GWも終わった五月の半ば、暑くもなく寒くもなく、季節的には非常に過ごしやすい時期である。
本日も五月晴れの行楽日和、GWは既に終わったとはいえ、土日で天気が良いともなれば自然と人出は多くなる。街中は賑わい、家族連れや友人同士、あるいはカップルなどでむしろ喧騒に満ち溢れている。
そんな中に、眼鏡に帽子、そしてマスクをした小柄な女性がいた。
「……なんて格好しているんですか、保科先生。花粉症ですか?」
少し呆れた口調で見下ろしているのは、女性の待ち人たる祐麒である。
「何って、君がこんな場所に来たいと言ったからだろう」
こんな場所とは、都内の某所にある大型のショッピングモールである。さすがに大勢の客で大変賑わっている。
「何か、問題でもありました?」
「ここは、うちの生徒達もよく足を運ぶと話に聞いている。もしも、誰かに見られたり、出会ったりでもしたら、まずいだろう」
きょろきょろと、落ち着きなく周囲に目を配っている栄子。あまり不審な動きをした方が目立つと思うのだが。
「これだけ人が沢山いるんだから、仮にいたとしてもまず出会いませんよ」
「そんなの、分からないだろう。なんで、こんな場所に来たいなんて言ったんだ。買い物なら、もっと別の場所でも良いだろう」
「それは、えっと……都内だとここにしかない店があって。ほら、保科先生、エスニック料理が好きだって言ってたじゃないですか。評判の良い店が最近、入ったんですよ」
「そ、そうか……それは確かに魅力的だけど」
「……そんなに不安なら、なんでOKしたんですか。一応、事前に場所はお伝えしましたよね?」
メールで行きたい場所は連絡していたし、栄子も反対しなかったはずだ。今になって思い出したということだろうか。
不思議に思って訊いてみると、栄子は眼鏡の下の目をちらりと祐麒に向け、マスクの舌でもごもごと呟くように言った。
「だ、だって……ひ、久しぶりの、デートだったから……」
その台詞、その表情に、祐麒の心はぶち抜かれる。反則過ぎる。
「あ、ち、違うぞ。別に私が楽しみにしていたわけじゃない。久しぶりのデートで君が浮かれていると思ってだな、要望を無碍にするのも悪いと思って」
言い訳するように早口で言う栄子。
例えそれでも構わない、栄子が祐麒のことを思って受け入れてくれたということなのだから。
祐麒は幸福感を覚えながら、それでも栄子にお願いした。
「帽子と眼鏡はいいですけど、花粉症や風邪じゃないならマスクは外しませんか? せっかく久しぶりに会えたのに、顔が見られないのは残念だし」
「……ま、また、君はそういう恥ずかしいことを直球で言う……」
「え、なんですか?」
「な、なんでもないっ」
「とにかく、帽子と眼鏡でほぼ、分からないと思いますよ? 学校ではいつも白衣も着ていますよね。それなら大丈夫ですよ」
「だ、だが……」
「もし誰かに会ったらすぐに離れますし、誰かに見られていたら親戚とか甥とか言っておけば大丈夫ですって」
「うぅ……くっ、わ、分かった、分かった」
根負けしたか、栄子は肩をすくめるとマスクを取った。
「良かった。ありがとうございます」
「とにかく、いざというときは分かっているわね」
「はい、大丈夫です」
改めて確認してから、ようやくデートは開始した。
そうしていざデートが始まれば、周囲に誰か知っている人がいるかも、なんてことにはなかなか頭が回らないものである。ごく普通にショッピングを楽しみ、栄子のために見つけたエスニック料理の店で食事をしていく。
「――しかし、君は今年、受験生だろう。こんな風に遊んでいて大丈夫なのか?」
帰り道、栄子は改めてそんなことを聞いてきた。
「大丈夫ですよ、遊んでるといっても、月に一回あるかないかじゃないですか。他の日はちゃんと真面目に勉学に励んでいますから」
「そうか。それなら、まあ、良いけれど……」
「いい大学に一発で合格して、保科先生を安心させますから、任せてください」
そうなったらそうなったで、栄子としても色々と考えなくてはならなくなるのだが、だからといって落ちられても困る。大学受験はまだ先だし、その時までにきちんと栄子としても結論を出しておくしかない。
今はただ、適切な距離での付き合いを続けるのみ。
「それじゃあ保科先生、また連絡します」
「ああ……今日は……か……」
「え、なんですか?」
「っ!? な、なな、なんでもない! じゃあ、暗くなる前に気を付けて帰るんだぞ」
「それは保科先生の方ですよ。本当に送らなくて良いんですか?」
「いいから、さっさと帰って勉強してなさい」
「はい、それでは、また」
頭を下げ、去ってゆく祐麒。
栄子もまた自分のマンションへと向かいながら、色々なことを考える。
「保科先生、この前、あそこのショッピングモールに行ってませんでしたか?」
保健室にやってきた生徒に、不意にそんなことを尋ねられたのは週半ばのことだった。
「……ん? 何かしら」
