「――それじゃあ、栄子の未来を祝して、かんぱーい!!」
「かんぱ~~い」
場所を居酒屋に移し、早速の乾杯。
美月の軽口にも応じず、栄子は最初の一杯を一気に飲み干した。美月、理砂子を前にしての時間は、何倍もの時間を費やしたように栄子を疲労困憊させた。飲まずにやってられるか、という感じだった。
「お、栄子、いい飲みっぷりね」
「ふ……ふふ、私を玩具にして、そんなに楽しいか」
「何よ、栄子のためを思ってだったのに」
「でも、本当に素敵な男の子で良かったわね、栄子ちゃん」
今日の事は、美月と理砂子による発案のものである。
祐麒については親友である美月にずっと相談しており、美月は一人悩む栄子の背中をしきりに押していた。生まれてこの方、彼氏のできたことのない栄子のことを思ってのことだとは分かっていたが、美月の場合は恋愛に関して少し破天荒なところがある。相手が男子高校生だと知っても積極的に関係を進めるようにアドバイスしてくるくらいだ。
そこで、また別の視点での意見が欲しくて、これまた学生時代から付き合いのある理砂子に話を持っていった。
理砂子は常識人的に、さすがに相手が高校生というのはどうかと言ったが、相変わらず美月は強硬に押してくる。理砂子は、やはり祐麒がふざけているか本気ではないのではないか、その辺を心配していた。
それならば、本人を直に確かめればよいと言い出したのは美月だった。美月も、話は聞いているが祐麒自身を知っているわけではないし、男性経験のない栄子がコロっと騙されている危険性も確かに否めないと思ったらしい。
会わせるどとんでもないと拒否した栄子だが、ずっと美月に相談してきた手前、心配してくる二人の願いを無碍に断ることはできなかった。それでも、やはり渋っている栄子に対する理砂子の一言が、最終的には決定的になった。
「あ、分かった。栄子ちゃん、もしかして彼氏を私や美月ちゃんに会わせたくないっていう、焼きもち? かわいい~」
この言葉を聞き、そんなことあるわけがない、いいだろう、いつでも会わせてやる、なんて啖呵を切ってしまったのだ。
「うん、でも、本当に良い子だったね、祐麒くんは」
「もう、栄子ちゃんのこと大好きオーラが出まくりだったものね」
「それにぃ……いつのまに、"えーこちゃん"なんて呼ばれるようになってたのよ?」
「あ、あれは違う、違うんだ」
「何が違うって、"えーこちゃん"?」
この二人の前で見せた大失態だった。
「リサちゃんはさ、どう思った?」
「祐麒くんのこと? 美月ちゃんと同じ。あの子なら、大丈夫かなって。栄子ちゃんのこと幸せにしてくれそう。冗談なんかじゃなく、本当に」
「くっ……人の事だと思って」
栄子はひとりごちて、二杯目のビールをまたも半分ほど一気に呷る。
「……ふふっ」
「な、何がおかしい?」
「本当はさ、そう言って欲しかったんじゃないの?」
「な……っ」
絶句する栄子。
理砂子は穏やかな微笑を浮かべたまま続ける。
「美月ちゃんだけでなく、私も背中を押したなら、栄子ちゃんも安心するでしょう?」
「そ、そんなことは……ない」
刺身の三点盛り、サーモンのカルパッチョ、鶏肉のクリーム煮、そういったものが次々と運ばれてきてテーブルを賑わす。栄子はサーモンを取って食べる。
「とにかくさー、絶対にあれは優良物件だって。栄子、躊躇う意味わかんないって。さっさとモノにしちゃいなよ」
「そんなわけいくかっ。キス以上は、さすがにまずいだろ」
「え、キスしたの、聞いてないけど? 何々、いつ、どこで、どんなふうに?」
「えっ、あっ、しまっ……!」
「なんだぁ、ちゃんとすることはしてるんだ、栄子ちゃん」
迂闊にもほどがある。先日のキスに関しては、まだ美月にも話していなかったのに、ついうっかり口を滑らせてしまった。
嘘だ、冗談だと躱したいところだが、どう考えても無理だろう。美月も理砂子も、話せと目が強要してきている。
「…………」
ごくりと唾を飲みこむ。
思い出す、あの日のキスの感触。
「き……キスしか、していないからね?」
そう前置きをして、栄子は話しはじめた。
