運命の罠、偶然の落とし穴、そんな言葉が心と身体をがんじがらめにしてくる。
果たして、いつの頃から捕らえられてしまったのだろうか。あまりに心地よく、あまりに魅力的だから、捕まってしまったことに気がつかなかったのか。
それとも
大騒ぎとなった後、笹山たちの持ち込んできた食材で鍋パーティが始まり、なぜか江利子さんも含めてまた一騒ぎした。もちろん、江利子さんが元の服に着替えた後である。
蔦子さんも落ち着きを取り戻し、江利子さんも逆なでするようなことは口にしなくなり、なんとか平和に鍋パーティを終えて、どうにかこうにか全員を送り返して部屋に戻ると、そこはまさに祭りの後。ろくな片付けもしないままに追い出したため、室内は嵐のあとのような惨状であった。とりあえず、最低限は綺麗にしようと腰をかがめたところで、玄関の開く音が聞こえた。
「あれ、忘れ物ですか?」
振り返ると、帰ったはずの江利子さんの姿があった。
「チャオ♪ やあねえ、片付け、手伝いにきたんじゃない」
手を振りながら気さくに上がってくると、手際よく散らかっているものを片していく。ちなみに、しばらく前に合鍵を渡してしまっているので、部屋には自由に入ってくることが出来るのだ。
祐麒は特に何を言うでもなく、軽く息を吐いて肩をすくめた。
それを了承の印と受け取ったのか、江利子さんはわずかに微笑むと、無言で部屋の掃除を進めていく。
さすがに二人で片付けると早いな、と思いながら江利子さんの方を盗み見てみると、まるで自分の部屋であるかのように、迷うことなく動いている。狭い部屋だとはいえ、あっさりと掌握されてしまったものだと思う。
そしてまた同時に、随分と江利子さんの物が増えてきていることにも気がつく。
自分の生活が侵食されてきているのかと考えるが、不思議と圧迫感や不快感を抱くことはなかったし、そこまで生活に介入されている感じもしない。距離の置き方が上手いのだろう。今日みたいなのは、第三者の目があるから特別で、普段はそこまで押し付けがましくないし、祐麒の生活の邪魔になるようなことはない。
気がつくと、江利子さんはキッチンで洗い物をしていた。水の流れる音、食器の触れ合う音に混じって、歌を小さく口ずさむ江利子さんの可愛らしい声も聞こえてくる。こうして見ると、江利子さんは綺麗だし、家庭的なことも嫌な顔せずにこなすし、とても魅力的だということが改めて分かってしまう。
あとは気まぐれで気分屋で、トラブルを楽しむというか、自ら生み出すようなことさえなければと思ってしまう。
「はあ……あれ?」
手にしていた物をしまおうと、チェストの棚を開けると、なにやら祐麒の身に覚えの無い物がしまいこまれていた。
こんなところにハンカチやタオルをしまった記憶はないと思いながら手に取ってみると、それはなんと、明らかに江利子さんの下着だった。
手に取って広げてみて、思わず赤くなる祐麒であったが。
「やだっ、ちょっと祐麒くん、何しているのよっ……」
キッチンから江利子さんが飛んできて、祐麒の手から下着をひったくるようにして奪い棚の中に収納し、勢いよく棚を押し戻す。
「この段は、私のだから祐麒くんは開けちゃだめだからね……エッチ」
「ご、ごめんっ」
勝手に使用されているというのに、なぜか謝ってしまう祐麒。
江利子さんは口を尖らせている。珍しく、恥しがっているのかと思ったのも束の間。
「もう……見たいなら見たいって言ってくれれば、そんなのじゃなくて、ちゃんと穿いているのを」
「い、いいですからっ」
「あらそう?」
と、すぐにからかわれてしまう。
これでは、いつまでたっても彼女には敵わないと、ついため息をついてしまうのであった。
片づけも落ち着き、江利子さんの淹れてくれたお茶を口にする。時刻は二十二時近くとなっていたが、鍋パーティは延々と繰り広げられていたため、腹は減っていなかった。
