生徒会室の机に向かって一人、紅愛は書類を片づけていた。テキパキと素早く、無駄なく、効率的にこなしていく。
頭脳を生かして剣待生の資格を得た紅愛は、頭がよいだけでなく仕事のこなし方もそつがない。
軽く息を吐き出し、肩をトントンと叩く。
手に持ったペンをくるくると回し、少し休んだところで続きにとりかかろうとした時に、生徒会室の扉が開いた。
「すみません、遅くなりました」
入って来たのは、書類の束を抱えた静久だった。
「おっそいわよ、静久」
紅愛の文句に、苦笑いしながら頭を下げる静久。
「ってゆうか、なんで私しかいないのよっ!?」
腕をばっと広げ、他に誰もいない生徒会室を指し示す。
「そこまで仕事を進めてから、それを言いますか?」
「だって、仕方がないじゃない、他に誰も来ないし、私が仕事を進めるしかないでしょう」
紅愛の横に積まれた書類を見て、静久はまたも苦笑する。面倒なことは嫌い、策を練り楽をして勝つことを考える、普段からそう公言している紅愛だが、音は真面目で人の頼みを引き受けやすい、人のよいところがある。
今日だって、なんだかんだと文句を言いながらも、一人でこつこつと真面目に書類仕事をこなしてきたのだろう。片付いている書類の山が、それを物語っている。
「大体、私はもう白服でもなんでもないのに、なんで呼ばれなくちゃいけないのよっ。新しい白服はどうしたの、あの、楽器のと、言葉の悪いの」
「……士道さんと斗南さんですね。そうですね、斗南さんが来てくれたら、少しは楽なんですけど、今日は風邪でお休みです。士道さんは、お見舞いに」
「じゃあ、玲と紗枝はどうしたのよ」
「祈さんは、何か用事があるとか。それで、神門さんは……」
言いにくそうにする静久のあとを、紅愛が引き取る。
「お守がいなかったら、来ないわよね、玲は。じゃあ、大将はどうしたのよ?」
「ひつぎさんは、急遽、別件が入ってしまいまして。私からも質問ですが、月島さんは、一緒ではないんですか?」
「みのりが書類仕事で役に立つと思う?」
「……いえ」
持ってきた書類の束を整理しながら、静久は答える。
そんなこんなで、集まったのはたったの二人。二人では、集まった、なんていうのもおかしいかもしれないが。
「もう、なんで休日にこんな……」
ぶつぶつと文句を言いながらも、それでも仕事をこなしていく紅愛。仕事をするときでもネイルの手入れは怠っていないし、指は細くて綺麗。本当に剣待生なのかと思ってしまうような、しなやかな手。
「くすっ。そうやって言いながらも、ちゃんと手伝ってくれるんですよね、星河さんは」
「なっ……べ、別に静久のためとかじゃないから」
頬をわずかに朱に染める紅愛。
静久はそれには答えず、紅茶を淹れて紅愛の前にカップを置く。
「ありがと……静久、あなた、手が荒れているわよ」
目の前に差し出された静久の手を見ると、素早く紅愛は掴んだ。予想していなかったため、さすがの静久も不意をつかれて逃げられなかった。
紅愛は手の甲、手のひらとひっくり返し、指をそっとなぞってみせる。
「ほっ、星河さんっ? 仕方ないですよ、私、毎日剣を振っていますし」
「それは私に対するあてつけ? でも、剣を振っていても、手入れくらいしなさいよ。せっかく、それなりに綺麗な指をしているんだから。私が、してあげようか?」
静久の手を軽くにぎにぎしながら、紅愛はにやりと笑う。爪や手の手入れのこととなると、紅愛も少しばかり人が変わるのだ。
握られていた手を振りほどき、静久は僅かに距離を取る。
紅愛は唇を尖らせ、残念そうに静久を見上げる。
「私には似合いませんから」
「大丈夫、私が責任もって、静久に似合うのをセレクトしてあげるから」
体の向きを変えて足を組むと、紅茶のカップを手にして一口すする紅愛。
「……で、静久はさっきから、なんでうろうろしているの?」
訝しげな視線を向ける紅愛。
紅愛の言う通り、静久は部屋の中を意味もなく歩いているように見えた。もちろん、書類を手にしたり、文房具の位置を直したり、何かしら行ってはいるのだが、まるで無意味な行動にしか見えない。
落ち着きがない、一言でいえばそういうことになる。部屋に入って来た時から落ち着きがないのを、紅愛は見抜いていた。
「それは、ですね」
言いよどむ静久。
「なんなのよ、何かあるならさっさと言いなさいよ」
少しばかり、苛々したような口調の紅愛。
そんな紅愛に、静久はきゅっと唇を引き締め、胸の前で拳を握りしめる。そして、横目で紅愛を見る。
「あっ、あのっ!」
「うわっ、何よ、びっくりするわね」
「こ、この前の、お返事を」
「はぁ? この前の? 返事? 何の?」
疑問符だらけの紅愛。静久の言いたいことが、さっぱり分からないのだ。
