聖リリアン帝国。
それは、大陸の中でも強大な力を持つ国の一つ。基本的に平和を尊び、自ら他国に対し侵略を行うようなことは無いが、自らの領土と尊厳が侵されるようであれば果敢に立ち向かい、相手を駆逐して長き混沌と戦乱の世を生き延びてきた。
国の大きな特徴としては、非常に優れた女性が多いということ。国を統べてきたのは歴代、女帝であったし、重要な役職に就くのも多くが女性だった。これは、女性ばかりを贔屓しているからではなく、純粋に女性に優れた人材が多いのである。民族的に、女性に優秀な遺伝子が引き継がれていくらしい。
もう一つ、政治的に大きな特徴としては"三薔薇制"であろうか。これは、頂点である女帝の下に、"紅薔薇"、"白薔薇"、"黄薔薇"の称号を持つ三人の女性が従い、政を行い、法を定め、軍を率いていくものだ。事実上、三薔薇が国を動かしているといっても過言ではない。各薔薇はそれぞれでファミリーを築くが、無駄な派閥争いなどを発生させないために、その人数規模は最小限のものに絞られている。
歴代の薔薇さまは見目麗しく、政治にも軍事にも長け、仕官することを望む少女たちの多くは、いずれ自らも薔薇ファミリーの一員となることを夢見ている。
時は大陸歴821年。
これは、そんなリリアン帝国より生まれ育った少女達の、冒険の物語―――ではないかと思われる。
さて、そんなリリアンの城下町。
昼間は健全で明るい町も、夜になるとあちらこちらで、昼には見られなかった光景が目に入るようになる。
酒場では派手な歓声が響き渡っているかと思えば、静かな薄暗い街角には肌を露出させた色っぽい女性が客寄せをしている。裏道の光も差さないような暗闇の中で、怪しげな薬を売る店があるかと思えば、ごく普通に見える家の中で派手な賭場が開かれていたりして、大陸一、真面目で健康的と言われているリリアンでも、それらのことを防ぐことはできない。まして、明日が国の祝日ともなれば、人々はいつもより羽目をはずし、夜遅くまで遊ぶというもの。
そんな夜の街の中を、一人の少女が歩いていた。理知的な瞳を油断無く周囲に光らせながら、静かに進んでゆく。
と、その行く手を遮るようにもう一つの影。
「――あら、可愛い娘ね、アタシの好みよ。どう、今夜アタシはいかがかしら?」
「ひっ、い、いえ結構です」
「そんなつれないこといわないで、貴女ならサービスするわよ」
「本当に、結構ですから、さようならっ」
娼婦の手から逃げるようにして、少女は足早に駆ける。
しばらくしてから、誰も追ってこないことを確認して、ようやく一つ息をつく。
「――もう、何度来ても慣れないわね、ここは」
通り抜けてきた道は大通りから外れており、それだけ怪しい店や人も多い。少女は額の汗を手で拭い、目の前の扉を見つめた。今までに何回か足を運んだことがあるとはいえ、どうしても扉に手をかけるときには余計な力が入ってしまう。
深呼吸をして、心を落ち着けて扉を開けて中に入る。扉を開けるとすぐ目の前に下りの階段がある。暗く、足元も覚束ない階段をしばらく降りていくと再び目の前に扉が現れる。ここまで来ると、扉一枚隔てた向こうの雰囲気が肌に伝わってくるのが分かる。
ノブに手をかけ、ゆっくりと回して、開く。
途端に、むわっとするような熱気とアルコールの匂いが押し寄せてきたが、中は意外なことに静かだった。いつもだったら、扉を開けた途端に。歓声とも怒号ともつかないような喧騒が押し寄せてくるはずなのだが。
不審に思いながらも中に入り、舞台の上に目を向けて納得した。
客席よりも一段高いステージの上では、静かでムーディーな音楽にあわせて一人の女性が踊っていた。今まさに、最高の見せ場を迎えようかという踊りに、誰もが声もなく見入っているのであった。
音楽は、舞台の端でただ一人がフルートを奏でているだけ。それなのに、曲は時に物哀しく、時に情熱的に、時に力強く響き渡る。決して、押し付けるようなものではない。意識しなければ、曲が流れているということを忘れさせてしまうくらいに、フルートの音色はこの空間に、客の心に溶け込んでいた。