「それにしても、わざわざ帰ったフリするなんて」
「一応、祐麒くんに気をつかって帰ったように見せかけてね。あのまま居残ると、また何か言われそうだったじゃない」
「そういう気は、もっと最初につかってください……」
「何、蔦子ちゃんに誤解されると、まずいのかしら?」
テーブルの正面に座り、江利子さんが見つめてくる。
あの瞳を真っ直ぐにとらえると、魅入られるように引きずりこまれてしまうから、祐麒はわざと横を向いて視線を逸らし、意識的に話の方向を変える。
「それより、江利子さんこそ、なんであんなことを……本当に俺とのこと、誤解されちゃいますよ」
「あら、私は構わないけれど? というか、嘘じゃないでしょう」
澱むことなく切り返され、『むしろ、貴方はどうなの?』とでも言うような目で祐麒のことを見つめてくる。
祐麒はすぐに何かを言い返すことも出来ず、口ごもる。
しばらく、壁掛け時計の針が刻む音だけが、静かな室内に響き渡る。そういえば、この壁掛け時計も引越し祝いにと、江利子さんからプレゼントされたものだと思い出す。
「……大体、祐麒くんの方がいけないのよ」
無言を破ったのは、江利子さんの方だった。
「俺が、ですか」
「そうよ。他に好きな女性がいるならいると、私のことが嫌いなら嫌いと言えばいいじゃない。でも、祐麒くんは何も言ってくれないから、私困っちゃう。私、ヴァージンどころかファースト・キスだってまだなのよ? 祐麒くんがいつかしてくれると思って、大切にとってあるのに、全然、素振りを見せてくれないから」
「いや、あの、そ、それは」
「私のこと、嫌い?」
「そ、そんなわけないじゃないですか……それに、それを言うなら、江利子さんだって俺のこと、からかっているだけなんじゃないですか? 江利子さんだって俺のこと、好きだなんて言ったことないじゃないですか」
「えー、こんなに全身からラブラブ光線を出しているのに?」
「からかっているようにしか見えませんから」
「あら、ひどい」
「大体、本当になんで俺なんかにそんなに構うんですか」
「だって、一緒にいると色々あって飽きないし、面白いし、愉快だし」
「はあ……」
やっぱり、江利子さんはトラブルに見舞われやすい祐麒と一緒にいることにより、刺激的な生活を送れることを堪能しているだけなのだ。
どこか、心の奥底でほんのちょっとだけ期待していた気持ちが霧散する。
そんなときに彼女は。
「それに」
言いながら足を組みなおし、姿勢を変えて。
「祐麒くんと一緒にいると、楽しいから」
無邪気ともとれる笑顔を見せる。
その不意打ちに、祐麒の息が詰まる。
油断していると、心を根こそぎ持っていかれそうになる。彼女自身に自覚はないのだろうが、艶然とした姿よりも、時折見せる邪気の無い姿の方が遥かに祐麒の想いを掻き乱す。
夜に、部屋で二人きり。
今までにも何度かあった状況にも関わらず、興奮が高まってくるのが分かった。このままではまずい、と感じ始めた祐麒を救ったのは、風呂が沸いたことを知らせる電子音だった。
「あ、俺、汗かいちゃったから風呂入ってきます。江利子さんも、十時だしもう帰ったほうがいいですよ」
「大丈夫よ、だってもう祐麒くんとのことは、父や兄貴達にも公認なんだから」
楽しげに言う江利子さんに背を向け、逃げるようにして祐麒は洗面所に入る。
浴槽の熱い湯に身を浸し、シャワーで汗と疲れと妙な気持ちを洗い流す。
熱い滴を全身に受けながら、祐麒は改めて江利子さんのことを考える。
彼女は本当に、自分のことが好きなのだろうか。からかっているだけではないかとずっと思ってきたが、好きでもない男の部屋に平気で泊まったりするだろうか。それだけでなく、挑発的な格好で誘惑をしてきたり、思わせぶりな態度をしてみせたり。
この状況で何もしないというのは、男としてどうなのか。女性の方があんなにも積極的に迫ってきている、垂涎の状況で。
