「……はぁ」
お昼休み、講堂の裏手の階段に腰掛けながら、真美はため息をついた。
なんで、こんな気分になっているのか。いや、理由は分かっている。昨日の出来事のせいだ。真美は、ポケットから一枚の紙片を取り出して見つめた。
それは、取材のためにと、最近お父さんに買ってもらったばかりのデジカメで撮った写真をプリントアウトしたもの。今の技術は凄い、専用の機械でプリントしたというのもあるけれど、普通の写真とほとんど遜色の無い出来で印柵されるのだから。
そして、そこに写っているのは。
「祐麒さんと……令さまが……」
もう、昨日から何度見ただろうか。何回見たところで、事実は変わらないというのに。
そう、昨日外出していた真美は、喫茶店から出てきた二人を見つけてしまったのだ。二人が一緒に居たというだけでも驚きだというのに、令さまなんて凄く素敵な女性らしい格好をして、まるでモデルさんみたいで。絶対にアレは、特別な人と会うからお洒落な格好をしていたのだ。そうとしか考えられない。そして、その相手とは祐麒さんで。
しばらく後を付けていたが、二人は公園から自転車に乗ってどこかへ行ってしまった。その光景は、どこからどう見ても、ただの友人同士なんかには見えなくて。
それにしても、どうして自分はこんなにも気分が沈んでいるのだろう。三奈子お姉さまほどミーハーではないにしろ、スクープには目がないはずなのに。黄薔薇さまの恋愛模様なんて、飛びつきたくなるようなネタではあるのに。
「ふぅ」
昨日から出てくるのはため息ばかり。
写真を見る。
「はぁ~……」
なんで、見るたびに落ち込むのか。
そんな風に、よほど、自分のことばかりに気をとられていたのだろう。だから、その人がすぐ後ろに来るまで気が付かなかった。その声が発せられるまで。
「何、その写真」
体が硬直した。
それは、この写真を一番見られてはいけない人の声だったから。おそるおそる振り向くと、そこにはお下げの髪を揺らしながら立ち尽くす、クラスメイトの姿があった。
「見せて」
隠そうとしたが、由乃さんは有無を言わさぬ口調で言い、手を出してきた。真美は逆らうことができずに、目をそらしながら写真を渡した。
写真を手にした由乃さんは、微動だにせずじっと写真を見つめていた。その大きな瞳は今、何を映し出しているのか。
「……どうして」
ようやく、といった感じでそれだけの言葉を絞り出した。
「どうして、令ちゃんが祐麒くんと?!」
掠れるような声で叫ぶと、由乃さんは写真を握り締めて駆け出した。
「由乃さんっ!!」
その後ろ姿に声をかけたが、由乃さんは立ち止まりも、振り向きもせずに行ってしまった。そして真美は、そんな由乃さんを追いかけることができなかった。
「由乃さん……」
由乃さんがああなってしまうのも当然だろう。何しろ、愛しのお姉さまである令さまが、男の子と二人でデートらしきことをしているのを知ってしまえば。二人の結びつきの強さを思えば。
「……あれ、でも……」
ふと、真美は違和感を覚えた。
先ほどの由乃さんの言葉。
『どうして、令ちゃんが祐麒くんと?!』
そうだ。なぜ、"令ちゃんが"と言ったのだろう。これが逆に『祐麒くんが令ちゃんと』とか、『令ちゃんと祐麒くんが』なら分かるような気がする。しかし、『令ちゃんが祐麒くんと』という言い方だとまるで……。
気のせいだ。こんなのちょっとした言葉の言い回し、由乃さんだって混乱していただろうし、意識して言ったのではないだろう。ただの、真美の考えすぎだ。こんな些細なこと、気になるほうがおかしいのだ。
そう思いつつも、由乃さんが消えていった方角から目を離すことが出来ないのであった。
悔しい。
裏切られた。
最も信頼していた人に、世界で一番好きな人に。
紙を握る手に力が入る。
由乃は無我夢中で駆けていた。自分が、どこに向かっているのかも分からずに、ただ、止まっている事が出来なくて、動かずにはいられなくて。
やがて疲れて立ち止まり、しゃがみこんで、ようやく乱れた息が整ってきてから顔を上げると、そこは古い温室の中だった。いつのまにか、こんなところに駆け込んでいたらしい。
