夜、いきなりの祥子からの電話に令は驚いていた。
携帯電話に表示された名前を見て、本当だろうかと思った。祥子とは親友だと思っているが、電話で長々とおしゃべりをするなんて仲ではなく、こうして電話がかかってくることすら実に久しぶりのことだったから。
しかもその電話の内容も非常に簡潔で、『明日、大事な用事があるから午後一に小笠原家まで来てほしい』というもの。理由を尋ねてみたものの、今は言えないとの一点張り。不審に思ったものの、祥子がこの手のことで令を騙したりからかったりするキャラクターでないことはよく知っていたし、本当に何か大切なことなのだろうから素直に了承した。
携帯電話を枕元に置き、そのままベッドの上に仰向けになって寝転がる。
もうすぐ大学が始まろうという時期、もしかしたら祥子も新たな生活に向けて少し不安に思っていたりしたのだろうか。だから、何か相談事があって呼び出したのかもしれない。リリアン女子大とはいえ、高校までとは異なり多くの他の学校から生徒達は入学してくるわけだし、高校までとは色々と異なってくる。お嬢様で世間知らずな所がある祥子が、大学生活に不安を抱く、とまではいかなくても疑問点があることは十分に考えられる。
とはいっても、令とて別に何を知っているというわけではないのだが。
「でも、まあ、祥子とゆっくり会っておくのもいいよね」
別々の進路、これからは今までのように気さくに会うことは出来なくなる。
親友の顔を思い浮かべ、令は軽く微笑んだ。
久しぶりに訪れた小笠原家だが、特に変わったところがあるわけでもない。使用人のお姉さんに案内されてリビングに通され、紅茶が出されたところで祥子が姿を見せた。
「急に呼び出して申し訳ないわね」
「ううん、別に。祥子とこうして休日にゆっくり話すのも、たまにはいいしね」
「ごめんなさい、あまりゆっくりしている時間は無いのよ。これ飲み終わったら、令にはちょっとお使いを頼まれて欲しいの」
「お使い?」
首を傾げる令。
お使いならば屋敷にいくらでも使用人がいるではないかと思ったが、わざわざ電話をかけて呼び出してまで頼むということは、使用人にも頼め無いような祥子の個人的な用事なのだろうと考えた。
疑問を呈するのは簡単だが、親友だからこそ祥子の言葉を素直に信じたい。
「それって、私じゃなきゃ駄目だってことだよね」
それでも声に出して確認する。
祥子は一瞬、目をぱちくりさせた後、ゆっくりと頷いた。
「――ええ。令でないと頼めないことなの」
長い黒髪が揺れる。
親友が、自分でないと駄目だと頼んできたのだ。しかも、あの祥子が。ならば令としては、答えは一つしかない。
「いいよ。何をすればいいの?」
「ここに行ってほしいの」
一枚の紙片を差し出す祥子。説明はそれだけで、後を続ける様子はない。
「ここに行って、私はどうすればいいのかしら?」
地図と、店の名前らしきものが書かれているだけの紙片に目を落とした後、令は問う。
「ごめんなさい、今はそれ以上は言えないの。でも、行けば分かるようになっているから」
「ふぅん、よく分からないけれど、分かったよ。ここに行けばいいんだね」
紙片をつまみ、改めて地図を見る。意外と遠い。
「行ってくれるの? こんな訳のわからないお願いで」
「だって、祥子が頼むんだもん。だったら、行くよ」
そう言って紅茶を飲み干し、立ち上がる。
祥子が玄関先まで見送りについてくる。
「ありがとう、令。でも、令に悪いようにはしないわ」
「うん、その辺は心配していないから」
軽く手を上げ、いざ出発しようとしたところで。
「令」
もう一度呼び止められて立ち止まり、振り返る。
祥子が珍しく、柔らかな笑みを浮かべていた。
「――――おめでとう」
その言葉を背に、令は歩き出した。
電車を乗り継いで指定された場所へと向かう。電車賃は小笠原家が持ってくれるということで、ICカードを手渡されている。
地図が示す先は結構な都会であり、令も行ったことが無いような場所だったが、分かりづらいようなところではないようだ。行った先で何が待ち受けているのかは全く予想もつかなかったが、変なことにはならないだろうと楽観している。
一時間ほどかかって、地図が示す場所と思しき店の前に到着した。店の名前も間違っていないし、大丈夫だろうととりあえず扉を開いて中を覗き込むと、すぐにスタッフらしき人が出迎えた。
