まさか、自分が受験に失敗するなんて思ってもいなかった。もちろん、物事に絶対なんてことはないことくらい分かっているけれど、自分の成績、去年までの出題傾向と第一志望校の偏差値をかんがみて、落ちる可能性は殆どないだろうと思っていたし、家族や担任の先生も同じように考えていた。それが、あんな間抜けな理由で、試験を受けることすらできずに落ちることになるなんて。
落ちると思っていなかったから、滑り止めの学校もあまり真面目に考えてなく、通学するという事実が頭の中に入ってきてからようやく、昔から続くお嬢様学校だということを理解した。
自分に似合わないなんてのは分かっていること、中学の友人にも笑われたけれど、もはや変えることも出来ないのだから受け入れるしかない。
それは分かっているのだが。
「ごきげんよう、乃梨子さん」
「この前お話しさせていただいた聖書朗読部ですが、興味はあるかしら」
話しかけられて顔を向ければ、クラスメイトの二人がにこやかな表情で乃梨子のことを見つめてきていた。
「あ~…………と、ごめんなさい、やっぱり遠慮させてもらおうかなって」
いまだに慣れない『ごきげんよう』の挨拶。そして聞き慣れない部活名。うんざりしそうになるのを顔に出さないよう注意しながら、返事をする。彼女たちだって別に嫌がらせをしているわけではなく、むしろ高等部からリリアンに入って来た乃梨子に気を遣い、早く周囲に慣れるようにと声をかけてくれているのだ。
「そうですか、残念ですけど仕方有りませんね」
「乃梨子さんも、山百合会に入られて忙しくなるでしょうし」
「そ……そうなの、うん」
先日、志摩子のロザリオを受け取って姉妹となった。志摩子は現在の白薔薇様であり、その妹ということは白薔薇の蕾ということになる。乃梨子はよく理解していなかったが、その時点で山百合会なるリリアン女学園の生徒会メンバーとなるのは決まっていたらしい。別に山百合会に入りたいなんて思っていたわけではないが、学園における暗黙のルールならば致し方ない、乃梨子とて自ら波風を立てるつもりは無かった。
「でも、乃梨子さん白薔薇様になられたら、さぞや人気が出るでしょうね」
「本当、とても凛々しくて格好いいですからね」
「いや、そんなこと……あはは」
女子高というのは、本当に王子様みたいに女子からモテる女子がいるということを実体験で理解したが、自分が実際にモテる身になるとは思えないし、そもそもモテたくない。
「それでは私達、これから聖書朗読部の活動がありますので、失礼します」
「また明日、ごきげんよう」
「ご、ごきげんよう……」
二人が乃梨子から離れてゆき、教室から姿を消したところで乃梨子はようやく肩の力を抜き、ほうっと息を吐き出した。
「お疲れのようですわね、乃梨子さん」
と、その時を見計らったかのように声をかけられてビクッとするも、相手が誰だか理解して脱力する。
「なんだ、瞳子か」
だらりと机に頬をぺったりとくっつける。だらしない姿だが、教室内には既に他の生徒の影は見えない。
「なんだ、とはまた酷いですわね。どうしましたか?」
「どーしたもこーしたもさー、リリアンの空気が疲れるのよー、アンタには分からないかもしれないけどさー」
「でしたら、他の方たちの前でも今の乃梨子さんのような姿を見せればいいじゃありませんか」
「それはなんか、んー、瞳子はもういいんだけどさ」
「他の人に対してはまだそうはいかない、と……これはそれだけ親しくなったと喜んでよいのか、どうでもいい相手と思われ怒るべきなのか、迷いますわね」 短い期間ではあったが瞳子とは一悶着あり、結果的に自分を取り繕う必要がなくなったというか、それも面倒くさくなったというか。しかしだからといって、他の生徒達に対してもさらけ出せるほどではない。乃梨子だって外面というものは持っているし、ましてや周囲の人は全て高校に入ってから知り合ってどんな人間かもわからないのだ。
