休日、祐麒はちょっと駅の方に出かけていた。特別に用事があったわけではない。ただ、家にいてもすることがなかったから。駅まで出れば、本屋で適当に雑誌の新刊を立ち読みしたり、ゲームセンターで新しいゲームで腕をふるったり、適当にその辺の店を冷やかしたりして時間をつぶすことができるから。
無意味に思える時間も、たまには必要だと思う。後になって、なぜそんな無駄な時間を過ごしたのだろうかと後悔することもあるかもしれないが、そのときはそのとき。今はただ、空いた時間をいかに消費するかということだ。
こういうとき、付き合っている彼女でもいればデートをするとか、あるいは特別にデートなんてしなくても、ただ会ってお喋りするだけでも楽しいのだろうか、などと祐麒も年頃の少年らしいことを考える。しかし現実には、そのような相手はいないわけで。祐麒に限らず、男子校である花寺学院では他の共学の高校に比べて、男女交際比率が低いようだった。祐麒も、小林や高田といった友人たちに彼女がいるというような話を聞いたことがない。もちろんそれでも、彼女がいるやつはいるのだが。
祐麒にしてみたら、まだ強烈に彼女が欲しいとまでは思わない。今は学園生活もそれなりに充実しているし、小林たち男の友人とつるんで遊んでいることが楽しいから。
そんな、とりとめもないことを考えながら、駅ビルの中にある大きなブックセンターへと足を踏み入れた。蔵書量も在庫も豊富で、品揃えもバラエティに富んでいるので人の入りもよい店だ。
適当にぶらついて、スポーツ雑誌に目を通し、読み逃していた週間漫画雑誌をぱらぱらとめくってみる。そこで、買い揃えている作品の新刊が今週、発売されていることを知り、コミックコーナーにて手にする。
他に何か、目ぼしい新刊でも出ていないかと文庫本の新刊が平積みされたコーナーに行ったところで、その子と遭遇した。
「あ」
先に声をあげたのは祐麒だった。
「――え?」
その声につられるように祐麒の方を見て、口を開けた彼女。
切り揃えられた黒い髪の毛が、まるで日本人形のようなイメージを想起させる風貌。
「二条さん」
「…………どうも」
しぶしぶ、といった感じで挨拶をしてくる乃梨子。おそらく、しばらく前の一件が尾を引いているのだろう。祐麒とて、そのことを忘れているわけではない。思いもかけずに乃梨子と一緒に出かけることになったことを。
声をかけたものの、さて、これからどうすればよいかと思案に暮れる。特別に親しい間柄というわけでもないし、本屋の中という状況からも挨拶だけしてそのまま素通りしてしまえば問題ないわけにも思えるが、それで終わりというのもあまりに素っ気無い。
ここは、当たり障りのない会話を少しばかりして別れるのが得策だろうと考えた。
「ここには、よくくるの?」
「はい、ちょくちょく利用します」
「ここなら大抵のものはそろっているからね」
「そうですね」
なんとも、心の通わない会話をしているなと祐麒は思った。かといって、それ以上に話を弾ませる材料もなく切り上げようかとしたとき、ふと、乃梨子の左手に持たれた本に目がいった。
「『日本の秘仏』……」
「っ!!」
ぽろりと、一瞬のうちに脳裏に刷り込まれたそのタイトルをこぼしてしまった。瞬間、乃梨子の顔に朱が差し、目つきがけわしくなる。本を、さりげなく体の後ろに隠す。
「……!なっ、何がおかしいんですか」
「え?」
どうやら祐麒も意識しないうちに、口元が少し緩んでいたようだ。仏像観賞が好きという変わった趣味を持っている、というのは聞いていたが、高校生の女の子が手にするにはあまりにミスマッチな本を持っている姿がシュールだったというか、逆に妙にマッチして見えたというか。
「本当に、好きなんだね」
「……悪いですか」
「悪いなんて、一言も言っていないよ。夢中になれるものがあるって、いいじゃない」
「そんなこと言って、どうせ心の中では笑っているんじゃないですか?」
