ふと、足を向けたのは本当に偶然だった。
休日、クラスメイトの家に遊びに行ったものの、肝心の友人が体調不良ということで早々にお暇した帰り道。時間だけはあったので、普段はなかなか来ることのない町をただぶらぶらと歩いていた。
そんなときに目に付いた、上り階段。
石で作られたその階段は途中で何度か折れ曲がり、上に何があるのかは見えなかった。階段の近辺を見れば、草は伸び放題、しばらくは掃除をされていないと思われる有様、何より階段自体がかなり年代物で傾いたりしている。
一歩、足をかけて見上げてみれば、生い茂った木々によって空も隠されている。寺でもあるのか、墓でもあるのか、どちらにせよ人の気配は感じられなかったが、祐麒は上ってみることにした。例えこの先が墓であろうとも、まだ明るい今の時間なら幽霊だって遠慮するというものだろう。
ゆっくりと、周囲の木々を眺めながら一歩一歩、階段を踏みしめていく。しばらくして目を下に転じてみると、すでに上り始めた場所は見えなくなっていた。自分以外に、人の気配は感じられないと思ったが、やがてそうではないことに気が付いた。上方から、何かが聞こえてくる。『たん、たん、たん』という、リズムを刻むかのような軽い音が耳に入ってきた。
訝しく思いつつも、足を止めることなく進んでゆく。やがて前方に、階段の終わりと思しき景色が広がってきて、音はそちらから聞こえてきていた。近づくにつれ、その音は明確になってゆく。同時に、人の呼吸音も。
そこは、古いお寺の境内だった。すでに朽ちて久しいのは、寺の立ち姿を見れば明らかだった。
その境内の中で、一人の少女が宙を舞っていた。
長身を姿勢よく伸ばし、後ろで束ねられた長い髪の毛が広がる様も鮮やかに、まるで名画の一コマを切り取ったかのような瞬間であった。
美しく伸ばされた腕の先から、ボールが放たれる。綺麗な放物線を描いて飛んでゆくボールが、確かにリングを通って落ちてゆくのが祐麒には見えた。
だが実際にはそこにリングはなく、大きな石柱のようなものにあたってボールはただ転がっているだけだった。
「……あ……」
少女の顔が、こちらを向いた。
ボールがちょうど、少女と祐麒の間、微妙に祐麒寄りの方に向かって転がってきている。どうしたものかと思ったが、無言でいるのもバツが悪く、祐麒はボールに歩み寄って拾い上げた。
橙色のバスケットボールを手に取り、少女に向けてワンバウンドでパスを放つ。
「ごめん、邪魔するつもりじゃなかったんだ。上に何があるんだろうって思って上ってみたら、たまたま」
いい訳めいた言葉が口をついた。
別にこの境内が少女の私有地というわけでもないだろう、謝る必要などないのかもしれなかったが、何か少女だけの神聖なる場所に足を踏み入れてしまった気がしたのだ。誰も訪れない、朽ちた寺の境内で一人、バスケットの練習に身を入れている少女。きっと、誰かが来るなんて想像はあまりしていなかったことだろう。
少女は祐麒の放ったパスを嫌そうな顔をしながら受け取り、そのまま睨みつけるような視線を向けてきていた。
睨まれながらも、祐麒はおもわず少女の姿に見入ってしまっていた。
祐麒を楽々と上回るであろう長身は、手足の長さも手伝ってモデルのようなシルエットを浮かび上がらせる。そして身長に劣らず長い黒髪は運動の邪魔にならないよう後ろで束ねられ、綺麗な艶を放っている。
スタイルを見れば大人の女性を感じさせるが、顔だけを見ればまだ祐麒と同年代くらいに見えるあどけなさもうかがえた。もっとも今は、怒気をはらんだ表情でいるが。
どこかの学校のバスケ部員か何かだろうか。
目を閉じれば、先ほどのジャンプシュートの姿が脳裏に鮮明に蘇る。バスケのことにはそれほど詳しいわけではなかったが、上手い下手を越して、純粋に『綺麗だ』と感じた。
「…………」
少女は何も言わずに、練習を再開した。
リズムよく刻まれるのは、ボールが弾む音。少女の手によって、ボールは生きているかのように自在に動く。もちろん、多少のぎこちなさはあるものの、明らかに経験者と思えるボールの扱い方だった。