「いらっしゃいませ」
「あの、私、小笠原家のお使いで」
「はい、伺っております。支倉令様ですね、こちらへどうぞ」
「え、私のこと、聞いているんですか?」
「はい、もちろん。王子様と思うような凛々しく美しい方とお聞きしておりましたから、すぐに分かりました」
「う……さ、祥子めぇ……」
店員の言葉に赤面しつつ、後に続いていく。
「あの、それで私は何をすれば」
「はい、私どもに全てお任せください」
「へ? え、って、ちょっ?」
ついていった先の別室には、複数のスタッフらしき女性が並んで待っており、面食らう。そんな令を取り囲むようにして、女性達はいっせいに仕事へと入っていった。
「………………」
呆然としている令。
店に入ってからすでに数時間が過ぎ去っており、夜に近い時間帯にまでなっている。ようやく解放された令だが、何がなんだかわからずに声もなく呆けている、というのが正しい状態である。
「素敵です、いかがですか、ご自身でご覧になって」
スタッフの女性に言われて、改めて姿見で確認する自分の姿はまるで別人だった。
胸元にビジューのあしらわれたノースリーブのワンピース。トップスは清楚なオフホワイト、スカートは対照的にシックなネイビーでタック&プリーツですっきりしたラインを見せてくれる。さらにワンピースの上からはフェイクファーのボレロ。
カチューシャ風の編み込みでヘアアレンジし、ブレスレットとTストラップのパンプスで出来上がり。
濃すぎないナチュラルなメイクも施されていて、いつも以上に睫毛がくるんとしているし、目もぱっちり大きく見える。
「……誰、これ?」
「支倉令様、あなた自身ですよ」
前にも変身、というかお店の人にコーディネートしてもらったことはあるが、その時とはなんだかまた次元が異なるというか、明らかにその手のプロで芸能人やモデルさんの担当です、みたいな人が寄ってたかって令を変身させたのだ。
「あの、なんでこんなことに?」
「支倉様には、これからお届け物をお願いいたします」
「届け物? そのために、この格好が必要なんですか?」
「はい」
あっさりと頷かれ、他に何も言いようがなくなってしまう。ここまで時間と労力をかけて令を綺麗にしたからには、余程の相手なのだろうか。だとしたら、小笠原家とは無縁の令などが出向いて良い相手なのか逆に不安になる。
もしかしたら相手の好みが令のように長身でボーイッシュだとか。いや、それでは政治的に利用されるようで、祥子の個人的な頼みとは思えない。
戸惑っていると、スタッフの女性から件の届け物らしき包みを手渡された。大して大きくもないし重くもなく、何が入っているのか想像するのも難しい。
「あと、こちらは祥子様から預かっていたものです。先方とお会いになってからお読みになってください」
「はあ……」
封筒を受け取る。
もはや謎しかないが、考えている時間も内容だった。スタッフに案内されて店の前に出ると、黒塗りの車が鎮座していた。運転手らしき人がうやうやしく後部座席の扉を開け、頭を下げる。
戸惑いつつ、それでもスタッフ達の笑顔の圧力に負け、そろそろと車内に身を入れる。十分な広さと座り心地の良いクッションが令を出迎えてくれる。
「それでは、行ってらっしゃいませ」
丁寧に腰を折ってお辞儀をするスタッフに見送られ、車はゆっくりと発進した。
走っていた時間は五分にも満たなかった。それだったら歩いても良かったのにと思ったが、穿きなれないパンプスだったので、それはそれで大変だったろう。
「あの、これを渡す相手の方というのは」
エスコートしてくれる運転手の人、というかおそらく運転はついでなのだろう、むしろコンシェルジュのような人に尋ねると。
「もうしばらくお待ち願います。間もなく、到着致します」
「は、はい、すみません」
別に令は悪くないのに、なぜか謝ってしまうのは小市民だからか。
だが仕方ないではないか、到着した場所は令でも耳にしたことのある有名な高級ホテルで、今はエレベーターに乗って最上階を目指している。最上階にあるのは展望台、そしてレストラン。こんな場所で会う人なんて、やはり凄い人としか思えない。どこかの会社の社長とか会長とか、そういう人ではないだろうか。
不安と緊張がぐんぐんとたかまる中、帰ることも逃げ出すことも出来ず連れてこられたのはやはりレストラン。入口で店員にエスコートを代わられ、慣れないパンプスでおどおどしながら窓際のテーブルに案内されると、そこには高級そうなスーツに身を包んだ紳士が座っていて――
