番よくなっていたが、目覚しい変化があったと言うほどではない。まだ家庭教師を始めてからの期間も短く、そう簡単に顕著な成果が見られるものではないだろうから、当然といえば当然の結果である。
それでも、祐麒の成績が上がったことに対しては、江利子さんは本当に嬉しそうに顔を綻ばせ、喜んでくれた。
初めての家庭教師で、もし、成績が下がっていたらどうしよう、自分の教え方が悪かったらどうしようと、実のところは不安で仕方が無かったと白状した。
だからなのだろうか。
点数が良くなったと告げた後の、初めて見る純粋な笑顔に思わず、心が高鳴ったのは。いつも見せるような、意味深な、悪戯っぽい、小悪魔のような笑みとは異なり、素の表情が覗いた瞬間。
無邪気な笑い顔は、いつも感じる年上の女性を消し去り、ただ一人の可愛い女の子を表に出していた。何を考えているか分からない、神秘的な雰囲気はどこかへ行ってしまい、身近さを匂わせる。
今まであまり見たこと無いようなそんな表情を見てしまうと、途端に意識をしてしまう。今日の服装も、ごく普通のタートルネックセーターにシンプルなピンタックスカートなのだけれど、江利子さんが身につけているというだけで物凄くお洒落に見えてくる。
細いけれど、柔らかな肢体。その身体に何度、祐麒は触れたのだろうか。故意ではなかったときも、故意であったときも両方あったけれど、江利子さんの柔らかさは変わらない。たった二つの歳の差のはずなのに、ずっと大人びて見えて、全く敵いそうにないけれど、体は驚くほどやわらかくて、わずかに力をいれて触れれば壊れてしまいそうで。
おもわず見つめてしまっていると、頬杖をついている江利子さんと目があった。瞳が、『どうかしたの?』と問いかけてきている。
恥しくなった祐麒は、余裕もなくただ目をそらす。すると、机の上に置かれた卓上カレンダーが目に入る。
もうすぐ、約束の日がやってくる。約束にもなっていない、約束の日。それでも、祐麒は―――
「……ん?」
つい、と、江利子さんの顔が祐麒の視線を追うようにして捻られる。そこで祐麒はようやく、無意識に不用意な動きをしてしまったことに気がついた。
卓上カレンダーのクリスマスの日には、小さく丸の印をつけている。他の日には、何も書き込んでいないから、その日だけ何かがあるというのはあからさまだった。伏せようとしてももう遅い、江利子さんの目は完全にカレンダーをとらえていたし、今から隠そうとすれば、余計に不自然だろう。
大きな瞳に違わず、視力は良いと言っていた記憶がある。机の上といってもさほど離れているわけではないから、見られてしまっているのは明白だった。
「クリスマスの日、何か用事があるの?」
ごく普通の口調。
何かを疑っているという様子も見られない。それなのに、なぜか身構えてしまう。そしてそのせいで、不自然な受け答えをしてしまう。
「い、いえ。別に特には」
後から思えば、友達とクリスマスパーティがある、とでも言っておけばよかったのかもしれない。しかし、咄嗟のことにただ否定することしか出来なかった。明らかに、何かがあるとしか思えない印がつけられているというのに。
案の定、江利子さんの目つきが変わる。
「ふぅん……ね、祐麒くん」
わずかに、身を乗り出してくる。
「祐麒くんにご褒美あげようか。成績が良かったご褒美」
「え、い、いいですよ、そんな」
思わず、『ご褒美』という言葉の響きにどきりとしてしまう。江利子さんの口から出ると、妙なエロティシズムを感じてしまうのは、自意識過剰だからだろうか。
飲み込まれないよう、強く拳を握る。
「大体、俺の方が教えてもらって成績よくなって、逆にお礼したいくらいですよ」
「あら、そう? じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかしら」
