薔薇の館の二階室内に鼻孔をくすぐる心地よい香気が漂い、テーブルについて仕事をしている者たちの手の動きを止めさせる。
すぐにその香気の元を手にした令がキッチンから姿を見せ、各人の前に手ずからティーカップを置いてゆく。その所作は丁寧かつ優美であり、リリアンの制服に身を包んでいてなお、美少年が給仕してくれているように見える。他の場では見ることのできない、薔薇の館の住人だけの特権である。
江利子、蓉子と順にカップを置き、やがて聖の前にも置くが、それは前の二人と異なってティーカップではなくマグカップだった。
「――どうぞ、聖さまはブラックでよろしいのですよね」
「ん、サンキュ」
独特の苦みを感じさせる匂いを吸うと、どこか心が落ち着く。しばし香りを楽しんだ後で、ちょいと口をつけて味を確認する。
「……これは随分と重厚な感じだね。何これ、焙煎?」
聖が顔を向けると、胸の前でトレイを抱きしめるようにしていた令が表情を綻ばせ、嬉しそうに頷きながら口を開く。
「はい、実は中古の家庭用焙煎機を譲っていただいて、それで試してみたんです。いかがですか?」
「うん、美味しい。もしかして、豆もいいやつなんじゃない?」
「ええと、マンデリンです。これも、いただきものなんですけれど」
「いいね、これは、いい」
ふんふんと頷くようにしながら、さらに聖はコーヒーを口に含む。酸味よりも苦みの方が強く、それゆえにコクが強く感じられる、聖好みの味だった。
「ちょっと令。お姉さまである私を差し置いて、聖だけ特別扱いするとはどういうことなのかしら?」
それまで黙って二人の様子を見ていた江利子が、とうとう我慢できなくなったように口を開いた。サラサラの髪の毛を指でかきあげる姿は、高校生という小娘と言われても仕方ない年齢にも関わらず、どこか妖艶さを漂わせている。江利子独特の物憂げな表情が強調させているのかもしれないが、今の江利子はどちらかといえば不機嫌さの方が強いように感じられた。
「お、お姉さま、そんな、そういうことではなくて。聖さまはブラックコーヒーがお好きですから、ただ」
「だったらいつも通りインスタントでも十分でしょう。わざわざ手編み焙煎してあげるなんて、特別以外の何だというのかしら」
「それは、たまたま焙煎機が手に入ったから……」
「だったら」
令の言葉を途中で遮ると、江利子はふて腐れたように頬杖をついて言う。
「せっかくの焙煎機とコーヒー豆なのだから、私達にもコーヒーを淹れてくれてもよくないかしら? 私達だってコーヒーが嫌いなわけではないのだし」
「それは、私もまだ上手く淹れられるか分からなかったので……」
「ああなるほど、聖は実験台だったということ?」
「じじじ実験台だなんて、そんな!」
慌てて手をぶんぶんと振る令は、姉の機嫌を損ねてしまったことを知って、どうにかしようと江利子の隣に行って必死に弁明を始めた。
「お姉さま、誤解なさらないでください。今日のは本当にたまたまというか、あ、それにお姉さまの紅茶だって特別なんですよ。お姉さまの大好きなレモングラスで淹れているんですからっ」
「あら、本当?」
目をぱちくりさせたのち、江利子はそれまで手付かずだったティーカップを手に取ると、香りを楽しんでから上品に口をつける。
「……うん、本当だわ。美味しい」
「ありがとうございますっ!」
犬ならば間違いなく尻尾を振りまわしているだろうと思われるくらい、令は嬉しそうに微笑んでいた。
どうやら姉の機嫌を直すことが出来たとホッと胸を撫で下ろす令であったが。
「――――江利子と聖には特別なのに、私には特別じゃあないのかしら、令?」
思いがけないところから更なる追い込みがかかってきた。
「え、よ、蓉子さまっ?」
令が目を向けると、いじけたようにスプーンで紅茶をかき回している蓉子の姿があった。