「そんなことないって」
「とにかく、私はこれで失礼します」
頭を下げて、態度だけは丁寧に、でもどこか人を寄せ付けないオーラを放ちながら乃梨子は祐麒に背を向けて歩き出した。
『日本の秘仏』を手に、レジに向かって。
乃梨子と別れたあと、祐麒はしばらく本屋の中を見て周ってからブックセンターを出た。結局、購入したのはコミック本一冊。他には特に目ぼしいものはなかった。その後、駅ビル内のいくつかのショップを覗いてみたものの心惹かれるものもなく、また、うろついていて乃梨子と出くわしてしまうのも気まずいと思ったので、ビルを出ることにした。
駅前に広がる雑多な店の間を抜け、たどりついたのは大きなゲームセンター。楽しみながら時間をつぶすには持って来いの場所である。
とりあえず祐麒は両替をして、来ると最初に必ずやるゲーム台の前へとやってきた。存在感は薄くなっても、それでもなぜか必ずあるシューティングゲーム。分かりやすいからこそ、熱くなる。難点は、下手くそだとあっという間に投入したお金が無駄になること。祐麒は結局、ステージ5の壁を突破できずに終了した。
その後、対戦格闘ゲーム、レースゲームをしたところで一息つく。祐麒の入ったゲームセンターは広くて明るくて綺麗な場所ではあるが、それでもどこか空気が澱んでいる気がするのは避けられない。何か飲み物でも買うついでに外の空気でも吸おうかと、祐麒は店の入り口に向かった。
店の入り口近辺には、主に音楽系のゲームが置いてある。リズムにあわせて複数のボタンを叩くもの、ギターを弾くものなど様々だ。
すると。
バチを持って華麗に太鼓を叩く日本人形の姿があった。
「おお―――」
思わず、声が漏れる。
太鼓を叩いているのは、乃梨子であった。しかも曲目は『フニクリ・フニクラ』だ。似合っているのだか似合っていないのだかよくわからないが、乃梨子の腕がなかなかのものであることは確かだった。
乃梨子の動きに迷いはなく、かなりの高得点を刻んでいるようにみえる。祐麒は少し離れた場所でその姿を見ているだけだったが、本当に偶然、ちょっとした音の合間に乃梨子の目だけがわずかに動き、祐麒の目とあった。
「あ―――」
瞬間、乃梨子のリズムが崩れる。
慌てて立て直そうとするが、一旦崩れてしまったリズムはなかなか戻ることなく、曲が終わる頃にようやく戻したものの、時すでに遅く。
「くっ……」
乃梨子は、まさに苦虫を噛み潰したような顔をしていた。自分に責任はないと思いつつも、祐麒は乃梨子の方に歩いていって謝罪した。
「ごめん、なんか、俺のせい?」
「別に、関係ありません。私の精神力が未熟だっただけです」
「それって結局、俺を見て動揺したってことだよね?」
「う……」
何も言い返さずに、乃梨子はバチを置こうとした。
「あ、ちょっと待って」
「え?」
祐麒は咄嗟に筐体に駆け寄り、財布を出す。
「このままじゃ俺も、なんか寝つきが悪いし。二条さんにも申し訳ないし」
「や、やめてください。別に、なんとも思っていないですから。理由がありません」
拒否しようとする乃梨子だったが、有無を言わさずに硬貨を投入する。それも、二人分の金額を。
「俺がプレイしたいんだよ、ちょっとつきあってよ」
置いてあった、もう一人用のバチを手に取る。
「……分かりました。じゃあ、対決ということで」
「協力プレイと言わないところがらしいね……オーケイ、受けましょう」
苦笑しながら祐麒は適当に選曲する。
「なっ……『ラジャラジャマハラジャ』って」
乃梨子が腰砕けになる。選んだ祐麒自身、力が抜けそうになった。なんで、こんな曲がリストの中に入っているのか。
しかし、そんな二人の思惑などどうでもいいかのように、能天気な音楽は流れ始める。音楽に合わせて、リズムよく太鼓を叩く二人。さほど長くない曲、すぐに一番が終わる。得点は、ほぼ同じだ。
(――なかなかやりますね)
(そっちこそ)
ちらりと視線を交錯させ、心の中でトークを交わす二人。
