祐巳が晩御飯を食べ終え、テレビも観て、自室でまったりしているところに祐麒はやってきた。
最初は世間話みたいなことを脈絡もなく話していたのだが、一区切りしたところでようやく本題を切り出してきた。
「……桂さんのことを知りたい?」
祐巳が聞き返すと、祐麒は神妙にうなずいた。
そういえば最近、祐麒は桂さんとお付き合いを始めたらしい。桂さんのことを知りたいというのは、真剣に桂さんのことを考えているからだろうと思うと、ちょっと安心する。桂さんは祐巳の友達であるし、いい加減な気持ちで付き合って、悲しませるような真似をしたら実の弟といえど許せないから。
しかし、それなら何故、自分の口から本人に聞かないのだろうか。
そんな疑問も浮かんではきたが、きっとシャイで小心者の祐麒のことだから、本人を前にすると緊張してうまく聞けないとかそういうことなのだろうと悟った。
そういうことなら仕方がない、可愛い弟と大切な友達のため、この福沢祐巳が一肌脱ごうではありませんか。
「オッケー、任せて」
グッ、と親指を立てて引き受けると。
なぜか祐麒は微妙な笑顔を見せて、そっと息を一つ吐き出したのであった。
<黎明編>
1.クラスメイト
よくよく考えてみると、祐巳も桂さんのことをそれほど深く知っているわけではなかった。同じクラスになったこともあるし、一緒に遊んだこともあるけれど、家族構成だとか家がどこにあるとか、プライベートなことは全くといっていいほど知らない。それどころか、桂さんの苗字すら思い出せない?!
これは由々しきことと思い、祐巳は突撃した。
「……桂さん?」
志摩子さんは相変わらずぽやんとした顔をして首を傾けた。
「うん。志摩子さん、今、桂さんと同じクラスだよね」
「ええ、そうだけど、なぜ桂さんの苗字を?祐巳さんも昨年、同じクラスだったでしょう」
「うー、そうなんだけどぉ……」
リリアンの中では名前で呼び合うことがごく普通だし、授業中とか、わざわざ先生に指名されたときのことなんて記憶していないし。
「仕方ないわね。桂さんの苗字は―――」
「うん、うん」
「苗字は―――はて?」
「はて?『破手桂』さん?」
これはまた予想を遥かに上回るというか、予測不能な苗字でした。そこまで奇妙奇天烈な苗字であったとは。
しかし、志摩子さんはナメクジを見るような目で祐巳のことを見つめて。
「違うわよ、祐巳さん。はて、って言ったのは、はてさて、という意味よ」
「と、いいますと」
「はて、何だったかしら、と」
あいも変わらず、ぱややんとした表情で、志摩子さんは頭上に疑問符を浮かべている。
「えと、その心は?」
「そういわれてみると、出席とかとらないわ、うちのクラス」
「はあ」
「授業のときも、先生方は皆さん、指名するとき名前で指名しているし。普段、名前で呼び合うからなんとも思わなかったけど」
あにはからんや(これってどういう意味だろう)、なんと志摩子さんもご存じない。しかも、非常にミステリアスな展開。
「じゃあ、クラス名簿とかないの?」
「ああ……ないわね」
ぽん、と志摩子さんは手を叩いた。
て、ないんかい。
「松組にはあるよ」
「でも藤組にはないのよ」
「…………」
「…………」
――――結論。
謎は深まりました。
2.先生
職員室にきてみた。
中を見回すと、鹿島先生が暇そうにルービックキューブをこねまわしながら右足でアメリカンクラッカーを鳴らしていた。うん、コングラチュレーション。
「お忙しいところすみません、鹿島せんせい」
「あら、福沢さんどうしたの。大丈夫よ、別に。とりあえずセーブポイントは過ぎたから」
嫌味をさらりと受け流す鹿島先生。
ちなみにルービックキューブは1面も揃っていない。
「で、どうしたのかしら」
「はい、実は桂さんのことが聞きたくて」