緩急をつけたドリブルと動き。少女の目は、その先に見えない敵のディフェンスを描いているのだろう。鮮やかなドリブル突破、フェイクを入れてシュートモーションへの移行、鋭い切り込み。背の高さを生かすだけではなく、自らも相手の中に切り込んでいくタイプなのだろうか。
しばらくの間、飽きることなく少女の動きを見ていた。
しかし少女は見知らぬ観客の姿に気が立ったのか、やがて動きを止め、軽く汗をぬぐいながら祐麒に向けて鋭い視線のまま鋭く口を開いた。
「……何か、まだ用でも?」
冷たい声色だった。
「いや、ごめん、迷惑だったかな。ほら、上手い人のプレーって、見ているだけでも楽しいから、つい」
「別にそんなに上手じゃありません。私くらいのレベルだったら、そこらへんにごろごろしていますよ」
「そうなの? でも、俺から見れば十分に上手いから」
「そりゃ、未経験者よりは上手かもしれませんが」
少女の口調は、祐麒を拒絶するような感じであった。もっとも、初めて会う人物に、しかも男に対して簡単に打ち解けるような女の子の方が少ないかもしれないが。
「邪魔なようなら、お暇するけれど」
「そうしていただけるとありがたいです」
素っ気無く祐麒の言を肯定して、少女は再びボールを弾ませる。
そっと息をつき、祐麒は少女に背を向けた。
「ごめん。それじゃあ」
少女は無言で祐麒の背中を見送る―――かと思いきや。
「……あっ!」
と、悲鳴に近いような声を上げた。
何事かと思い振り返ってみると。
「―――うわっ?!」
いきなり、目の前に何かが迫ってきて、祐麒は咄嗟に体をひねってよけた。
「あ―――」
それは、少女の手にしていたボールだった。恐らく、近くにあった石柱に向けてボールを放ったのであろうが、石柱は真っ直ぐな形をしているわけではない。変な場所にボールがあたり、少女の思惑とは別に祐麒の方に向けて跳ね返ってしまったのであろう。
祐麒が避けたことによってボールはそのまま階段へと向かって弾んでゆく。止める間もなく、ボールは重力に逆らうことができずに階段を勢いよく弾みながら落ちてゆく。階段は急で、途中で折れ曲がっているために先が見えづらい。慌てて追いかける祐麒と少女であったが、最初の踊り場まで降りてきたときには完全にボールの姿を見失っていた。
「うそ……今まではこんなことなかったのに」
呆然と、少女が呟く。
こんな場所で練習をしていればボールが落ちていってしまうリスクは当然考えられるわけで、今までは運が良かっただけなのではないかと思ったが、もちろんそんなことは口には出さない。
変わりに出たのは。
「ごめん。俺も、探すよ」
いくらなんでも、今の事態を目の前にしてさっさと帰ろうという気にはならなかった。しかし少女は。
「別に、結構です。あなたのせいではありませんから」
と、つっけんどんに言って、一人で勝手に探し始める。
祐麒はためいきをつきながら、少女とは別の方向を探し始めるのであった。
日が暮れる頃まで探したが、結局ボールは見つからなかった。
道路まで落ちていってしまったのか、それとも山の中に入り込んで見つかりにくい場所に落ちたのか、いずれにせよそう簡単には見つかりそうになかった。
「本当に、ごめん」
「だから、別にあなたのせいじゃありませんから」
「そうはいっても、俺が避けなければ」
「普通は避けるでしょう、あの場面。大丈夫です、別に何か思い入れのあるボールでもなんでもありませんから」
「そういう問題でもないだろう」
なおも祐麒は何か言い返そうとしたが。
「そんなことより、手、見せてください」
と、思わぬことを言われて機先を制された。戸惑っていると。
「早く」
「は、はい」
凄まれて、思わず素直に両手を前に出す。すると、少女の細い手が祐麒の手をそっとつかんだ。
バスケットをしているからもうちょっと硬くて太いかと思っていたが、綺麗で整った指だった。
「血が出ています」
「―――え?」
言われて、初めて気が付いた。手や指が切れており、二箇所ほど軽く出血していた。山の中に入り、草木をわけてボールをさがしたときに切ってしまったものらしい。
「仕方がないですね」
「いや、大丈夫だよこれくらい」
「そういうわけにはいきません」
半ば強引に腕をとられ、境内へと連れ戻される。
