栄子は困っていた。
約束したことだから違えるわけにはいかないが、ではどうすればよいのか。仕方ないので昔からの友人に相談した。
「――え? なんだっけ?」
細川美月は眉をひそめて聞きかえしてきた。
「だ……だから、ダイエットというか、その、だな」
「ダイエットって……栄子がダイエットする必要なんてあるの?」
見た目、栄子は小柄であり太っているようにも見えない。
「その、なんだ……腹回りとか、だな」
言いにくそうに口にする栄子。
「お腹まわり? あ、もしかして福沢クンとエッチのときにお腹がたるんでいることを指摘されたとか?」
「わ、私たちはまだ、そういう関係ではない!」
「え~、まだヤッてないの? それじゃあ、そろそろだから、やっぱりその前にお腹の肉をどうにかしておきたいと?」
「だから、そうではない!」
「じゃあ、なんなのよ」
ファミレスの中、誰も聞いてなどいないというのに、栄子はわざわざテーブルの上に身を乗り出して美月の方に顔を寄せ、小さい声で告白する。
「実は今度……一緒に、その、海へ行くことになって」
「海? って、海水浴?」
無言で頷く栄子。
「ああ、それでお腹まわりがね。へぇ~、でも海ねぇ」
頬杖をつき、ヘビ目をして口の端をあげる美月に、慌てて弁解するように口を開く栄子。
「言っておくが、別に好きで行くわけじゃないぞ。ただ、約束してしまったから……期末と模擬試験で良い成績を収めたら、息抜きに海に行くということを……」
夏休みは受験生にとって勝負の時期でもある、ここでの頑張りが明暗を分ける部分も大きいだろう。だから遊んでいる余裕などない気もするが、休みなく勉強するというのは普通に考えて辛い。
そこで祐麒の方からお願いをしてきたのだ、学校の期末試験と予備校で行われる模擬試験、両方で目標点以上に達することが出来たら、夏休みのどこかで一緒に海に言ってほしいと。
祐麒が提示してきた目標は結構高いものであり、また二つともクリアしないといけない条件でもあったので、栄子も約束を交わしてしまった。そうしたら、なんと見事に両方ともクリアしてしまったというわけだ。
「それだけ、栄子と海に行きたかったってことでしょう。成績もあがったことだし、良い事尽くしじゃない」
「良いことばかりじゃない。だからだな、その、お腹が」
「で、栄子、水着は用意したの?」
「それはだから、ダイエットしてからじゃないと」
「何言ってんのよ、よし、じゃあ丁度いい、今から水着を選びに行きましょう」
「え? ちょっと美月……ちょっ、こらっ!?」
抵抗しようとする栄子だが小柄で力も弱いし、なんだかんだと海に行くことも考えているわけで、結局は美月に引っ張られるまま近くのショッピングビルへと足を踏み入れることになった。
向かってみると、夏を控えて水着売り場も拡大され、大量の新作水着が売り出されていて非常に華やかだ。
「ねえ見てみて、これ良くない?」
水着を手に掲げ、嬉々としている美月を見てため息をつく栄子。
「何よ、ノリが悪いわね」
「美月の水着を選びにきたのか?」
「せっかくだから、私も久しぶりに買いたくなってきちゃった。ねえねえ、私も一緒に連れて行ってくれたりしない?」
「ばっ、馬鹿を言うな!? 美月……美月のスタイルは冗談にならんということを分かっていないのか……美月が隣にいたら、私なんか霞んでしまうじゃないか」
「うーん、恋する男の子なら好きな相手の姿だけが輝いて見えると思うけど、でも栄子も心配性というか、独占欲が強いというか」
「そういうわけではないが」
「ま、何はともあれ試着してみましょう。ほら、ね」
「うわっ、待て、引っ張るなっ」
なんだかんだと美月のペースにはめられてしまう。幾つか気になる水着を手に試着室に入り、試してみる。
水着を新しくするなんて実に何年ぶりのことで、さすがにあまりに若々しいというか、可愛らしいデザインの水着は、身に付けてみて年齢を感じさせられる。また、一緒に試着している美月を目にしても落ち込む。