「って、え、もしかして、祐麒くんっ!?」
「れ、令ちゃんっ!?」
ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がり、目を丸くしているのは間違いなく祐麒。お洒落なスーツ、髪型はいつもと同じような感じだが丁寧にセットされているのが分かる。
「お客様、申し訳ありませんが、他のお客様もおりますので」
「あ、はい、すみませんっ」
言いたいこと、聞きたいことは色々とあったが、周囲の目が向けられているのを悟り、二人は赤面しつつ着席した。
「それではお揃いになりますので、コースを始めさせていただきますがよろしいでしょうか?」
「え、は、はい」
よく分からないまま返事をすると、案内してくれたウェイターは丁寧にお辞儀をして去って行った。
声もなくその後ろ姿を見つめ、やがてハッとなって正面の祐麒を見る。
「あの、ゆ、祐麒くん、どういうこと?」
「え? 俺は、令ちゃんに呼ばれて来たんだけど……」
「えっ、私にっ? 私はお届け物を……」
そんなことをした記憶は無く、混乱して考え込むが、どう考えたところで思い浮かぶわけもない。
そうしてふと視線を上げれば、どこか落ち着かない様子の祐麒の姿。
「どうか、したの?」
「あ、いや……その、きょ、今日の令ちゃん、凄く綺麗で見惚れちゃって……あ、いつもの令ちゃんだって凄く可愛いよ!? でも、今日は雰囲気が全然違って大人っぽくて」
「え……あ、ありがと……」
言われて、着飾って化粧した自分自身のことを思い浮かべて赤面する。
「ゆ、祐麒くんも、素敵な格好だね。格好いいよ」
「まさか、俺じゃあなんか子供っぽくて、服に合ってないでしょ。着られちゃっている感じで」
照れながら言う祐麒。確かに、祐麒が言うとおりの感もあるけれど。
「そんなことないよ、私にとっては祐麒くんは、いつだって格好いいもん」
「あ、ありがとう」
「い、いえ」
祐麒は恥ずかしそうに赤くなったが、むしろ口にした令の方が恥ずかしくてより一層、首のあたりまで真っ赤になってしまった。
そのタイミングでオードブルが運ばれてきたので、とりあえず食事に手を付けることにした。オマール海老、帆立、アボカドのオードブルは文句なく美味だった。
食べながら、どういうことだろうかと考える。祥子から頼まれたお使いのはずが、なぜこんなことに。
そこで、前の店で渡された手紙のことを思い出した。バッグの中から慌てて取り出し、テーブルの下で広げて目を落とす。
『――令、突然のことで驚いているかしら。
私自身が混乱していたため、ずっと出来なくて心残りになっていたことがあり、このような形で実現させる形となってしまいました。でも、大学生活に入る前に是非、やっておきたかったの。
今さらかもしれないけれど、祐麒さんとお付き合いを始めたことをお祝いするわ。祐麒さんならきっと、令を幸せにしてくれることでしょう。もし、令を泣かせるような事があったら、私が全力をもって令のために動くから、その時は言って頂戴ね。
本題ですが、今日のサプライズは祐麒さんとお付き合いを始めた令に、私からの遅ればせながらのプレゼントです。
丁度良いことに、今日は祐麒さんの誕生日です。
だから、今日の場を提供したことは令に対するお祝いであり、綺麗な令自身が祐麒さんへのプレゼントだと思ってください。好きな人の美しい姿は、何よりも喜ばしいことだと思うから。
それでは、楽しんでください。
貴女の親友より』
読み終えて、ようやく納得する。
「…………祥子ったら」
苦笑が浮かぶ。
不器用だけど友人思いの祥子が、きっと色々と考えてくれたのだろうし、その気持ちはとてもありがたい。もしも逆の立場だったら、令だって祥子のために何かしてあげたいと思うだろうから。
「令ちゃん?」
「あ、ごめん。あのね、これ全部、祥子が仕組んだことらしいの」
「えっ、祥子さんが?」
「うん。私と祐麒くんが付き合い始めたことへのお祝いと、今日の祐麒くんの誕生日の……誕生…………えええっ、たっ、誕生日っ!?」
思わず立ち上がりそうになるのをどうにかこらえたが、大きな声ばかりは引っ込めるわけにもいかず、慌てて口を押えて周囲の人に頭を下げる。
だが、今日一番の衝撃的事実に、令は真っ青になっていた。
