清々しい朝の空気の中、一人学園内の道を歩く。今日は部活の朝練はなく、由乃はクラス当番ということで早めに家を出ていたから、本当に一人である。マリア像の前で何時ものとおりに手を合わせてお祈りし、教室に行こうかとしたところで声をかけられ、足を止める。
令が振り返るとそこには、緊張で体をガチガチに固まらせている、一年生らしき女の子の姿。
「ああああああの、令さまっ。こ、これ、私が作ったんです。お口に合うかわかりませんが、よかったら、あの、その」
顔を真っ赤にして、令と目を合わせないように俯きながら突き出された手の上に乗っているのは、可愛らしい包み。
「ありがとう―――クッキーかな?」
受け取ると、手にもさもさとした感触。
少女は、真っ赤にした顔のまま、必死に顔を上下に動かす。
「ありがたくいただくわ……そういえば貴女、前にもカップケーキを作ってくれたよね」
「ええええっ、お、覚えていてくださったんですかっ?!」
驚きに目を丸くして、女の子が顔をあげる。
すると令は、その少女の頭を軽く撫でるようにして。
「もちろん―――貴女みたいに可愛い子からもらったお菓子、忘れるわけないじゃない」
と、優しく笑った。
途端に女の子はのぼせ上がり、茹だったように首筋まで赤くなってしまった。
これはさほど、珍しいことではない。令自身、初等部の頃から同性に人気があり、お菓子などをプレゼントされることが多々あったので、いつもの恒例行事として渡される品をありがたく頂戴しているのだ。
「随分と大漁ね、令さん」
教室に入り、自分の席に荷物を置くなり、そう言われた。近づきながら手をあげているのは、黒田水那さん。中等部からなんと六年間、同じクラスになっているという、祥子以外で最も親しい友人。
「ホント、今日はどうしたんだろう」
と、机の上に置いたのは、教室に来るまでの間にもらったお菓子の数々。バレンタインデーでもないのにこんな大量にもらうのは、確かに尋常ではない。今日は、自分の誕生日だっただろうかと、思わず真面目に考えてしまいそうになる。
そんな令の様子を見て、水那さんが声を殺して笑う。 「令さん、三年連続なのに分からないの? 今の時期、一年生は調理実習でお菓子を作るじゃない」
「ああ……」
言われて、納得。
そういえば一年生のときも、二年生のときも、この時期に随分な量の手作りお菓子をプレゼントされたものだった。
「それにしても、相変わらずのプレイボーイっぷりよね。今朝も一体、何人の女の子を悩殺したのかしら」
「やだな、そんなことしていないわよ」
「自覚無しは怖いわよね。爽やかなアイドルスマイルでお礼を言いながら、自然と体に触れるスキンシップをする。令さんにそんなことやられちゃあ、大抵の女の子はイチコロよ」
水那さんは呆れたようにため息をつきながら、肩をすくめる。
令は、紙袋にお菓子を詰めながら、声もなく笑う。ちなみにこの紙袋は常備していて、このように普通の鞄に入りきらないような物を貰った際に使用する。
と、思っていた以上に貰ったお菓子の量が多かったのか、入りきらなかったお菓子が一つ、袋からこぼれ落ちた。
令が拾おうとするより先に、近くにいた水那さんが拾い、手渡してくれる。
「はい。駄目じゃない、可愛い後輩からもらった大切なもの」
そんな彼女の手を取り。
「本当だね。ありがとう、水那さん」
彼女の柔らかな髪の毛を撫ぜ、微笑みかける。髪の毛から頬を伝い、そっと肩まで撫で下ろす。
いつ触れても、彼女の髪の毛、頬は柔らかい。ついつい、そんなことをしてしまうのは、由乃で慣れているから。
すると、なぜか水那さんは瞬間的に顔を紅潮させた。
「うっ……わ、ヤバ、何この殺傷力。慣れている私でさえ一瞬、堕ちそうになったわよ」
「ん?」
「れ、令さんあなた、ますます磨きがかかっているわね。うぅ、まだ胸がドキドキいっているわ」
胸をおさえながら、赤くなった顔で上目遣いに見上げてくる水那さん。うーん、可愛いなぁ。こういうのが女の子っぽいんだよな、などと思う。
「だ、だから、至近距離の真正面から、その微笑はやめてってばー」
「え、あ、ごめん。そんなつもりはないんだけれど」
「無意識ってのが、更に厄介よね」
やたらめったら愛想よくするなとか、誰彼構わず口説き落とすなとか、由乃にもしょっちゅう言われるけれど、本当に令自身はそんな自覚はないのだ。ただ、好意を示してくれる相手に対しては優しくしたいし、同じとはいかなくても好意を返したいと思うだけ。
