令以外の人間に弱みを見せてしまうのは、由乃にとっては思ってもいなかったことだった。あの日、色々な要因が重なったこともあり、江利子にぶちまけてしまった。どうなるかな、と思ったが、意外なことに良い方向に向かっていた。江利子の、由乃に対する接し方が変わってきたのだ。
勿論、由乃の体のことを気遣ってくれることに変わりはない。それでも、以前のような嘘っぽさとでもいうのか、作ったような"優しいおばあちゃん"の姿がなくなっていた。由乃が江利子の情報を探っていたことにも当然気がついているだろうに、それをおくびにも出さない。それどころか、「由乃ちゃんは、料理得意なの?」とか「今年の冬は新しいマフラーが欲しいわ」などと露骨にあてつけてくる始末。
由乃は江利子の好みを知りたかったわけではなく(いや、全くないわけではないが)、主目的としては苦手なものを探ることだった。(結論として、苦手なものは無い、ということになったが)
それでも、薔薇の館が今までよりずっと居心地の良い場所になったことは確かだった。
江利子との関係は微妙に変わっていたが、それ以外は特に変化することなく、秋を迎えた。心臓の手術は、受けたほうがいいとはずっと前から分かっていたが、どうしても踏ん切りをつけることができなかった。
もし、万が一のことがあったら。
もう二度と、令と会えなくなるかもしれない。どうしても、その恐怖を乗り越えることができなかった。
今までも苦しみながら、ここまで生きてきた。この先も、今と同じ調子で生きていけるのではないか、そんな考えが頭から抜けてくれない。
しかし、大きな転機が訪れた。
運命の出会い、とでも言うべきだろうか。大げさかもしれないが、結果的には由乃にとってそうなることとなる。
福沢祐巳。
最初に見たときは、特に何も思わなかった。由乃と同じく、幼稚舎からリリアンというが、記憶には無かった。それはおそらく祐巳の方も同様だったろう。ひょんなことから、学園祭の手伝いということで薔薇の館に出入りするようになった。そのうち、由乃のことも誰かから聞くだろうな、と思っていた。
しかし、祐巳は今までの誰とも違っていた。そんなにたくさん喋る機会があったわけではないが、祐巳の言葉は直接由乃の心に響いてきた。祐巳の由乃への接し方は、他の一年生である志摩子や桂といったクラスメイト達に対するものとなんら変わることは無かったから。由乃の体のことを知らないのだろうが、それは物凄く新鮮だった。
そして由乃は、それを失いたくないと切に願った。
得ることがなければ、失いたくないと思うこともなかったはずだが、由乃は一度得てしまった。その味を知ってしまっては、もうそれを失うことに耐えられそうにはなかった。
今後、祐巳が由乃の病のことを詳しく知ったとき、どのような態度を取るだろうか。今と同じでいてくれるとは限らない。他のみんなと同じように、距離を置いたりするようにならないだろうか。
そんなことになったら、今度こそもう戻れないかもしれない。開きかけた扉を閉じ、自分の殻に閉じこもってしまう。そんな自分が、容易に想像できた。
嫌だ。そんなの嫌だ。
どうすればよいのだろう。
いや、どうすればよいのかなんて、分かりきっている。ずっと、ずっと何年も前からその答えは分かっているのだ。ただ、一歩を踏み出すことができなくて。そんな勇気が、強さが持てなくて。
でも……
黄薔薇革命。
妹達が大変なときに、江利子は自分自身のことに手一杯で何も手を出すことができなかった。だけど、後に事の顛末を祐巳に聞いて、むしろ良かったのではないかとさえ思えた。江利子が出て行ったところで、何か変わったとも考えられない。令と由乃は、自分達の意思で心を、気持ちを通わせあい、絆をより一層深め、強くなった。