人差し指を顎に当てて、にこやかな表情で、江利子さんは口を開く。
「……それじゃあ、クリスマスの日、私とデートしてくれないかしら?」
「―――え?」
思わず、目を見張る。
しかし江利子さんは、祐麒の表情に気がついているのか、それとも気がついていながら知らんふりをしているのか、楽しげに続ける。
「せっかくのクリスマスなんだもの、家族とパーティもいいけれど、男の人とデートして素敵なクリスマスを迎えたいわ」
「でも、あの、それは」
「あ、でも誤解しないで。別に豪華な何かを欲しているわけじゃなくて。ただ、一緒に食事でも出来ればいいのよ。ファミレスでもどこでも。いいでしょう、その日は特に何もないって言っていたし」
「それは、でも」
由乃さんとの、約束がある。
すると、不意に江利子さんの表情が翳る。
「……やっぱり、私なんかとデートするのは、イヤ?」
顔をわずかに俯かせ、小さな手で口元を隠し、心なしか潤んだ瞳で祐麒のことを見つめてくる。
「そ、そんなわけないじゃないですか。ただそう、江利子さんとデートなんて、俺じゃあ勿体無いというか、釣り合わないというか」
「じゃあ、私とデートするのが嫌って言うわけじゃ、ないのね?」
「そ、そりゃそうですよ」
そこまでくると江利子さんは。
先ほどまでの沈んだような表情から一転して、花開くような笑顔を見せる。身を乗り出し、祐麒の手を取り、どぎまぎしている祐麒に顔を寄せる。
「良かった、じゃあ問題ないわね。祐麒くんなら勿体無いなんてことないし、祐麒くんも嫌って言うわけじゃないなら。それじゃあ、クリスマスの日、楽しみにしているわね」
「え、いやでも、江利子先生」
「そうねえ、六時に駅前でどうかしら」
「ちょ、えっ? あの、江利子せん」
「あっ……と、そろそろお邪魔するわ。ちょっと今日、帰りに寄るところがあって」
腕時計の針を見ると、それまでの様子から一転、まるで祐麒から逃げるかのようにそそくさと帰り支度をして、止める間もなく江利子さんは祐麒の部屋から出て行った。慌てて追いかけて玄関先で捕まえたが、江利子さんは既にブーツに足を通していて。
立ち上がった江利子さんは、優雅にこちらを向き。
「楽しみに待っているわね、祐麒くん」
蠱惑的なウィンクを投げて寄こしてきた。
正面からまともに受け止めてしまった祐麒は、水中に没したかのように息をすることが出来なくなり、結局、何の言葉を紡ぐこともできずに、ただ玄関の扉が閉まる音が耳を素通りしてゆくのを、どこか意識の遠くで感じるだけなのであった。
クリスマスを翌日に控え。イブのパーティの喧騒も、楽しさも、過ぎてしまえばなんてことはなく、後に残るのは迷いだけ。
いまだに、どうするのか決めていないのは、なんて優柔不断なのだろうか。由乃さんとの約束、江利子さんからの誘い。どちらも同じ時間に、同じ場所。行けば、二人が鉢合わせするのは間違いないことで、それを止められるとした祐麒だけである。今ならまだ、間に合う。電話をして、都合が悪くなったとか、言うことができる。
だけど、どう電話しろというのか。あんなに怒っていた由乃さん、しかも明確な約束を交わしたわけでもない。電話をしたところで跳ね返されるかもしれないし、それどころか令さんや祥子さんと異なり、薔薇さまでない由乃さんの連絡先は聞いていなかった。祐巳に聞けば教えてくれるだろうが、当然、理由を尋ねられる。なんて答えればよいのか。
江利子さんにだって、電話して何を言えばよいのか。そう思いつつも、やはり最初に約束した由乃さんと会うべきだろうと考え、一度は思い切って電話をかけたのだ。しかし、電話に出たのは江利子さんではなく家族で、おそらく三人いるお兄さんの誰かだと思う。その人は、祐麒が『江利子さんはご在宅でしょうか』と聞いただけで露骨に不機嫌な声となり、江利子さんが不在ということだけ告げ、こちらの言うこともロクに聞かずに電話を切ってしまった。