何せ美月は出るところは出て、引っ込むところは引っ込んでいて、全体的には細身でスラリとしたモデル体型、子持ちの30代半ばとはとても思えないプロポーション。今見ても、お腹にも無駄な肉なんかついてなくて、憎らしいくらいのくびれを持っている。
それに比較してみれば、栄子はボディラインの凹凸が乏しく、お腹まわりには気になる肉がくっついている。同じ女として、この差はなんだと思ってしまう。
「大丈夫だって、そんな栄子が気にするほどお腹だってたぷたぷしていないよ?」
「美月に言われても、説得力がないぞ」
「とにかく、彼を悩殺しちゃうような水着、選びましょ」
「そんな布面積の小さいのはいらん! 適度でいいんだ、適度で」
大胆な水着を着せようとする美月をどうにかおさえ、ほどほどの水着を選んで購入した。しかし、新しい水着を手にすると、それはそれで海が楽しみになってくる。
「で、海はもちろん泊まりでいくのよね? 夜は頑張りなさいよー」
「ひ、日帰りに決まっているだろうが!」
からかってくる美月と別れ、マンションに戻ると改めて購入した水着を取り出して眺めてみる。
デザインもカラーも栄子の好みだし、身に付けてみても悪くはなかった。隣にいたのが美月だから見劣りしているようにも思えたが、決してそんなに悪くないはず。果たしてこの水着姿を見たら祐麒はどのような反応をするだろうか。少し恐ろしくもあり、楽しみでもある。
「…………っ、ち、違う、そうじゃない」
これではまるで、一緒に海に行くことを楽しみにしているみたいではないか。いや、海なんて久しぶりだし楽しみなことは間違いない。ただそれだけだ。一緒に行くことになったのはたまたまであり、イコール楽しみと繋がっているわけではない。
自分にそう言い聞かせながら、水着をしまう。
その表情は、誰かが見たら果たしてなんとコメントしたものだろうか――
海水浴デートの当日、待ち合わせ場所に栄子の操るフェアレディZが颯爽と登場した。いそいそと祐麒が助手席に乗り込むと、軽快に車は走り出す。
「いやぁ、嬉しいです。本当に、保科先生と一緒に海に行けるなんて」
「まあ、約束は約束だからな。違えるようなことはしない」
「わざわざ車まで出していただいて、すみません」
「別にいい。それに、電車なんかで移動した日には、誰かに目撃される危険性もある。そういった意味では車が最適だ」
車内にはBGMが流れている。栄子が好きだといっていたバンドの曲で、栄子に影響を受けて祐麒も聴くようになり、今では同じように好きになっていた。音楽の効果もあるだろうし、車で他の誰かに見られる危険性も少ないせいとあってか、今日の栄子は今までのデートと比べてもリラックスしているように思えた。
しかしその余裕も、いざ海に到着すると消えてしまっていた。
「い、いいか、絶対に期待するなよ。どうせ後悔するに決まっているんだから」
と、何度も祐麒に念押しをして更衣室へと消えて行く栄子。
そんなことを言われたって、期待するに決まっている。祐麒の方はさっさと着替えを済ませ、とりあえず車へと戻る。しばらくすると栄子もやってきたが、残念ながらラッシュガードパーカを羽織っているので、水着姿はお預けとなった。
車から荷物を取り出し、二人並んで砂浜へと向かい、適当な場所にパラソルを立てて荷物を置いて設置完了。
「――さて。それじゃあ、そろそろ海に入りましょうか」
「わ、私はここで荷物を見ているから、楽しんできていいぞ」
そそくさとパラソルの下に入り込んで座りこんでしまう栄子。いくらなんでも、それを許可してしまっては海にきた意味がない。
「保科先生、それじゃ約束が違うじゃないですか。海では一緒に遊ぶ約束をしたじゃないですか」
「う……や、やはり、駄目か?」
「そ、そりゃ、そうですよ」