そして、それを陰ながらサポートしたのが山百合会のみんなであり、今、江利子の前で落ち着かない様子で視線をさまよわせている祐巳であった。
由乃に必要なもの、それは由乃と対等の関係を持てる相手ではないかと、江利子は考えていた。それも、家族と令以外の人で。
でも、それは非常に難しいことだった。なぜなら、他の誰でもない由乃自身が、由乃の心が変わらなければ、それは決して叶うことではないから。由乃は、自分の体が病に侵されていて他の人より弱いことに、負い目を感じている。その負い目を持っている限り、どんなに周囲が環境を整えようと、対等な人間関係を築くことはできないだろう。由乃自身が、対等であると感じることができないのだから。
そんな中、突如現れた福沢祐巳という一年生。江利子達がやろうとしても出来なかったことを、いともたやすくやってのけた子。祐巳本人はそんなこと意識すらしていないだろう。
恐らく、そういうものなのだろう。
人間関係や人の心なんてものは、どうにかしてやろう、なんて考えた時点で真の意味での対等にはなり得ないのだろう。
「本当に、祐巳ちゃんは救世主ね」
「え、え、何ですかそれ?」
「ふふ、言葉のとおりよ」
あわあわしている祐巳をみて、微笑む江利子。
ふと、入院している由乃を見舞ったときのことを思い出す。
病室のベッドの上に上半身を起こして本を読んでいた由乃が、部屋に入ってきた江利子に気がついて視線を向ける。
「元気そうね。手術成功、おめでとう。食べるのは大丈夫なのかしら?わからなかったからお花と果物、両方持って来ちゃった」
「ありがとうございます」
持って来た花を花瓶に挿しながら、由乃の様子をうかがう。顔色も悪くなく、本当に元気そうだった。大きな瞳で、江利子のことをじっと見つめてきている。そんな由乃の視線を感じながら、ベッドの横の折りたたみ椅子に腰を下ろす。
「……改めておめでとう。私も、嬉しいわ」
「ありがとうございます」
「随分と素っ気無いのね」
「そうですか?」
そっと江利子は、由乃の手を取った。
細く小さな手。ちょっと力を入れて握っただけで壊れてしまいそうな、まるでガラス細工のような繊細な手。
「江利子さま?」
戸惑ったような表情の由乃。江利子は構わずに、両の手で包み込むようにして、そっと力を込める。
「本当に、嬉しいのよ?だってそうでしょう、孫である由乃ちゃんが嬉しいことは、私にとっても嬉しいことなのだから」
「江利子さま……」
「今回の手術で一番嬉しいのは他の誰でもない、由乃ちゃん、あなた自身でしょう。でもね、私もこれでもっと由乃ちゃんに近づけるかな、って思うと本当に嬉しいのよ」
そう言って、江利子はそっと由乃を抱き寄せた。
「だって今までは、こんな風にして抱きしめることもできなかったもの」
「え、え、江利子さまっ?!ちょ、ちょっ……」
わたわたと、江利子の胸で暴れだす由乃。
「いいじゃない。私だって、たまには優しいおばあちゃんとして由乃ちゃんを可愛がりたいんだから」
「は、はぁ……」
大人しくなる由乃。その頬が、赤く染まっているのが見える。
「……おかえりなさい、由乃ちゃん」
「……はい、江利子さま」
あのときの由乃は、たいそう可愛かった。今、思い出しても笑みがこぼれてきそうである。江利子とて、普通に由乃を愛しく思うのである。もっとも、それ以上のものが由乃にはある。
優しいおばあちゃんも良いけれど、やっぱり自分には、いじわるなおばあちゃんとして孫とやりあうほうがよっぽど合っている。令をはさんで、右と左で江利子と由乃の引っ張り合い。どちらも決して、力を緩めたりすることは無い。真ん中の令にはちょっと悪いけれど、こんなに楽しいことはないではないか。
