幼稚舎から長年親しんだリリアンも、今日をもって卒業することになる。卒業式の会場に向けてのクラスの列に並びながら、リリアンでの日々をしみじみと思い返す。自分がこんな、感傷的になるとは思わなかった。特に、イベントや、学校行事にいれこんだわけでもないし、友人づきあいが豊かだったわけでもない。将来を見据え、ひたすら勉学に励んできたという記憶が殆どだ。
でも、それでも最後に。
「寒いわね。早く、中に入りたいわ」
「もう少しの我慢よ」
前に立つ江利子さんが、腕をさすりながらぼやく。
リリアンで得られた、最大の、最高のもの。
「克美さんは寒くないの?」
「私だって寒いわよ。でも、仕方ないじゃない」
今は私の、恋人。
とはいっても、恋人らしいことなどまだ何もしていないから現実感がないけれど、それでも間違いないこと。
もちろん、家族にもクラスメイトにも、誰にも秘密だ。
最初のデートのとき、江利子さんが自身の家族に『恋人』として紹介しようとしていたのを、頼み込んでなんとか思いとどまってもらい、『友人』として紹介されたから、本当に私たちのことを知っている人は、誰もいない。
だって、言えるわけがないではないか。私と江利子さんは、女同士なのだから。
「ねえ、克美さん」
その時、後ろに並んでいる寝屋川海さんが、話しかけてきた。
「克美さん最近、良いことでもあったのかしら。失礼だけれど、前は少し話しかけづらい雰囲気があったのに、今は随分と柔らかくなっている気がして」
「え……そ、そうかしら」
自分では気がつかないが、そうなのだろうか。確かに、今まで海さんから話しかけられた記憶はないけれど。
「それに、最近、随分と江利子さんと仲がよいみたいで」
「えっ、そ、そう?」
思わず、びくっとする。
あからさまに分かるくらい、態度や言葉に出ているのだろうか。まさか、だからといって江利子さんと付き合っている、などとは思われないだろうけれど。
そう、思っていたのだけれど。
不意に伸びてきた手が腕に絡み。
「――あら、海さんには分かっちゃった? 実は私と克美さん、ラブラブなのよ」
「んなっ、え、江利子さんっ」
腕を組み、ぴったりと身を寄せてくる江利子さん。
「ええっ、江利子さんと克美さんが?」
「知的カップルね。きゃっ、なんか、素敵っ」
「意外と、お似合いかも」
海さんだけでなく、近くにいた他の子たちも入ってきて、私と江利子さんのことで盛り上がっている。もちろん、皆は冗談だって分かっているのだろうけれど、私としたら心臓爆発モノである。
卒業式が終わった後で文句を言ったら、江利子さんたらまるで反省した様子も見せず、
「少しくらいスリルがあったほうが、面白いじゃない?」
なんて言って、肩をすくめるだけ。
こっちとしてみれば、面白いとかそういうものではない。そもそも、何もしなくたって今の状態がスリルなのだから、スリル倍増するようなことをあえてしないで欲しい。
改めて苦言を呈すると、
「怒った克美さんも、可愛いわね」
なんて、的外れなことを言ってきて。
でも結局、そんなことを言われて赤面している自分自身が、一番馬鹿なんだろうなと思った。
大学に入ると、別々の大学に通うので当然のように会う機会は減る。受験も終わったので春休みの間はそれなりに会い、デートもして、まあ楽しかった。
休みが終わり、新たな生活が始まると、途端に私は不安に襲われ始めた。
今までと異なり、江利子さんの姿が普段、見られなくなったというのもあるし、加えて何より江利子さんは美人だ。進学した先は男女共学だし、周囲の男性が江利子さんほどの女性を放っておくはずがない。
江利子さんだって、素敵な男性に好かれれば、悪い気はしないだろう。私なんて、外見は貧相だし、性格は面白みがないし、そもそも女だし。江利子さんが私の告白を受けてくれたときだって、女同士というのも面白そうだから、なんてことを言っていた記憶がある。考えれば考えるほど、江利子さんが私に飽きるのではないかと怖くなる。
「……ちょっと克美さん、聞いている?」
「え、ああ、ごめんなさい」
変な考えに沈みこんでいた。
