染谷ゆかりは一人、剣を振っていた。
Aランクに上がったとはいえ、鍛錬を欠かしたら腕などすぐに落ちてしまう。ましてや、あえてハンデを負うような髪型にしているのだから尚更である。もっとも、ゆかり本人は髪型がハンデだなどとは思ってもいない。
そう、彼女に比べてみれば―――
型を確かめ、剣の軌道を確認する。何度、振ったところで決して乱れぬように。そしてどれくらい剣を振った頃だろうか、不意に人の気配を感じて振り返る。
まさか、彼女がやってきたのでは、という思いが心の中をよぎる。
だがそんなことがあるはずもなく、今ゆかりの瞳に映る人影は、淡く優しい笑みを浮かべながらゆかりのことを見つめていて。
「……先輩」
「ふふ。ひょっとして、無道さんだと思ったのかしら?」
「なっ、ちがっ」
慌てて否定しようとしたものの、図星をつかれていたものだから声が上ずってしまった。ゆかりはわずかに頬を染めて、槙のことを見つめる。
槙は、穏やかな表情でゆかりのことを見ている。
いつもそうである。
槙は、ゆかりの気持ちをまるで理解しているかのように接し、話しかけてくる。たった一つしか学年は変わらないというのに、物凄く大人のように見える。かと思うと、時にはとても頼りなくなることもある、不思議な先輩であった。
高等部一年にして、美術部の部長。剣の腕も、ブランクがあるとはいえ間違いようのないもの。
だけど、槙は戦いをするには優しすぎる。相手の腕前にあわせてしまうから、他の剣待生からもあまり注目されていないのだが、紛れもなく技術は一流。特にAランクに上がったのだから、自身にあった得物を使用し、自分の型を繰り出せば、更に目を見張るような結果を残すことも出来るはず。
それなのに。
「どうしたの、ゆかり」
あくまでも優しい表情を絶やさない。
「いえ、別に」
と言いながら視線をずらすと、槙が小脇に抱えているスケッチブックが目に入った。ゆかりの視線に気がつき、スケッチブックを軽く上げてみせる槙。
「これ? 気になったときに描けるように、ってね」
「剣とスケッチブック、両方を持ち歩くなんて大変ですよ」
「やあね、今日はたまたまよ。ゆかりの姿が見えたから」
「え、それじゃあまさか」
思わずゆかりは、目を見張る。
槙は悪びれた様子もなく、軽く頷いてみせる。
ゆかりの頭に熱が上る。鍛錬しているところをずっと見られていて、あまつさえ、その姿をスケッチされていたとでもいうのか。気配を感じさせなかったのはさすがと言いたいところだが、無断で自分の姿を描かれていたのかと思うと、羞恥とも怒りともとれない感情が渦巻いてくる。
「先輩、黙って描いているなんて、ひどいじゃないですかっ」
「あら。だって、描かせてちょうだい、っていったら、ゆかりは頷いてくれた?」
「うっ、それは……」
言葉に詰まるゆかり。
確かに、面と向かっていわれたら、素直に了承できるものではないと思うが、それでも何か一言あってしかるべきではないか。
「いいじゃない、真剣なゆかりの姿は、綺麗だったわよ」
「なっ……」
てらいもなく言われ、ゆかりの方が恥しくなる。
だから反発して、口を尖らせてあさっての方を向く。
「それよりも、見せてください」
照れ隠しに、怒った風に見せかけて槙の手にしていたスケッチブックを素早く奪う。槙は焦って取り返そうとするが既に遅く、ゆかりはスケッチブックを開いてしまった。
そして、そこに描かれていた絵を見て、思わず声もなく見入ってしまった。
槙は、風景画だけでなく人物画だって上手い。それは分かっていた。
開いたスケッチブックに描かれていたのは、ゆかりの姿だった。それも想像はしていた。
しかしながら、姿を現したゆかりは、今身につけているトレーニングウェアの格好ではなく、制服姿でテーブルに座り頬杖をついていた。どこか物憂げな表情は、ゆかり自身ではないのではないかと思えるくらい、大人っぽく見えた。