よく分からなかったふりをしつつ、内心では一気に焦りが膨らみ始め、鼓動が速くなっていく。
彼女は一年生で、よく保健室に顔を見せる。運動部に所属しているし、また生来おっちょこちょいなのか、軽い打ち身や擦り傷をこさえてはやってきて、そのたびに栄子とお喋りを楽しんでいく。
傷を治すというより、単に保健室に遊びに来ているのではないかと思いそうになるくらいだ。
「だから、あそこですよ。ほら……」
少女が口にした場所は、まさに祐麒と週末に訪れた場所で、動揺をどうにか表情に出さないよう懸命に努める。
「特に行っていないけれど……見間違いじゃないかしら?」
「そうなのかなぁ、帽子と眼鏡をして、白衣も着ていなかったけれど、保科先生に似ている気がしたんですよぉ。あまりに人が多くて、すぐに見失っちゃったんですけど」
「うーん、でも、行っていないものは行っていないから」
確実に栄子のことを言っていると思われた。
「男性が隣にいたんですよー。保科先生と彼氏だったら、スクープだって思ったんですけどね」
「あら、それは残念ね。そんな風に彼氏が本当にいればいいんだけれどね」
「えーっ、保科先生キレイだし、絶対に彼氏いますよねー」
なんという、危険すれすれの会話か。
薄氷を踏む思いで栄子は言葉を紡いでいる。
どうやら一年生の彼女は、花寺の生徒会長である祐麒の顔も知らないようだったので、それが助けにもなっている。
「そうか、保科先生じゃなかったのかー」
「そういうこと。さ、そろそろ戻りなさい」
「はーい」
微笑で少女を見送りながら。
内心ではバクバクものだった。
「……ああもう、だから、あんな場所は危険だと言ったのに」
「す、すみません」
いきなり栄子から呼び出しをくらったと思われたら、叱られてしまい頭を下げるしかない祐麒。
先日のデートで、生徒の誰かに目撃をされたらしく、そのことについて注意を受けているのだが、こんな風に会ってしまうと余計に危険ではないだろうか。
「そ、それはだな。メールなんかで言ったところで効果が少ないからだ。こういうことはやはりきちんと面と向かって言うべきである。なんでもメールで済ませようとする文化はいただけない」
「そうですか……まあ、俺は保科先生こうして会えたて嬉しいから、全然構わないんですけど」
「なっ…………」
何せ、一か月に一回デートできるかできないかなのが、こうして今月は二回も顔を合わせることが出来たのだから。例え注意叱責のために呼ばれたのだとしても、嬉しいのだ。
「ふ……ふん、調子のいいことを言いおって」
がちゃがちゃと、雑にアイスコーヒーにミルクを入れてまぜる栄子。
リリアンからも花寺からも離れた場所にある喫茶店、確かに知り合いに目撃される可能性は少ないがゼロではない。
栄子はちらちらと周囲を気にしつつ、ちゅうちゅうとミルクティーをストローで啜るのだが、その様がまたなんとも可愛らしく思える。
「……な、何を笑っている? 私は真面目な話をしているのだぞ」
「はい、すみません。今後は誘わないように気を付けます」
と、頭を下げると。
「な……そ、そんな一回見られただけで諦める気なのか君は。私に対する思いはその程度のものだったというのか!? べ、別に私は、で、で~とに誘うのを辞めろとまで言っているわけではないぞ」
栄子が身を乗り出して睨みつけてきた。
「え、あ、いや……この前のデート場所のように危険性の高い場所に誘うことは辞めるようにします、ってことだったんですけど」
「――――っ!!」
栄子の勢いに少し怯みつつも説明すると、途端に栄子は顔を真っ赤にして、そしてゆっくりとテーブルの上に乗り出した体を元の位置に戻した。
「大丈夫です、保科先生をデートに誘うことをやめるつもりはありませんから」
「何が大丈夫だっ。わ、私は別にそんなこと考えていない」
恥ずかしさを隠すつもりか、怒ったように横を向いてしまう栄子だったが、祐麒からしてみれば拗ねてしまったようにしか見えず、可愛さに悶えたくなる。こんなに可愛い年上の女性、反則ではなかろうか。
「あの、保科先生」
「なんだ」
「えーと……ま、また今度、六月にデートしてくれませんか?」
何度デートをしようと、こうして誘いをかけるときはいつも緊張する。拒絶されるのではないかという恐怖が、心の中に生まれる。
栄子はまだ怒っているようで、腕を組んで顔を横に向けたまま。
もしかして本当に怒らせてしまったのかと不安になってくる。心臓の動きが速くなる。
「……今度は、前のような場所はなしだぞ」
「あ……は、はいっ!」
嬉しくて声が大きくなる。犬なら尻尾をさかんに振っているとでも言われそうな感じである。
その後はしばらく他愛もない話をして、適当な時間になったところで喫茶店を出る。
「あ、そうか。保科先生は車なんですよね」
栄子の後を追いかけていくと、駐車場に辿り着く。栄子が運転する車はフェアレディZだ。格好いい。
「途中まで送って行こう。乗るがいい」
「あ、はいっ」
嬉々として助手席に乗り込む。