慌てて顔を上げれば、久しぶりに見る江利子さんの姿は、相変わらず美しい。ヘアバンドをした髪型は昔と同じだけれど、全体的な雰囲気が高校時代と比べて大人びてきたように見えるのは、私の目を通しているせいだろうか。
「もう、せっかく二週間ぶりに恋人に会ったのに、上の空なんて」
口を尖らす江利子さん。ぷんぷん、といった擬音が似合いそうな顔をしている。
いけない。言われたとおり、半月ぶりのデートだというのに、余計なことを考えているなんて。
「ホント、合コンなんて別に行きたくないけど、なんか友達にどうしてもって誘われて、断れなくて」
それはきっと、合コン相手の男連中が、江利子さんを目当てにしているからだろう。江利子さんが出席しないと目ぼしい相手が来ないから、どうしても江利子さんを持ち出そうとするのだ。
「克美さんも、合コンに行ったりする?」
「まあ……たまに」
別に行きたいわけではないのだけれど、一年生という立場で、誘われてはなかなか断れない。私みたいな地味な女でも、女ということで男の人はそれなりに話しかけてくるけれど、正直言って鬱陶しいというしかない。
と、いきなり江利子さんが前に身を乗り出して、テーブルの上に置かれていた私の手を握ってきた。
「克美さん、男に言い寄られたりしていない? 心配だわ~」
「え、そんなのないわよ、私に限って」
「嘘。だって克美さん、可愛いもの。絶対、目つけてる男とかいるわよ」
「いないと思うけど……そ、それより恥しいから手、離してくれない?」
きょろきょろと、周囲を窺ってから小声で言う。手を握られるのは嬉しいけれど、今は喫茶店内なのだ。
近くの席に陣取っているカップルや、通りがかるウェイトレスがちらちらとこちらの様子を気にしているように見える。
「相変わらず、克美さんてシャイね」
手を離し、少し残念そうな江利子さん。
とりあえず今のところ、江利子さんからも好意を寄せられているようで、ほっと胸を撫で下ろすのであった。
喫茶店を出た後は、ウィンドウショッピングをして、江利子さんの希望でゲームセンターに行って一緒に写真を撮ったり、クレーンゲームに興じたり、ガンシューティングでゾンビを撃ちまくったりした。
夕食は、ありふれたファミリーレストランでとったけれど、楽しかったし美味しかった。誰と食べるかで、食事はこんなにも変わるものだと、私はつい最近知った。
食事を終え、帰り道をゆっくりと歩く。早めに食事にしたから、時間はまだ二十時前。江利子さんの家の門限は、大学生になって二十二時まで延びたらしいから、まだしばらくの猶予がある。
私たちは途中の公園に寄り、自動販売機で紅茶を購入してベンチに座った。
春になり、夜となってもさほど寒いと感じるほどではなくなっていた。
お互いの大学での講義、友人、学食など、他愛もないことを話し合って、やがて訪れる沈黙。決して嫌な間ではないけれど、なんとなく手持ち無沙汰になって、手にした紅茶をちびちびと飲んで時間を費やす。
ふと、違和感を受けたのは、あと少しで紅茶を飲み終えようかとする頃だった。足を踏み入れたときから人の影はあったが、気にしてはいなかった。しかし今、こうしてよくよく目を凝らして見てみると、街灯の下のベンチ、芝生の上、至るところに姿が見えるのは、どこもかしこもカップルばかり。しかも、その、なんというか目のやり場に困るような行為をしているのが、分かる。女同士でいるのなんて、私たちくらいしか見当たらない。
どうやら、カップル御用達の公園にまよい込んでしまっていたようだ。
「ちょ、ちょっと、え、江利子さん」
どこに目を向けたらいいのか分からず、赤面しながら隣の江利子さんを肘で軽くつつく。
「ん、なぁに、克美さん?」
と、江利子さんは下から見上げる形で、聞き返してきた。
「うっ……」
やばい、その上目遣いで見つめてくる表情は、反則だ。
ってゆうか何、いつの間にか江利子さん、私にもたれるような格好で手を握り、その大きな瞳に私を映す。
腕に感じるのは、ふくよかな江利子さんの胸の感触。
首筋に吹きかかる、吐息。