少女は境内の隅に置かれていたバッグの中からごそごそと何かを取り出す。
「手をだしてください」
祐麒としたら、もはや素直に手を出すだけだった。
少女はハンカチと水筒を手にして、水筒から水を出して祐麒の手指を軽く洗い、消毒液を傷口に塗ってから絆創膏を貼った。
「……こんなになるまで、探さなくても良いのに」
その瞬間、出会ってから初めて、少女はわずかに笑ったように見えた。
と思ったのも束の間、すぐに少女は厳しい表情に戻る。
「今日はわざわざ、一緒に探してくれてありがとうございました。それでは、失礼します」
「え」
何を言い返す間もなく、少女はさっさとバッグに荷物を詰め込んで、颯爽と階段を降りていってしまった。
境内には明かりも無く、日が落ちればたちまちのうちに闇となるだろう。そんな中に一人取り残される祐麒。
「……やれやれ」
立ち上がり、手を見る。
少女は祐麒のことを睨みつけるような仏頂面ばかりしていたが、そんな表情には似つかわしくないような、可愛らしい狸のキャラが描かれた絆創膏が指に貼られていた。
「これは、どうやって返せばいいのかな」
反対側の手には、消毒のときに使われたハンカチがあった。
そっと握り締めたそのハンカチの隅には、
『Kanako』
という文字が真紅の糸で刺繍されていた。
人気の無い境内での練習は、可南子にとって習慣となっていた。バスケをやめても、そう簡単にボールを手放せるわけもない。休日には時間を取って行くようにしていた。
今まで、何回も来ていたけれど誰か他の人に会ったということはなかった。コートも、リングも無かったけれど、十分だった。静かな境内で響くのはボールが弾む音、砂利を踏みしめる音、そして自分の呼吸音のみ。無心でボールを操っているうちに集中力が自然と高まってきて、そういうときは日常生活の全てを忘れることができた。
バスケットボールには嫌な思い出もある。だけど、バスケ自体を嫌いになることはできなかった。
その日は、意表をつかれたとしか言いようがなかった。当然、こういうことがあると想定はしていたものの、現実となるとどう動いていいのかわからなかった。相手が変質者であれば、正面とは反対側にある階段から駆け下りて逃げるつもりだった。スピードと持久力にはそれなりに自信があった。
しかし姿を見せたのは自身と同世代の男で、しかも『あの人』におそろしいほどによく似ていた。だからか、姿を見た瞬間、体が固まって動かなかった。
男は、嫌いだった。
性格とか容姿とかは関係ない。そういうことを考える前に、生理的な嫌悪感が先立ってしまうのだ。
でも、だからといって相手の純粋な厚意を無碍にするほどやさぐれてもいないつもりだった。一緒にボールを探してくれたことには素直に感謝し、怪我した指を応急手当してあげた。ただ、それだけのことだ。
「可南子、ボールはどうしたの?」
夕食のあと、不意に母から尋ねられた。
「置いてきたの。あそこなら盗られる心配もないだろうし」
「そう? ちゃんと持って帰ってきたほうがいいんじゃないの」
「そうね、今度は持って帰ってくる」
言いながらも。
さて、どうしようかと思案顔になる可南子であった。
翌週の休日、可南子は再び通いなれた寺へと足を運んだ。ボールはなかったが、とりあえずもう一度探してみようと思った。バスケットボールだって、それなりの値段はする。リリアンに通っているとはいっても可南子の家はごく普通の家庭で、金が有り余っているわけではないというか、むしろあまり裕福でないほうだろう。
気持ちは軽くなかったが足取りは軽く、階段を駆け上ってゆく。
半分ほど上がったところで、ふと人の気配を感じた。立ち止まり、あたりを見回していると右手の草むらから何やら音がして、誰かが近づいてくるのがわかった。一瞬、身構えるが、現れた人の姿を見て力を抜く。
「……あ、や、やあ」
「何をしているんですか、こんなところで」
先週、たまたま出くわした男だった。
目元や、笑ったときの顔が『あの人』に良く似ていて、それが無性に可南子を苛立たせる。
「探しているんだけれど、なかなか見つからなくて」
「……物好きですね」