栄子の運転は、当たり前だが安全運転だった。スポーツカーに乗っているからといって走り屋というわけではないようだ。もっとも、街中を走っていて飛ばせるわけもないし、もっと空いている道なんかに行ったらどうなるのか分からないが。
できれば今度、栄子とドライブにでも行きたいと思ったが、それを口に出して頼むことは出来なかった。図々しすぎるかと思ったし、どうせドライブに行くなら、やはり助手席に栄子を乗せたいと思ったから。
とはいえ、運転する栄子の姿はそれはそれで格好いいとも思う。
「――こっちでいいのか?」
「あ、はい、大丈夫です」
カーナビがついているから道に迷う心配もない。車の中でも誰かに見られたらと思わなくもないが、栄子が口にしない以上、祐麒もせっかくのささやかなドライブデートもどきの雰囲気に水を差したくなかった。
だが、そんな時間も僅かなもので、しばらく走るうちに見慣れた街並みが窓の外を流れるようになっていた。
「……この辺でいいかな」
適当な場所で車を停止させる。祐麒の家の前まで走るわけにはいかないから、少し距離を取った、人通りも少ない場所である。
「はい、ありがとうございます」
名残惜しいと思いながらシートベルトを外し、ドアに手をかける。
「……あ」
栄子が小さな声をあげたような気がして、ドアを開けるのを待って栄子の方を見た。
「えと、どうか、しましたか?」
「いや……」
栄子はシートベルトをしたまま、運転席で腕を組んでいる。
何か言いたそうな雰囲気は感じるのだが、その内容までは分からず困惑する祐麒。しばらく黙っていた物の、さすがに沈黙が気まずくなってきて諦めて外に出ようと、再びドアに手をかける。
「――君は、本当に、その、私のことを好いているのか?」
「え?」
不意に発せられた栄子の言葉に顔を向けてみれば。
栄子は相変わらず真正面を見たまま。
「と、当然じゃないですか」
言葉の意味を理解し、とりあえず気持ちをぶつけてみるが、栄子の表情は変わらない。
「……その割には、あの終業式の日以来、何もしようとしてこないな」
「は……?」
何のことを言っているのかと思ったが、終業式の日の事といえば、もしかしたら初めて栄子としたキスのことだろうか。思い出すだけで嬉しくなり、そして恥ずかしくなって頬が熱くなる。
「あの日はあんなにも執拗に求めてきたくせに、さっぱりそれ以来、何も言ってこないな。やはり、私に対する興味などその程度ということではないのか」
「そんなっ。我慢しているんですよ、俺だってそりゃ、その、出来るならしたいですけれど……そ、それで保科先生に嫌われちゃったら、いやですし」
「口だけなら、なんともいえる」
「そんな、それじゃあどうすれば……って、え、もしかして……していいんですか?」
「そっ、そういうわけじゃない」
「ですよね……」
「……が、その、我慢しすぎて変に爆発されでもしたら困るからな。ちょっとくらいなら、許す」
「本当……ですか?」
「だが、私からはしないぞ」
なぜか偉そうな栄子だったが、祐麒としては思いがけない機会に胸が高鳴る。前にしたことがあるとはいえ二か月も前の事だし、好きな女性とキスすることに緊張がしないわけがない。
夕方、周囲は大分と暗くなってきていて車内も薄暗い。周囲に人の姿はあまりなく、駐車している車に注目している様子もない。
祐麒は運転席のシートに手をかけて身を乗り出し、栄子の前に顔を出す。
「わっ!? ば、馬鹿者、いきなり出てきてびっくりするじゃないか。そ、それに、そんな風に正面から見るなんて……」
小さな栄子の肩に手を置くと、ぴくりと微かに震えた後、栄子はきゅっと目を閉じた。
ゆっくりと近づき、そっと唇を重ねる。
「ん…………はっ……」
口を離すと、どこかとろんとした瞳をした栄子が見つめてくる。
少し顔を引くと、栄子の方が追いかけるようにして顔を近づけてきて、もう一度、唇をあわせる。
舌などを入れるディープなものではない。お互いの唇をちゅっ、ちゅっ、と軽く挟み、ついばみ、撫でるようなキス。
「ふ……あ……」
色っぽい声を漏らして口を離す栄子。
「あ……こ、ここまでだ」
慌てたように祐麒の肩を小さな手で押してくる栄子。強い力ではないが、後退する祐麒。
「ほら、早く行きなさい。もう、外も暗いし」
今さらなことを言う栄子だが、祐麒は素直に従って車から外に出ると、運転席に栄子に向けて頭を下げて歩き出す。
嬉しさで、叫びだしたいのを堪えて。
一方で車中の栄子は。
祐麒の姿が見えなくなると、ハンドルに突っ伏してしまった。無言でしばらくそのままでいたが、やがてゆっくりと顔を上げる。
「ううぅ……わ、私は何をしているのだ……あんな、わざわざ」
顔が熱い。
だけどそれ以上に、触れ合った唇が熱い。
「ち、違う。あれはあくまで、次善の策というやつよ、欲望をもてあまして変なことに走らないようにするための」
誰が聞いているわけでもないが、言い訳せずにはいられない栄子だった。
おしまい