真剣な表情をしているが、流れている曲が曲だけにこっけいに見えているということに、本人たちは気が付いていない。
結局、一曲目は乃梨子の点数の方がわずかに高かった。
「次は、私が選曲させてもらいます」
言って、乃梨子が選んだ曲は。
「く、『暴れん坊将軍』でくるとは」
「私も初めての曲です。これで、葬ってあげます」
高らかに始まる二曲目。
この曲が初めてというのが信じられないくらい、乃梨子のバチさばきは正確無比にリズムを刻んでいた。冷静沈着に画面に出てくる情報を分析し、それに基づいた動きをする腕。祐麒もくらいついているが、どうしても細かい部分では乃梨子に敵わない。このままでは、ずるずると点差をつけられて負ける、と思ったそのとき。
「――――あ」
手が滑ったのか、乃梨子がバチを握りなおした。しかし、そこは丁度、高得点コンボを狙うフレーズだった。乃梨子は急いで叩き出したが、やはりリズムが合わずに得点を取り逃がしていく。祐麒はここぞとばかりに叩いた。それはもう、暴れん坊将軍の曲だけに暴れ太鼓の勢いで叩いた。
そして、結果は。
「…………くっ」
「やっぱり、この前もプレイしていたのがきいたのかな。これ、腕がかなり疲れるんだよね」
「そ、そんな情けをかけてもらわなくて結構です」
「そういうつもりじゃ……いや、ごめん。余計なことだった」
「く……この屈辱は、いつか必ず返させてもらいますからね!」
悔しそうに捨て台詞を残して、乃梨子はゲームセンターを去って行った。
乃梨子が去った後、いくつかのゲームをプレイしてから祐麒も外に出た。時間もそれなりに過ぎていたので、あとは適当に店を覗き見しながら歩いていた。活気のある街中を抜け、店も少なくなった外れの方まで足を伸ばす。この先は、住宅街や公園くらいしかないはずだと思い、祐麒は踵を返した。
「――あ」
頬に、何かがあたった。
上を見上げてみると、鉛色の空から雨粒が落ち始めていた。
「うわ、降ってきた。天気予報、大丈夫だっていってたのになあ」
文句を言っている間にも、雨足はどんどんと強くなっていた。これは一旦、どこかに退避しなければと、とりあえず駆け出して目に付いた店の軒先に体を滑り込ませる。
「――げっ」
と、声を発したのは隣にいる人だった。
「二条―――さん」
二度あることは三度あるというが、いくらなんでもこれは出来すぎではないだろうか。しかし、現実として二人はここにいるわけで。
「……『げっ』はないんじゃないの、いくらなんでも?」
「……し、失礼しました」
さすがに、ちょっとばかりはしたないと感じたのだろうか、乃梨子は少し恥しそうにしながらも素直に謝った。
「それにしても、ここまでかちあうなんて……ひょっとしてストーカーですか?」
ちょっと素直になったな、などと祐麒も思っていたが、それも一瞬。とんでもないことを乃梨子は口にする。
「なんでおれが。二条さん、意識しすぎなんじゃない」
「だっ、誰が意識なんか!だっておかしいじゃないですか、さっきから行く先々で顔を合わせるなんて」
「それは、こっちの台詞だって」
「私がストーカー行為をするわけないじゃないですかっ」
「いやそんなことは一言も言ってないだろう?!なんでそう、すぐに突っかかってくるのさ、かわいくないなあ」
「かわいくなくて結構ですー」
雨が降り続く中、店の軒先で顔を合わせ、お互いに言い合う。急な雨に驚いたのか、街を行くほかの人たちもそれぞれ、どこかの店の中などに避難をしているようで人通りは一気に少なくなっていた。
「ほんと、散々な休日です」
「だから、それは俺が言いた……っ」
言い返そうとして、祐麒は口をつぐんだ。
「――?なんです、何を言おうとしたんですか」
敏感に感じ取った乃梨子が、眉を吊り上げて問いただしてくる。しかし祐麒は目をそらし、乃梨子と距離を取ろうとする。
「一体、なんなんです?」
祐麒の行動はさらに乃梨子の疑惑を増殖させるだけだった。
