<中編>
K駅の改札口前で、祐麒は待ち人の姿を探していた。時計を見ると、約束の時間ちょうど。もう、来ていてもおかしくはない。
しかし、いくら見回しても、その姿は見えない。待ち合わせ場所は間違えようもないし、どうやらまだ来ていないようだった。
祐麒は手持ち無沙汰で立ち尽くしつつ、なんとはなしに、今日こうなるに至った経緯を思い返していた。
あれはリリアン女学園の学園祭準備期間中、まだ一番初めの頃。リリアン女学園の敷地内では、花寺の生徒会長といえども一人で行動することはできず、必ず山百合会の誰かが一緒についていることになっていた。それが、女子校であるリリアンで活動できる唯一絶対のルールだった。
しかしその時祐麒は、一人だった。ひょんなことから、一緒にいた山百合会メンバーである島津由乃さんと離れてしまったのだ。しかも困ったことに今、女生徒達に追いかけられていた。
「いたわ、こっちよ!待ちなさい、変質者!」
「リリアンに入り込むなんて、いい度胸しているわ」
いくら相手が一人とはいえ、男を追いかけるなんて、本当にお嬢様学校なのか、そう思いながらも祐麒としては逃げるしかなかった。
こんなところで捕まったら、花寺の生徒として、いや、男として一生の恥だ。変質者と間違えられて、女の子に取り押さえられるなんて。
しかし追いかけてくる女生徒達、運動部に所属しているのか足が速いしスタミナもある。なかなか、振り切ることができない。このままでは慣れない敵地、追い詰められてしまうかもしれない。
「やばい、やばいやばい」
とにかく逃げる。
「あっちよ!」
声に追い立てるようにして、逃げる。だが逃げ込んだ先は、クラブ棟か何かで、先のほうからも女の子達の集団が歩いてくるのが見えた。
まずい、と思った祐麒は、咄嗟に手近にあったドアを開いて、その室内に飛び込んだ。
すると。
「…………ふぇ?」
そこには一人の女の子がいた。
それも、着替え中の。
女の子はなぜか、祐麒のことをかくまってくれた。祐麒は、かくまってくれたことに対してお礼をしたいと申し出た。
するとその女の子が望んできたことというのが―――
「うわあああああん、寝坊しちゃったーーーーっ!!」
何かが物凄い勢いで、そんな大声とともに祐麒の目の前を風のごとく通り過ぎた――と思ったら、しばらく進んだところで急ブレーキをかけて止まるとクルリと180度回転して、戻ってきた。
祐麒の目の前で止まったその女の子は、ばたばたと乱れた衣服を直すと、直角に腰を曲げてお辞儀した。いや、謝ってきたのか。
「ごご、ごめんなさい、遅れちゃって。ええと、休日だったからいつもとバスの時間が違っていて……」
「ぷっ……ついさっき、寝坊しちゃった、って大きな声で言っていたよ、桂さん」
「ええっ、嘘っ、ホント?!」
「本当」
「ガーン! いきなり、好感度ダウーン?!」
桂さんは、両手を頭部の左右に置きながら叫んで、自らの衝撃を表現した。その姿がまた可笑しくて、祐麒は再度、吹き出してしまった。
「あははっ、桂さんて面白いね」
「うう、ウケを狙っていたわけではないのに……」
がっくりと肩を落とす桂さん。
そう、桂さんにお礼として望まれたことはというと。
『―――私と、で、"でーと"してくださいっ』
というものだった。
しかしながら、学園祭が終わるまでは忙しなくてそんな時間もなかったため、それは延び延びになっていた。だけど祐麒は忘れていなかった。だから学園祭が終わってからしばらくして、桂さんに連絡を取った。最初は連絡先が分からなかったので、色々と苦心した末に、祐巳から聞き出して電話をかけたのだ。
電話で話をしたとき、最初、桂さんは祐麒が何のことを言っているのか分かっていなかった。どうやら、期間が空いたせいですっかり忘れていたらしく、思い出すと受話器の向こうでびっくり仰天していた。まさか、忘れずに誘ってくれるとは想像だにしていなかったようだ。
それでまあ、そんな経緯がありつつ、今日に至るわけである。
「約束の時間に遅れた上、嘘ついたことまでバレちゃって、あたしってば、今、物凄くダメな女の子ですか?」
「あ、いや、別に怒ってないから。それに、俺の方が桂さんにお礼をしなくちゃいけないんだから、遅刻とかモロバレな嘘ついたこととかも気にしないから」
「いや……そういわれても……なんか余計に気にしてしまうんですけれど……」
会ってそうそう、落ち込む桂さん。
久しぶりに会ったわけだけれど、見たところあの変質者騒動のとき以来、とくに変わっていない。ほんの数週間前のことだから当たり前だろうけれども。