「女子校ってみんなこうなのかな? いや、中でもやっぱりリリアンが特殊なんだよね、姉妹だのお姉さまだの、それが普通なんて……」
「あら。真っ先に素敵なお姉さまを作った乃梨子さんの言葉とも思えませんわね」
「あれは、別にそういうのじゃなくて……ただ、『姉妹』という形を取るのがベターだと思ったわけよ」
よいしょ、と顔をあげて頬杖ついて瞳子を見上げる。
特徴的な縦ロールの髪の毛が揺れている。この髪型も、現実で目にするのは初めての事だった。
「は~あ、これから三年間、この学校でうまくやっていく自信ないわぁ」
沈鬱なため息を吐き出す乃梨子。
しかし、傍らに立つ瞳子はなぜか小さく笑った。
「他人事だから面白いかもしれないけれど、瞳子アンタね……」
「失礼、そういうことではありませんわ」
「ん、じゃあ、何よ」
胡乱な視線を、挑発的な吊り目のクラスメイトに向ける。
「いえ。ただ私、乃梨子さんはリリアン適性が高いと思っていますのよ?」
「――――って、何が『思っていますのよ?』だよー、他人事だからって」
口を尖らせ、乃梨子はオレンジジュースをストローで啜る。
「おーおー、荒れてんなニジョー」
「まあまあ乃梨ちゃん、こういう時はポテトでも食べて」
ファストフードの店内、中学時代に仲の良かった友人とのお喋り。リリアンでは学園帰りの寄り道は禁止されていたが、小学生でもあるまいし、そこまで規律で縛らなくても良いだろうと思う。
「まあでも実際、すぐに校則を破るニジョーがリリアンに適応するとは思えないよな」
可笑しそうに肩をすくめながら、春日が言う。バスケをやっていて長身、ボーイッシュと、春日の方こそリリアンに入ればモテること間違いなしと思える。
「レトロなワンピースの制服、乃梨ちゃんに似合っていて可愛いよね」
ほにゃら~んとした脱力系の声は唯のもの。春日と唯は同じ高校に進学し、制服はブレザーである。
「ごっめーん、遅れた。あの馬鹿がしつこくてさー」
三人が座っていた席に遅れてやってきたのは、制服のスカートを大胆に短くし、胸元のリボンも崩した見た目ギャル系の少女、光である。髪の毛も派手な茶髪にしている。
「何、彼氏?」
「そう。女友達と会うって言っているのに、信じなくて。小っちゃい男だよね」
乃梨子の隣の席に腰を下ろし、髪の毛をかきあげる。
根は真面目で良い子だということを乃梨子たちは知っているが、見た目から判断されて誤解されやすい。
「で、何、また乃梨子の"リリアントーク" ?」
「そうそう、楽しいぜ」
「ちょっと、人をネタ扱いしないでよ、こっちは真面目なんだから」
「この前はお姉さまが出来たってことだったから、何、今度はそろそろ彼女でも出来た?」
光が覗き込むようにして訊いてくる。
「え~、乃梨ちゃん本当に? すごいねー」
驚きつつも興味津々な感じの唯。
「やめてよ、なんで私がそんなもん作らなくちゃならないのよ」
「でもさ、実際にあるんだろ、そういうの?」
「そうみたいだけど、私には関係ないでしょ」
「分かんないよ、周囲に男がいないとなったらさ、疑似的にでも恋愛するとしたら同性しかいないわけで」
「やめて、気持ち悪い。光達だって、この中の誰かとそういう関係になりたいとか思う?」
「ないわね、そりゃ」
「でしょ?」
お嬢様の通う女子校、ミッションスクール、姉妹制度、エス……連想されるのは少女同士の恋愛なのかもしれないが、自分がその中に身を置くとなるとまた話は別である。
