薔薇の館にて。
「蓉子、少しは休んだら?」
「え?」
思いもかけない言葉に、私は書類に走らせていたペンの動きを止め、顔を上げた。目の前には、面白くもなさそうな顔をして折り紙をしている江利子がいた。ちなみに、折り紙にしている紙は書類だ。まあ、印刷失敗したものだからいいけれど。
江利子は折り紙の手をやすめることなく、こちらに目を向けることも無く、言葉だけを続ける。
「あなた、ずっと気を張りっぱなしでしょう」
「そんなことないわよ」
「嘘ね」
断言する江利子。
私はペンを置き、なぜそんなことを考えたのか、聞いてみた。
「お姉さま方は卒業されて、私たちが最上級生の薔薇さま。妹たちをしっかりと導かないといけない、一年生にも気をかけないといけない、山百合会をちゃんと運営していかないといけない、生徒皆の期待に応えていかないといけない……四月から、そんなことばかり考えているでしょう」
あっさりと言う江利子。
確かにその通りなのだが、そうなっている責任の半分は目の前の貴女にもあるのよと言ってやりたい。本来なら責務を三分するはずの黄薔薇さま・江利子と白薔薇さま・聖がアテにならないから、こんなことになっているのではないか。
聖はまあ、あの性格だし、昨年に辛いことが色々あって精神的に苦しいということは分かっている。前白薔薇さまが卒業されて、忙しさも一段落した今、どこか空虚な気持ちが聖を覆いつくしているのが分かる。志摩子が聖の妹になってくれたら、少しは変わるのかもしれないけれど。
そして江利子。
最低限のことはやってくれるけれど、三年生になって前黄薔薇さまがいなくなって、やることが更に適当になってきた気がする。
「聖や私があてにならないから、自分が苦労しているのだと言いたそうね」
「……分かっているなら、行動してよ」
「だって、私がやったら、蓉子がかわいそうじゃない」
「はぁ?」
どうして、私がかわいそうなのか。手伝ってくれたら楽になるし、負担だって減るというのに。
すると江利子は、こともなげに言う。
「世話好きでフォロー好きの蓉子の仕事がなくなっちゃうじゃない。ただでさえ祥子や令は働き者なんだから、私や聖はこれくらいで丁度いいのよ」
なんという勝手な言い草だろうか。思わず、私は呆れてしまった。言葉も出ない私のことを無視して江利子は立ち上がり、流しの方に歩いてゆく。
しばらくすると、芳ばしい香りが漂ってくるのがわかった。両手にカップを持った江利子が戻ってきて、一つを私の前に置く。
ちょっと濃い目のアッサムティー。ミルクティーにして一口飲むと、独特の甘みが広がり疲れた気分を癒してくれる。
「私には、私の役割があるからいいのよ」
一体、どんな役割だというのか。面白いことを見つけて、騒ぎを大きくすることだろうか。令をからかうことだろうか。
ティーカップを置いた江利子は、再び折り紙に手をつける。
さっきから見ているけれど、なかなか完成しない。なんだろう、鶴でもないし、兜でもないし、見たことも無い折り方をしている。
「江利子、それ一体、何を作っているの?」
「沖縄サミット」
「…………は?」
一瞬、我が耳を疑った。
しかし江利子は顔をこちらに向けて、ごく真剣な顔をして。
「だから"沖縄サミット"よ」
繰り返す。
どうやら聞き違いではないようだけど、なんだ、それは。
思わず、一心不乱に"沖縄サミット"とやらを折っている江利子の手先を見てしまう。細くしなやかで美しい指が、丁寧に紙を折っていく。なぜか、綺麗な指先を見てドキドキしてしまう。
「前に知り合いから教えてもらったんだけど、折り紙をやるならコレは外せなくなるわね……できた」
何か、物凄いものが江利子の前に出来上がっていた。
じろじろと見ていたら、「蓉子にも教えてあげようか?」と言われたので、丁重にお断りしすると江利子は「ちぇっ」と可愛らしく口を尖らせた。
「とにかく、蓉子は気を張りすぎなのよ、自分では気が付いていないかもしれないけど」
話を戻された。
「そんなこと、ないってば」
「この前、居眠りしていたくせに」
「あっ……あれはっ」
そういえばしばらく前に、薔薇の館で居眠りしているところを、不覚にも江利子に見られてしまったのだ。
「蓉子の寝顔、可愛かったわよ」
「ば、ばか……っ」
一気に顔が熱くなる。
照れる私の様子を見て、江利子の口元が猫のようになる。アレは、面白い獲物を見つけたときの表情だ。
冷静さを取り戻さないと、と思い静かに息を吸い、吐いて、紅茶に口をつける。落ち着いた味わいが、私に冷静さを蘇らせてくれる。
「半開きになった口から、"くー、くー"って小さく漏れる寝息がまた可愛くて」
しかし、そんな私に余裕を与えないように、江利子は攻めてくる。
「口の端から涎をちょろっと垂らしちゃって、子供みたいだったわよ」
「な、よ、涎なんてっ……」
「ん?なに?」
「た、垂らしてなんか……」
尻すぼみになる言葉。
そ、そりゃあ、少しくらい出ちゃったかもしれないけれど。ああ、でもそうしたら、そんな姿をやっぱり江利子に見られてしまったということで……
やっぱり、恥しさがこみ上げてきて、熱くなる。
「言ったでしょう、気を張りすぎて、疲れているのよ」
「だ、だから、江利子や聖が手伝ってくれれば……」
反論も、声が小さくなる。
「ええ、だから、私には私の役割があるって言ったでしょう」