「江利子はお姉さまだからまだしも、聖にまで特別なのに私一人だけ……寂しいものね」
はぁ、と大仰にため息を吐き出す蓉子。
「そそっ、そんなことないですっ! よ、蓉子さまのも特別ですよ」
「あら、何が特別なのかしら?」
期待に満ちた笑顔を向けてくる蓉子に、令は思わず言葉に詰まる。
蓉子に出している紅茶は江利子と同じもの、レモングラスのハーブティーは蓉子も嫌いではなかろうが、特別に大好きだという話を聞いたことはない。
「そ、それは……」
「それは?」
「それは…………よ、蓉子さまの紅茶を淹れる際には、特別に愛情をこめて淹れましたからっ!」
追いつめられた令は、咄嗟にそんなことを口に出した。
本人的には、江利子には江利子に対する愛情、聖には聖に対する愛情、そして蓉子には蓉子に対する愛情をこめたという意味であったのだが、耳にした者からすればそんなことは当然、分からないわけで。
「なっ」
思いがけない言葉を受け、瞬間的に頬を桜色に染める蓉子。
「そ……そう、だったの? 令、嬉しいけれど、こんな二人がいるときに大胆ね……」
指で耳をかきながら、恥ずかしそうに蓉子は言う。
「って蓉子、あんた何真面目に受け取っているのよ? 令も紛らわしいこと言わないの」
この辺は令のさすが令の姉、落ち着いて対処する江利子だったが。
「――それで聖。あなたはなぜ立ち上がったの?」
「え……?」
江利子から胡乱な目を向けられて、聖はきょとんとした。そして気が付いたのは、いつの間にか自分が椅子から立ち上がっていたこと。そして、随分と力を込めて拳を握りしめていたことにも気が付き、他の三人から見えないようにそっと手をおろし、テーブルの下でゆっくりと指を広げてゆく。
「いや、別に、なんでもないけど?」
誤魔化すようにキッチンへと入り、流しで手を洗う。
背後では、聖のことなど気にした様子もなく三人が話を続けている。
「まさか令が私のこと……驚いたけれど、私も受け入れることはやぶさかでは……」
「だから蓉子、何勝手に一人の世界に入っているのよ」
「あああの、お姉さま? 蓉子さまっ?」
聖は一人、落ち着かない気分で薔薇の館を後にした。
その日の夜になっても、聖の気持ちはどこか不安定だった。
令が聖のために特別なコーヒーを淹れてくれたのは嬉しかった。わざわざ焙煎機で豆から淹れてくれたブラックのコーヒーは間違いなく美味しかった。だが、江利子に詰め寄られて単に聖がコーヒーを好きだから、焙煎機を手に入れたから作ってみただけだというようなことを言われて、一気に気持ちが沈んだ。
更に、聖だけではなく江利子にも江利子のことを考えた紅茶を淹れていたことを知り、なぜか苛立った。江利子は令にとって姉であり、姉の好みを抑えて出すことなんて当たり前なのに、それがなぜか許しがたいことのように思えた。
最後に、蓉子に対して「特別な愛情を込めた」という一言。あれを耳にした瞬間、目の前が真っ白になり、何も考えられなくなり、江利子の声で我にかえったら自分が立ち上がっていることに気が付いた。
「くそっ、なんだよこれは……」
ベッドの上に横になり、つぶやく。
こんなの自分らしくない。
そう思うのだが、どうにもならない。余計なことを考えなければよい、思い出さなければよいと思うのだが、そうできればとうにやっている。ふと気が付くと昼間のことを、薔薇の館での一幕を思い出してしまい、もやもやとした気持ちに覆われてしまう。
そんなことばかり繰り返していたものだから、夜になってもほとんど眠ることが出来ず、寝不足のまま登校する羽目になってしまった。
「ふぁ…………」
欠伸を噛み殺し、ポケットに手を突っ込んで行儀悪く歩く。