祐麒の方が男だから力があり、祐麒がその気になれば逃げられないだろうことくらい、予測しているはずで、それにもかかわらず誘いとしか思えないようなことをしてくるのは、本当にそうなってもいいと考えているからなのか。
江利子さんのことは、嫌いではない。嫌いな女性に様々なことに振り回されて平気でいられるほど、図太いつもりはない。だけれども、どうせ江利子さんは祐麒で楽しんでいるだけだと思っていたから、変な欲をかかないように、都合の良い方向に考えてしまわないようにと自然とブレーキをかけてきた。ピエロにならないように。
でも、もしも江利子さんの態度が冗談などでなく、本心を表しているものだとしたら。
「あー、もう考えるのやめっ」
シャワーを冷水に切り替えて、熱くなった頭も体も冷やす。体がキュッと引き締まっていく感覚が心地よかった。
さっぱりとした体の上から新しいシャツを羽織り、頭からバスタオルをかぶる様にして洗面所から出る。
暗示をかけるかのようにして気分を切り替えたため、雑念は払われていた。しかし、余計なことを考えないようにしすぎていたせいか、逆に気が抜けすぎていた。
とんでもないことをしてしまったのは、この直後。
江利子さんにも帰るよう言っていたし、加えて、タイミングも悪かった。逃げるようにして風呂に入ったため、風呂に入る前に行かなかった。
だから何も考えずに、トイレのドアを開けてしまった。
そこにいたのは、便座に座っている江利子さん。
「―――」
お互い、硬直してしまい、声も出ない。
だけど、体が動かなくても止まらないものもあるし、声は出なくても出続けてしまうものもあるわけで。
「ご、ごめっ」
短い単語すら最後まで言うことが出来ず、勢いよくドアを閉じる。
部屋に戻り、テーブルの上に置いてあった烏龍茶のペットボトルの蓋を開け、三分の一ほど残っていたのを一気に飲み干す。
しかし。
先ほどの江利子さんの画像が頭の中に浮かび、落ち着くことなど出来ない。顔が熱くなってくるが、祐麒など以上に、遥かに江利子さんの方が恥しいに違いない。
この後、どうした態度をしたものかと混乱した頭で考えがまとまらないうちに、トイレのドアが開き、身を硬くする。
ゆっくりと近づいてくる気配。
恐ろしかったが、とにかく謝るしかないと、祐麒は目をつぶり思い切って江利子さんの方に体を向けた。
「あ、あのっ。江利子さん、その今のはっ……」
言い切らないうちに、江利子さんが胸にぶつかってきた。祐麒のシャツを握り、頭を胸に押し付けてくる。
肩が、わずかに震えている。
無言でただ、シャツを強く握り締めている。
祐麒はどう言葉をかければよいのか分からず、そっと、思っていたよりもずっと細い肩に手を置こうとして、フリーズした。
「……ゆ、ゆ、祐麒くんの……馬鹿っ」
江利子さんが、顔を上げる。
「信じられない、ホント、もう、馬鹿馬鹿バカ……とにかく、バカっ!」
江利子さんも、何を言えばいいのか分からなかったのだろう。彼女らしくなく、ただひたすらにバカという言葉を投げつけてくる。
激しく動揺していたということなのだろうが、祐麒にしてみればそれどころではなかった。
何しろ、見たことがないくらいに顔を真っ赤にして、涙目になっている江利子さんが、滅茶苦茶に可愛かったから。
「うう、なんか祐麒くんには恥しいところばかり見られている気がするわ。初デートの時のこと、思い出しちゃった」
手に、力が入る。
「も、もう、どうしてくれるのよ。私、あんなところ見られちゃって」
当たり前だが、さすがの江利子さんも相当に恥しかったようで、かなりのパニック状態に陥っている。しかし、普段は見せられることのない取り乱した姿、何より恥じらいに泣きそうな表情が、反則的なまでの威力をもって祐麒を打ちのめしていく。
「ちょっと祐麒くん、あなた……きゃっ?!」
「ホント、すみません。恥しい思いをさせてしまって」