「ミスターリリアンもいいけどさ、たまには"可愛い令さん"ってのも、見てみたいかもね」
小鳥が囀るように笑い、水那さんは体を揺らす。
だから、そんな水那さんの方がよっぽど可愛いというのに。
「令さんも、恋をすれば可愛くなるのではないかしら」
「恋、ねえ……」
ぽりぽりと、頭をかく。
そりゃあ勿論、令だって恋をしたい。幼稚舎からずっと乙女の園であるリリアンで育ったとはいえ、男の子と恋をしてはいけないなどということはない。ミスター・リリアンと呼ばれる令だってそれは同じこと。
むしろ、自分の内面が、皆から見られているのとは反対に少女趣味なのだから、恋に恋する気持ちは他の人より大きいかもしれない。
だけど現実というものもある程度は知っている。さすがにこの歳になると、いくら温室育ちと言われていても、漫画や小説のような恋愛など、現実で発生することはないと理解しているし、大きな期待を抱いているわけでもない。
相反する気持ちを抱えながら、それでも今年の夏は、今までの人生の転機となるかもしれないイベントがあった。
祐麒くんとの、デート。
生まれて初めて、同年代の男の子とデートをした。それも、罰ゲームとか、そういった類のものではなく、向こうから誘ってくれたれっきとしたデートだった。
楽しかった。
ハプニングに伴ったものではあったけれど、女の子らしい可愛い服を着て、髪型を変えて、一人の少女として祐麒くんとの一日を過ごした。
だけど今となっては、実はあれは現実のことではなく夢だったのではないかとさえ思えてくる。
夏の日の、幻。
なぜなら祐麒くんは、「また会ってほしい」というような意味のことを言い、令にも同意を求めたはずなのに、それっきりその後は何の連絡も無いのだ。だから令は、やっぱり夢だったのではないかとつい、考えてしまう。
でも家に帰ってクローゼットを開けてみれば、間違いなくあの日のワンピースがあって、更にカラーボックスの中にはエクステンションも入っていて、間違いなく存在したあの日を脳裏に浮かび上がらせてくれる。
だから、嘘なんかではないはずなのに。
なんで、祐麒くんは何の連絡もよこさないのか。あのときの言葉は、やっぱりその場だけのものだったのか。どうせそうだ、年上で、自分自身より上背があって、男の子みたいな風貌の女なんかやっぱり気になるわけが無いのだ。
どうせ、自分など―――
「……きょ、今日の令さま、凄く気合入ってない?」
「そ、そうね、鬼気迫る、というか」
道着を身につけた剣道部の部員が、荒い息をしながらもひそやかに話をしていると。
「無駄なお喋りはしない! お喋りする元気あるならもう大丈夫ね。次、跳躍左右面!」
容赦ない令の声が飛び、部員達は稽古に取り掛かる。
その日の稽古は、今までにないくらいハードだったと、部員達は後に皆、言うのであった。
稽古を終え、着替えた令が道場を出ても、外は明るかった。カレンダー上では秋になったとはいえ、まだまだ夏の気配は消えそうもない。
今日は、由乃は気分があまり優れないということで、部活には参加せずに帰宅していたから、帰り道は一人となる。もっとも、学校から家までは歩いてすぐの距離だから、一人でもどうということはない。
横から射抜くかのような太陽の光を浴びながら、ゆっくりと歩く。
途中、他の学校の制服を着た男女のカップルと擦れ違った。二人は、仲良さそうにお喋りをしながら、笑顔で歩いていた。令の足が止まり、振り向いて二人の姿を目で追う。男の子の手が女の子の肩に伸び、引き寄せるような格好になる。女の子は笑っていて、嫌がる素振りを見せることもない。足元から伸びた二つの影も、本体の動きを追うようにくっつきあう。
つきあっているのだろうか。仲睦まじく下校の途中なのか、あるいは寄り道して遊んでいる途中、たまたま通りかかっただけなのか。
どこか、羨望の眼差しで、令は二人がゆっくりと遠ざかって行くのをぼんやりと眺めていた。
お嬢様学校で女子校のリリアンでも、男性とお付き合いをしている人も当然いる。リリアンは警備も厳しく周囲の目もあるので、校門前で女子生徒の恋人が待っているなんていう姿はあまり見かけないけれど、皆無というわけではない。
お付き合いしている人と一緒に下校。ただ、それだけのことがなぜか無性に羨ましい気持ちになる。