薔薇の館の二階の窓際に座り、頬杖をしながら外を眺めていれば。ほら、可愛らしい子猫ちゃんたちが賑やかにやってくる。
由乃は窓辺にたたずむ江利子の姿を見つけるや、二人の友を置いて駆け寄ってきた。下から見上げてくる由乃の目は挑戦的で、睨みつけてくる表情は小憎らしいくらい可愛らしい。
「江利子さま!お姉さまに、一体何を言ったのですか?!」
三つ編みのお下げを揺らしながら、由乃は江利子に噛み付いてくる。由乃の姿を見下ろしながら、ついつい頬が緩みそうになるのを抑えて江利子はわざと挑発するような言葉を選ぶ。
「なんのことかしら?」
「とぼけないでくださいっ!」
江利子の期待通りに、叫ぶようにくらい付いてくる。
後ろから、祐巳と志摩子がようやくやってきて由乃の両脇に並ぶ。
「ちょ、ちょっと由乃さん、落ち着いて。さっきから機嫌悪かったけれど、一体どうしたっていうの、志摩子さん?」
「それがね、由乃さんと令さまは今日、一緒に山百合会の仕事に行く約束をしていたらしいのだけれど、突然、令さまが他の用事があるからと言い残してどこかに行かれてしまって……」
「それで、置いてけぼりをくらった由乃さんがヒステリーを起こしている、と?」
「まあ、言ってしまえばそういうことなのだけれど」
「ちょっとそこの二人、何冷静に解説しているのよっ」
「由乃ちゃん、落ち着きなさい。私が令に何か言ったとは限らないでしょう」
「じゃあ、違うって言うんですか?」
「言わないけれど」
「キーっ!やっぱりそうなんじゃないですかっ!」
足を踏み鳴らし、ストレートに感情を爆発させる由乃。
ほら、こんなに楽しい。こんなに素敵な女の子は、そう簡単には見つからない。
江利子は笑う。
もう大丈夫。由乃には、令だけではない。祐巳がいる。仲が良いとはいえなかった志摩子とも、祐巳という媒介を得て心を許しあっている。あんなに心を閉ざしていた子が、今は親友というかけがいのない宝物を得て、こんなにも輝いている。
だからもう-
もう、大丈夫。
それはもちろん、由乃のこの性格だから時には暴走したり、道を間違えそうになることもあるだろう。
でも由乃には令がいる。そして令だけではない。祐巳がいて志摩子がいて、頼りになる仲間達がいる。
今なら言える。
自分が幸せだと、間違いなく。
文字通り、世界が変わったのだ。
友達が出来た。
体育も参加できる。
江利子とも、気兼ねなく対峙することが出来る。
きっと、他の人から見たら些細なことなんだろう。でも、由乃にとってはどれもこれも、きらきら輝いている宝物。
これから先、わくわくするようなことでいっぱいだ。嬉しいことも楽しいことも、辛いことも哀しいことも、力いっぱい心の底から感じよう。
"友達なんて必要ない"
だからもう、そんなことは決して思わない。
祐巳の、志摩子の笑顔が由乃の暗闇を吹き飛ばしてくれる。
江利子の笑顔が、由乃の心を燃え上がらせてくれる。
そしてほら、最愛の人の足音が聞こえてくる。
「ちょっと、何を騒いでいるのー?」
由乃と、二階の窓から姿を見せている江利子を見て、困ったような顔をしてその人は現れた。
由乃を一番輝かせてくれる人。
「令ちゃん、私との約束放り出してどこ行っていたのよ?!」
「令、あなたから由乃ちゃんに言ってあげなさい」
「え、え、由乃?お姉さまっ?」
由乃と江利子の顔をせわしなく交互に見ながら、やっぱりおろおろとうろたえる。
祐巳と志摩子はどうしたものかと困ったような苦笑で顔を見合わせ、江利子は楽しそうに由乃達のことを眺めている。
私はもう寂しくなんかない。
だって、この人たちと、素敵な人生を奏でてゆけるから。
~serenade~ 黄薔薇小夜曲 完