あまりの可愛さに、祐麒は衝動的に華奢な体を抱きしめていた。
祐麒の腕の中で、江利子さんは身を硬くしている。
「お詫びに、俺にできることなら何でもしますから」
「ちょっと、な、何で抱きしめてくるのよ」
「いや、だって、江利ちゃんが凄く可愛いから……それにごめん、俺、ちょっと興奮しているかも」
「へ、変態?」
「だって、江利ちゃん、凄く可愛い」
「ま、待って。あの、嫌っていうわけじゃないんだけれど、その」
先ほどのことがまだ尾を引いているのか、いつものような余裕も見えない。祐麒に押されるかのように、まだ顔を真っ赤にしたまま祐麒の腕の中で身を小さくしている。その様は、祐麒の理性を破壊せんばかりであった。
止めようと思っても、止められない。右手が動いて、江利子さんの胸に触れる。服の上からでも分かる、豊かな膨らみと弾力。
「え、あ」
小さな声をあげる江利子さんだったが、祐麒は構わずに撫で続けた。服の上からでは物足りず、ブラウスのボタン上二つを外して中に手を滑り込ませる。下着の生地の感触と同時に、下着に収まりきらない胸の、肌の感触が直に伝わってくる。
今までにも、何度かこの胸の感触を味わったことはあったが、それはアクシデントや不可抗力によるもので、自分から積極的に求めていった記憶はなかった。
今となっては、なぜ、こんなにも心地よいものを放っておいたのか、不思議な気がする。女の子の身体というものはこんなにも柔らかくて、気持ちよくて、触れているだけでとろけそうになるというのに。
「や、ちょっと、ゆ、祐麒クン?」
困ったように、頬を赤くして上目遣いに見上げてくる江利子さんは、分かっていない。そういった仕種、表情が余計に祐麒の欲情を煽っているということを。
「江利ちゃんが、欲しい」
ブレーキが壊れてしまったようだ。自分でも信じられないような言葉が、口をついて出る。興奮と欲情で下半身は燃えるように熱く、それは抱きしめられ押し付けられる格好となっている江利子さんにも伝わっているはずだった。
初デートのときは、祐麒はまだまだ子供だった。だが今は違う。半年間という二人の空白は一気に埋まり、かつては成し得なかったことをしたいという欲求が、胸のうちから自然にわきあがってくる。純粋に、江利子さんが欲しいという、人として、男としての欲望。
手を、お尻の方にも回す。
スカートの上からではあるが、肉付きの良い江利子さんのお尻を感じることができる。さらにスカートをたくしあげ、太腿を手の平でゆっくりとなぞるようにしながら、ショーツ越しに臀部を撫で上げる。
江利子さんは、身を固くする。
「ま、待って。嫌じゃないのよ? でも、その前に、祐麒くんの気持ち、聞かせてくれないと……」
自身の、気持ち。
再び、考え出す。
嫌いなわけがない。こんなにも綺麗で、魅力的で、祐麒のことを振り回してくれる女性は他にはいない。
普段の飄々とした仕種も、時折見せる無邪気な笑顔も、何か悪戯を思いついたときの小悪魔のような瞳も、そして物憂げな横顔も、全てが祐麒の心の中に染み込んで抜けることはない。いつの間にか、祐麒の心の中は彼女に占められてしまっていたのか。
分からない。ただ分かるのは、今は目の前の彼女しか見えないということ。
触れている彼女の胸からは、わずかに鼓動の音が聞こえてくるようだが、果たして自分のものか、それとも江利子さんのものなのかも判別がつかなかった。抱きしめる体は柔らかく、いつまでも手で包んでいたいような心地よさ。
祐麒は口を開くことなく、江利子さんの頬に手を添え、見つめる。そしてゆっくりと、顔を近づけてゆく。
江利子さんの体に力が入るのが分かった。だが抵抗する素振りは見せない。やがて彼女は頬を赤く染めたまま、潤んだ瞳をゆっくり閉じ、ほんのわずかに顔を上向け、唇を軽く閉じる。
感じられる、熱い吐息。
「――――っ」
上唇が、ほんの微かに触れた。