わざわざ週をまたいでまで探しに来るなんて、なんてお人よしなのだろう。可南子など、一週間のうちに男のことなど忘れかけていたというのに。
「やっぱり、気になるから」
自分が勝手にやっていることだから、気にしなくていいと笑った。
だから可南子は、気にしないことにした。
淡々と、ボール探しは行われた。
時間が経つにつれて、自分は何をしているのだろうかと思い、いい加減に諦めたくなったけれども、男の方がやめようとしないから可南子も半ば意地になって探し続けていた。どこか、男には負けたくないという気持ちもあった。
しかし、いくら探してみてもボールは見つからない。もしも道路の方に落ちていってしまったのだとしたら、見当違いも甚だしく時間の無駄だ。
段々と、虚しさがこみあげてくる。
なぜ、せっかくの休日に見ず知らずの男と二人して山狩りをしていなくてはならないのか。この前告げたとおり、なくしたボールは誰か大切な人から譲り受けたものでもなければ、小さい頃から使っている思い出のボールというわけでもない。中学生のときに買った、なんの変哲も無いボールだった。惜しくないといえば嘘になるが、無いものは仕方が無いではないか。
その場にしゃがみこみ、ふと斜め下方を見てみれば、あの男が汗だくになりながら草木をかきわけている姿が目に入った。
(―――別に、頼んだわけじゃないし)
首を振りながら、立ち上がる。
もう、諦めよう。
そう思い、山から出ようと足を踏み出したとき。
「―――あっ」
柔らかな土に、足をとられた。そういえば一昨日あたりに雨が降っていたはずだ。だから今日、探している間も足元が落ち着かないなと感じていたのだ。
バランスを崩す。
「あぶないっ!」
下から、声がした。
可南子はバランスを取ろうとして、だけど取ろうと思ったときにはすでに斜面を滑り落ちはじめていて。
「はぶぁっ?!」
何か、変な生物をひき潰したような、音とも声ともつかぬ悲鳴が聞こえてきた。
「―――え」
それは幻聴でもなんでもなかった。現実に、可南子が男を押し潰していたのだ。そう、可南子は男の上に乗っかっていた。
「きゃあっ?!」
慌てて男の上から飛び降りる。
「だ、大丈夫だっ……たぎゃぁっ!!」
咄嗟に、男のわき腹を蹴り飛ばしていた。考えてのことではない、男の手に体を触られていたという嫌悪感から無意識のうちに行動を起こしていたのだ。
蹴られた男は、呻き声をあげながら土の上をのたうっていた。
「あ……」
狼狽する可南子。
錯乱状態に陥った可南子は、一目散にその場から逃げ去ってしまった。
後々になって考えてみれば、あのとき、斜面を滑り落ちかけていた可南子の体を受け止めようとして、男は可南子の体に抱きつく格好になっていたのだと理解できた。しかし、元々男嫌いの可南子はパニック状態となり、冷静な判断ができなくなっていたのだ。
さすがに、ちょっとばかり寝覚めの悪い日が続いた。結局あの後、戻る気もせずに男とは蹴り飛ばしたまま別れた格好になっていた。
男嫌いとはいえ、悪いことをしたという自覚はある。
でも、素直に謝るというのも癪に障るというか、腹立たしい。男の手が、可南子の体に、しかも胸に近い部分に触れたことは事実なのだから。
もっとも、謝ろうと思ったところで可南子は男がどこの何者なのか知らなかったから、どうしようもなかったのだが。
そうこうしているうちに一週間が過ぎ去り、また休日となった。
可南子はいつもどおり、境内へと向かっていた。階段を上っている途中、もしかしたらという思いもあったが、さすがに人の気配はなかった。
やはり、新しいボールを購入するしかないか、と考えながら階段の最後の一段を上り終えて境内にあがると。
「―――え」
あの男が、いた。
しかも。
「はい、パス」
といって可南子に向けて投げてきたのは、間違いなく可南子が中学のときから愛用していたボール。まだ幾分、土や泥の汚れが目に入るけれど、それなりに綺麗に磨かれていた。ボールを手にして、男と交互に目を向ける。
「いや、本当に分かりづらい窪みにはまっててさあ……でも、そのボールだよね」
泥だらけの顔をほころばせて、男は笑った。
可南子は機械的に頷く。