活動的なショートカットの髪の毛は少し栗色で。部活でテニスをしているという身体は引き締まっていて、ちょっと日焼けしている肌も健康的だ。
グリーン系のボーダーセーターの上から、同系統色のピージャケットを合わせ。下はデニムのスカートにリボンベルトの付いたブーツ。
全体的にパステルカラー調の、非常に女の子らしいコーディネートだった。
「さて、まずはどこに行こうか?」
「やっぱり、映画! でーとと言ったらこれが王道、映画じゃないでしょうか」
力強く拳を握る桂さん。
「じゃあ、映画館に行ってみようか」
こうして、良くわからない桂さんとのデートが始まった。
「うう……ごめんなさい」
映画館の入り口の前で、桂さんがうなだれていた。
「ああ、ほら、桂さんのせいじゃないから」
なぜ桂さんがうなだれているかというと、面白そうな映画が上映されていなかったからだ。夏休み映画の公開は終わり、年末年始の大作映画もまだ、という今の中途半端な時期。そのせいか、いまいちピンとくる作品が無かったのだ。
「せっかく、チケット貰ったんだけど」
桂さんが手にしているのは、よく分からないけれど、どれでも好きな作品を見ることのできるチケットということだった。
「ねえ、せっかくだから見て行こうよ。ほら、有名な大作だって、面白いってわけじゃないし。むしろ、あまり知られていない作品の中にこそ、意外な名作が隠れているかもしれないし」
なんとか桂さんを元気付けようと、声をかける。
自分の言っている内容も間違いではないが、そんな作品はそうそうないから、隠れた名作になる。だから、むしろ映画を諦めたほうが得策なのかもしれないけれど、張り切って映画館にやってきた桂さんを見ていると、当初の計画通り、映画を観たほうがいいかな、と思ってしまうのだ。
「―――ねえ、これなんか、どうかな?」
二時間ほどして、映画館から出ると。
「……ううううう、良かったねえ」
桂さんは号泣していた。
選択した映画は、あまり良く知らない邦画作品だったけれど、意外にも、桂さん的には大ヒットだったらしい。ちなみに祐麒的には、中の上という感じだった。
ぐしょぐしょに濡れた顔をハンカチで拭い、ようやく落ち着くと、改めて桂さんは口を開いた。
「やっぱりこう、人が死なずに泣けるっていうのは、いいよねえ」
「ん?」
「ほら、よく"泣ける映画"とかあるでしょう。でもその多くは、作中の誰かが死んだりとか、悲しい涙だったりするじゃない。でもそうじゃなくて、あたしは誰も死んだりしないで、悲しいことにもならなくて、最後に『良かったね』って、笑いながら泣けるような作品が、好きなんだ」
涙の跡が残る、まだ腫れぼったい赤い目をしながら微笑する。
自然と、祐麒の顔からも笑みがこぼれる。
どうしてだろうか、この子と一緒に話をしていると、そんな気持ちになってくる。特別なことを話しているわけではない。だけど、心がほんわかとして、そうなってしまうのだ。
「さて、この次はどうしようか」
斜め後ろで、ポケットティッシュで思いっきり鼻をかんでいた桂さんに訊いてみる。
「っ、あ、ええと―――」
ぐるるる~っ
言いかけた桂さんの言葉をまるで遮るようにして、盛大にお腹の音が鳴り響いた。
「あ、はは」
照れたように笑う桂さん。
「行く場所は、決まっているみたいだね」
言いながら、祐巳みたいだな、と祐麒は思った。
場所をファーストフードに移して、昼食を取る。
そこで祐麒は、前々から思っていた疑問をぶつけてみた。
「でーとに誘った、理由?」
ポテトを頬張りながら、桂さんが祐麒の言葉を復唱する。
「そう。なんで、お礼なのに俺なんかとのデートを?しかも、おごりとかならまだ分かるけれど、全部ワリカンだし」
「うーん」
「あと加えるなら、あの時、俺をかばってくれた理由も。もっとも、俺としては助けられたんだから、無理にっていうわけではないけれど」
タルタルチキンバーガーを口にする。
桂さんはコーラを一口飲んでから、何かを思い出すようにしてゆっくりと話し出す。
「ええとねえ、ドラマチックだなって、思ったの」
「ドラマチック?」
「そう。あたし、リリアンなんていうお嬢様学校に通ってはいるけれど、すごく平凡に、普通に生きてきた。それ自体には文句もないし、嫌でもないんだけれど」
マスタードソースをたっぷりつけたナゲットを飲み込み、紙ナプキンで指を拭う桂さん。休日の昼時であるファーストフードは混雑して、話し声とかがうるさかったけれど、すぐ目の前に居る桂さんの声は、問題なく聞こえてくる。