しかし、祐麒は答えることができなかった。雨に濡れた乃梨子のごく薄い水色のブラウスが透けて、ほんのりと下着が透けて見えるのが目に入ってしまったから。それほど濡れているわけでもないし、透けているのもよく見れば、というレベルだったので乃梨子も気が付いていなかったのかもしれない。しかし、間近で接していた祐麒は気が付いてしまった。そして一度気が付くと、気になりだしてどうしようもない。水分を吸収した部分が肌に張り付くようで、さほど肉付きがよいとはいえない乃梨子の体が、やけに肉感的に見える。
「いや、その、さ……ん?」
誤魔化すように、肩から提げていたバッグの中を覗き込んだりしてみた。すると、中になにやら見慣れないものがあった。手を入れて取り出してみると。
「あ」
折り畳み傘だった。
「……ずいぶんとかわいい趣味をしているんですね」
「こ、これは祐巳のだから」
皮肉を込めて視線を向けてくる乃梨子に対して、慌てて弁解する。祐麒の手に握られた折り畳み傘は、女の子らしいピンク色をしていた。
祐麒自身は持ってきたという自覚はなかったから、おそらく以前に借りたことがあり、それがそのまま入っていたのかと思われる。なんにせよ、これで祐麒としては今の状況から抜け出せることになったわけだが。
「どうぞ、私のことならお構いなく。少し待てば、やむかもしれませんし」
祐麒がちらりと目を向けると、乃梨子は憎らしいくらいに冷静な顔と口調で言う。雨の雫を落とし続ける天空を見上げるその横顔は、それでもどこかあどけない。
雨は、勢いを増しこそすれ、衰える気配は見えない。しばらくは、やみそうもなかった。
祐麒はピンクの折り畳み傘を広げると、少し考えた後、乃梨子に向けて差し出した。
「……なんですか?」
「これ、使っていいよ」
「そしたら、祐麒さんはどうするんですか?」
「走っていくから、いいよ」
「結構です。せっかくあったんですから、ご自身で使われたらいいじゃないですか」
「じゃあ、俺と一緒に傘に入っていく?」
「お断りします」
無益な会話が続いていく。乃梨子は相変わらず、正面を向いたまま祐麒の方を見ようとしない。
「じゃ、やっぱり二条さんが使いなよ」
「だから、結構です」
「それじゃ、一緒に」
「それもお断りします」
「そしたら、いつまでもこのままだよ。俺はフェミニストじゃないけれど、女の子を一人、雨の中にいさせるつもりはないから。二条さんが傘を借りてくれるか、嫌だろうけれど俺と一緒に入るか」
「…………」
考えているのだろうか、乃梨子は無言で鉛色に沈む街を見つめている。
降り続く雨の音だけが、耳に響く。休日、二人の若い男女が並んで立ち尽くすには、あまりに無粋な舞台であった。
風も少し出てきて、足元に雨の滴が弾けるようになり始めた頃。
「……わかりました」
ようやく、根負けしたかのように乃梨子はため息混じりに言った。
「先輩の顔を、立ててあげます」
「はいはい、ありがとうございます」
憎まれ口を叩く乃梨子の言葉を受け流して、祐麒は手にした傘を軽く見上げる。
「……あのさ、もうちょっとこっち寄らないと、濡れちゃうよ。この傘、あんまり大きくないからさ」
「わ、わかってます」
一歩、祐麒の方に寄る乃梨子。それでも、微妙な隙間があいている。祐麒が乃梨子を見てみると。
乃梨子は腕を組み、拗ねたような顔をして祐麒からちょっと顔を背けていたが、祐麒の視線を感じたのか居心地悪そうにみじろぎする。
「なんですか。い、言っておきますけれど、別に好きでこんな相合傘するわけじゃないんですからね。仕方なく、なんですから」
「わかってるって」
乃梨子に気づかれないように、祐麒は軽く笑う。文句を言いながらも、やはり二人で傘に入ることが恥しいのか、わずかに顔を赤くしている乃梨子がやけに可愛く見えたから。
「さっさと、いきましょう」
この後二人は、駅までの十数分間、無言で歩いた。