嘘だ、嘘だと言って欲しい。
握り締めてくしゃくしゃになっていた紙片を、ゆっくりと広げてみる。
「嘘でしょ……」
そこに写っているのは見間違えようも無い、ずっと一緒に生きてきた最愛の人。誰よりも大切で、誰よりも由乃のことを思ってくれていて。
でも、そこに写っているその人は、由乃でも殆ど見たことが無いような、お洒落な服を着て。ミスター・リリアンと呼ばれ、女の子らしい格好なんて似合わないって自認していたくせに。
そして、その人が微笑みかけている相手は。
「……祐麒、くん……」
皺くちゃになった紙片の中で。
その人は、確かに穏やかに笑っていて。
「ウソだよ……」
零した言葉と共に、紙片に二粒の染みが広がっていた。
由乃が早退した。
そしてその翌日も、具合が悪いということで学校を休んだ。令は、物凄く嫌な予感がしていた。
由乃が体調を崩すことは、昔に比べれば格段に少なくなったとはいえ、無いわけではない。それでも、令が見舞いに行くと無理して話をしようとしたり、起き上がろうとして、大人しくさせるのが大変だったりする。
ところが昨日も、今日の朝に寄った時も、令が行っても部屋に入ることすら許してくれないのだ。
これは、明らかに由乃が機嫌を悪くしている証拠だったが、令としては何が原因なのかが分からない。今までにも理不尽な理由や、由乃の気まぐれで怒られたりすることはあったが、今回はそういうのとも違うような気がした。
声が、違うのだ。由乃の発する声が。
だから、学校に行っていても、由乃のことが気になって仕方が無かった。
授業にもなかなか集中できなかったけれど、由乃が学校を休んでいる理由は思いもかけないところから分かった。
「私と、祐麒くんが一緒にいるところの写真を……?」
「はい、申し訳ありませんでした」
目の前で、新聞部の山口真美ちゃんが頭を下げて謝っている。
お昼休み、彼女に呼ばれて令は、新聞部の部室にやってきていた。他に部員の姿は無く、真美ちゃんが人払いをしたらしかった。
しかしまさか、あの日のことを見られていて、それどころか写真にまで撮られていたなんて思いもしなかった。そして、その写真を由乃が見てしまったなんて。
「由乃さん、それを見た後、顔色変えてどこか走って行っちゃって。やっぱり、あれのせいなんだと思います」
「そう……か」
口元に手を当て、噛み締めるようにして呟いた。
由乃がショックを受けたのは間違いないだろう。だけど、果たしてどっちに対してショックを受けたのか。
ちょっと前までなら、令が男の子と一緒にいることに対してだと断言できたと思う。しかし今はどうか。なんとなく、"祐麒くん"と令が一緒にいることに対して、由乃は衝撃を受けたのではないか。そんな気が強くする。
「あの、令さま」
「ん?」
つい、自分の考えに集中してしまっていた。目の前で、真美ちゃんが心配そうな表情で令のことを見上げていた。
「あの……やっぱり、令さまと祐麒さんは、その……お付き合いされているんですか?」
「えっ?!」
それは予想外の質問だった。
いや、そういった場面を見られれば、ある意味、当然と思える質問だったけれど、真美ちゃんがそのようなことを聞いてくるとは思っていなかったのだ。
「令さま?」
「あ、ああ。違う違う、そういうのじゃないわよ、あれは」
「そう、なんですか?」
捨てられた子犬のような目をして、真美ちゃんが見つめてくる。
思わず、令も無言で見つめ返す。
しばらくの沈黙。やがてそれは、真美ちゃんの方から破られた。真美ちゃんは、軽く頭を下げて。
「すみません、失礼します」
それだけ言って、部室を出て行ってしまった。
インクの匂いが染み付いた部室に一人残され、令はため息をついた。
ひょっとして、真美ちゃんも……?という思いを内心に抱えながら。
由乃の部屋が遠い。これほど、遠いと感じたことは無かった。相変わらず、由乃は部屋にこもって出てきてくれない。声をかけても、応えてくれない。
「ごめんね、令ちゃん。由乃ったら、まだへそ曲げたままで」
「いえ、慣れてますから」