そして、そのフルートの紡ぐ音に合わせるようにして踊る女性。腹部と腕、脚部を露出しているものの、全体的には肌を多く見せているわけではない。それなのに、妖艶さと色気を滲み出させるような動きとステップ。時に可憐な少女のように、時に熟成された大人の女のように、自由自在に踊りは表情を変えていく。
踊り子に感化されたかのように、巻かれた腰布や両手と両脚、そして首につけられたアクセサリ類が、まるで生命を持っているかのように揺れ動く。
店内で聞こえてくるのは、フルートの音色とステップを踏む音だけ。
歓声もなく、野次もなく、盛り上げようとする声もない、ただ踊りだけで人々を虜にしてしまう。この閉ざされた空間の中で、踊り子だけが存在していた。
普通の踊り子であればいやらしい、助平心丸出しの目で見つめてしまう男も、そんな下心を忘れてしまうくらい。
男だけではない。観客の半分は女性であり、うっとりと惚けたような表情で舞台の上を見つめている。
これこそ本当に人を"魅了"する踊りであった。
やがてフルートの奏でる曲はより激しく、より情熱的になってゆく。踊りもまた、それに沿って激しく、情熱的に。
踊り子の体を伝う汗が一層、色っぽさを引き立てる。激しい動きにあわせて飛び散る汗はさらに照明の光を受けて妖しい輝きを放つ。
弓なりにしなる背中。
指先一本一本が別の生き物のように動く。
凄絶な瞳に釘付けになる。
そして最終幕。
フルートの音とぴったりと合わせるようにして、舞いは終わりを迎えた。
静まり返る室内に、フルートの余韻のような、音ともいえない音だけが微かに残っていた。
数瞬の後。
一気に放たれる歓声、賞賛の声、再演を望む声。舞台に向けて投げられる無数の紙幣、コイン、花。
踊り子は肩で息をしながらも、くるりと回転しながら舞台の袖に消えてゆく。いつのまにか、フルート奏者も姿を消していた。
店内は、今までが嘘のように騒がしくなっていた。
そんな店内を尻目に、少女はそっと脇の扉を開けて部屋を出て行った。
廊下を進み、いつもの部屋の前で立ち止まりノックする。
「……はーい、誰ー?」
中から気だるそうな声がこたえる。これもいつものことで、少女は思わず笑いそうになった。
「私よ。開けていいかしら?」
「あー、どうぞ」
了解を得て、ゆっくりと中に足を踏み入れると、そこには先ほどまで舞台で踊っていた彼女が、ぐったりと壁に寄りかかるようにして座っていた。
「お疲れ様、江利子」
と、呼びかけると。
「やはは、蓉子、来てくれたんだ」
江利子は疲れた顔をしながらも、にこやかに微笑んだ。
蓉子は扉を閉めると、手にした袋から赤い液体の入った瓶を取り出した。
「差し入れ、持ってきたわよ」
「あ、それヴィルコットのワイン? やったー、それ大好き! あ、でもぉ」
目を輝かせながら立ち上がる江利子。まだ汗が流れ落ちる身体を揺らしながら、蓉子に歩み寄り、舞台の上では見せなかった、媚びるような目線と口調でしなだれかかる。
「蓉子が"ちゅー" してくれたほうが、元気が出るなぁ」
「何、図々しいこと言っているのよ、このデコ!」
「あ痛ッ?!」
いきなり現れたもう一つの人影が、素早く江利子の頭をはたいた。手にしているのはフルートだった。
「なにすんのよ、この異人!」
「そりゃこっちの台詞よ。いきなり蓉子に迫って。大体、蓉子はあたしのフルートを聴きにきてくれたんだから」
「はぁ? 何、まだ寝ぼけてるの。あたしの踊りを見に来たに決まっているじゃない」
いきなり、一触即発の喧嘩状態になるのを見て。
「二人とも喧嘩しないの。江利子の踊りも、聖の演奏もとっても素敵だったわよ」
蓉子は笑顔で、賞賛の言葉を二人に送った。
それで二人とも、とりあえず矛先を収める。そもそも舞台が終わったばかりで二人とも疲れきっているのだ。それなのに、毎度のように喧嘩をするというのはどういうことか、蓉子はいつも不思議に思う。
まあ、喧嘩するほど仲が良いともいう。いつもいがみあっているように見えるけれど、聖と江利子の二人は蓉子よりも付き合いの長い、いわば幼馴染である。悪口ばかり言い合うけれど、それでも同じ家に同居しているのだから、やっぱり仲が良いのだろう。蓉子がそのことを口にすると、揃ったように異を唱えるが。
「それにしても蓉子、大丈夫なの、こんな時間にこんなところに来て。蓉子のところの先生、厳しいんでしょう?」
「そうよ、真面目な神官さまが、こんな盛り場に」