「や、でもホント申し訳ない。二週間も練習できなくなっちゃって」
見れば顔だけでなく、腕も、シャツも、ズボンも泥だらけ傷だらけだった。たかが他人のボール一個を探すために、なんでここまでするのだろうかと疑問がわきあがってくる。
「どうしてって言われても……俺もボールをなくした原因にかんでいるわけだし、寝覚めも悪いし」
だからといって、あまりにもお人よしすぎないだろうか。
ひょっとして、可南子に対して変な下心でも持っているのではないだろうか。
「そうだなあ……あ、そうだ。一つ頼みたいことがあるから探していた、っていうのは駄目かなあ」
やはり。
視線も厳しく、可南子は身構えた。
所詮、男なんてみんなそんなものだ。いつも、女の子のことをいやらしい目で見て、いやらしいことを想像しているに違いない。
この男だって、何を言い出すか―――
「実はさ、最初に見た瞬間の絵が忘れられなくて」
「…………?」
話が、見えない。
一体なんのことを言っているのか。
可南子の戸惑いをよそに。
「一本でいいから、ジャンプシュートを見せてくれないかな?」
「はぁ?」
「いや、ほら、本当に格好いいと思ったんだよ、こう、姿勢よく宙高く飛んで、手から放たれたボールが綺麗な弧を描いて、いやすごい格好いいって」
目を輝かせて、まるで小さな子供のように語る様は。
下心などどこにも見えない、純粋にバスケットを見たいと願う年端もいかない少年のようにしか思えなかった。
そういえば、近くの幼稚園に通う男の子があんな顔と瞳をしていたような気がするなと思うと、自然と笑いそうになってしまった。
「仕方が無い、一回だけ―――」
可南子は男が嫌いで、それは今も変わらなくて、相手は男でやっぱり嫌いだとしか思えないけれど。
ボールを見つけてくれたことは事実で、きまぐれに一回くらい、見せても構わないだろう。
ボールを弾ませる。約三週間ぶりの感触が手に心地いい。響くリズムが、体の芯に伝わってくる。
久しぶりにボールに触れるということで、今日は気分もいい。だから、特別だ。
集中する。
すぐに、男の姿も視界から消える。だけど、可南子の体に向けられている視線の気配は消えない。
でも、問題は無い。
頭の中で、コートを描く。シュートの瞬間をイメージする。日本の女子だとまだ両手でのシュートが多いけれど、体も手も大きい可南子は随分前からワンハンドシュートを打っていた。
閉じていた目を開き、視線の向こうに見えない敵のディフェンスを見据える。緩急をつけたドリブルで一人をかわし、切り込み、一つフェイクを入れてディフェンスのタイミングをずらしてから、膝のバネをつかってジャンプ―――
ふわりと、体が舞い上がる。
手の平からゆっくりと離れていくボール。
ディフェンスが伸ばした手のさらに上をゆく。
見えないゴールのリングに向けて、少しだけ土に汚れたボールは青空に綺麗な放物線を描いていた。
おしまい
【おまけ】
「あれ、今日はボールを持って帰ってきたの?」
仕事を終えて家に帰ってきた母は、リビングでボールを磨いている可南子を見て軽く首を傾げた。
そういえば、ボールは置いたままにしたと母には告げていたのだった。
「うん、汚れたから綺麗にしたくて」
それは、嘘ではない。
しばらくの間、野ざらしに放置されていたから汚れも目立っていたし、それに、あの男が触ってもいたのである。念入りにも拭きたくなるというものだろう。
「ふぅん」
何やらもの言いたげな表情を見せながらも、特に口を開くでもなく自室へと入っていく母の姿を見届けた後、再びボールへと視線を移す。
「ふん、汚いのはきちんと落とさないとね」
更に力を込めて磨いた後、綺麗になったボールを少し強めに叩く。
「あんなシュートくらい、経験者ならうてるし、って何でそんなこと思い出しているのよ」
頭を振って脳裏に浮かんだ像を打ち消す。
どうせもう会うことなんてないし、そもそも男の事を考えてしまうなんて悍ましく、自分で自分を叱りたくなる。
「――可南子、ちょっと来てくれる?」
「なに?」
母に呼ばれて立ち上がる。
あとには、ちょっと古いけれど綺麗に磨かれたボールだけが床に転がっていた。