それ以来、電話はしていない。
何の解決も出来ていないのに、時間だけは淡々と進んでゆく。
今ならまだ、電話をすれば間に合う。一人、考え込む祐麒だったが、簡単に結論が出せるわけもなく、頭がオーバーヒートしそうになる。少し冷静になろうと一息ついたところで、ふと、目に止まったものがあった。
机の上、参考書、ノートが重ねられたその下からはみ出して見える、明らかに教科書類とは異なるもの。
嫌な予感を抱きながら、指でつまんで抜き出してみると、それは祐麒宛の封筒。裏返してみてみれば、差出人は『支倉 令』。
封を開き、そっと出してみると、シンプルな便箋に丁寧な文字で書かれている文章。読み進め、祐麒は血の気が引いた。
"……もし良かったら、会えませんか? 25日の18時半、駅前で待っています"
最後に待っていた、この、一文。
シンプルな封筒。だから、気がつかなかったのか。確かに、学校の試験が終わり、家庭教師もひと段落ついたから、参考書を置きっ放しにしていた。
でも、これはないだろう。
消印を見てみれば、届いてから大分経ったということが分かる。気がつかないよりは良かったけれど、事態が良くなる見通しはつかない。既に前日となり、断りを入れるにしても、あとは明日の当日に言うしかない。随分と前に届いていたのに、当日まで何の連絡もせずにいきなりキャンセルをするというのか。
頭をかきむしる。
誰を受けて、誰を断ればいいのか。簡単に結論が出るものではないけれど、答えを出さないわけにはいかない。いくら祐麒でも、三人で仲良く、という雰囲気になどできないことくらいわかる。
まだ、自分の心も気持ちも固まっていないのに、誰か一人を選ばなくてはならないのか。
儚い美少女に見えて、実は勝ち気で強気、でもどこかおっちょこちょいなところのある、大きな瞳とお下げがよく似合う少女。
凛とした美少年のような容姿を持ちながら、とても女性らしい心を併せ持つ、ベリーショートの髪がこれ以上なくマッチしている女の子。
大人びているようでいて、時に子供のように可愛らしい、さらさらのセミロングの髪の毛も麗しい、どこか魔性の雰囲気を持っている彼女。
分かっている、自分の優柔不断さが招いた事態だということを。江利子さんに言われたとき、素直に約束があると言っておけばよかったのだ。令さんの手紙にしても、気がついてしかるべきだったのだ。
だから今、自分が悩んでいるのは自業自得なのだ……
と、その時。
部屋のドアが軽くノックされた。
「……はい?」
「祐麒、まだ起きていたの? 今夜は冷えるよ、雪も降っているみたいだし……ふあぁ」
時計を見れば、既に日付はとっくに変わり、いわゆる『丑三つ時』に近い時間になっていた。どうやらトイレにでも起きた祐巳が、扉の隙間から光の出ている祐麒の部屋に気がついて、声をかけてきたらしい。
「あ、ああ。もう寝るよ」
「うん、おやすみぃ……」
寝ぼけたような声と足音が遠ざかってゆく。
今さら、過去のことを悔やんだところで何が変わるわけでもない。無駄に時間を浪費するくらいなら、さっさと頭を切り替えて、明日どうするかを考えたほうがよほど健全だ。そうだ、明日にはきちんと答えを導き出そう。どれが正解かとか、間違えないようにとか、余計な思考を取り外し、自分がどうしたいのかを自分で選ぶのだ。
立ち上がり、そっと窓を開けると、冷気が室内に押し寄せてくる。祐巳が言っていた通り、比較的大きな雪が天からひらひらと降り注いでいる。
「ホワイトクリスマス、か……」