そう、蓉子はお城に仕える神官だった。(正式にはまだ見習い)神官という職業柄、色々と規則といったものが厳しい。遊ぶことを禁止されているわけではないが、このような場所に出入りしていることを知られたら、厳しい師に何と言われるか分かったものではない。
それでも。
「……だって、久しぶりに江利子の踊りと聖のフルートが堪能できるのだもの。ちょっと、来るの遅れちゃったけれど」
蓉子は頬を綻ばせる。
この前、二人の競演を見たのは、半年くらい前だろうか。今日の客の反応を見ても分かるとおり、聖の演奏と江利子の踊りの腕は相当のもので、滅多に見せることがないのが勿体無いくらいだ。殆ど舞台にあがることはないものの、その確かな実力が人々の評判を呼び、幻のコンビとして噂に尾ひれがついて各所に流れている。事前の告知も何もされないため、舞台を見ることができるのは、本当に幸運な一握りの人であった。
更に加えると、舞台に上がるときは二人ともメイクをして、髪もつけ毛をしているため、正体を知っているのは蓉子を含めごく僅かな人に限られる。正体不明ということも、噂の熱を上げるのに一役買っていた。
しかし当の本人たちはというと、自分たちの人気や評判には全くの無頓着なのだ。
「本当に勿体無いわね。もっと舞台に上がればいいのに」
蓉子が首を傾げると。
「だって、あたしの本職は踊り子じゃないもの」
「あたしだって、フルートは本職じゃない」
声を揃えて言う二人。
しかし、だとしたら二人の本職は一体なんなのだろうと考える蓉子。
江利子は、何でも器用にこなす。踊り、歌、剣、学問、等々。それ故にどれが本職と考えるのかが難しかった。あえていうならば、弓を好んでいた覚えがある。遠くで動く標的を射るのが楽しいといっていた。なんでも器用にこなすだけに、難しいことにこそ楽しさを見つけ出すのかもしれない。
一方の聖はといえば、自称、吟遊詩人だった。確かにリュートの腕前はなかなかのものだが、正直に言えば今日耳にしたフルートの方が断然、上手な気がする。しかし聖はといえば、『だってフルートじゃ、弾きながら女の子を口説けないじゃない』などとのたまうのだ。はっきりいって、女の子を口説くために吟遊詩人になっているとしか思えない。
そんな二人だったけれど、蓉子にとってはかけがえのない友人だった。王立アカデミーで共に過ごした忘れられない数年間。今、三人の進む道は異なってしまったけれど、友情は途切れたわけではない。
でも、ちょっとだけ悲しくもある。蓉子たち三人はアカデミーでも特に目立つ生徒だった。そして、群を抜いて優秀でもあった。アカデミーの生徒の中から将来の幹部候補を見つけようとやってくる薔薇ファミリーの面々にもそれぞれ気に入られ、才能を認められ、いずれは三人が薔薇さまと呼ばれる日がくるのでは、と言われたこともあった。しかし今や残るのは蓉子だけ。日々の生活は充実していると思っているけれど、どこか物足りないとも感じるのは贅沢なのだろうか。
漠として思いにふけっていると、入り口の扉が控えめにノックされ、開いた。入ってきたのは店の人で、かき集めたおひねりを持ってきたのだ。
「おかげさまで今日は盛況だよ。なあアンタ達、本当にウチで定期的に演る気はないのかい?」
「ごめんねおばちゃん、都合のよいことばかりいって。でもこればかりは、ね」
「そうかい。ま、演じる気になったらいつでも言っとくれ。あたしゃ、いつでも歓迎だからね」
さして惜しむわけでもなく、店のおばちゃんは出て行った。これも、いつものことなのだ。
「さて、と。うひょーっ、結構入ってる♪」
「本当、やっぱり休み前は入りがいいわね」
目を輝かせる聖と江利子。
「これでようやく……」
「そうね、やっと……」
そして、同時に。
「「借金が返せる」」
と、肩を落とした。
蓉子は呆れたようにため息をついた。
「なに、あなたたち、『また』借金なんてしているの?」
「……だってー、しょうがないじゃない」
「そうよ」
二人は、互いに互いの顔を見て。
「聖が毎晩毎晩、大酒飲んでツケばっかり作って」
「江利子が勝てもしないギャンブルに注ぎ込むから」
「な、何よ、勝つわよ、たまに。それより聖ったら女の子ナンパするために見栄はって奢るから。いつも逃げられちゃうくせに」