「どうしたの、克美さん。顔が赤いわよ、大丈夫?」
さらに、顔を近づけてくる。
目を背けようとしたが、他のカップルが丁度キスするところが目に入り、もう、どこを見たらよいのか分からない。
「ねえ、克美さん……?」
動く江利子さんの唇は、どこか艶めかしく、わずかに塗られたリップが弱い街灯の光によって妖しく揺らめいて見える。
「え、江利子さ……ん……」
すっと手が江利子さんの頬をとらえ、誘われるように唇が吸い寄せられてゆく。
あと少し、あとわずかで触れようかとしたその時。
「そ、そろそろ帰らないと、門限、危なくない?」
さっと、身を離す。
「……あ、そうね。確かに」
時計を見て、呟く江利子さん。
しかし、今のは危なかった。まだ、胸がばくばく言っている。状況に流され、引き寄せられるように、江利子さんの可憐な唇を奪おうとしていた。直前で、かろうじて残った理性を総動員して止まったが、私はどうしてしまったのだろう。今まで、キスなんてもちろん一度もしたことないのに、自分から進んでしようとしたなんて。
いや、江利子さんだし、それは別に嫌っていうわけではないけれど、やっぱり、女同士でというのはどうなのだろう。それに、私が嫌ではないとしても、江利子さんがどう思うかは分からない。私と付き合っているとはいえ、そんな、直接的、肉体的な接触を同性で行うことには抵抗があるかもしれないではないか。いやむしろ、その方が自然ではないだろうか。
「どうしたの、克美さん。帰らないの?」
いつの間にか、先に立ち上がっていた江利子さんが、ベンチに座ったままの私を見下ろしていた。
なんでもないと答えながら立ち上がり、軽く頭を振る。
本当に、私はどうかしている。
久しぶりに江利子さんに会うことが出来て、精神が昂ぶっていたのだろう。
そう思うことにして、私と江利子さんは帰途についたのであった。
六月に入り、梅雨となって最近は雨ばかり。せっかくの休日だが、こんな天気では外に出かけようなんて気も起こらない。何か本でも読もうかと思い、本棚の前で背表紙と睨めっこしてみたが、いまいちピンとこない。出来れば気楽に、肩の力を抜いて読めるような作品がよいが、生憎、自分の蔵書にそのようなものはない。
諦めて、たまにはテレビでも観ていようかと部屋を出たが、妹の部屋の前で足が止まった。特に何かを期待したわけではないが、自分と妹では嗜好がかなり異なるので、ひょっっとしたら今まで読んだこともない、面白い本を持っているかもしれない。
部屋の扉をノックし、返事を受けてから中に入る。
いつ入っても、私と違って可愛らしい部屋だ。全体的に、淡いイエローでまとめられた、華やかな女の子らしい部屋。
当の妹の笙子は、ミニコンポから流行の音楽を流し、ベッドの上にうつぶせに寝転がりながら何かのコミック雑誌を読み、スナック菓子に手を伸ばしていた。とてもじゃないが、お嬢様学校に通うお嬢様の優雅な休日の姿には見えない。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
「ちょっと暇だから、何か本でも借りようかと思って」
言うと、目を丸くして笙子はベッドの上に起き上がった。瞳の大きい笙子は、姉である私から見てもとても可愛らしい。かつて、モデルをやっていたというのも頷ける容姿で、地味な私とは本当に姉妹なのかと疑いたくなる。
「お姉ちゃんが読むような、小難しい本はないよ」
決め付けないでっての。
私は妹を無視して、本棚に並ぶ本に視線を移す。少女漫画、少女小説、推理小説といった、私の蔵書にはない種類の本ばかり並んでいる。
試しに、一冊のコミック本を手に取ってみる。少女漫画らしい、大きな瞳の女の子二人が表紙を飾っている。どうせどれを選ぼうと、何も分からないのだから同じだ。それならば、最初に手にしたのを持って行くのもよいだろう。既に何冊か刊行されているようだが、とりあえず三冊ほど取り出す。
「これ、借りていくわね」
「……どうしたの、お姉ちゃんが漫画読むなんて。興味あったの?」
「ん、なんとなく。時間を持て余していて、ただの暇つぶしよ」