終業式の日、祐麒がリリアン女学園にまでやってきてホワイトデーのお返しを持ってきたこと、そのままキスを求めてきたこと、栄子が断っても色々と理由をつけて、とうとうキスせざるをえなくなったこと。ついでに、"えーこちゃん"と呼ばれるに至った経緯などを、結局は詳細につらつらと述べてしまった。
この辺、実は栄子も話したかったというのもある。秘密にはしないといけないけれど、それでも誰かに聞いてほしいという女心か。
「へーっ、やるじゃない、彼。リリアンにまで乗り込んできてね」
「うん、自分の仕事場でキスって、燃えたんじゃない?」
「しかも相手は生徒でしょう? 背徳感たまんないわね、こりゃ」
「わ、私の生徒ではない」
反論も力ない。
というのも、理砂子や美月の言っていることは事実でもあったから。
保健室は栄子の仕事場、言うなれば聖域である。聖域で禁忌を犯す、しかも栄子にとってはファースト・キスである。美月が言うように、背徳感を覚えつつも、言いようのない興奮があったのも確かなのだ。
「……わ、私は変態なのだろうか」
三杯目の日本酒に移行しつつ、栄子は思いを吐き出す。
「そんなことないって、その状況なら私も燃えるわよ。むしろ濡れるわ」
「なんか羨ましいわね、私達、そんなのもう無いものねぇ」
「で、初めてのキスはどうだった、栄子?」
「え……あ、その、気持ち良かった……かな?」
「へぇ、ほぅ、はぁ、なるほど」
「ぐ……」
酔いも回ってきているので、口が軽くなってきている。それに、やっぱり一人で抱えているには限界がある、言いたいのだ。
「本当にキスで終わったの? そこまできたら、彼だって我慢できないでしょう。終業式後、人のいない校舎、二人きりの保健室、初めてのキスもして終わりってことはないんじゃない?」
「それは、本当だ。か、彼はきちんと約束を守って、無理矢理その先に進むようなことはない」
「うーん、でも、それって逆に危険じゃない?」
「な、何がだ?」
「だってさー、憧れの女性に告白して晴れて付き合い始めて、ようやくキスもした。でもその先は卒業までお預けって、まだ一年もあるんだよ? 性欲盛んな男子高校生が我慢できるかな?」
「だ、だが、それを守ってもらわないことには、話にならん」
「栄子がやらせてくれなくて、欲求不満が高まっているところに他の女性に告白されでもしたら、ころっとそっちにとられちゃうかもよ?」
「そ……そうなったら、それまでの男ということだろう」
「ふぅん、いいんだ?」
「良いも何もだな……」
そこで話しが止まる。
ちょうど、店員がおかわりをもってきた。
注がれた四杯目の日本酒に口をつける栄子。
「……それじゃあ、やっぱり私が祐麒くんに手を出しちゃっても構わない、と?」
「ぶふっ!!?」
危うく、口にした日本酒を噴き零しそうになる栄子。
「な、な、何を言っている!?」
口元を手でごしごしと拭いながら、栄子は美月を睨みつける。
「前にも言ったじゃない、見た目可愛くて年下も良いかなって思い始めたって。実際に今日会って、本当に良い子だってわかったし。栄子がその気ないなら、私が口説いたって構わないでしょう?」
「美月、冗談は……」
言いかけたところで、理砂子が手の平で少し強めにテーブルを叩いた。
驚いて目をそちらに向けると。
「えー、ずるい美月ちゃんだけ? 私も、手ぇ出しちゃいたいっ」
「なっ、何を言っている理砂子っ!? 美月はともかく、理砂子は旦那さんも娘さんもいるじゃないか」
バツイチで独身の美月に対し、理砂子は会社員の夫と小学生の娘がいる。名前は確か、暁といったか。
「え~、だってあの人、浮気しているし、もうかれこれ私と5年はエッチしてないの。もう離婚の話があがってくるのも時間の問題の気がするし、私だって若くて可愛い彼氏を作っても、罰はあたらないでしょう?」
「う……生々しいな。確かに、旦那さんとの仲が悪くなっているとは聞いていたけれど、そこまでとは……って、それとこれとは話が別だろう!?」
あまりの展開に、日本酒を飲む手が進む。本来ならゆっくりと味わって飲みたいのだが、もはや味も良く分からない。
「そっか……祐麒くんを誘惑してエッチしちゃえば、栄子ちゃんは祐麒くんのこと諦めてくれるんだ……」