同時に、もしも令自身にそういう人が出来たとしても、一緒に帰ることが出来るのはほんの十分ほどなのだということに気がつき、笑いたくなった。
所詮、ありえない夢。
校門で自分の帰りを待ってくれている男の子も、一緒に下校してくれる男の子も、居はしないのだ。不満があるわけではないけれども、どこか寂しい気もする。
どれくらい、呆けていたのだろう。
ふと目を上げてみてみれば、いつの間にかカップルの姿は消えていて、夏の夕日に染まる静かな住宅街だけが目の前に広がっていた。
同じ週の日曜日。
令は星見ヶ丘高校から出てきて、首を軽く回した。
今日は、星見ヶ丘高校との練習試合が行われていたのだ。合同練習と団体戦を行い、リリアンの勝利で終わって帰途についていたのだが、帰る途中で手拭いを忘れてしまったことに気がつき、一人で星見ヶ丘高校に戻ってきていたのだ。
無事に手拭を受け取り、外に出ると当たり前だが星見ヶ丘高校の生徒達の姿があちらこちらに見ることが出来る。共学のため、男子も女子もいて、中には付き合っていると見られる男女の姿も見られた。
納得のいく練習試合に充実していた心が、ちょっとだけ冷えた。
今まで、色々な少女漫画や少女小説を読んで、恋愛に淡い期待を描いていたけれど、街中を歩く同年代のカップルを見ても、こんな気持ちになったことはなかった。むしろ、自分と立場を入れ替えてみて想像を膨らましてみたり、相手の男の子を理想の人に置き換えてみたりしていた。(あまり思い浮かばなかったので、小説の登場人物にすることも多々)
こんな、どこか切なくなるのは、現実の男の子とデートをしたからだろうか。
令の歩みは、気持ちに比例するように遅くなってゆく。そのせいか、あと数十メートルでバス停というところで、バスが令を追い抜いて走り去っていった。乗り場には無人、降りる人もいなかったのか、バス停に止まる様子もなくバスの姿は消えてゆく。令はため息を一つついて、歩く方向を変えた。
休日とはいえ、練習試合であるし制服姿である。途中の寄り道など本当はいけないのだが、真っ直ぐ帰る気にもなれず繁華街の方へと足を向ける。気晴らしに、新作のケーキにでも挑戦してみようか。どんなケーキを作ろうか考えながら、色々な材料を見て回るのは楽しく、格好の気分転換になる。
少し軽くなった足取りで、令は繁華街に入っていった。
「……うわっ、かわいーなー」
思わず足を止め、頬を緩めていた。
ガラスの向こうから見つめてくるつぶらな瞳。もこもこしていて丸っこい体。さかんに振っている尻尾。
ペットショップのウィンドウの前で、令は腰をかがめて仔犬に目を細めていた。
ほかにも、丸くなって眠っていたり、水を一心不乱に飲んでいたりと、見ているだけで心が和むような光景に、思わず足を止めてしまったのだ。
だから、気がつかなかった。すぐ隣に、立っていたというのに。
「……あの、すみません」
「はい?」
顔をあげる。
ペットショップの店員さんか何かだと思っていた令は、隣にいるのが祐麒くんだということに気がついて、飛び上がるくらいに驚いた。
「えっ、あ、祐麒くんっ。い、いつからそこに」
「えーと、実はしばらく前からなんですけれど」
「えええ、は、恥しいところ見られちゃった。声、かけてくれればよかったのに」
「そう思ったんですけれど……その、あまりに可愛くて、つい、見惚れちゃって」
「ああ、うん。確かにね。私も、そうだったから」
言いながら、再び仔犬たちの方に目を向けると、愛くるしい顔をしてこちらのことを見上げてくる姿にどうしても口元が緩んでしまう。
「あ……いや、そっちじゃないんですけれど」
「え、なに?」
なぜか、祐麒くんは照れたような顔をして横を向いていた。男の子だから、仔犬に見惚れていたことが恥しいのかもしれない。
「でも、本当、かわいいなあ」
ケージに目を戻し、中の犬を見つめる。
ミニチュアダックスフント、パグ、トイプードル、ポメラニアン、シー・ズーといった犬達が、嬉しそうに令のことを見つめているように見える。
「ずっと見ていても飽きないわ」
「ほ、本当、そうですね」
「へー、祐麒くん、好きなんだ」
「え、あ、あの、はい」
男の子でもやはり、可愛いものは好きなんだと、少し嬉しくなる。にこにこしながら令が隣に立つ祐麒くんに視線を向けると。
なぜか祐麒くんは真っ赤になって立ち尽くしていた。
「どうしたの、そんなに赤くなっちゃって」
笑いかけて、気がつく。
