おかしい。
こんなのは絶対におかしい。
聖は一人、悶々としていた。
頭を悩ましているのは一人の後輩。
聖よりも背が高くて、剣道が強くて、ベリーショートが似合うアイドル顔負けのルックスは見事なまでに女子校の王子様のテンプレ。だけど、聖の好みなどでは断じてなかった。ただの後輩としてしか見ておらず、同じ山百合会に属していたとはいえ大した接点もなく、江利子にひっついているだけだと思っていた。
それがなぜか、聖の心の中にいつしか入り込んできていて、しかも存在が日に日に大きくなっていくように感じられる。
確かに、見た目と違って少女趣味、お菓子作りと編み物と少女小説が大好きだというギャップは面白とは思うけれど、それ以上でも以下でもなかった。
だというのに。
「あー、もうっ」
髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回し、自らの苛立ちを誤魔化そうとするも失敗する。
こういう時は何もかも忘れて寝てしまうに限る、とばかりに聖はその場で横になって目を閉じた。今は使われていない、昔は教師が宿直室として使用していたその部屋には、古いけれど決して汚くはないソファベッドが置かれていて、しばしば居眠りする場所として利用していた。
わざわざこんな場所にやってくるようなもの好きも他におらず、聖にとっては静かに休むことのできる(サボることのできる)場所だった。
目を閉じて柔らかなソファベッドに体を預けていると、自然と眠気が聖を包み込んでゆき、やがて完全に眠りへと落ちていく。この季節ならば風邪をひくこともあるまいと、心地よい睡魔に聖は身を委ねる。
どんな夢を見ていたのかはわからない。楽しい夢だったのか、それとも苦しい夢だったのか、夢なんてものはそんなもんだろう。
小さく肩を揺すられて意識が徐々に覚醒してくる。
「――ま、聖さま」
自分の名を呼ぶ声。
ゆっくりと目を開くと、視界に飛び込んでくるのは整った顔立ちに優しいな表情を浮かべた後輩。
「聖さま、そろそろ下校時刻になりますよ?」
ちょこん、と小首を傾げて微笑みかけてくる。
「…………んぁ?」
寝起きで、まだ脳の回転が遅い。
口の端から涎が垂れかけ、手の甲で拭おうとしたところで手首を掴まれ、動きを止められる。
「駄目ですよ聖さま、はい」
そう言いながら取り出したのは清潔なホワイトのハンカチ。肌触りの良い綿が口の端に触れ、垂れた涎を拭きとってくれる。
「う……ん、ありがと……」
「いえ、どういたしまして」
「……って、にょわっ、令っ!?」
「にょわ?」
「いや、て、なんでここが分かったのっ」
赤面しつつ体を起こそうとするも、手が滑ってうまくいかない。とりあえず制服の袖で口もとを拭い、同時に表情を隠す。
「ああ、制服が汚れちゃいますよ」
「これくらい大丈夫……って、だから、なんで令がここにいるのさ」
この場所は聖にとっても秘密の場所、他の誰かに教えたことはない。
「聖さまを起こしに……」
「そうじゃなくて、どうしてあたしがここにいるって分かったの?」
「え? えっと……そういえばそうですね。なんででしょう、なんか、聖さまがいそうな場所って気がして」
犬か何かなのか、もしかしたら匂いで分かるのだろうか。そういえば、体つきこそ大きいけれど、どこか子犬のようなところのある令だ。
「そもそも、あたしがまだ学校に残っているってよくわかったね」
「えへへ、それほどでも」
別に褒めているわけではないのだが、なぜか照れたように頭をかく令。その辺のちょっとズレたところが江利子などは気に入ったらしいが、聖としては戸惑わされる。知りたいのは、なぜ聖が学校にまだいると知ったのかで、まさか靴がまだ残っていることを確認したから、なんて言われたらちょっと怖いかもしれない。
「そろそろ帰らないと、先生に怒られちゃいますよ」
「ん……」