言いながら江利子は立ち上がり歩いてくると、私の隣の席の椅子を持ち上げ、私の座っている椅子にぴったりくっつけるようにして置いた。そして、何事かと見つめる私の視線を受けながら、腰を下ろした。
「な……なに?」
今や私と江利子は、体が密着するくらいの距離で並んで座っていた。
「ほら」
江利子は、くいっと首をひねった。顔を私と反対方向に傾ける。
「肩、貸してあげる」
「え?」
何を言っているのか分からない私。おろおろと戸惑う姿を見て、江利子は「仕方ないわね」と呟きながら、私の頭に手を回してきた。
「きゃあっ?」
抵抗する間もなく、私の頭は江利子の肩に押し付けられた。
「ほら、じたばたしない」
「な、なんなのよ、江利子」
「私の肩を、枕代わりにしていいって言っているのよ」
「…………」
私の頭をおさえていた江利子の手が滑り、頬を撫でる。くすぐったくも気持ちよく、身をよじる。
なんとなく、江利子の体から甘い香りがするような気がして、思わずドキリとする。ちょっと視線を下に向けると、江利子の豊満なバストの盛り上がりが目に入り、さらに鼓動が速くなる。
こうなると、逆にこの体勢で良かったと思うようになる。なぜなら、私の顔は江利子から見えないだろうから。きっと、茹で上がったように真っ赤になっているはずだから。
「ほら、寝ていいわよ」
「……こんな硬い枕じゃ、寝られないわ」
私はわざと、そんな憎まれ口を叩いてみせる。
だけど江利子は、こういうことになると私なんかよりずっと上で。
「そう?じゃあ、こっちにする?」
と、あっさりと私の頭を動かして、自分のバストの上に置く。
「ふえええええええ、え、江利子っ?!」
頭部に伝わってくる、なんとも言いがたい感触は、江利子の胸の膨らみ?っていうか、頭がのっかるって……い、いったいサイズはいくつなのかしら。
あ、や、や、柔らかくて気持ちいい……
「ちょっ、えりっ、こ、こっちでいいわよ、そんな体勢、よけいつらいじゃない」
慌てて、肩に乗せなおす。
ちょっと勿体無いと思ったのは、内緒だ。
「あら、残念」
くすくすと、笑いをかみ殺すような気配がする。
うー、絶対にオモチャにされている。
「蓉子?」
返事はしない。目を閉じて、寝たふりをする。
「ふふっ」
もぞもぞと江利子の指が動き、首筋をたどって喉元までやってきて、くすぐるようにして撫でる。
無意識に、ちょっと顎を上げるようにしてしまった。
「蓉子、かわいい。猫みたい」
「……にゃぁ」
「―――っ!!や、よ、蓉子、カワイーーー!!お願い、も、もう一回言って!」
頭に頬を摺り寄せてくる江利子。
しまった、うっかり変なことを口走ってしまった。なんで口に出してしまったのか分からないけれど、今になって物凄く恥しい。
私は体を離して逃げようとしたけれど、江利子がぎゅっと頭を抱きしめているので逃げられなかった。
「ほら、動かないで大人しく寝なさい、蓉子にゃん」
「こ、こんなところ、誰かに見られたらどうするのよ」
「今日はもう、誰も来ないわよ」
「そんなこと」
「祥子は小笠原家の用事、由乃ちゃんはもともとお休みで、令は由乃ちゃんを見舞うためにもう帰宅したわ。志摩子は委員会の日で、仕事が終わったらそのまま帰っていいと伝えてあるし、聖はサボりでとっくに学園を出てったわ」
「…………」
「だから、安心して休んでいいわよ。蓉子の寝顔をすでに見たことのある私なら、いてもいいでしょう?」
江利子の指が、私の頭を優しく撫でる。久しく、誰かに頭を撫でられるなんて事なかったけれど、髪をそっと梳く江利子の指使いがとても気持ちが良い。鼻先に触れる江利子のさらさらの髪の毛からは甘い香りが漂い、頬に触れる柔らかな髪の感触についうっとりとしてしまう。
「私の役割は、こうして蓉子が気持ちよく寝られるようにしてあげること」
「もう……何を言っているのよ」
そう言いながらも、私はうとうとし始めていた。
確かに江利子の言うとおり、気を張って疲れていたのかもしれない。私を撫でる江利子の手の平はまるで魔法のようで、心地よい眠りの世界に私を誘ってくれる。
「あらら……もう寝ちゃったの、蓉子」
江利子の声が遠くに聞こえる。
私は眠ってしまったのだろうか。夢か現か分からない、そんな意識の狭間で私は揺れていた。
「本当に可愛い、蓉子の寝顔……」
そんなこと、恥しいから言わないで。
でも、もっと言って欲しい。
「くす……」
髪に、吐息がかかる気配がした。頬をなぞっているのは、江利子の中指だろうか。つーっと動いて、唇の上をかすかに触れるかのようにゆっくりと通り過ぎてゆく。
「好きよ、蓉子……」
そんな言葉が聞こえた気がした。
夢、だろうか。きっと、夢に違いない。だって、そうじゃなかったら江利子がそんなことを言うはずないもの。
夢ならば私も、江利子に伝えよう。
「……私も……江利子が好き……よ」
びくっ、と江利子の体が震えたような気がした。
しかし、すぐに揺れはおさまり、変わりに私の頭に何かが乗っかったようなわずかな重みを感じた。
きゅっと手を誰かに握られている。指と指をからめて、決して離れまいとするかのように。
私の意識はまどろみに落ちていく。
夕日の差し込む室内、テーブルに置かれた奇妙な形をした折り紙が見守る中で、私たちの影は、いつしか一つになっていた。
おしまい