駅に着いたところで、乃梨子は素早く離れる。
「どうも、ありがとうございました」
それでも、きちんと言うべきところは言う。乃梨子は頭を下げて、そのまま背を向けて去ろうとしたが。
「あ、ちょっと待って」
祐麒に呼ばれて足を止める。
「二条さん、最寄り駅からは、歩き?」
「そう、ですけど?」
「じゃあ、これもっていきなよ。それで濡れちゃったら、結局、意味ないし」
たたまれたピンクの傘が差し出される。
「大丈夫です、そこまで帰れば迎えに来てもらえますし」
「でも、二条さんて確か、知り合いの家にお世話になっているんだよね。それじゃ頼みづらいだろうし、留守にしている可能性もあるじゃない」
「それは……そうですけれど」
「俺なら、家族の誰かは家にいるだろうし。気にしないでいいから」
「でも……」
何か言いたそうな乃梨子ではあったが。
「ほら、せっかくだから最後まで先輩の顔を立たせてよ」
「あっ」
半ば無理やりに乃梨子の手を取ると、そこに傘を持たせた。
「それじゃ」
乃梨子が反論する前に、祐麒は素早く駆け出していた。その姿は、あっという間に駅の人込みの中に消えていった。
あとには、ぶつけようのない思いを一人抱えた乃梨子だけが残された。
「ただいまー」
「お帰り、リコ。雨には降られなかったかい?」
「うん、大丈夫」
菫子に答えて、乃梨子は自室に入った。
結局、最寄り駅に到着した頃には雨もすっかり上がっていて、それどころか陽射しも出ていたりして、典型的な通り雨だったわけで。祐麒から渡された折り畳み傘は、全く不要となっていた。
乃梨子は、手荷物をベッドに放り投げると、自らも勢いよくベッドに腰をおろした。
「あーあ、なんか疲れたな」
力なく呟いていると、バッグからはみ出した紙袋が目に入った。今日、購入した『日本の秘仏』だ。楽しみにしていたのだけれど、目にしたとたんに別のことが脳裏に蘇ってくる。
偶然に出くわした、花寺学院の生徒会長。
別に、仏像が好きだという趣味を恥しいとは思っていない。それなのに今日、本を買うところを見られたことが妙に心を苛立たせる。
それだけではない。その後、ゲームセンターでまたまた出会い、得意にしていたゲームで負けてしまったこと。
更にその後、突然に降り出した雨の中、借りを作ってしまったこと。
乃梨子にしてみたら、失態の連続を見られてしまったようなものだった。
「ああ、もう、むしゃくしゃするなあ」
乃梨子は、手近にあった枕を掴む。
「ええい、この、このっ」
ぼふん、ぼふん、と枕を拳で殴りつける。
八つ当たりである。
やがて、殴るのにも疲れると。
「どーせ、私は可愛くなんてないですよー、っだ」
と、枕に向けて舌を出すと、枕をぽいと投げ捨てる。
「……ああ、何やってんだろ、私」
自分自身の行動に、首を傾げそうになる。それくらい、今日一日の出来事に困惑していたのだ。
でも、どんなに気に入らなかったとしても貸しを作ったのは確かなことで。雨に濡れずにすんだのは、傘にいれてもらったお陰だという事実は変わらないし、恩を仇で返すような人間に、乃梨子はなるつもりはなかった。
「傘くらい、ちゃんと干してキレイにして返してやるわよ」
既に晴れてきているのだ、もう傘を干しても問題はない。
乃梨子は一度玄関に戻って傘を手に取ると、リビングを抜けてベランダに出る。
「随分と可愛らしい傘だね。そんなの、持っていたっけ?」
リビングのソファで本を読みながらお茶を飲んでいる菫子が、声をかけてくる。
「うん、先輩にたまたま会って、貸してもらったんだ」
「ふーん。そんな傘持っているなんて、可愛らしい先輩なんだね」
さして興味もなさそうに、菫子は本に目を向けたままだ。
乃梨子は、傘を広げるとベランダに置いた。手すりからは水滴が流れ落ち、夕日を浴びて光っている。
「可愛くなんて、ないわよ」
腰に手をあて、傘に向かってつぶやく乃梨子。
空には、いつの間にか色鮮やかな虹が弧を描いていた。
おしまい