「え……え、きょ、今日っ、祐麒くんの……お誕生日なの?」
「えーと、はい」
四月一日、以前、誰かに聞いたような気がしなくもないが、忘れていたことには間違いない。彼氏の誕生日を知らないなんて、迂闊にもほどがある。しかも、祥子は知っていてわざわざこのようなお膳立てをしてくれたというのに。
知っていれば、腕によりをかけてケーキを作ったし、それだけじゃなくて料理も、プレゼントだって色々用意したというのに。
「あの、気にしないで令ちゃん。俺、誕生日のことなんて言ってなかったし……それにごめん、俺も令ちゃんの誕生日、まだ知らないし」
「あ……う、うん」
「それに経緯はどうあれ、こうして誕生日に令ちゃんと一緒にいられて、それだけで凄く嬉しいし。加えて、こんなレストランで食事出来て、令ちゃんも凄く綺麗で……文句なんて、何もないよ」
「う、うん、ごめんね」
「そうじゃないでしょ、令ちゃん。俺、もっと違うことを言ってほしいんだけど」
「え?」
「だって、令ちゃんと付き合い始めてから、初めての誕生日なんだし」
そこで、肝心なことを言っていないのに気付いた。本当に、なんで自分はこんなにも鈍くさいのだろうと思いながら、それでも今は一番の笑顔を見せる時だと分かっていたから、令は心を込めて、人生で一番というくらいの気持ちで、言った。
「――誕生日おめでとう、祐麒くん」
「うん、ありがとう、令ちゃん」
「でも本当にごめんね、プレゼント、ちゃんと後で渡すから。あ、あとケーキも作るし」
「うん、楽しみにしているから」
「と、とりあえず今日は、私がプレゼントということで」
祥子からの手紙に書かれていたことを思いだし、告げる。男みたいな外見の自分が着飾ったところでどうなのだろうかとも思うが、沢山の人が令を一生懸命に綺麗に仕立てあげてくれたのだ。自信を持たなければ。
「――――あ、う、うん」
さすがに恥ずかしい台詞だったか、祐麒の方が面食らったようで、落ち着きなく視線を動かして頬をかいたりしている。
丁度良く、スープが運ばれてきたので間があく。
「ボルチーニ茸とマッシュルームのスープだって、美味しそう。ね、せっかくだから食事を楽しもうよ」
目の前で淡く湯気を立ち上らせるスープの匂いに、ようやくお腹が空いていることを実感させられた。何せ、祥子の家で紅茶を飲んで以来、何も口にしていないのだから。
「そ、そうだね、うん。俺、テーブルマナーとか詳しくないけど、大丈夫かな?」
「大丈夫、私も同じだから」
ここで初めて、二人して自然に笑うことが出来た。
コース料理は文句なく美味しかった。果たしていくらするのだろうか、なんていう不安が途中で首をもたげてきたけれど、祥子の好意だと素直に受け取ることにした。
和牛フィレ肉の網焼きは柔らかくてジューシーだったし、添えられていたフォアグラとともに食べることでまた異なる味わいをみせてくれた。デザートのジェラートは、どんな風に作っているのか教えて欲しいくらいだった。
あっという間の一時間半が過ぎ、満足して食後のハーブティーを口にする。色々とあったけれど、今は素直に祥子に感謝できる。
「そういえば令ちゃんさ」
「なに?」
コーヒーを口にしていた祐麒が、ふと何かを思い出したかのように口を開いた。
「最初に、届け物がどうとか言っていなかったっけ」
「届け物…………あっ!」
言われて思い出した、店の人から手渡されていた品。ここまでくれば、おそらく祐麒へと届けろと言うことなのだろう。もしかしたら、祥子が用意してくれたプレゼントなのかもしれない。
バッグから取り出した小箱をテーブルの上に置き、そっと祐麒の方に滑らせる。
「え、俺に?」
「うん」
「開けてみても?」
頷くと、祐麒は小箱を手に取り丁寧にラッピングを解いてゆく。そうして蓋を開けると、中から出てきたのは。
「…………鍵?」
二人して見つめ、首を傾げる。
しかし、よくよく見てみると、この二人が今いるホテルのルームキーだということが分かった。
「――――っ!?」
ほぼ同時に二人は顔を上げ、目があうと同じように俯く。みるみるうちに、顔が紅潮してゆくのも同じだ。
(え……え、え、ホテルの部屋の鍵って……祥子、どど、どうゆうこと? ってゆうか私、最初に"プレゼントは私"だなんて言っちゃったけど……え、いや、そういうつもりじゃなかったよ!?)