由乃のお母さんに笑顔で言って、心配させないようにする。慣れているのは間違っていないが、今回は今までとは異なる。
「ちょっと私、令ちゃんの家行ってくるから、よろしくね」
「ああ、はい」
丁度良かった。もし言い争いになったりしたら、今回は叔母さんに聞かれたくは無い。叔母さんが出て行ったのを確認してから、令は再び由乃の部屋のドアと対峙した。その向こう側にいる、由乃の姿を思い描きながら。
「ねえ、由乃。聞いているんでしょ?」
返事は無い。だけど、寝ているわけではない。部屋の中で、令の言葉を聞いている。長年の付き合いで、なんとなく分かる。
「今回の原因ってさ……祐麒くん、でしょ?」
隠し事無しのストレート勝負。もっとも、性格的に令はそれしか出来ないのだけれど。でも、それは見事に命中したようで、部屋の中で空気が動く気配がした。
令は言葉を選ぶようにして、ゆっくりと喋る。
「私と祐麒くんが一緒にいる写真、見たんだって?」
やっぱり、返事はない。だけど、きっと息を殺して令が喋るのを聞いている。だから令は、語り続ける。扉の向こう側にいる、お姫様に向かって。
「由乃がどう思ったのかは分からないけれど、それは誤解だよ。私と祐麒くんは、別に特別な関係とかじゃないのよ。あの写真の日は、祐麒くんに相談があるって言われて、会いに行っただけなんだから。付き合っているとか、そういうのは全く無いんだから」
相談内容について話すべきかどうか迷ったが、とりあえず今はまだ黙っておくことにした。やはり、祐麒くん本人の口から由乃に直接言ってもらうべきことだと思うから。
そんな令の言葉に対して、初めて扉の向こうからこもったような声色で反応があった。
「…………嘘よ」
「嘘じゃないわよ。なんで私が嘘をつかなくちゃならないのよ」
「だって写真の令ちゃん、凄く綺麗な女の子らしい格好をしていた」
「あれは、お母さんに無理やり着せられたの。祐麒くんの電話を受けて、なんか勘違いしたらしくって」
「……それだけじゃない!令ちゃんの、表情」
「表情?」
「すごく、穏やかで優しい顔をしていた。令ちゃんが優しいのは知っているけれど、それとは違う。いつも由乃にしてくれる表情と、よく似ていた」
たまたまそう見えただけ、と言いたかったけれど、言えなかった。由乃がそう言うのだ、それは令自身が言うよりも、よほど説得力があった。
それに、反論できない何かが、心の奥底にあるのも確かだった。
「……ねえ、令ちゃん」
静かな由乃の声が、今は何よりも令の胸に響いてくる。
「祐麒くんがどうとかじゃなくて。令ちゃんの。令ちゃんの気持ちを教えて」
自分の、気持ち。思わず、手で胸を抑える。
由乃に対する気持ち?それとも、祐麒くんに対する気持ち?果たして、由乃はどちらの気持ちを知りたいというのか。
恐らく、由乃が知りたいのは……
「由乃。私が私の気持ちを伝えたら、由乃も由乃の気持ちを教えてくれる?」
しばらく待っても、由乃から返事は無い。恐らく、由乃も令と同じように、一体何に対する気持ちなのか、自分の胸に問いかけているのだろう。
更に待つが、やはり反応はない。けれども、それは反対ではないということ。
ここで、次に口を開けば、ひょっとしたら引き返せなくなるかもしれない。でも、恐らく先に進むこともできない。由乃と一緒にいる限り、由乃を大切に思っているからこそ、必ず通らなくてはならない道。
令は大きく深呼吸して、目を閉じ、再度自分の心を確かめる。
そして、意を決し、次の言葉を紡ぎだす。
「由乃。私は、私の気持ちはね……」
室内の由乃が、身を硬くする空気が伝わってくる。
そこまで言いかけたとき。
「ただいまー」
玄関から、叔母さんの声が響いてきた。思わず、気勢がそがれる。一度、大きく息を吸って、改めて口を開く。
「由乃。私はね」
階下で、叔母さんが何かを言っている。そして、階段を上ってくる足音。どうしようか、叔母さんがいるところでは、話しづらい内容だ。令は、視線を階段に向けた。
すると。
「えっ……?」
言葉が出なかった。