「だけど実際、学校内はそういう雰囲気に包まれているんでしょう? そのうち乃梨子が感化されて……ってなこともあり得ないとは言えないんじゃない?」
つまんだポテトで乃梨子を指してくる光。
「ないないってば」
「ま、そりゃそうか。それよりさ、食べ終わったらカラオケ行かない? なんかさ、今日はやけに歌いたい気分なんだよね」
「いいね、久しぶりだし行こうぜ」
とりとめもない友人とのお喋りが、どこか心地よい。リリアンではやはり知らず知らずのうちに肩に力が入っていたのだろう、それが昔からの友人を前にリラックスできて、乃梨子も気楽に話して笑うことが出来ている。果たしてリリアンで同じような状態にまでなることが出来るだろうか、いや出来るまい。
「乃梨ちゃんも行くよね?」
「え? ああ、うん、もちろん」
特別にカラオケが好きというわけではなかったが、こういう気分の時には歌ってスッキリするのもよいかもしれない。
とにかく、もやもやとして気持ちを解消できれば何でも良い。それが、友人と一緒に遊んで出来るならば一石二鳥でもあろう。
「おー、今日は久しぶりに二条の昭和歌謡曲を聞くことができるのか」
「だから、歌ったことなんてないってば」
「またまたー、いいからほら、行こうぜー」
リリアンの女生徒とは明らかに違う騒がしさだけど、それが慣れ親しんだ心地よさ。友人達と連れ立って、乃梨子は街へと足をのばした。
久しぶりに友人達と羽を伸ばして遊び、リリアンにおける不完全燃焼とでもいうべきどんより感も多少は薄れた気がする翌日の放課後。乃梨子が一人で歩いていると、何やら怪しげな動きをしている人影を見つけた。
一見、ちょっと小柄な女子生徒というだけなのだが、動きが何やら変で目を引いたのだ。落ち着きがなく、周囲の様子を窺うようにして、人気がないことを確認してから小走りで移動する。それも、どこかに身を隠すようにして。
明らかに人目を忍んでいる動き、もしやリリアンの制服を身に付けた、小柄な変態オヤジかとも思ったが、ちらりと見えた横顔はどう見ても年相応の女の子だった。
なんとなく気になった乃梨子は、後を追ってみることにした。変態オヤジではないことで、危険もないかと思ったのだ。
謎の少女は同じような行動を繰り返した後、道場までたどり着いた。そして、道場の窓から中をこっそりと覗き込む仕草を見せる。
もしや、見た目は少女でも女の子の覗き趣味があるのでは、リリアンという特殊な環境下ではそういう生徒もいるのではないかと考える。
しかしこういう時、どのように行動すれば良いのだろうか。同性であるし、それを覗きとして捕まえることが出来るのか。相手がそんなことはしていない、自分も女だしありえないと言われてしまえば、証明することは難しい。
「でも、現行犯で捕まえて、とりあえず注意しておけば……あれ?」
目を向けると少女の姿がない。少し考え事をして目を離している間に、いつの間にかいなくなっていた。
慌てて少女がいた当たりまで小走りに行って周囲を見てみるも、やはり見当たらない。逃がしたか、でも仕方ないかと、元々執着があったわけではないのでさっさと諦めようとした乃梨子だったが、少女が何を覗き見ようとしていたのかは気になった。少女が立っていた道場の窓まで近寄り、こっそりと中に目を向ける。
「……なんだ、誰もいないじゃん」
道場の中はしんと静まり返り、人の姿など見当たらなかった。では、少女は一体何を覗いていたというのか。
「…………ん?」
その時、乃梨子の頭に何かがふわりと舞い降りてきた。
葉っぱか何かにしては少し重すぎる。手で触れてみると、肌触りの良い布のようで、ハンカチか何かを誰かが落としたのだろうか、しかし乃梨子は校舎の横にいるわけではなく、落ちてくる理由が分からなかった。