変なところを見られて決まり悪かったが、起こされずに放置されたら夜まで寝ていたかもしれない。曖昧な返事をしつつ立ち上がる。
「さあ、帰りましょう」
「帰るって言ったって、令の家は歩いてすぐでしょ」
「はい、でも正門までは一緒ですよ」
そこまで言われてしまったら断るべき理由もないし、そもそも時間的に帰るしかないのだ、鞄を持って部屋を出る。後から子犬のように令がついてくるのが分かる。
「ちなみに、令はなんでこんな遅くまでいたの?」
「私ですか? 剣道部です」
「ああ、そういえばそうだっけか。部活の後にわざわざご苦労なことだね」
「全然、苦労なんかじゃないですよ。聖さまはよくあそこで休まれているんですか?」
「たまによ、たまに。だから、いつもいるなんて思わないでよ」
「そうなんですか。それじゃあ、聖さまが見つからない時は、他はどこを探せばよいでしょうか」
「……なんで、あたしを探すこと前提になっているの?」
「だって、放っておけないじゃないですか。夜になっても学校で寝ていたりしたら」
あんたはお母さんか、とツッコミでも入れたいところだったが、現に今日は危ないところを起こしてもらったわけで説得力もなく、黙っていることにした。そもそも、なんで令と二人並んで帰らなければならないのか。別に、話や趣味が合うわけでもないのに。
とはいってもどうせ正門のところまで、たいして話すまでもなく到着する。
「――それじゃあ、ここまでですね。失礼します」
「ん、じゃね」
軽く手を振って別れる。
一人でいることには慣れているはずなのに、別れるとなんだかちょっとだけ寂しくなった気がして、自分自身にイラッとした。
それで、何気なしに振り返ってみれば、待っていましたとばかりに、別れた場所に立ったままでいた令が嬉しそうに笑みを浮かべる。
ぷい、とすぐに前を向いてしまうが、背中には変わらず令の視線を感じる。
「……はぁ、なんなのよ、いったい」
自分でも理解できない思いにとらわれながら、聖は夕闇に沈みゆく中を歩いていった。
不意に時間がぽっかりあいてしまうと、なぜか令のことを思いだしてしまったりする。そんな自分が重症だと感じた聖は、休日で特に予定はないけれど街に繰り出して気分転換をすることにした。
人ごみは好きじゃないけれど、人の少ないところでは考え事をする余裕もできてしまいそうだから、あえて人の多い繁華街の方へと足をのばした。
「とはいえ、どこに行こうか」
用事があるわけでもないし、遊び慣れているわけでもない。適当にぶらぶらして本屋で立ち読みしたり、雑貨屋を冷やかし見したり、コーヒーショップに入って軽く腹を膨らませながら本屋で購入した文庫本を読んだり、そんな感じで過ごしてゆく。
「なんだかんだで夕方になったなー、っと」
そろそろ家に帰ろうかと思っていると、ゲームセンターのクレーンゲームが目に入った。景品のぬいぐるみに変てこなタヌキもどきみたいなのがいて、妙に聖の琴線に触れた。せっかくだから取ってやろうと硬貨を投入、アームの握力の強さなどをまずは確認した後、本気で取りにいく。
「――――って、ああっ! くそっ、なんだよこれ、握力弱すぎ」
当たり前のことで分かっているのだけれど、それでもうまくいかないと頭にくることに変わりはない。
「ちぇっ、これはしくったかなぁ……ん?」
「どうしたの? 狙っているのアレ? 俺らが取ってあげようか」
「得意だし、他のでもいいけど」
いきなり、見知らぬ二人の男に挟まれた。大学生くらいだろうか、見た目も格好も悪くないけれど、そういう問題ではない。
「あの、結構ですので」
ナンパなんて久しぶりだったけれど、やっぱり気持ちの良いものではない。どうにかさらりと流していきたいところだが。
「遠慮しなくていいよ、なんなら他のゲームする?」
逃げたいのだが、端っこのゲーム台だったので壁と二人の男のせいで隙間がない。