なぜ、どうして、今ここにいるのか。その姿が目の前にあるのか。それは、一時的に令の思考能力を奪い去るには十分だった。
「ゆっ、祐麒くん?!」
「あ、令さん」
少しだけ驚いたように、でもごく普通の様子で祐麒くんは歩み寄ってくる。そして、令の少し手前で立ち止まる。
「この前は、どうも」
「…………っ」
その一言に、一気に先日の記憶がフラッシュバックする。まずい、まずい。そう思っていても、もはや令にはどうすることもできない。溢れ出して来る記憶の洪水を止めようと思えば思うほど、鮮明に蘇るあの時の光景、気持ち。
「あ、あのっ、あっ……」
声にならない。
ただ、祐麒くんの温もりや、息遣いを思い出し、鼓動が激しくなるばかり。体が急速に熱を帯びたようになり、顔が赤くなるのが自分でも分かる。
そんな、令が混乱と困惑に陥っていたその時。
「……そう、いうことだったんだ」
冷たい、由乃の声が令の耳を貫いた。
振り向くと、いつの間に部屋から出てきていたのか、由乃が部屋の扉の前で、令達を見比べるようにして立っていた。
その瞳は、令が今まで見たこと無いような、冷たい輝きを宿していた。
「由乃……?」
「祐麒くんとのことを、私に正式に報告しにきたってわけ?あんなこと、私に聞いておいて、実は最初から、こういうことだったんだ」
「な、何を言っているの?!勝手に誤解しないでよ」
「誤解?だって、そうとしか思えないじゃない、令ちゃんの、祐麒くんに対するその態度。別にいいのよ、そんなに隠さなくたって」
「由乃さん、一体、何を言って……俺はただ君のお見舞いに」
「もう、いいから帰ってよ!そんな言い訳、聞きたくない!」
ただ、それだけを言い捨てて、由乃はまた自分の部屋に戻ってしまった。
「由乃っ!……ちょっと、由乃」
ドアを叩くが、返事は無い。
もはや今日は、これ以上はどうしようもないことを、令は悟った。後方で、訳も分からず戸惑っている祐麒くんの方を振り返り、首を振るしかなかった。
成り行きを知らない祐麒くんを、半ば強引に連れて一階に降りる。
「……俺、来るタイミングまずかったみたいですね」
「その、ごめん。祐麒くんが悪いんじゃないから。私が、悪いの」
そうは言ったものの、やはりちょっとタイミングが悪かったとしか言いようが無い。おそらく、祐麒くんは由乃の見舞いという名目で、謝りに来たのだろう。しかし、よりにもよって令がいるときに、しかもあんな話をしているときに。
階段を下りたところで、ちょうどお盆にお茶とお菓子を乗せて歩いてきた叔母さんとはちあわせた。
「あら、どうしたの?ひょっとして由乃、まだへそ曲げているの?」
「ええ、ちょっとまだそんな感じで」
「困った子ね、せっかく祐麒さんも来てくださったっていうのに……あら、そういえば令ちゃんは、祐麒さんと知り合いだったの?」
「あ、祐麒くんは花寺学院の生徒会長さんなんですよ。だから生徒会絡みで」
「ふーん、そうだったの……あ、ひょっとして由乃ったら、ああ」
そこで叔母さん、二階の由乃の部屋のほうを見て、続いて令と祐麒くんのことを交互に見て、何か急に納得したように一人肯いた。
「由乃と令ちゃんが、ねえ。そーゆうことだったの」
「ちょ、ちょっと叔母さん、あの、何か勘違いしていません?」
「うふふ、分かっているわよ、令ちゃん。いいわねえ、乙女の青春、って感じで。あ、当事者にしたら笑い事じゃないわよね」
「いや、だから違」
「母親としては由乃を応援したいけれど、相手が令ちゃんとなると複雑ね……祐麒さん、どちらにせよ、真剣に考えて頂戴ね」
「は、はあ……?」
「ああ、若いっていいわねえ。私も昔は……」
叔母さんは、そんなことを言って、お盆にお茶を乗せたまま台所に戻っていってしまった。
「あの、一体、なんだったんでしょうか」
ただ一人、おそらくこの家に入ってきてからずっと状況を把握できない祐麒くんが、困った顔をして聞いてきた。
そんな表情も、やけに可愛いのではあるけれど。
とにかく状況は、令の頭を悩ませる方向にばかり変わっていく。
外では秋風が吹き始め、カタカタと窓を揺らす音が静かに響いていた。