水野さんに恋していることを自ら認めたとはいえ、それで全てが解決するほど、ことは単純ではない。
先ず何より、私も水野さんも同じ女、同性同士なのだ。仮に自分の想いを告げたとして、簡単に受け入れてくれるはずも無い。それどころか、今までせっかく仲良くしてきたのに、引かれてしまうかもしれない。
どうすればよいのか分からないまま、私は水野さんと会い、お喋りをして、食事して、デートを繰り返し楽しむ。
会えば会うほどに、彼女に惹かれてゆく自分がいるのが分かる。
あの、自分の恋心を知った日から、私と水野さんはしばしば手をつないで歩くようになった。仲の良い女の子同士であれば、街中でも見かける光景だから、凄くおかしいということはないだろう。
でも、それ以上には踏み込めない。
どんな結末になるか、分からないから。いや、どちらかというと悪い展開に行くほうが、可能性が高いだろうから。
彼女と一緒にいると、楽しい。嬉しい。胸が高鳴る。
だけど同時に、切なく、哀しい気持ちにもなってくる。
二つの気持ちを抱えながら、私はただ、水野さんとの時を重ねてゆく。
「おはよー、カトーさん」
「おはよう」
朝、講義が始まる前の早い時間。珍しく、佐藤さんが遅れることも無く現れた。
「そりゃ、ひどいんじゃない? あたしだって、時間通りに来るって」
隣に腰を下ろし、手にした缶コーヒーのタブを開けて口をつける。
佐藤さんを横目に、私は講義の準備をする。
「ねーねー、カトーさん」
「何よ」
「どう? 蓉子とはうまくいっているの?」
さらりと吐き出された言葉に、吹き出しそうになった。
首を直角に曲げ、コーヒーの缶をぶらぶらと揺らしている、外人もどきの友人に目を向ける。
なぜ、私と水野さんとのことを知っているのか。
「だって、カトーさんてば最近、蓉子のことばかり話すじゃん」
「そ……そうだっけ?」
「そうだよ。自覚なし? それに今日も、蓉子とデートでしょう?」
「な、なんでっ?!」
確かに、佐藤さんの言うとおり、学校が終わった後に映画を観に行く約束をしているけれど、なぜ分かったのか。約束をしたのは昨日の夜だから、知る機会なんてほとんどないと思うのだが。
「だってカトーさん、蓉子と会う日は朝からご機嫌だから。分かりやすいよ」
「なっ」
慌てて頬をおさえる。
そんなに自分は、顔に出していたのだろうか。それはもちろん、水野さんと会う日は嬉しいし、楽しみでもあるけれど。
佐藤さんは、困惑する私を見て楽しむように、更に追撃してくる。
「あと、服装。蓉子と会わない日と比べて、気合が違う。スカートでくるのも、蓉子と会う日だけだよね~」
にやにやと笑う佐藤さん。
一方の私は、ずばり指摘されて、恥しさで顔が熱くなってくる。
今日は、イエローのタンクトップの上から花柄シャツワンピース。ワンピースとはいっても、スキニージーンズであわせているので、あからさまではないと思っていたのだけれど。
「このサトーさんの目は誤魔化せませんよ。どう? うまくいっているの?」
もう一度、同じ質問を投げかけてくる。
どうやら、私の水野さんに対する気持ちは、とっくに佐藤さんにはバレていたようだ。以前、自身が同性愛者だと佐藤さんから告げられたことがあったが、やはりその手の機微には敏感なのだろうか。
しかし、どうなのだろう。
うまくいっているといえば、うまくいっているのかもしれないが、それはあくまで友達として。それ以上でも、それ以下でもない。
「そっか。でも、はっきりしてあげたほうがいいかもよ? ああ見えて蓉子、色恋沙汰にはとんと鈍感だから。特に、蓉子自身のこととなると」
「……それはひょっとして……佐藤さん自身の経験かしら?」
「さて、どーかしら?」
悪戯っぽく、それでいてどこかはぐらかすような口調の佐藤さん。佐藤さんと水野さんの高校生時代を、私は知らない。ひょっとすると、私の知らないところで二人には何かあったのかもしれない。
今まで、考えるのが嫌だったからあえて避けていたけれど、ここにきて嫌な想像が頭の中に浮かんでくる。
「あー、大丈夫。カトーさんが考えているような関係にはなっていないから、あたしと蓉子は」
表情から悟ったのか、ひらひらと手を振って否定する。
こういうことで嘘をつく人ではないはずだから、信じることにする。そして、内心で安心している自分に気がつく。
完全に、水野さんに心奪われてしまっている自分に、半ば苦笑する。
「いつまでも宙ぶらりんは辛いでしょう。ちゃんと告げたら?」
「そう出来たら、苦労しないし、悩まないわよ」
ため息をつく。
異性に告白することだって、大変な勇気を要する。私だって、これでも学生時代、憧れの先輩に告白をしたこともあるのだ。振られたけれど。