(これって、ホテルの部屋の鍵で、それを令ちゃんから渡してきた……もしかして、"私がプレゼント"って、そ、そうゆう意味だったのか!? え、マジ!? ど、どうしたらいいんだ俺っ!?)
お互いにテンパっている。
しかし、先に冷静になったのは祐麒の方だった。
(……そういえば、今日の事は祥子さんの仕組んだことだって言っていたよな。ってことは、これも祥子さんが考えたことだよな。令ちゃんが自分からするとは思えないし、そもそもあんなにパニクってるし)
「――これって、祥子さんの悪戯でしょ? 俺たちをからかおうっていう」
「…………え? あ……あぁ、そ、そうだよねっ、そうか、あーそうかぁ」
「まったく、祥子さんも意外と茶目っ気があるよね」
笑って冗談で流してしまおうという、祐麒の気遣い。
ほっとしている一方で、それでいいのかと思う自分がいることに気が付く令。
祥子は悪戯などでなく、本当に令のことを思って渡してくれたのだろう。だからこそ、お店では衣装や髪型だけでなく下着まで全て取り替えられたし、丁寧に無駄毛の処理までしてくれた。それは即ち、恋人同士ならこうなることもあると思ってのことではないか。
「ね、ねえ祐麒くん。その部屋って、スイートルームだよね? ちょっと、どんな部屋か見てみたくない?」
「え? それは、まあ、見てみたいとは思うけれど」
「ちょっと覗いて、見て行ってみない?」
☆
「うっ…………わぁ…………」
足を踏み入れた途端、そんな感嘆の声が自然と漏れる。隣に立つ祐麒も同様だった。
スイートルームについて想像はしていたが、想像を遥かに凌駕する室内だった。
広さは一体どれだけあるのだろうか、リビング、ベッドルーム、バスルームで構成された室内。リビングにはゆったりとしたソファやダイニングテーブル、50インチはあろうかという巨大なテレビにホームシアターセット。ベッドルームには巨大なダブルベッドが二つも鎮座し、他にもウォークインクローゼットやドレッサーも勿論あしらえられている。
そして大きな窓からは、高層階からの都会の夜景が眺望できる。令は窓際に駆け寄ると、目を輝かせた。
「うわっ、凄い……レストランも凄かったけれど、ここも凄いね!」
レストランで見た夜景とは方角が違うためか、全く異なる夜景に見える。
「いや、スイートルームって、こんなに凄いんだ。なんというか……何も言えない」
「本当だね」
二人並んで、しばし無言で夜景を眺める。
(ちなみに二人は、これでも控え目なスイートルームが選ばれたことを知らない。他のスイートルームはさすがに更に広すぎたり、確実に使用しないだろう部屋や物があるため、祥子も取りやめたのだ)
しばらくしたところで、ふと隣から視線を感じて見ると、慌てたように窓に目を向け直す祐麒。
ピン、ときた。
令はおずおずと祐麒の手を握る。
「祐麒、くん」
ちらりと見下ろすと、上気した祐麒の顔が目に入る。
祐麒の手が令の肩に置かれると、令は引き寄せられるままに軽く身を屈め、唇を重ね合せる。
まだ何回目か数えられるくらいのキス。
「…………そろそろ、戻ろうか?」
口が離れたところで、努めて明るく祐麒は言い、入り口に向かって歩き出す。
「ま、待って祐麒くん。まだ終電までは時間あるし、せっかくのスイートなんだから、もうちょっと浸っていようよ」
実際、食事を終えてからすぐに来たので、時間的には遅いというほどではない。令は供えられていた機器でドリップコーヒーを手際よく作り、リビングのテーブルに二人分を並べた。
テレビをつけようかとも思ったが、せっかくだから部屋を楽しもうということでやめた。豪華なソファに腰を下ろし、二人でコーヒーを飲みながらお喋りに興じる。
そんな時間はゆっくり進むようでいて早く、やがて本当に終電を気にする時間が近づいてくる。
「令ちゃん、そろそろ出ないと危ないから」
立ち上がる祐麒。
続いて立ち上がって令を見て、祐麒はちょっと残念そうな、少し安心したような微妙な表情を僅かに見せた。
「――祐麒くん」
令は、ちょこんと祐麒のシャツの袖を摘んだ。
「……どうしたの、令ちゃん」
顔を伏せながら、それでも令は思い切って言った。
「わ、私ね。今日、祥子の家に行く、ってことしか親には言ってないの」