手にした布を広げてみる。名前か何か書かれているかもしれないと思ったから。
「…………え、ぱんつ?」
しかし、そもそもが間違っていた。乃梨子が持っていたのはぱんつだった。見紛うことなく、女性が着用する下着、レモンイエローでリボンのあしらわれた可愛らしいぱんつ。なぜ、ぱんつが空から降ってきて乃梨子の頭に落ちてきたのか、意味が分からない。ぱんつを広げたまま空を見上げるが、何もない。ぱんつを見ても、特に名前も書かれていない。落とし物として届けるべきか迷ったが、持ち帰るわけにもいかないだろう。
「――こらっ」
「わっ!?」
その時、大きな声がして、慌ててぱんつをスカートのポケットに入れた。しかし、叱責するようなその声は、乃梨子に向けられたものではなかった。
すわ何事かと、声のした方に向かおうとしたところ、道場の角からいきなり走って来た人影が乃梨子に抱き着いてきた。
「待ちなさい、こら……って」
更に一人、追いかけてきた女性が姿を見せる。道着を身に付けた凛々しい女性、『野島』という名札が目に入った。
「貴女、確かこの前に白薔薇の妹になった……」
「え、あ、はい、二条乃梨子です」
「そうそう、二条さん。あなた、その子の知り合い?」
「えっ?」
しがみついてきている少女を見ると、それは間違いない、乃梨子が追いかけいた不審な少女だった。
「その子、中等部の子で、ここ数日何度かこっちに忍び込んできているみたいで、なんか、剣道部の周囲をちょろちょろしていてね。悪さをしたってわけじゃないんだけど気になるし、そもそも中等部の子が勝手に入ってくるのも、ね」
そこでようやく乃梨子は、その女の子の制服が微妙に異なることに気が付いた。
「いえ、私は……」
勝手に不審人物の知り合いにされてはたまらないと、慌てて否定しようとしたら。
「――私達、お付き合いしているんですっ!」
乃梨子に抱き着いている少女がとんでもないことを口にした。
「え……え? あ、えーと」
野島も、突然のことに困惑した表情を浮かべる。
「忍び込んじゃったのは、どうしてもお姉さまに会いたかったから……私達まだ付き合い始めで、離れているのが寂しくて、つい……ごめんなさい」
「ちょっと貴女、私……」
「ごめんなさい、お姉さまっ」
と、その少女が手にしたスマホの画面を乃梨子に向けた。抱き着いたままの格好で、乃梨子にだけ見えるようにして。
「――――っ!?」
その画面には、乃梨子が道場の窓を覗き込んでいる画像が映し出されていた。それだけではない、少女が画面をスライドさせていくと、パンツを頭にかぶった乃梨子、パンツを手にして広げている乃梨子の姿もあった。
これではまるで、道場を覗いてパンツを泥棒した変態娘みたいに見えてしまう。
「……本当なの、二条さん? その……貴女とその子がお付き合いしている、っていうのは」
「本当です、お姉さまの方から私に告白してくださったんですから。ねえ、お姉さま?」
少女が言いながら向けてくる画面には、『菜々』と表示されていた。
「…………え、ええ、本当です。この子……菜々と私は付き合っているんです……はは……は……」
笑いが引きつる。
「そ、そう。あの、私は……別に、構わないと思うわよ、本当に好きあっているなら」
乃梨子の微妙な表情を、どうやら野島は別に解釈したようだった。全く嬉しくないが。
「でも、それなら尚更、自重させなさい。二条さんの方が年上なのだから」
「はい……申し訳ありません……だ、駄目でしょう、菜々」
「はーい、ごめんなさい乃梨子お姉さま。一目でも、お姉さまにお会いしたくて」
「もう……仕方ない子なんだから…………ははっ……」
こうして。
友人達に宣言したその翌日、乃梨子に年下の可愛い『彼女』ができたのであった。