でも、同性に告白をするのは、また違った緊張を用いられる。単に振られるだけならまだいいが、今までの関係すらも破壊してしまうかもしれないのだ。
異性なら、友人関係を続けられるかもしれない。
しかし、ヘテロセクシャルな人間が、同性の人から愛の告白を受けたらどう思うだろうか。同性の友人が、今まで友人としか思っていなかった人間が、自分を恋愛対象としてみていると知れば、気持ち悪いと思うのではないか。
そして、友人が自分のことを、性の対象として見ていると知れば、今までと同じ付き合いなどできなくなるのではないか。
生理的嫌悪感を抱かれるかもしれない。それは、恐ろしいことだった。
「……でもさ。カトーさん、カトーさん自身が同性を好きになったことは、気にしないんだね」
「あ」
言われるまで、気がつかなかった。
相手に嫌われるかもしれない、ということを強く考えてはいても、自分自身が同性を好きになったことは、もちろん始めは戸惑いもしたけれど、その後は意外に抵抗も無く受け入れていた。
「わ、私って……」
机に伏せる。
そういえば水野さんのことを好きだと自覚してから、街中や、あるいはテレビの中でも女の子にばかり目がいっていた。
水野さんがあのような服を着たらどうだろう、水野さんがあのような格好をしたら、と、頭の中で想像をしてみていた。
「でも、本当にさ」
隣から、さっきまでと微妙に異なる口調で、佐藤さんが口を開いた。
「素直に言えたら、苦労はしないよね」
「佐藤、さん……?」
体を起こして見てみると。
佐藤さんは、教室を突き抜けてどこか遠くを見つめているような目をして、そっとコーヒーの匂いがする苦い息を吐き出したのであった。
一人、パンツのポケットに手をつっこんだまま、道を歩く。
大学の講義が終わり、サークルにも属していないあたしは、バイトのない日は特にすることもない。
加東さんは、いそいそと蓉子とのデートに向かっていった。
あの、クールな加東さんが、随分と変わったものだ。もちろん、他の人からはそれほど変わったようには見えないだろう。一番近くにいるあたしだから、僅かな変化にも気がついた。
恋は人を変えるというが、あの加東さんで、しかも相手が女で蓉子とくれば驚くなというのが無理なものだ。
ま、そういうこともある。だからこそ、面白い人生ではないか。
あの、真面目な二人が果たしてどのような付き合いをしていくのか、想像するだけでも楽しくなってくる。
「なんて、人のことばかり気にしている場合じゃないよね」
髪の毛をガシガシとかきながら、歩く速度を上げる。
既に約束の時間を過ぎてはいるが、ちょっとでも早く到着しないと、どんどんと相手の機嫌は悪くなることだろう。
今日は、久しぶりに会う約束をしていた。
特に、何をするという予定も無く、ただお茶でも飲もうかというだけのことなのだが、昼間に加東さんと話したことで、微妙に自分の気持ちが揺れていた。
約束した公園に入り、約束の場所を目指す。
中途半端な時間のためか、公園内にはあまり人の姿はない。犬の散歩をしている人や、ランニングをしている人と時折すれ違う程度。
やがて、彼女の後ろ姿が目に入ってきた。
ベンチに腰をおろし、何をするでもなく佇んでいる姿は、高校時代とあまり変わりない。
ゆっくりと近づいてゆくと、途中で不意に、軽く左右に首を動かした。あたしのことを探しているのだろうか。
ちらりと見えた横顔に、不意に胸がざわつく。
いつから、仲良くなったのだろう。中学に上がり、久しぶりに顔を合わせたときは、お互いに毛嫌いしたものだ。高等部に上がっても、別に特別に仲が良かったわけではない。山百合会の活動を共にするようになって、かつてよりは仲良くなったものの、あたし自身が他人を寄せ付けないところがあったから、そうそう親しかったわけでもない。ただ、間に蓉子が入って、知らず知らずのうちに近づいて、薔薇様になってから仲がよくなった。お互いに何度もぶつかったし、言い合いもした。でも、だからこそ親友とまでいえる仲になったのかもしれない。
またも、彼女の横顔が目に入る。
どこか物憂げな、独特の表情。
茜色の空からの光を浴び、瞳が輝く。
後ろから近づいているあたしのことには、まだ気がついていない。
どうしたのだろう。卒業してから一年も時間が過ぎたわけでもない。それなのに、高校時代の彼女より、ずっと綺麗で大人びて見える。
そっと近づく。
足音が聞こえたのか、気配を感じたのか、彼女が後ろに顔を向けようと動いた。
「……聖? ちょっと何時だと思っているの。もう約束の時間を―――」
その先を、彼女は言うことはなかった。
なぜなら―――
彼女の唇を、あたしの唇が塞いでいたから。
幼稚舎からのつきあいで、初めて感じる彼女の唇は、想像通り柔らかく、温かく、甘かった。