「…………」
しばし逡巡していた栄子だったが、やがて諦めたのかため息をついて立ち上がり、パーカに手をかける。
下は水着だと分かっているのに、こうして目の前で脱がれるとなんだか興奮する。わずかに恥じらいを見せる表情なんかもまた、たまらない。
そうして祐麒の目の前に現れたのは。
「こ、これで、満足か」
どこか照れの入った栄子が言う。
オフホワイトにブラウンのドット柄の描かれたビキニトップスは、胸元にドットと同じブラウンの大きなリボン。胸は大きくはないが、それでもきちんと谷間が作られている。ボトムスには同じ柄のスカートで、やはり左サイドにリボンがあしらわれている。
「………………」
「な、なんだ。何も言わないのか?」
違う。思わず見惚れていて言葉を失っていたのだ。
祐麒は慌てて口を開く。
「す、すごくよく似合ってます、水着。凄い、可愛いです」
「な……こ、この歳になって可愛いと言われてもな……」
「本当のことですからっ」
力を込めて言うと、栄子は照れたように横を向く。
「本当です、えーこちゃん、綺麗で可愛いです」
「ばっ……なっ……」
「ここなら、他に知っている人がいると思えませんし、いいですよね。そう、名前で呼ばせてくれませんか……?」
いつまでも『先生』と呼んでいたくない。少しでも距離を縮めていきたいと思い、お願いする。
「…………きょ、今日だけ、だぞ」
すると栄子は、渋々といったようではあるが、頷いてくれた。
祐麒は嬉しくて自然と笑顔になる。
「それじゃ、せっかくだから早く海に入りましょうよ、えーこちゃんっ」
「ば、ばかっ、まずは準備体操をだな」
小さな栄子の手を、なるべく自然なフリをして握ると、祐麒は波打ち際を目がけて走り出した。
「――海なんて実に久しぶりだけど、なんだかんだでやはり楽しいものだな」
初めこそ、おそるおそるといった感じの栄子だったが、次第にごく自然に海を楽しむようになっていた。
そんな栄子の姿を見て、祐麒も嬉しくなる。
嬉しい誤算はスカートだ。最初こそ、ビキニでないことを残念がった祐麒だが、そう残念がることでもないことを知った。
スカートの下には当然、ビキニの水着のショーツを穿いているわけだが、それがスカートから覗く下着に見えるのだ。栄子は水着だから気にすることなくはしゃぎ、無防備に見せてくるのだが、祐麒からすればなんとなく下着を見せられているような錯覚に陥る。むしろ、あえてそう見ようとする意識も働いている。
エロい思考を読まれないように気を付けながら、イルカの浮き輪に乗って遊んだり、ビーチボールで遊んだり、無邪気に海を楽しんだ。栄子も久しぶりの海ということで、なんだかんだと弾けられているようで良かった。さすがに、祐麒と同じような体力はなく、休憩を多々挟むような感じではあるが、それはそれで栄子とお喋りできて楽しい。
海の家で焼きそばを買って食べ、ラムネを飲み、アイスを舐める。
とても楽しい時間を過ごす。
一方で栄子は。
お腹の肉は気になったが、幸い、祐麒はさほど気にしていないというか、気が付いていないというかでホッとする。一応、海に行くことが決定してから甘いモノやビールを極力控えたり、筋トレで腹筋をしたり、脂肪を燃焼させるよう努めたのだが、短期間の付け焼刃の努力でどうこうできるものでもなかった。
そんな不安もあったが、調子がいいもので水着姿を褒められると気分がよくなり、遊び始めるとすぐに忘れた。
海で遊ぶなんていつ以来かも覚えていないが、真夏の太陽の下で健康的に波打ち際で遊んでいると、久しぶりに童心に帰れた。
「ほら、えーこちゃん、こっちこっち」
「わ、ちょ、ちょっと待て」
祐麒が少し沖の方まで逃げようとするのを慌てて追いかけるが、栄子の方が背が低く波もあり、思うように進めない。そんな栄子を見て笑っている祐麒、悔しくて追いつこうと進んだ時、急に海が深くなった。
「うわ、わっ!?」