一方の静久は、頬をほんのりと桜色に染めながら、口を開く。
「この前、星河さんが、わ、私に告白してくれたことへの、お返事ですっ」
「……………………はぁ?」
ぽかんと、口を開ける紅愛。
「ちょっ……ちょちょ、ちょっと静久、何を言っているの!? いつ、私が静久に告白をしたっていうのよっ」
「したじゃないですか、あんな、大勢の人が見ている前で、私のことが欲しいって」
大勢の前で、静久が欲しい、そんなことを言っただろうかと、記憶を掘り起こしていく。いや待て、掘り起こすまでもなく、そんな大胆な告白をしたなら覚えているはず。覚えていないということは、嘘か冗談か。だが、静久の表情は真剣そのものだし、そもそも静久は冗談とか嘘をつくような人間ではない。
では、どういうことか。
そこまで考えて、一つだけ思い当たる節があった。
頂上決戦のとき、戦いが始まる前にひつぎに問われて答えたこと。頂上決戦で勝ったら、何を望むのかと。そのときに、確かに静久が欲しいと回答した気がするが、それはあくまで静久が有能であり、またひつぎに忠義を尽くしているから、ひつぎから離したいと思っただけだ。恋とか愛とかの意味で、静久が欲しいと言ったわけではない。
「私も、突然のことに戸惑いましたし、あのような大勢の目があるところで回答などできませんでした。ですが、色々と考えて、結論を出したんです」
「いや、ちょっと待って静久……」
紅愛の制止の声も届かず、突っ走る静久。
「わ、私も、星河さんが欲しいですっ」
ぐるりと紅愛の方に顔を向け、真っ赤になりながらも睨みつけるような真剣な表情で、静久は、はっきりと告げた。
「な、な、なっ……」
真正面からの想いをぶつけられて、紅愛の顔が"ぼんっ"という音を立てて真っ赤になる。
「告白されて、星河さんのことを考えていると、憎まれ口を叩いても実は優しくて生真面目なところとか、要領が良さそうでそうでもないところとか、そういった全てが愛しく思えてきて」
「……あんまり褒められている気がしないわね」
「とにかくっ、気が付いたら星河さんのことばかり考えるようになっていて!」
ずいっと、紅愛の方に寄ってくる静久。
「それに星河さん、ずるいです。いつも、誘うような仕種で、琴線をくすぐってきて」
「ひ、人聞きの悪いコトいわないでよっ。いつ、私が誘ったっていうのよ?」
「しょ、しょっちゅうですよ! 今日だって、ちょっと胸元をだらしなくして、前かがみになって私に胸元を強調して見せつけたり、私が前に回った途端に足を組んで太ももをちらりと見せたり、手を握って撫でてきたり……そんなことばかりされたら、私だって、たまらなくなっちゃいます!」
「ええええっ!? ごご、誤解よそれはっ」
「嘘です、そんなのっ」
椅子に座っている紅愛の肩を、がしっと掴む静久。もともと力が強いうえに、立っている静久に抑えられては、もう身動きがとれない。
見上げると、静久の瞳はどこか潤んで見える。
「星河さん……」
言いながら、静久は紅愛の太ももに跨って、腰を下ろした。
「し、静久、はしたないわよ、そんな足を広げて」
「大丈夫です、今日は戦いもないので、スパッツは穿いていませんから」
「ぜ、全然、大丈夫じゃないじゃないっ!」
言いながら、つい目が静久の下半身に向けられる。足を大きく広げ、スカートが少し上にめくれている。健康的な静久の引き締まった太ももが、目に映える。真面目な静久の、ちょっとばかり大胆ではしたない格好に、紅愛もどぎまぎする。
「星河さんの足は、柔らかいですね」
「ひゃんっ? や、やだ静久、どこ触って」
静久の指が、紅愛のスカートの裾の下に潜り込み、内股を撫でる。剣待生で元Sランクとはいえ、他の剣待生と比べて稽古量は圧倒的に少ない紅愛。しなやかな筋肉で引き締まった静久の太ももと異なり、女性らしい柔らかさを保っている。
さらに静久は、自分の胸を紅愛に押し付けている。二人とも決して豊満なバストとはいえないし、制服という厚い生地を通してもいるのだが、不思議なことに柔らかさはきちんと伝わってくる。
「わ、私がこんなエッチな気分になったのも、ほ、星河さんが悪いんですからね。ずっと、誘っているから」
「だから、そんなことしてないって」
「嘘です。今日だって、私と二人だけだと分かっていながら、モーションかけてきて」
「違うの、静久、あんた本当におかしくなっちゃったの!?」
椅子に座った上から乗っかられて逃げることもできず、どうにか静久を離そうと、手で押し返そうとする。
「あン」
「あ、ご、ごめんっ!」
うっかり、静久の胸を押してしまった。
驚くほど甘く切ない声が静久の口から漏れ出て、驚く。上位ランカーの中でも群を抜いて剣バカで、努力家で、生真面目で、堅いと思われている静久からそのような声が聞けるなんて、思ってもいなかった。