ちょっと前まで、祐麒くんに対して少しばかり腹を立てていたということに。笑いをおさめ、名残惜しいけれどペットショップに背を向ける。
「それじゃあ私、帰るから」
「え」
突然、歩き出した令に驚いたのか、祐麒くんが慌てたように追いかけてきて、横に並ぶ。
「あ、あの支倉さん。どうしたんですが、いきなり」
「別に」
出来るだけ素っ気無い感じを出して返事をする。令の様子を窺うようにして、隣を歩く祐麒くん。
どうしたものか戸惑っているのが手に取るように分かるが、無視して歩を進める。
「ひょっとして、さっきので気分、悪くしちゃいました?」
「そんなことは、ないけれど」
ちらりと目だけを動かして横を見てみると。
すがるような目で見上げてくる祐麒くんの表情が、さきほどのペットショップにいた子犬たちと重なり、思わずキュンとなる。
可愛いと思ったが、ここは心を鬼にしてすまし顔。
「そ、そういえば支倉さんは、今日はこの辺に用事でも?」
「練習試合があったから」
「ああ。支倉さんの剣道姿、綺麗でしょうね。今度、見てみたいですね」
「そんなこと言って……」
前のデートのとき、また誘っても良いかと言っておきながら、その後何も音沙汰がなかったのに。どうせ今回だって、口先だけのことではないのかと疑いそうになる。
「今度、秋に試合があるんですよね」
「うん。よく知っているわね」
「あ、まあ。あの、試合の日、応援しに見に行ってもよいですか?」
「えっ」
言われて動揺する。
確かに、試合している子の中には、彼氏らしき男の子が応援に見に来ている姿も時折見かける。
本人はばれないようにしているつもりだとしても、そういうのは周囲から意外と分かってしまうのだ。特に、女の子というのはその手のことに鋭い。
もしも、祐麒くんが令の応援に来たとしたら、令は絶対に意識するだろうし、そうしたらまず確実にリリアン剣道部だけでなく、参加している他の学校の子にも分かって、関係を疑われる。
そんなことになったら、どんなことになるか。
考えて、赤面しそうになって慌てて打ち消す。
怒っていたはずなのに、余計なことを考えてどうすると、心の中で自分自身に活を入れる。
と、一人で勝手に色々と混乱していると、祐麒くんが意を決したように口を開いた。
「あの、支倉さん、すみませんでした」
「え、な、何が?」
いきなり謝られて、令の方が戸惑う。
「その、全然、あの後連絡入れられなくて」
言われて、自然と胸がドキリとした。
間違いなく、前のデートの最後に祐麒くんが口にしたことを言っている。忘れていたわけではないと知って少し安心した反面、覚えていたなら何故、連絡をしなかったのかと問いたい。
「本当は、連絡したかったんですけれど」
「なんで、しなかったの?」
口調がちょっと厳しくなる。
祐麒くんは恥しそうにしながらも、それでも理由を言った。
「実は、その、誘いたいのはやまやまだったんですけれど……」
前のデートの出費で、どこか遊びに行くのに誘うにしても、資金がなくて誘うことが出来なかった、らしい。
顔を赤くしている祐麒くんを見て、令は呆れ、そして笑いそうになってしまった。いや、次の瞬間には本当に口元をおさえて笑い出していた。
「は、支倉さん?」
笑い出した令に、動揺している祐麒くん。
令はいまだ笑いながら、口を開く。
「やだ、祐麒くん。そんなことを気にしていたの?」
「そんなことって……お、俺にとっては切実で」
拗ねた様子の祐麒くんが、可愛らしい。
「それでも、電話くらいできたでしょう」
「はい……でもやっぱり、誘うこともできないのに、電話だけするのも」
「やだな……電話してお話するだけでも、私は楽しい……けど」
言いながら、段々と声が小さくなってくる。物凄く、恥しいことを口にしている気になってきて。
「じゃ、じゃあ今度、電話します」
「う、うん。待っているね」
なんとなく、気恥ずかしくて無言になる。
いつしか夕刻となっており、空は茜色に染まり、周囲の街並みも濃淡のあるオレンジ色に変わっていた。
目を地面に向ければ、長く伸びた二つの影。
実際の身長以上に長くなっている影だが、それでももちろん令の影の方が祐麒くんの影よりも長い。
こだわっても仕方ないところに改めて気がつき、ため息をつきそうになるがどうにか思いとどまる。
それ以上のことに気がついたから。
擦れ違った、学生服を身につけた男女の姿。