そうかと思うと、次に開いたページには、テーブルに突っ伏して眠っている姿があり、無防備な幼さが見える。
更にページをめくっていく。
中庭のベンチで本を読んでいる姿。
湯上りなのか、ラフな格好でペットボトルを手にしている姿。
珍しく、笑っている顔。
スケッチブックをめくっていけばめくっていくほど、様々な表情をしたゆかりの姿が現れた。最後までめくってようやく、先ほど剣を振っていた時らしき絵が目に入った。
結局、最初から最後までゆかりの姿しか描かれていなかった。
全部が全部、止まっている姿というわけではないのに、細部まできちんと描けているのは槙の観察眼がよいのか、記憶がよいのか。
しばし呆然と食い入るように見ていたが、やがてハッとして槙を見ると。
照れくさそうに、頬をかいている槙の姿があった。
「あはは、見られちゃったか、恥しい」
「こ、これ、先輩」
「うん。実は私ね、ゆかりを描くのが好きで、こうして秘かに描いていたのよ……ごめんね、黙っていて」
「い、いえ」
謝ってくるが、それ以上にゆかりは恥しかった。
一枚一枚の絵に、どれだけ時間をかけたのだろうか。色づけはされていないが、決して、適当に描いているものではなかった。
紙の上で踊るゆかりの姿は生気に満ちていて、槙が気持ちを込めて描いたのがわかるだけに、モデルとなっているゆかりとしてはその分、恥しくなる。
ゆかりはうつむきながら、スケッチブックを槙に返す。
「バレちゃったから、もう隠す必要もないわね。ねえ、そのついでといってはなんだけれど、一つお願いがあるの」
「な、なんでしょうか」
思わず、警戒する。
「今度、正式にモデルになってくれないかしら」
こともなげに、槙は言う。
ゆかりは目を見開いた。
「え、も、モデルなんてそんな、無理ですっ」
「なんで、ゆかり、綺麗だし。そんなこといわないで、お願い」
「大体、モデルなんて、どんな風にしたら」
小声で、もごもごと言うと。
槙は、指を顎にあて、軽く上を向くようにして「うーん」と考える。
やがて、何か名案を思いついたかのように指を鳴らし、にっこりとゆかりを見つめた。
「……ヌードモデル、なんてどうかしら?」
「ぬ、ぬーどっ!?」
声が裏返る。
「ゆかりの体、綺麗だし」
自分の裸身を、槙に見られる。
成長しつつある胸、剣で鍛えられたしなやかな腕の筋肉、丸みを帯び女性らしくなってゆくボディライン、そして―――
女子校の寮生活であり、風呂などで同級生の裸を見たり見られたりということには慣れているはず。
しかし、モデルとなると、部屋の中二人きりで槙に自分の裸を、隅から隅まで見られることになる。
ゆかりただ一人が、槙ただ一人に。
その情景を頭の中に思い描いて、ゆかりは羞恥と共に、槙に見てもらいたい、という淫らな気持ちが浮かんできてしまったことに自分自身、驚いた。
体が熱くなる。
「……いやね、冗談よ。ゆかりったら、そんな顔しちゃって」
見かねたのか、槙が声を上げて笑い出した。
ゆかりはただ顔を赤くするだけで、うまく口を開けなかった。
やがて、笑うことに満足したのか、槙は普段どおりの表情に戻って。
「鍛錬の邪魔をしてごめんなさいね。私はもう行くから」
「あ、いえ」
何も言えない。
槙はただ穏やかな目をして去りかけたが、何かに気がついたかのように再度、ゆかりの方に近づいてきた。
何事かと、思わず身をすくめるゆかりの頭に、ふわりと手が触れる。
「髪が、乱れているわよ」
槙の指がゆかりの髪の毛を梳き、整える。
その、あまりの心地よさに、陶然とするゆかり。
槙の指はさらに髪の毛を滑り落ち、ゆかりの頬をなぞる。痺れるような感覚が、頬からお腹の奥の方に広がってゆく。
「汗、冷やさないようにね」
そう言って、今度こそ槙は校舎の陰に消えていった。
一人、残されたゆかりは。
初めて感じる気持ちと、高鳴る鼓動にただ戸惑いながら、槙が消えていった方角を無言で見つめ続けるのであった。
おしまい