慌てて手を離そうとしたが、手が動かせない。静久に、手首を掴まれていた。
「だ、大丈夫です。いきなりで驚いただけなので、もっと、触っていただいても」
「馬鹿、あんた、何を言っているのよっ」
厚い生地の制服の上からだが、それでも胸を触っていることは分かる。静久の胸は、手の平サイズでジャストフィットするくらいで、中途半端な感触が逆に想像力を励起させてくる。
「星河さんっ」
紅愛の手首をつかみ、自らの胸に押しつけながら、静久が真剣な瞳で覗きこんでくる。
「私も、星河さんの、触ってもいいですか?」
まるで立ち合いの時のような真面目な表情をしながら、口を突いて出たのはとんでもない下心丸出しの欲求。
何も答えられずにいる無言の時間をどう理解したのか、静久は紅愛の左手を離して胸に触れてきた。
制服と下着を通した刺激だったが、体が震えた。静久の手を剥がそうと、空いた左手で静久の手首をつかむが、紅愛の力ではびくともしない。これではまるで、お互いがお互いの胸を触らせ合っているみたいではないか。
「……あの、触っているんだか、よくわかりません」
「わっ、悪かったわね、小さくて!!」
「いえ、大丈夫です、直接触れば、問題ありませんから」
「だいじょーぶじゃないっ! 問題ありまくりよっ!!」
制服の首の部分から、強引に手を入れようとしてくる静久の指が直接肌に触れ、痺れにも似た刺激が紅愛を襲う。
「どうしてですか、最初に告白してきたのは、星河さんじゃないですか」
「だから違うってのに、それに静久あんた、とばしすぎよっ!」
紅愛の言葉に、静久がはっとしたように動きを止める。
そして、ようやく何かに気付いたかのように、紅愛を見下ろす。
「ようやく、気がついたようね」
大きく息を吐きだす紅愛。
「はい、そうですね、すみませんでした」
「まあ、分かればいいけれど」
「そうですよね、いきなりおっぱいを揉んだりして、性急すぎましたね。やはり、まずは口づけから入らないと駄目ですよね」
「違うわよこの大間抜けっ!! って、顔を近づけるなーーーーっ!!」
紅愛の話など聞いていないのか、静久は目を細めながら顔を近づけてくる。必死に顔を背けようとするが、静久に両手で挟まれるようにして顔を掴まれてしまい、絶対絶命のピンチ。
静久の鼻と紅愛の鼻の頭がぶつかる。静久の吐息がかかる。
思い切り体を後ろにそらすようにして、どうにか避けようとするが、追いかけるようにして静久も身を乗り出してくる。
もう駄目だ、奪われる――そう、思った時。
ふわりと、体が浮かぶような感覚。
「――え?」
紅愛は体重を後ろにかけ、静久は前のめりになって、いつしかバランスが崩れていたのか、椅子の足が浮き、そのまま背中の方に倒れて行く。
「うわっ、きゃあああああっ!?」
「ふぎゃっ!?」
背中を強打し、後頭部も床にぶつけ、痛みに一瞬、声も出ない。
「お……おぉ……う」
頭を手で抱え、痛みに耐える。息がうまく吸えない。動くこともできずに、しばらく同じ体勢で我慢して、ようやく痛みが少し引いてくる。
どうにか体を起こそうとして、椅子に座った格好のまま真後ろに倒れたので、スカートがまくれてショーツが丸見えになっていることに気がつく。慌てて身だしなみを整え、横を見てみると、静久が目を回して倒れていた。
紅愛に夢中になっていたせいか、静久にしては珍しく受け身すらとることが出来ず、脳天から床に激突したのだ。
「ちょ、ちょっと静久、大丈夫?」
声をかけるが、静久は完全にのびていた。
「も、もう、どうすればいいのよっ?」
左右に首をふるが、誰がいるわけでもない。
静久は大の字になって気を失っている。
「静久、目を開けなさいよ、ほら」
軽く頬を叩いてみるが、目を覚ます気配はない。
「もう、あんなことしようとするから……」
言いながら、静久を見下ろす。
続いて、室内を見回す。
もう一度、静久を見る。
「……仕返しよ」
両手を床について、ゆっくりと上半身を屈めてゆき、そしてそっと静久の頬に唇で触れる。
「あと、不公平だから……」
唇を離したあと、今度は顔を横に向けて、静久の唇に自分の頬を触れさせる。
頬が、唇が熱くなる。
顔はきっと真っ赤だ。誰もいない部屋でよかったと思う。
立ちあがり、服の埃を払い、乱れた髪の毛をなおす。いまだ倒れたままの静久をそのままに、部屋の出口へと向かう。
いくらなんでも、静久が目を覚ました後にまともに顔をあわせられる自信はない。
「静久のバカ、ほんとに、まっすぐで性急すぎるのよ」
呟くように言って、扉を閉める。
「ホント、馬鹿なんだから……」
閉じた生徒会室の扉に背を預けるようにして。
綺麗に磨き上げた右手小指のネイルを、紅愛はそっと唇に押し当てた。
おしまい