「――――」
「ゆゆ、祐麒くんは……駄目?」
「お……俺は、男だし、小林の家にでも泊まるっていえば……でも、令ちゃん」
ごくり、と唾を呑み込む音が聞こえた。
令は祐麒の肩にコツンと額を当て、小さい声で、告げる。
「私ね、今日、多分今まで生きてきた中で一番、綺麗でいると思うの……だから……その…………」
それ以上はもう、恥ずかしくて言うことが出来なかった。
果たして祐麒はどんな顔をしているだろうか、顔をあげて見ることなんてとてもできそうにない。
「令ちゃん」
そんな令の頬から耳に手を添える祐麒。おそるおそる顔を上げると、目の前に迫ってくる祐麒が見え、令は目を閉じる。
熱く、柔らかな唇が触れ合う。
「ん…………はっ……ぁ」
舌が中に差し込まれ、令もそれに応じる。
初めてのディープキスは、体の芯を痺れさせるほど刺激的だった。
「令ちゃん。俺、令ちゃんと出会えて、世界で一番の幸せ者だよ」
一度唇を離した祐麒に正面から見つめられながら言われると。
「違うよ、一番は、私だもん」
令も正面から祐麒を見つめ、大好きな人に向けて最高の笑顔を見せたのであった。
☆
翌日、小笠原家へと戻ると、祥子は澄ました顔で待っていた。
「どうだったかしら、私のプレゼントは」
「どうした、じゃないよ。もう、完全にやられたよ」
久しぶりに入った祥子の部屋で、令はぐったりと、テーブルに頬をぴったりと付けて伏せる。ひんやりとした感触が心地よい。
「その様子では、驚かせることができたみたいね」
「そりゃもう……でも、ありがとう」
体を起こし、素直に礼を告げる。
祥子がお節介をやいてくれなかったら、付き合い始めて初めての祐麒の誕生日を、こんな素敵に過ごすことは出来なかった。令の性格的に、祐麒の誕生日を知らずにスルーしたとなったら相当に落ち込んだだろうし。
「楽しんでくれたようで良かったわ。ホテルも素敵だったでしょう?」
「あ、ああ……う、うん」
ぽっ、と頬を赤く染める令。
「あ、ありがとう。祥子が、あんなことするなんて思わなかったけれど……お蔭で、えへへ……」
「素敵だったでしょう、あのホテルからの夜景は。令と祐麒さんには是非、あの夜景を見て欲しくてプレゼントしたのよ」
「うん、凄い綺麗だった…………ん、それだけ?」
「それだけって、何が?」
「え、だから、夜景を見せたかったって……あのホテルの部屋って」
「そうよ。それ以外に、何があるというの?」
真面目な顔で首を軽く傾げる祥子。
よくよく考えれば、男女の恋愛事やら性知識に関しては同年代の一般的な女子よりは劣る祥子、加えて男嫌いの潔癖症でもある。いくら令と祐麒とのことを祝福してくれているとはいえ、いきなりホテルの部屋を「そういう意味」で提供してくるなんて不自然か。
高級ホテルのスイートルームだし、ベッドだって二つあったし、ごく普通にムードある一夜を過ごすだけと考える方が、祥子らしい。実際、もしも祥子が男女間の営み的なことを考えていたとしたら、こんな風に冷静でいられるとは思えない。
だが、与えられた身としてみれば、正式に付き合っている男女がホテルの一部屋で夜を共にするとなれば、どのようなことを考えるかなんて一つしかない。
「……どうしたの令、顔が真っ赤だけど、部屋暑いかしら?」
「い、いやっ、そうじゃない、大丈夫っ」
「そう? おかしな令ね」
この祥子はどう考えても素である。
やはり、令達が都合の良いように解釈したのだ。
だが。
ちらりと祥子の顔を見ると、不思議そうに見つめ返されてしまい、なんだか可笑しくなってきてしまった。
「…………本当にありがとうね、祥子。祥子が親友でいてくれて、良かった」
心の底からそう思い、感謝の気持ちを告げる。
「……本当よ、ありがたく思いなさいね」
偉そうな台詞ながらも、どこか少し照れくささを隠すように見える。
「そういう祥子も、私が親友で良かったって思っているでしょう?」
「何を恥ずかしいことを言っているの」
「またまた、照れちゃって」
「照れてなんていないわ」
口を尖らせる祥子を見て、笑いを堪える。
可愛い親友に大好きな恋人、そんな得難い二人がいてくれることに、令は本当に自分こそが世界で一番幸せなのだと思うのであった。
おしまい