「そんな平凡なあたしだけれど、人生の中で一度くらいは、何かドラマのようなことが起きるんじゃないかって、夢のようなことを考えていた。そうしたらあの日。着替えをしている最中に、男の人が部屋に入り込んでくるなんていう、今までのあたしの生活の中では考えられないようなハプニングが起こった」
「うん」
相槌を打つ。
そうこう話しているうちにも、桂さんはアップルパイに手を伸ばす。しかし、よく食べる。見た目は細いけれど、運動部だから食欲旺盛なのだろうか。
「これはなんか、あたしにそんな時が来たのかなって、そんな風に思えた。だから、その不思議な縁を、簡単に捨てたくないと思った……のかな?」
「え?」
「いやー、正直あの時、なんで祐麒さんをかくまったのか、自分でもよくわからなくて。後々考えて、そういうことだったのかな、って」
あっけらかんと笑う。
力の抜けた祐麒だったが、言われてみればそうなのかもしれないと納得した。咄嗟の行動など、何か深い考えを持っては出来ないだろう。
コールスローサラダを咀嚼しながら、桂さんは続ける。
「でも、デートに誘った理由ならあるよ」
「へえ、何?」
「それは、高校生活中に一度くらい、男の子とデートしてみたかったら」
「うーん……そんな、初めてのデート相手が俺なんかで、良かったの?」
「問題無いです。それに、友達の弟で、雰囲気も祐巳さんとそっくりだから誘えたの。いくらなんでも、全然知らない男の人とデートするのは怖いし」
いくら祐巳の弟である祐麒だからって、桂さんからしたら全然知らない男ではなかろうか、と思ったがそれはあえて言わなかった。
店内は既に満席で、周りを見回してみれば祐麒たちと同様、男女カップルで楽しそうに食事をしている人達も何組か見られた。祐麒と桂さんも、周囲から見たら彼らと同じように、仲の良いカップルに見えているのだろう。
そう思えるくらい、祐麒は桂さんと自然に会話をしていた。敬語だって、お互いにほとんど使っていない。
冬が近くなってきたが、店内は暖かい。ピージャケットを抜いだ桂さんは、少しサイズの大きめのセーターに身を包み、嬉しそうにアイスティーのストローに口を付けていた……さっきまで、コーラを飲んでいたような気がしたが。
「まあ、光栄だな。桂さんの初めてのデート相手に選ばれて。とかいいつつ、俺も初めてなんだけれどね」
「ええっ?!」
いきなり、桂さんが椅子から立ち上がる程の勢いで身を乗り出してきた。
「ウソ、やだ、ごめんなさい!あたしてっきり、そんなことは無いかと。ああ、どうしよう、祐麒さんの始めてのデート相手が、あたしみたいな女の子だなんて」
「ちょ、ちょっと落ち着いて桂さん」
「落ち着いていられますかって。あー、あたしってば浅慮!祐麒さんみたいな人には、きっと志摩子さんとか由乃さんみたいに綺麗な人の方が似合うのにー」
「桂さんってば、もう。俺は、初めてのデート相手が桂さんでよかったかなって、思い始めているよ。だって、一緒に居て楽しいし、楽だし」
「……それって、あんまり女の子として意識されてないってことかなぁ……それはそれで、なんか少し悲しいような……」
席でがっくりと俯く桂さん。本当に、感情表現が素直に表に出る子だ。祐巳は顔に出るタイプだけれど、桂さんは身体で表現するタイプのようだ。
「それより桂さん。俺をデートに誘った理由って、本当にそれだけ?」
「―――え」
桂さんの表情が刹那、固まる。食べようとしていたフライドチキンを持つ手が止まり―――しばらくして、ゆっくりとチキンは口に運ばれた。
「(よく食うな……太らないのか?)何か、他に俺に話したいこと……あるいは愚痴とか、そういうのなかったり、しない?」
「なん、で……?」
おずおずといった感じで、桂さんは訊いてきた。
「なんとなく、かなあ。俺を誘ったのは、そこにも理由とか、ない?」
なるべく穏やかに尋ねてみたが、桂さんはしばらく黙ったままだった。祐麒から少し視線をはずす。その先をそっと追いかけてみると、店内で友人同士、大きな声で話し、笑い声を上げている女子高生の集団の姿があった。
珍しくもなんともない、どこにでもある光景だけれども、なぜか桂さんはじっとそちらの方を見つめている。
どれくらい時間が流れたのか。おそらく、実際にはほんの数分だろうけれど、それまでずっとお喋りしていただけに、沈黙に満たされた数分間はその何倍も長く感じられた。そしてそのまま、何も言わないかなと祐麒が思った矢先、桂さんは口を開いた。
何気なく、だけど今までの明るい口調からは一変した、切なげな様子で。
「―――私って、祐巳さんや志摩子さんにとって、なんなんだろう―――」