と、その瞬間。
それまでどことなくざわついていた職員室内が、いきなり静寂に包まれた。
「……あれ、鹿島せんせい?」
呼びかけると、鹿島せんせいはどこかのDr.スランプが作成した女の子ロボットのように首をギリリと回して祐巳から視線を背けた。
「だだだ駄目じゃない福沢さん。赤坂先生は鬘なんかじゃないわよ。あれは植毛だから」
「いや、そうじゃなくて」
「ごめんなさい、私、かつら剥きって苦手で」
「あの、鹿島せんせい」
「そうねえ、風船葛といえば小さい白い花とねじれる蔓が」
「ちょいこらボケ教師」
なんだなんだ、一体どうしたのか鹿島先生の言動がおかしい。職員室内の他の先生たちをさらりと見回すと、みんな、祐巳と目を合わせないようにわざとらしく新聞に目を落としたり、パソコンに向かったり、お面を被ったり、メイクをし始めたりした。
「……福沢さん、いったい、誰からの依頼なの?」
小声で、囁くように聞いてくる鹿島先生。
「いや、依頼も何も、ただ桂さんの苗字を」
「きゃーーーーっ!聞こえない聞こえない何も聞こえません、私は何も聞いていません、お願いだからヤメテくださいーーー」
耳を塞いで机の下に隠れるようにしてしまった。しかし、頭かくして尻隠さず。大き目のお尻がはみでている。
あ、パンツのラインが浮いて見える。
「えーっと……」
「悪いことはいわないわ、福沢さん。聞かなかったことにしてあげるから、早いところ出ていきなさい」
「そう言われましても……あ、これ名簿ですね」
と、机の上に置かれていた名簿に手を伸ばそうとすると。
「駄目、それはダメ、イテッ!……見てはだめよ!!」
途中で頭をぶつけながらも、鹿島先生は物凄い勢いで這い出てくると、飛びつくようにして名簿をその身体で隠した。
「お願いよ、福沢さん。私の、いえ、私たちの未来を奪わないで……!!」
涙目で訴えかけてくる。
一体、何がここまで鹿島先生を追い詰めるのだろうか。
そうも思ったが、さすがにこれ以上、問い詰めるのはためらわれてしまう祐巳であった。
――――結論。
何やら巨大な暗黒が背後に控えているようです。
3.新聞部
「桂さん?」
今度は新聞部に足を向けていた。
真美さんがこちらを向く。ついでに、写真部の蔦子さんもなぜか隣で祐巳の方を見ている。
なぜか、真美さんの頬は紅潮し、二人の制服は乱れている。真美さんなんか、タイはほどけかかっているし、息も妙に荒い。
「あは、あはは、なんか暑いわね」
「そう?」
手にした布で額の拭く真美さんだけど、あれ、それは。
「……あ、あれ、これって私のぱん……て、うわああああ」
慌ててソレをポケットにしまいこむ真美さん。隣では蔦子さんが、もぞもぞと身体を揺らしている。なんか、ブラを直しているみたいだけど。
「で、桂さんがどうしたの?」
「ああ、そうそう」
色々と気にはなるけれど、あえて気にしないことにした。床に描かれているシミとか、真美さんの首筋につけられているキスマークとか、突っ込みどころはありまくりなんだけれど無視しました。
「だから、桂さんの……」
私は簡単に事情を説明した。
二人とも祐巳と同じように詳しいことは知らないようで、やはり同様に興味を持ったらしい。
「―――そういわれると確かに、桂さんのことって知らないわね」
「苗字を誰も知らないというのも不思議ですね」
そうそう、こういう反応を待っていた。
「OK、分かったわ。私たちも気になるし、今日この後、桂さんの帰宅をストーキングしてみるわ」
「え、今日?」
「善は急げ、ってね。それに桂さんも部活をしているからまだ残っているでしょう」
「まあ、そうだね」
「じゃあ、明日報告するから、楽しみに待っていてね」
そそくさと逃げるように部室を出て行く二人。
しかし。