授業にも当然ながら集中など出来なかったし、食欲もいまいちわいてこない。元々、職が細いせいもあって食べなくても大きな問題はないのだが、苛立ちは大きくなる。聖の刺々しいオーラをなんとなく感じているのか、いつもなら声をかけてくる下級生たちも今は遠巻きに見てくるだけだ。
がしがしと髪の毛を指でかき、人気の少ないベンチにどかっと腰を下ろす。今日はこのままふけてしまおうかとも思った。薔薇の館に出向いて誰かと出くわすのも面倒だし、そうだ、それが良いと一人で納得していると。
「あ、聖さま」
「――――あン?」
不機嫌なまま顔を上げると、聖から発せられる負のオーラなど全く感じられないのか、いつもの様子で寄ってくる令がいた。
だが、昨日のことが脳裏をよぎり、聖はふて腐れたように顔を背けてしまう。
「何さ。あたし今、虫の居所が悪いんだよね」
「実は今日、聖さまにお渡ししたいものがあるんです」
鈍感なのか、それとも胆が据わっているのか、令はそれでも笑顔でそんなことを言う。
「渡したいもの?」
「はい。昨日のお詫びに――」
「昨日…………」
眉をひそめる。
「あの、聖さまのご機嫌が悪いのって、やっぱり昨日の私のせいですよね」
「なっ……そんなことないよ、自惚れてんじゃないの」
「でも、そうじゃなくても謝りたくて。聖さまを実験台に、なんて考えてませんでしたから、本当に」
「――――ハ」
どうやら令は、焙煎機で淹れたコーヒーを聖に渡したことがお試しだったと言われたことを気にしていたようだった。思わずベンチからずり落ちそうになる聖。聖自身が思っていることとは全く違うことを考えていた令にがっくりして。
「……って、あたしが考えていたことって、何だよ??」
声に出して自問自答すると、令が「はてな?」といった顔をして見つめてくる。
「……で、渡したいものって、何さ」
「はいっ。これです」
そうして令が差し出してきたのは、綺麗に包まれた長方形の物体。大きさと時間帯を考えるに、どうやらこれは。
「もしかして、お弁当?」
「ぴんぽーん、あたりですっ」
令の手作り弁当が美味しくないわけがない。嬉しくて一瞬、口元が緩みそうになったのを慌てて堪える。
「どうせ弁当だって、江利子や蓉子に作ってきているんでしょう?」
令の性格を考えれば、蓉子はまだしも姉である江利子を差し置いて聖にだけ弁当を作ってくるとは考えづらかった。
「あ、はい、先ほどお二人には渡してきました」
悪びれずに頷く令に、またしても少しイラつく。
「あの、でも、今回はちゃんと、お姉さま、蓉子さま、そして聖さまの皆さんそれぞれに特別なお弁当を作りましたから」
「何それ……って」
朝からロクに食べ物を口にしていなかったところで令の弁当、気にならないわけがなく、自然と包みをほどいてみてみると。
「サンドウィッチ……」
「はい。聖さまのための、特製です」
サンドウィッチで何が特製なのか、そう思って一つを手に取り齧り付いてみると。
「これは」
「特製マスタードタラモサンド、かいわれ大根添えです。あ、でも実は明太子なんですけれど」
聖がマスタードタラモサンドを好きなことは、蓉子や江利子が知っているから令が知っていてもおかしくはない。しかしこのタラモサンド、リリアンで売っているのと異なりパンはバゲットを使い、あえているのは明太子で、かいわれ大根で見た目の可愛さを出してと令の工夫が随所に感じられる。
更に、パンでサンドしただけではなく、蓮根で挟み揚げた変わり種があって、これが蓮根のサクサク感と調和して物凄く美味しい。
普通のタラモならまだしも、たっぷりマスタードの入ったものは蓉子も江利子も好まない、まさに聖のための特製サンドウィッチと言えよう。さすがにこれを他の二人に渡したとは考えられない。
「どうでしょうか」
不安と期待に満ちた眼差しを向けられる。
もちろん美味しいのだが、素直に認めてしまうのは悔しい気がした。