かする程度かもしれない。それだというのに、触れたかどうか分からないようなその一点が物凄く熱く感じられる。
鼓動が一気に速くなる。
今時、キスくらいでと言われるかもしれないが、どうしようもない。
あと少し、力を入れれば完全にお互いの唇が重なり合うところで祐麒にブレーキをかけたのは、電話の無粋なコール音だった。二人とも、突然の甲高い音に体を震わせて思わず唇を離して、真っ赤になった顔を見合す。
携帯電話ではなく、部屋に引いてある固定電話。必要ないと思っていたのだが、知り合いのつてで権利を格安で譲渡してもらえたので引いた。その電話の電子音が、ただひたすらに祐麒のことを呼び続ける。
携帯電話であれば無視してしまうところであるが、固定電話の方は限られた人にしか教えていないから、あえてこちらにかけてくるということは何か重要な用事かもしれない。間の悪いことに留守電の設定もしていないせいか、鳴り止む気配も見せずにしつこく鳴り続けている。
仕方なく、祐麒は電話機の方に向かった。そのまま留守電にしてしまっても良かったが、今さらと思い受話器を取ると。
『―――ああ、やっと出た。祐麒くん?』
「え、つ……蔦子さん?」
おそらく家族だろうと予測していただけに、思いもかけぬ声に心底驚く。
『携帯電話、いくらかけても繋がらないから、こっちにかけちゃった』
「あ、ああ、ごめん。その、風呂入っていたから出られなくて」
そういえば、蔦子さんにも固定電話の番号を教えていた。しかし、夜のこの時間にわざわざ電話してくるとは、どのような用事だろうか。
『今日はいきなり押しかけてごめんなさいね。でも、楽しかった』
「い、いや』
『それよりも、江利子さまよ。一体どういうことなのか、本当に説明してくれる? みんなの前じゃあ言いづらかったことも、今なら言えるでしょう』
むしろ、よっぽどに言いづらい状況となっている。
気がつけば、背後から気配。嫌な予感が、胸中をよぎる。
『ねえ、本当のところ、江利子さまと何があったのか……』
その時。
背後から忍び寄ってきた江利子さんが肩に手を置き、耳元に口を寄せ、甘い吐息と共に甘い声を紡ぎだした。
「……ねぇ祐麒くん、電話まだぁ? せっかくシャワー浴びたんだから早く来て、あんまり待たせないでぇ」
「っ!? ちょ、なっ?!」
『!! ちょっと祐麒くん、何よ今の声はっ?! ひょっとして、そこにいるの!?』
「もう、脱がせかけのこんな恥しい格好で待たせないでよ……早く一緒に気持ちよくなりましょう」
「え、江利子さんっ、変なこと言わないでくださいよっ」
「何よぉ、ついさっきまで積極的に求めてきたのは祐麒くんの方じゃない」
「そ、そうですけど……はっ?!」
送話口を抑えもせずに話したことに気がついたが、遅すぎた。受話器を通して聞こえてくる、先ほどとは全く異なった声色。
『ふ、ふふ……そう、そこにいるのね。どうやらお邪魔しちゃったみたいね』
「いや、これはあの、蔦子さん実は」
「祐麒くんてば、結構マニアックなのね。私、あんな恥しい姿見られちゃって……でも私、祐麒くんのためなら、もっと凄いことでもしてあげちゃうかも……あん、そんな、強引なんだからぁ」
艶めかしい声の一人芝居を演じたところで、江利子さんは手を伸ばして強引に電話を切ってしまった。半ば唖然としている祐麒から受話器を奪い、それも戻してしまう。
「……私を口説いているときに、他の女の子と電話するなんてデリカシーないわよ」
「く、口説いてって」
「あら違ったの? さっきはあんなにも情熱的に私のこと抱きしめて、私のこと可愛いって言ってくれたじゃない? 私が欲しいって、積極的に胸とお尻を撫で回してきて」
意地悪な目をして祐麒を攻めてくる江利子さんは、すっかりいつも通りに戻っていた。同時に祐麒も普段の精神状態に戻り、つい先ほどまでの自身の言動を省みて、顔から火が出るほど恥しくなっていた。