真美さん、今の格好でストーキングしたら、本当の意味で変態のような気がする。
そして翌日。
「おはよう、真美さん、蔦子さん。昨日、どうだった?」
教室に入るなり、祐巳は二人のもとに駆け寄って尋ねてみた。
すると二人は、びくりと身体を震わせた。
「おおおおおはよう、祐巳さん」
「ご、ごきげんよう」
振り向いた二人は、顔を引きつらせていた。
なんだ、どうしたのだ。
「昨日はどうだったの、桂さんの……」
「え、か、桂さ……うああああ!」
突然、真美さんが頭を抱え込んで悲鳴を上げた。何事かと、クラスメイトたちの視線が集まる。
慌てた蔦子さんに手を引かれて教室を出て、人の少ない講堂の裏手に行く。
「どうしたの、二人ともなんか変だよ。何があったの?昨日、桂さんの帰宅を」
「……そう、あの桂さんの帰宅する後をつけて、辿り着いたのは―――んあっ」
そこまで口にして、蔦子さんが自らの身体を抱くようにして悲鳴を上げる。足ががくがくと小刻みに震えている。
「だ、ダメっ、お願い、これ以上は勘弁して……あ、あああ」
「つ、蔦子さんっ」
一体、どうしたというのか。蔦子さんも真美さんも、様子がおかしい。
「ダメなの。昨日のことを、桂さんのことを思い出そうとすると……うあああっ!!あ、頭が、頭が割れるように……あ、痛い、イタイ!」
真美さんは顔をしかめてその場にしゃがみこんでしまった。その額には、うっすらと脂汗が滲んで見えた。
一方の蔦子さんはというと。
「昨日の……桂さんの……あ、あああああ、んっ、ちが……う、駄目、ああああ」
真美さんとはどうも一風異なる悲鳴というか、嬌声を上げている。どこか悩ましげというか、切なげというか。
「だめ、思い出そうとすると……うあっ、激しすぎっ……っ!!」
何が激しいというのだろうか、蔦子さんは股間というか、臀部というかを手で抑えるようにして必死で何かに耐えていた。
「……ご、ごめんなさい、祐巳さん。私たちは桂さんのことなど何も知らないわ」
「え、ええ……祐巳さんも、忘れたほうがいいわよ。あれはある意味、や……あ、あああああっ、ご、ごめんさい、私たちが悪かったです、もうしませんから許して……うああ、あ、ま、真美さんダメ……」
桃色吐息をつく蔦子さん。
真美さんは、頭を抱えている。
どうやら二人は桂さんの後をつけたが、返り討ちにあってしまったらしい。
話を聞くことは無理のようだと諦めて、祐巳は踵を返した。
予鈴のチャイムが鳴る。
後方では、相変わらず真美さんと蔦子さんが悶えている。ってゆうか、いつの間にか二人で抱き合って……あ、真美さんが蔦子さんのタイをほどこうとしている……
祐巳は、花壇の茂みに映研からガメてきたビデオカメラを置いて、二人の方に向けて稼動するようにセットすると、静かにその場を後にした。
―――結論。
二人はやっぱりデキていました。
「……で、結局、どうだったの?」
家に帰ると、祐麒からそう聞かれた。
祐巳は、学校での出来事を脳裏に思い浮かべてみた。
「……やっぱりさ、そういうことは自分で聞かないと」
「要は、分からなかったんだな」
「いや、ある意味色々分かったけどね」
「?」
弟よ、頑張れ。姉は応援しないが手も出さないでいてあげよう。いや、むしろ手を出すわけには行かないようだ。自分の貞操は景さまのために大切にとっておいてあるのだから。
「桂さんとお付き合いしているんだから、負けないで」
「うん……俺も、頑張らないとヤバい気がしている」
「そう……だね」
「てゆうか、なんかもう、引き返すことの出来ない場所に追い詰められているような気がする」
「私たち家族は巻き添えにしないでね」
「いや、それはどうだろう」
姉弟の間に横たわる沈黙。
桂さんの家庭の事情は、いまだに謎に包まれているのであった。
おしまい