「だ、誰もそんなこと……」
「いっそのこと、二人で誘惑してみる、リサちゃん?」
「どっちの方に誘われるか勝負ってわけ? うふふ、祐麒くん、おっぱい好きかしら?」
「いや、彼はお尻の方が好きだとみたわ」
「え、やだ、そっちのヴァージン捧げちゃうとか?」
「それもアリかもね……」
二人は栄子そっちのけで猥談を続ける。しかも、祐麒を対象として。
「…………っ、そ、そんなの、ダメだ駄目だ、ダメ! ゆ、ゆ、祐麒は、私のモノなんだからなっ!!!!」
我慢できず、とうとう栄子は叫ぶようにして言い、一気に飲み干した日本酒のグラスをテーブルに叩きつけた。
しん、と静かになる場。
やがて。
「……なんだ、やっぱりそうなんじゃない。素直に最初からそう言えばいいのに」
「それが栄子ちゃんだからねぇ。でも、良かった。ちゃんと祐麒くんのこと、想っているのね」
口の端をあげてニヤリとする美月、変わらぬ穏やかな微笑で見つめる理砂子。
そこでようやく、ハメられたと理解する栄子。
「あっ……な、い、いやっ、い、今のはっ…………」
おたおたと、赤面しながら何か言葉を探そうとするが、何も出てこない。
「しかし、"祐麒は私のモノ"かぁ、意外と独占欲強いんだ」
「恋したらそんなものじゃない? うふふ……」
「くっ…………」
何も言うことなど出来ず、一気にグラスを呷るが先ほど飲み干して空になっていることに気付く。
「ああくそっ、店員さん、〆張鶴を追加で!」
やけになったように、ちょうど歩いていた店員に注文する。店員は栄子の剣幕に驚いたようだが、素直に頷いて急ぎ足で去っていく。
「ああ、でも今の栄子見ていると、私ももう一度、恋したいなーってお思ってきちゃった」
「私もー。で、相手は祐麒くんみたいに素直で可愛い男の子がいいー」
「そうね、私たちは一度結婚して子供もいるし、本気じゃなくてもいいものね」
店員がやってきて、栄子の注文した〆張鶴を注ぎ、美月と理砂子のワインとカクテルも置いていく。
「だけど栄子、キスだけで止めるってのは、やっぱり祐麒くんに我慢を強いることになるのよ?」
「あ、でも。一度でもエッチしてその良さを知っちゃったら、もっと我慢できなくなっちゃうかも」
「あぁ、そうか。そう考えると今の方がまだ……って、そうしたら、私たちが相手してあげればいいんじゃない?」
「ぶーーーーーっ!!!?」
美月の発言に、今度こそ噴いた。
「あら。確かにそうすれば、祐麒くんの性欲と、私と美月ちゃんの欲求不満も解消で来て一石二鳥?」
「そ、そんなわけあるかーーーーーっ!?」
「あはは、ジョーダンに決まっているでしょう、ジョーダン」
「ま、全く信用できないぞ、君ら……」
悪酔いしているだけで本気で言うわけがない。そうは思っているものの、一抹の不安を覚える栄子であった。
早い時間から飲み始めたこともあり、また他の二人は子供がいることもあり、二十一時には解散して帰宅した。
部屋着になってベッドに腰をおろし、そのまま横になる。
バッグから携帯を取り出してみると、美月、理砂子からメールが届いている。
『頑張れ、春は目の前よん ヽ(*´∀`)ノオメデト─ッ♪』
『A子ちゃん、祐麒くんなら間違いないと思うよ、いいな、羨ましいな ゚.+:。(・ω・)b゚.+:。グッ』
栄子のことを思ってくれているのは分かるが、簡単にはいかない。
そりゃあ、今日だって栄子の過去の話を聞いても、引いたり笑ったりせず、栄子のことが知れてよかった、もっと好きになったと言われて嬉しくはあったけど、それだけで簡単に先に進めるわけではないのだ。
ふぅ、と酒臭い息を吐き出したところで、タイミングよく今度は祐麒からメールを着信した。
身を起こし、少しだけドキドキしながらメールを開く。いまだに、祐麒からメールが届くとそんな気持ちになる。
メールには、
『今日はありがとうございました、とても楽しかったです。また、お誘いしますので、予定があえば会ってくれると嬉しいです。それでは、また――』
と、祐麒らしく生真面目な文面が書かれていた。
それを読んで栄子は。
「……ふ」
誰にも見せることのない小さな笑みを浮かべるのであった。
おしまい