すると、なぜか笙子は私の目の前で、変な笑みを浮かべていた。
「何よ。気味悪い笑い、しないでよ」
「お姉ちゃん、変わったよね」
「何が」
「なんだろう。以前なら、私の漫画を借りるなんて、絶対に無かった。それだけじゃなくて、表情とか、全体的に柔らかくなったというか……ね、好きな人でもできたんでしょう?」
妹のその一言に、思わず動揺する。
そして、妹の笙子には、私のその動揺は伝わってしまったようで。
「あ、やっぱり本当に? ねえねえ、どんな人? 私も知っている人?」
途端に、目を輝かせて尋問してくる。前からミーハーな子だとは思っていたけれど、自分に被害が及ぶのは勘弁だ。
「そんなのどうでもいいでしょう。私のことなんかより、笙子はどうなのよ。好きな人とかいないの」
無理矢理、矛先を妹自身に向ける。
半ば、逃げるための質問だったのだが、意外にも笙子は素直に頷く。
「うん、いるよ。えへへー」
子犬のような笑顔を咲かせる。見ている方が幸せになってしまうくらい、幸せに満ち満ちた表情。
子供っぽいと思っていた妹が、なんだか急に大人っぽくなったように見えた。人を好きになるということは、こんなにも人を変えるのか。だとしたら、私もまた妹が言うように、変わっているのかもしれない。
「そう……じゃあ、しっかりやりなさいよ。これ、借りていくわよ」
その時、奇妙な音が鳴り響いた。音の出所を探ろうとすると、見つけるより先に、笙子が枕元に置いてあった携帯電話を素早く手にとる。
「もしもし、乃梨子さん? うん、大丈夫、暇だったから……え、本当? えー、それって嘘じゃないの」
友達からの電話のようで、すっかり私のことなど忘れてお喋りに夢中になっている。苦笑しながら、私は妹の部屋を出た。
……ただ少し気になったのは、電話をしているときの笙子の笑顔が、好きな人がいるといったときの笑顔と同じだったということだ。
まさか、ね……
で、部屋に戻って少女漫画を読んで驚いた。最近の少女漫画は、こんなにも過激な内容になっているのかと。
いや、だってこれ……主人公の女の子と、同級生の女の子の恋愛物で、キスシーンはもちろん、直接的描写はないものの明らかに性的交渉をしたとしか思えない描写まであって。
正直、私は読みながら赤面していたと思う。
同時に、夢中になって読み進めてもいた。
ヒロインの女の子は、同級生の女の子に好意を打ち明けられる。同級生の女の子は、モデルのような容姿をした、学園のアイドル的存在。比べて、主人公はごく普通の目立たない少女。
戸惑いながらも惹かれていき、やがて二人は両思いとなるが、同性同士の恋愛、障害やハプニングが二人の前に立ちふさがり……というような内容。
読みながらどこか私は、主人公の二人に、自分自身と江利子さんの姿を重ねていた。だから、キスシーンや、初めて体を重ねる場面などでは、余計に想像力というか妄想力が掻き立てられてしまう。
三巻の終わりでは、二人のキスシーンが他の人間に見られ、動揺したヒロインは無理矢理奪われたと嘘をつき、そのせいで二人の関係に亀裂が入ったところで終わっていた。私は続きが気になり、またも妹の部屋を訪れた。
「笙子、入るわよ……?」
ノックと同時に扉を少し開けると、話し声が聞こえてきた。
私が読むのが早いとはいえ、一時間ほどは経過している。まだ、お喋りしているのだろうか。携帯電話の通話代だって馬鹿にならないし、その料金は両親が払っているというのに、などと考えていると。
「……うん、うん。私も好きよ、乃梨子さんのこと……ホントだってばー、電話で言うのだって恥しいんだから……え、今度の土曜日、菫子さんがいない?……うん、絶対行く! お泊まり?! あ、う、うん、大丈夫、今度は私が受けで……」
私はそっと、扉を閉めた。
よく分からなかったが。とにかく、笙子はやっぱり、私の妹なのだなと。いや、むしろ私の方が、この妹にしてこの姉あり、ということになるのだろうか。
とにかく私はこの夜、目を閉じれば浮かび上がってくる江利子さんの唇に悶々として、殆ど眠れなかったのであった
おしまい