驚いているのか、目を見開いている彼女。あたしの目の前に、彼女の大きな瞳が見え、その瞳の中に映る、あたし。
逃げるでもなく、かといって積極的に求めてくるわけでもなく、お互いに目を開けたまま、ただ押し付けているだけの口付け。
夕闇迫る公園のベンチで、あたしは、初めて江利子とキスをした―――
家に帰り、群がる兄貴達を押しのけて自室に戻ると、バッグを投げ捨ててベッドの上に横になる。
大学生になって、門限は夜の十時となったけれども、帰りの時間を考えると実質外で遊べるのは九時くらいまで。相変わらず過保護な家族に、少しばかりため息。自分に恋人が出来れば、いい加減に子離れ、妹離れが出来るのだろうか。もっとも、単に相手が出来るだけでは駄目で、納得させられるような相手でないと、余計にうるさくなる可能性が高い。
では、相手が女だったら、はたしてどうなるのだろうか。
いまだ唇に残る、聖の唇の感触。
初めてのキスの相手が聖だというのは予想なんて全くできなかったけれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「―――どういう、つもり?」
触れ合っていたのは三十秒か、一分間か。キスをした経験などないので、どれくらいの長さか分からなかった。
目の前に見えるのは、散々見慣れた、日本人離れしたバタ臭い顔。
不意をつかれたキスに驚きはしたものの、まず口をついて出た言葉がそれ。当たり前だ、ファーストキスを友人に、しかも女の友人に奪われたのだから。
しかし、なぜか私以上に、キスをしてきた聖の方が戸惑っているように見えた。
「あ……え、えと、ごめん」
私に問われ、どこかおどおどしたように、両方の人差し指の先をつんつんしながら謝ってきた聖。
「ごめん、じゃなくて。どういうつもりでキスなんかしたのかと、聞いたのだけれど」
「や……え、江利子の姿を見たらさ、急にしたくなって」
「したくなったら、相手の同意も取らずにキスするの、貴女は」
ベンチから立ち上がり、聖のことを少しきつめに見る。聖の方が上背があるから、私を見下ろす格好になるはずだけれど、私に押されている。いつもの調子のよさも、軽さも見せずに、ただびくついている。
そんな聖を見るなんて珍しかったから、キスされたことも忘れて、ついからかってみたくなる。
「どうせ、私のことからかっているのでしょう? ひどいわ、聖ったら」
背を向け、目を拭う仕種を見せる。
すると。
「違う、からかっているわけじゃない」
思わぬ強い口調で否定される。
「あたしは、本当に江利子のことが……」
なんだというのか。
私は再び聖と正対し、彼女を見据える。
「やめてよ。私は蓉子の代わりになんかならないわよ」
「違っ……!! そんなんじゃ」
「何が違うっていうの。ずっと蓉子に伝えられなかったくせに、私には簡単に言えるの?」
リリアンにいた頃、蓉子の気持ちは聖に向けられていた。蓉子は隠していたつもりだろうけれど、私も、そしておそらく聖も気がついていたはず。
聖だって、蓉子には心を許していたはずだ。聖があれほど他人に甘えるのを見たのは、幼稚舎から通して初めてだった。
栞さんとのことを経て、身も心も磨り減っていた聖を癒したのは、間違いなく蓉子だった。そしてその原動力は、間違いなく聖への想いだったはず。私はてっきり、二人はくっついたものだとばかり思っていたのだけれど、高校を卒業するとき、そうではなかったことを蓉子から知らされた。
「そ、そんなんじゃ……」
苦しげな表情をする聖。
「……ぷっ。くくくっ」
「え、江利子?」
「あはははっ。やだ、聖ったら、なんて顔をしているのよ。でもごめんなさい、酷いことを言ったのは私の方よね。私も、動揺していたのかな」
笑って、誤魔化す。
本当に、どうにかしている。どうしてこんな、嫌な女を見せなければならないのだろう。蓉子のことを口に出してしまったのは、明らかに私の落ち度だ。親友同士でも、言っていいことと悪いことがあるのに。
しかも、冗談で紛らわせようとするなんて、それこそ最低だ。聖のことを責める資格などない。
でも、他に方法が思いつかなかった。
「行きましょう、聖。お腹すいちゃったわ」
背を向けて、歩き出す。
声をかけようとして躊躇う聖の様子が、背中越しにも伝わってくる。聖が気持ちを立て直す間を利用して、私も自分の顔をいつもの表情に戻す。聖は意外と打たれ弱いところがある。だから、私の方が先に平常に戻ることが出来た。
振り返ると、まだ変な顔をした聖の姿。
そんな聖を見て、なぜか私の心は妙に浮き足立つのであった。
「一体、どういうつもりなのかしら」
天井を見上げる。
聖の顔が、浮かんでくる。
「……嫌だわ」
そう言いながら。
それほど嫌ではない自分の心が、不思議だった。