「何さ、うまくいくことだってあるんだから、たまに」
「……ふうん、うまくいくこと、あるんだ」
「そりゃ、あたしだっていつも失敗しているわけじゃ……ってててて、よ、蓉子さん?!な、なんでそんな怖い顔しているのかなぁ?」
「あら、怖い顔している、私?」
聖と江利子の動きがぴたりと止まった。ついでに、顔色は蒼くなり、がたがたと震えだした。
「ほ、ほら、聖、女の子口説いてばかりいるあんたのせいよ。謝りなさいよ」
「ず、ずるい人のことばかり! 知っているんだからね江利子、江利子だってこの前、珍しく勝ったからって派手に遊んで、そのとき店の女の子をお持ち帰りして」
「し、してない……わよ」
「今の間はなにさ」
「うるさいわね、聖なんてアカデミーの時、こっそり蓉子のトレーニングパンツを盗ろうとした変態のくせに!」
「あれは江利子も一緒に一枚ずつ山分けにしたじゃないさ!」
「―――へぇ、あれは、アナタタチノ仕業だったのね」
「「…………あ」」
自分たちの失言に気が付き、おそるおそる、蓉子の顔を見上げる聖と江利子。
―――後になって、彼女たちはこう述べた。
『ええ、そりゃあもうあの時は死を覚悟しました。というか、意識がしっかりしているにもかかわらず、三途の川が確かに見えました』
『後にも先にも、あの時以上に恐怖を感じたことはありません。この前、うっかり単身でギガンテスと遭遇したときだって、あそこまでの恐怖はありませんでした』
―――と。
「……さて、二人とも」
にこやかな笑みを絶やさずに、蓉子は二人を見下ろしていた。聖と江利子の二人は、他人が見ていたら目も当てられないくらいに怯え、慄き、先ほどまで激しい口喧嘩をしていたのも忘れて、お互いに震える身体を抱きしめあっていた。
そしてそのことが、余計に蓉子の怒りを煮えたぎらす。
「随分と仲良しらぶらぶなのね、二人とも」
「ひぃっ?! ちちち違うのよ、これは」
「そ、そうよ、別にあたしたちは」
と弁解しながらも、目の前の恐怖に、無意識のうちに力が入る二人。結果、さらに強く抱き合う格好となり。
「っもうっ! 二人とも知らないんだからっ!!」
拗ねるようにして、蓉子は勢いよく部屋を出て行ってしまった。
「あ、よ、蓉子~っ」
「ちょっと待って、誤解よっ」
情けなくも、慌てて蓉子の後ろ姿を追いかける、踊り子と笛吹き。
店を出てしばらくしたところでつかまえて、拝み倒し謝り倒し、どうにかして「……もう、二人ともしょうがないわねぇ」という蓉子の言葉を引きずり出した。
「それにしても、江利子も聖も、そんなことをしていたなんて……まさか、この前なくなったアレも貴方たちの仕業じゃないでしょうね?」
「え? いや、最近は何も目ぼしいものは」
「んー?」
「あー、いや、そういえばあれ聞いた? 聖ミカエラに行っていた一行が銀の勾玉を手に入れて戻ってきたって」
あからさまに話を違う方向に向ける聖。
「聞いた、聞いた。いいよねー、旅。旅に出たいなー」
調子をあわせる江利子。
だが、その表情は決していい加減なものではなかった。
「でも、先立つものがないのよね」
「聖も江利子も、そんなに旅に出たいの?」
「そりゃそうよ。きっと刺激的で楽しいわよ。色々な国を巡って、色々な人と出会って、時にはお宝探して危険を冒したり」
「蓉子だって、いつかは外に出てもっと知識を深め視野を広げたい、って言っていたじゃない」
「言ったけれど……でもまだリリアンでも学べることはいっぱいあるし。見習い中の身で、そんな贅沢なこと」
蓉子が正論を述べると、聖と江利子は二人して、やれやれ、といった表情をする。
「本当に蓉子は生真面目ねえ。そんなこといっていると、あっという間におばあちゃんになっちゃうわよ」
「まあまあ、そこが蓉子のいいところでもあるし」
「なんで、私が同情の目で見られなきゃならないのよ」
軽口を叩きながら、三人並んで夜の街を歩いてゆく。
怒ったり、言い合ったりするけれど、それは決して不快ではなく。心を許せる友人だからこそ、思ったことを口にできるわけで、王宮内では得られないような安堵感を蓉子は感じていた。
もちろん、この時点で数日後に"あのようなこと"になるとは思ってもいなかったのだが―――