今、令もまた祐麒くんと並び、学生服で家路についているところで、それはまさに令が夢見ていたような状況であった。
意識した途端に、顔が熱くなってくる。
横を歩く祐麒くんの頬も赤みを帯びていたが、果たして令と同じような思いを抱いているのか、それとも夕日によって染まっているのか、ぱっと見ただけでは判別つかない。
「……あの、さ」
恥しさと嬉しさがないまぜになったまま、頬を指でかきながら、令は言う。
「べ、別にお金をかけてどこかに出かけなくても、私はこうして一緒にお話でもしながらぶらぶら歩いて、それで帰るだけでも、嫌じゃないよ?」
わずかに風が吹き、短い髪が揺れる。
横から見上げてくる祐麒くんの目が、ちょっと大きく開かれる。
「ゆ、祐麒くんからしたら、つまらないかもしれないけれどね」
「俺だって、楽しいですっ」
間髪いれず、返事をしてきた祐麒くん。
目の前の横断歩道の信号が赤に変わり、立ち止まる二人。
駅は目の前。日曜日ということもあり、非常に混雑した人波の中、二人は無言で立ち並んでいた。
やがて、信号が青に変わり、一斉に動き出す群衆。
二人もまた、歩き出す。
「あの、支倉さん。今日、家の近くまで送らせてもらってもいいですか?」
問われた令は、もしも、由乃に見られたらどうしよう、なんていうことは思い浮かびもせず。
ただにっこりと微笑んで。
「え、あ、うん」
高鳴る胸の鼓動を、感じているのであった。
明けた月曜日。
お昼休みの時間となり、令は水那さんと机をあわせてお昼ご飯の支度をし始める。
鞄からいそいそと巾着を出し、中から弁当箱を取り出す。昨日はあの後、祐麒くんに駅近くのスーパーでの買い物につきあってもらったのだが、その時に今日のお弁当のおかずを購入したのだ。
そんなことを考えながら、お弁当を開けようとすると。
「……なんか今日の令さん、ご機嫌ね」
水那さんが、軽く驚いた目をして令のことを見ていた。
「え、そう?」
「うん。ねえ、何かいいことあったの?」
僅かに机の上に身を乗り出して聞いてくる水那さん。令自身は、特に機嫌が良いという意識がないので、首を横に振る。
水那さんは納得いかないようで眉をしかめていたけれど、いつまでもそうしているわけにもいかないし、食欲には勝てないようですぐにお弁当の方に意識を戻した。蓋を開けると、中に見えたのは可愛らしく三色に飾られたご飯と、唐揚げやプチトマトの姿などが見えてとても美味しそうだった。
令もまた、自分の弁当の蓋を開く。
目に飛び込んでくるおかずを見て、昨日のスーパーでの会話を思い出す。
「え、俺の好きな食べ物、ですか?」
「うん。いつもどういったもの食べているの」
「うーん、そうですねぇ……」
そうして幾つか口にした具体的な品名や、あるいは好みの味、ジャンルなど。聞いた内容をもとに、こっそり祐麒くんの好みにあいそうな料理の材料を購入していたことに、祐麒くんは気がついていなかったようだけれど。
「―――ふふ」
気がつかないうちに、笑みと、そんな呟きが漏れていた。
今日、令が作ってきたのは、そんな祐麒くんが好きだといっていた品のいくつか。練習の意味も込めて、色々と試してみたりもした。
「いただきます」
令が言うと。
「あ……うん、い、いただきます」
なぜか水那さんが戸惑ったようにしながら、令に遅れて手を合わせて食事の挨拶をした。
少し気にはなったが、それ以上に料理の出来も気になる。もちろん、味見はしたけれど、時間が経って冷めると味も結構変わってしまったりする。お弁当のおかずは、その辺もきちんと考慮に入れて作らないといけないが、果たして今回はどうだろうか。
そんなことを考えながら箸をのばし、一品つまんで口に運ぶ。
「……うん」
作りたてにはかなわないけれど、美味しさは損なわれていなかった。令は満足して、一人微笑んだのだが。
目の前の水那さんが、不思議と頬を染めて令のことを見つめていた。
「……なんか、今日の令さん、すごく可愛い。な、なんか一瞬、ムラっときちゃった」
「え、やだ、どうしたの水那さん?」
「そ、それはこっちの台詞よ。令さん、何かあったでしょ、正直に教えて」
「えー、何もないわよ」
「うそーっ、だっていつも凄く格好良い令さんが凄く可愛いのに!」
水那さんが、よく分からないことを言いながら悶えている。
よく分からないけれど、令は笑いながらお弁当を食べる。
温かくて優しい気持ちを同時に、胸に落としながら。
おしまい