「ナンパだったら他の子にしてくれませんか? あたし、そのつもりはないですから」
「難しく考えないで、ちょっと遊ぼうって気楽に、ね」
何が「ね」だ、気持ち悪い。
聖は少し強引に二人の間を押しのけるように通り抜けたが、それで諦めることなく後を追いかけてくる男たち。他の人の目もあるし、強引なことはしてこないようだが鬱陶しいことこの上ない。
店を出ても横から話しかけきて、どれだけしつこいのだかと内心で呆れる。その執念をもっと他のことに使えばいいのに。
「――あのっ、いい加減にしてくんない?」
丁寧な言葉遣いにも疲れ、振り払うように手を挙げた聖だったが、その手首を掴まれてしまう。
「ちょっと……離してよ。その気がないのくらい、分かるでしょ?」
「いやー、でも凄い好みでさ、気が強いのもいいし、諦めきれなくて。変なことしないから、食事だけでもどう?」
どうやら面倒くさいのに目を付けられてしまったようだ。穏やかな表情を浮かべてはいるものの、どこか爬虫類めいたいやらしさを感じるし、変なことはしないと言いながら視線が聖の胸にばかり注がれているのが分かる。ぴっちりとした、ラインの分かりやすい服を着ていることが災いしたか。
本気でどうしようか困る。腕力でかなうわけもなし、走って逃げてうまいこと振り切れるかどうかも不安だ。
「あの、あたし、彼氏いるから」
「いいよ、別にいても。ちょっと遊ぶくらい、浮気じゃないでしょ」
暖簾に腕押し。
ああだこうだと色々と言っても諦めないし、やっぱり逃げようかと思ったけれど二人組というのが厄介で、聖に言い寄ってきているのと別の方がうまいこと体で道を塞いできているのだ。
とにかく、どこか店や閉鎖空間に連れていかれたら駄目だ、時間を稼いで隙を見つけるか、諦めるまで待つか。怒らせないよう、短気な行動に走られないよう、うまいこと抑えつけながら話を続ける。
「いい加減、立ち話を続けるのもなんだし、その辺に入らない?」
「お気遣いはご無用です、もう帰りますから」
「そんなつれない事言わないでさ」
焦れてきたのか、更に距離を詰めてくる。男に近寄られるなんて嫌だ、なんて厄日なんだと首を垂れると。
「――すみません。その子、僕の彼女なんですけど」
その声が、耳に届いた。
「え? なん……」
声の主を見た男たちが思わず絶句する。
現れたのは、テレビかファッション誌から飛び出してきたのかと思えるような美少年、シャツとジャケットを無造作にあわせただけの服装も、着ている人の素材が良いだけで高級ブランド品のようにも思えてくる。
「ごめん聖さん、遅くなって」
「な……」
美少年とはもちろん、令だった。
「人の彼女をナンパしないでくださいね、これからデートなんですから、まったく……それじゃあ行きましょうか、聖さん、ほら」
呼ばれて、男たちの間を抜けて令の傍に歩み寄ると、手を掴まれた。思っていたよりも大きくて、そして剣道のためか硬い手の平が聖の手を包み込む。え、なんだ、令ってこんなに格好良かったっけかと、なぜか心臓の動きが忙しなくなる。その間も令はぐいぐいと聖を引っ張ってゆき、その表情は精悍で見惚れてしまいそう。
そんな感じで、男たちに背を向けて手を繋いで歩く。ちらと後ろに目を向けてみるが、追いかけてくる様子は無くてとりあえず一安心。さらにそのまま歩いて、角を曲がって人通りの少し少ない場所に入り、男たちの目の届かない場所に来たところでようやく安堵の息をつく。
「あ、あの、令……?」
ぎゅっと繋がれたままの手が気になるも無理に離すことも出来ず、聖自身もなんだか離したいとまでは思わず、そのままで声をかけると。
「――――っ」
「えっ?」
不意にその場にしゃがみこんでしまう令。訝しげに見下ろす聖。
「……こ…………」
「こ?」
「……こ、怖かったぁ~~」
「――――!」