まるで仕返しをするかのように、その後しばらく祐麒を心ゆくまでからかってから、江利子さんは玄関へと身を翻した。
「さて、と。今日はそろそろお暇するわ。このままじゃあ、狼さんに美味しく食べられちゃうから」
祐麒に言い返す間を与えずに、軽やかに外に出て行ってしまった。
途端に訪れる静寂の中に取り残された祐麒は。
部屋の中に確かに感じられる彼女の残り香に、くらくらする頭を抑えながらベッドに倒れこむのであった。
一方、江利子は。
アパートを出て駅に向かう道で、機嫌良く歩いていた。
確かに今日は、とんでもない姿を見られてしまい、そこから思わぬ展開となってしまったが、悪くは無い。
電話がなければ、あの雰囲気の中、求められるがままに一線を越えてしまっていた可能性が限りなく高い。もしもそうなっていたら、それはそれで構わなかったとも思うが、やはり今日は、そうならなくて良かったのだろうと思いたい。
弾む足取りで駅前の通りに入る。
微かに触れ合った上唇が、いまだに熱を持っているようで、人差し指をそっと唇に持ってゆく。
先ほどのはきっと、キスしたうちに入らないであろう。今日もまた、ファースト・キスの機会を逃してしまった。
未だにキスすらしていないなんて、誰が信じてくれるだろうかと思うが、それが事実。中学生以下の恋愛だって、構わない。だって、それが楽しいのだから。
だがこの調子では、体を奪われるのはいつのことになるのか。今日みたいな千載一遇の機会を逃してしまっては、あの祐麒くんのことだから、またなかなか進展しないに決まっている。そもそも、今までだって何度となく好機はあったのに、一度として襲い掛かってこないのだ。女としての魅力を否定されているようで、悔しくなることもあった。
だからこそ、江利子の方から手を出すことは無い。
「でも本当、今日はびっくりした」
抱きしめられたシーンが脳裏に思い浮かび、体も熱くなってくる。祐麒くんが触れた胸、お尻には、いまだに彼の手の、指の熱さが残っているように感じられた。
優しく触れてくる祐麒くんの指は、うっとりするくらい気持ちが良かった。下半身が熱くなり、わずかに濡れてくるのがあのとき自分でも自覚できた。
中断はしてしまったが、残って泊まっていけば、きっと身体を重ねることになっただろうという予感はあった。だけど、気を取り直して改めて、というのも何か変だったので、いつもの調子でからかって出てきてしまった。本当なら、そんな江利子を強引にでも引き止めて求めて欲しかったが、仕方がない。それが祐麒くんだし、楽しみは先にとっておくという考え方も出来る。
祐麒くんは色々と言っていたけれど、江利子にしてみたら冗談でも酔狂でもない。好きでもない男の人を相手に、楽しめるわけもないし、同じ部屋で二人きりで寝泊りするなんてできるわけがない。
江利子が告げたことは、全て真実。
確かに、はじまりはほんの偶然であり、ちょっとした興味だった。だけれども一緒にいると楽しいし、これから先も決して江利子のことを飽きさせることはないだろう。それは、なんと魅力的なことだろうか。
だから祐麒くんが真剣に江利子のことを想い、求めてくるのであれば、江利子はいつでも身体を捧げるつもりでいるし、それくらいの気持ちでなければ、あんな大胆なことはできない。
半年振りに付き合いを再開したわけだが、やっぱり彼と一緒にいると飽きることが無い。この半年がいかに無為だったかを思い出し、その分をこれから倍以上にして取り戻すのだと心に誓いながら、祐麒くんの言葉を思い返す。
『……江利子さんだって、俺のこと好きだって言ったこと、ないじゃないですか』
それはそうだ。
だって―――
恋愛は、先に『好きだ』って言った方が負けなのだから。
だから絶対に、貴方の方から私のことを『好き』って言わせてみせるんだから。
覚悟、しておきなさいよ??