そんな単語に騙されたりしない。
祐麒はそっと、夜に向かって息を吐き出した。
落ちてくる雪は、街をほのかに白く覆い、闇に沈む世界を照らし出していた。
夜に降っていた雪も朝になるとやんでいた。しかし、世界は白に包まれていた。
屋根の上に積もっている真っ白な雪。人々の口から吐き出される吐息。
「うわっ、寒っ……」
窓を開けてみてみれば、雪の世界。由乃は手をこすりあわせるようにして、冷える指先をあたためようとした。
寒いのは苦手だった。
小さい頃から病弱で体も細く、寒さから守ってくれる肉が無かったのだ。細くていいね、なんていうけれど、それにも限度というものがある。体がよくなったとはいえ、幼い頃からの体はそう簡単には変わらない。
それでも、昔は寒くなるとすぐに風邪をひいたし、あまり外にも出してもらえなかったから、比較してみればずっと良くなっている。出かけようとしても止められることはなくなり、せいぜい、気をつけるように、暖かくしていくようにと声をかけられるくらいだ。
「寒い、寒い」
窓を閉めて、両手で軽く頬を叩く。
胸の傷は、まだ消えてはいないけれど、日常生活で気になることはなかった。傷も含めて、由乃の一部となっているのが分かる。
それなのに。
なぜか今日は、胸の傷が、疼く―――
凍りつくような冷気の張り詰めた道場の中、令はただ一人静かに竹刀を振っていた。夏は暑く冬は寒いと専ら評判の道場であるが、令は嫌いではなかった。特に冬場の時期、鋭ささえ感じる道場の空気は自らの精神を落ち着かせ、気を集中させるにはもってこいの場所であった。
竹刀を振っているうちに自然と体はあたたまり、動きもまた滑らかになっていく。体が固まっていた頃は一振り一振り、確かめるように。筋肉がほぐれてきた今は、流れるような動きで。
そういえば、昔から何か不安なことや、緊張するようなことがあると、道場にきて竹刀を振っていた。
昔から変わっていないなと、自分に苦笑しながら手をとめる。体はあたたまったが、汗をかくほどではない。
「……私、不安なのか。それとも、緊張しているのかな」
一人、呟く。
外は銀世界、というには大げさだけれど、雪が積もっていた。ホワイトクリスマスだなんて、令が好みそうなシチュエーション。
手紙のことも今日のことも、由乃には言っていない。
お互いに遠慮は無用だと、話し合い、誓い合ったから何も問題はないはず。
それなのに。
どうしても、心が、揺れる―――
クローゼットの扉を開けて、江利子はじっと固まっていた。
大金持ちのお嬢様ではないにしても、江利子の家はそれなりに裕福だ。三人の兄も、それぞれ成人し仕事を持っているが、未だに実家にいるせいか金回りに余裕はある。江利子への溺愛もあり、兄達は競ったように色々な物を買ってくれる。服もまた、然り。
だから、大きなクローゼットの中には、それこそ様々な服が溢れんばかりにある。可愛らしいものから大人っぽいもの、お気に入りの服もあれば、一回着たきりで終わっているものもある。
窓の外に目を向ければ、一面に広がる白の光景。
デートなんて、今までに何度もしてきたけれど、その相手はといえば実の親兄弟ばかり。
「そういうのは、本当のデートとは言わないか」
江利子はクローゼットに腕を伸ばし、服を手に取る。
もっとも、今日だってデートになるかどうかなんて分からない。一方的に約束を取り付けてきただけなのだ。カレンダー越しに見えた彼女に挑戦するかのように。
だから、気負う必要は無いのだ。
いつものように、泰然自若とした態度を見せていればいい。そして、事態を楽しめばいい。どのような方向に転んでも、面白いことになるに違いないのだから。
それなのに。
不思議と、気持ちが、落ち着かない―――
それぞれの想いを抱えながら、時は流れゆく。