うるうると目を潤ませ、情けない泣きそうな表情で見上げてくる令に、思わずどきっとさせられる。
「酷いですよ聖さま、あんな……もう、殴りかかってこられたらどうしようって、怖かったんですからぁ」
「そ、そうだったの? そうは見えなかったけれど」
「虚勢を張っていたに決まっているじゃないですか。おどおどして、舐められたりしても困りますし」
「いや、うん、でも助かったわ」
それは嘘ではなく心からの気持ち。男たちに気付かれないようスマホを操作して令に連絡したのだが、考えていた以上にうまくいった。今日はお菓子の材料の買い出しに行くと言っていたし、もしかしたらと思って呼んでみたのだ。
「……はい。聖さまのために、頑張りました」
僅かに涙目ながらも健気に微笑みを見せる令に、聖の心臓が再び大きく脈動する。
「ああもうっ、しゃきっとしなよ。さっき、助けてくれた時は格好良かったのにすぐこれなんだから」
「すみません……でも、格好良かった、ですか?」
「え、あ……そうね、まあまあ、ね」
まさに少女漫画のように助けにきてくれた令、その時のことを思い出すと少しばかり顔が熱くなる。いや、それだけではない。手を握られ、ぐいと力強く引っ張られて令の体に近づいた瞬間、下腹部がきゅうっと燃えるように熱くなったのを感じた。そうだ、あの時間違いなく聖は、濡れた。
「うそ……なんで、令にそんな」
「私が、どうかしましたか?」
どうやら立ち直ったらしい令がいつの間にか立ち上がっていて、頭の上から尋ねてくる。
「いやっ、なんでもない! なんでもないから」
慌てて頭を振って誤魔化す。
令は良くわかっていない風な顔をしているが、分からなくて良いのだ。
「えーっと、それじゃあ私、そろそろ帰りますね」
「――――え、もう?」
「はい、買い物は終わりましたし、聖さまも無事に助けられましたので」
肩にかけたトートバッグを見せる令。中にはきっと、お菓子作りのための材料が入っているのだろう。
「ちょ……ちょっと待ってよ」
去ろうとする令のジャケットの裾を掴む。
「はい、なんですか?」
「え? あぅ、あ……」
あまり考えもなく、とりあえず引き止めてしまっていた。そんな衝動的なことをしてしまうなんて何故だろうかと考える暇もなく、令が不思議そうに見つめてくる。何か答えなければと思い、口をついて出た言葉は。
「でっ、デート」
「え、と?」
「こ、これからデートなんでしょ、あたし達」
「ん、と?」
「それにほら、一人で帰っているところさっきの男たちに見られたらまずいし、あたしは彼女ってことになっているし、だから、そーゆーことよ、分かるでしょ」
「あぁ、はい……えーと、デート……ええっ!?」
「反応、遅いっ」
言いつつ、聖も恥ずかしくなってきてしまい、顔を見られたくなくて令の横にぴったりついて腕を組む。
「あの、せ、聖さまっ?」
わたわたと慌て出し顔を赤くする令を見て、ようやく聖も少し溜飲を下げる。そうそう、令の方が落ち着いているなんておかしいし、慌ててくれないと困る。
「せ、聖さま、あのっ」
「何よ、文句は無しよ、先輩に逆らうの?」
「そうじゃないですけど、あの、あ、当たってます」
真っ赤になっている令。
確かに、組んだ腕に胸を押し付ける格好になっているが。
「サービスよ、サービス、助けてくれたから」
「ふわぁ……せ、聖さまのお胸が……」
「口に出して言わない!」
こっちも恥ずかしくなるが、そんなことは口に出せず、ムキになったようにぐいぐいと胸を押し付けてやる。
「あの、これからどこへ行けば」
「それくらい、ちゃんとエスコートしなさいよ」
「そんなこと言われましてもぉ」
凛々しくて、精悍で、格好良くて。
可愛くて、情けなくて、お節介で。
そんな後輩に、押し付けている胸から鼓動が伝わってしまわないかちょっと不安に思いつつ、それでもなぜか離れることが出来ない聖なのであった。