「こ……これだけじゃあ、本当にあたしのためだけの特性とは分からないし」
「ええ~~っ。じゃあ、他にどうすればいいんですか」
「そうね……たとえば、昨日の蓉子と同じように、もっと言葉でも表現するとか」
「昨日の………………あっ」
思い出したのか、赤面する令。
「ま、無理なら――」
「無理じゃありませんっ」
強い口調で言われ、動きを止める聖。
その聖に向けて、令は少しばかり恥ずかしそうに上目づかいになりながら口を開く。
「聖さまのために、特別に愛情を込めて作りました……」
「…………っ!!」
手で口もとを抑え、横を向く聖。
(なっ……にこれ、ヤバい、令ってば本気であたしのこと? ちょっと、告白とかっ)
自分で言わせたくせに、その破壊力によって自らおかしくなってしまう聖。落ち着け、落ち着けと内心で言い聞かせ、とりあえず誤魔化すようにタラモサンドをもう一口、がぶりと齧る。
「お口にあいますか?」
「わ、悪くはない、んじゃない?」
「本当ですか、良かった! あ」
「な、何さ」
「聖さま、口元にたらもが」
ハンカチを取り出すと、聖の口元に近づけてくる令。
その手首を掴んで止める。
「あの、聖さま?」
「そ、そういうときは、もっと違う取り方があるでしょう」
「違う取り方?」
「何よ、あたしは特別じゃないの?」
「え、えと…………あ」
聖に掴まれていない方の手を伸ばして頬に添えると、令はそのまま顔を近づけてきて唇の横に付着したタラモの部分に口づけした。
「ちゅ……れろっ」
唇を押し付けた後、舌でぺろりと舐めとる。
「聖さま…………こちらにも」
「え? あ……んっ」
令の顔が一旦、少しだけ離れたかと思うと、今度は聖の唇に向けて舌をのばす令。確かに、そこにもタラモが付いていることに間違いはないのだが。
「ちゅっ…………ぺろ、ぺろっ」
上唇、下唇を丁寧に舐められる。くすぐったいような、じれったいような、もどかしいような気持ちに体がむずむずするけれど、動いて逃れることも出来ないし、逃れたいとも思わない。
「ん、聖さま、舌、出してください」
「え……、な、なんで……?」
「いいですから、早く」
「は、はい」
少し強めに言われると、つい素直に返事をしてしまった。そして、ゆっくりと舌を突き出してゆく。
「やっぱり、ここにもタラモが……ぺろ」
舌の上に残っていたタラモを、自分の舌で掬い上げる令。さらに、口の外に出てきた聖の舌を唇で挟んで吸う。
今まで感じたことがない感触、感覚に体が震え、痺れにも似たものに包まれる。開いたままの口の端から唾液が垂れると、見とがめた令が素早く舐めとる。
「――――はい、聖さま。綺麗になりました」
「う、うん。あ、ありがと」
まだ少しぼーっとした頭で、それでも懸命にそう答える。見上げると、大胆なことをしてきた令の方も茹だったみたいに真っ赤になっている。
「こ、これで、私にとって聖さまが特別だって、分かってくれましたか?」
「そ、そうだね、うん、うん」
恥ずかしくなって、ポリポリと頬を指でかきながらただ頷くしかない聖。
すると、そんな聖を立ったまま見下ろしていた令は。
「今度は…………聖さまにとって私がどうなのか、教えてくださいね」
「え…………え?」
ぱっと顔をあげると。
「それじゃあ、そろそろ教室に戻らないといけないので、失礼しますっ」
深々とお辞儀をしたかと思うと、回れ右をして豪快に走り出す令。タイもスカートの裾も、ばっさばっさと翻るのも構わずに駆けてゆく。
去ってゆく令を見送りながら、聖は呆然としたように呟く。
「あたしにとっての、令を……それを教えてって…………え……」
かあぁっ、と顔面に熱が集まってゆくのが分かる。
そんな状態になること自体が答えを教えてくれているようなもの。
だけど、聖自身、まだそのことに気が付けてはいなかった。