「あ、えーこちゃんっ」
「わぷっ…………あぁ、びっくりした」
事なきをえたが、さすがに少しばかりヒヤリとした。
「え、えーこちゃん、だ、大丈夫……?」
「ん? あ、ああ、問題ない……ん? んんんっ!?」
心配する祐麒の声に顔を上げてみれば、予想以上に近い距離。そこでようやく気が付いた、慌てた栄子は手近なものに掴まったのだが、手近にあったものといえば祐麒しかいなかったわけで、即ち今の栄子は祐麒にしがみついている格好だった。
「うわわっ、ちょ…………って、わああっ!?」
驚いて離れようとしたが、まだ深い場所にいて沈みそうになったので、急いで再び祐麒の首に手をまわしてしがみつく。
「だ、だ、だいじょうぶ、えーこちゃん?」
「あ、ああ、す、すまないな……」
今までもずっと水着姿で遊んでいたのだが、こんな風に肌を触れ合わせることはなかった。こうしていると、思いのほか祐麒の胸が逞しいことに気が付く。見れば、祐麒の顔が赤くなっているが、きっと栄子の顔も同様のはずだ。心臓の動きが速くなる。
(うわ……む、胸、押し付けちゃってる……それに、祐麒の手が腰に……)
体勢的に、胸と胸がくっつきあうような格好。Bカップの栄子の胸でも、充分に祐麒には伝わっていることだろう。そして、栄子を支えるために腰にまわされた祐麒の手。触れられている部分が、やけに熱く感じる。
「は、早く離れるから、もう少しだけ我慢してくれ」
「お、俺は、ずっとこのままでもいいです……」
「ば、馬鹿者、変なことをいうな……わぷっ!?」
真面目な表情で恥しいことを口走ってくる祐麒に赤面しつつ、文句を言おうとしたところで波が顔面にあたり、海水が鼻に入ってしまった。
「けほっ、かはっ、ちょ、痛たたたっ! と、とりあえず戻るぞ」
「は、はい」
そんな感じでしまりなく砂浜の方へ戻ると、疲労と恥ずかしさもあったし、時間的にもほどほどなので、何かおやつでも食べようと海の家に向かうことにした。
祐麒と並んで歩きつつ、ちらちらと上半身に視線を向けてしまうのは先ほどのことがあったから。
(いやいや、何を変に意識しているのだ私は。き、きっと祐麒の方が、私の魅力にドギマギしているに違いない、何せ、あんなに密着してしまったのだからな……)
などと考え、自分自身を落ち着かせようとする。
尚、栄子のこの推測は基本的に的を射ている。
そうして歩いているうちに落ち着きを取り戻し、海の家に近づいた時。
「――――でしょーっ? あんなんであたしたちをナンパしようなんて、何考えてんのか」
「自分たちの顔、鏡で見ろってのよねー」
女子大生くらいの三人組が、賑やかに話しながらすれ違う。
容姿も綺麗な子、可愛い子で、スタイルも非常によい。何より肌の張りや若々しさ、瑞々しさというものが栄子とは段違いだ。
もちろん、海にはそんな女の子は沢山いるのだが、こうして意識してしまうとなんとも肩身が狭くなるような気になってしまう。自分だけならまだ良い、一緒にいる祐麒がどのような目で見られているか。いや、それよりも祐麒がどんな目で自分のことを見ているか。こうして若い女の子たちが大勢いる中で、やっぱり若い子の方が断然良いと思うようになるのではないかという不安。
なんとなく気分が沈み込み、俯きがちになっていると、不意に手を握られた。
え、と思い顔をあげると。
「あ……と、だ、駄目でしたか? その、手、繋ぎたかったんです……」
照れたようにはにかむ祐麒。
「し、しかしだな、私なんかと手を繋いで、それで良いのか……?」
もじもじとしつつ聞きかえすと、祐麒はきょとんとした顔をした。
「え、当たり前じゃないですか。でも、嫌だったら無理にとは……」
「そ、そうか、そんなに手を繋ぎたいか。仕方ないな、特別に、海の家までだからな」
「はいっ」
栄子が言うと、嬉しそうに素直に笑顔を見せる祐麒。
そんな祐麒の表裏のない言葉と態度に、栄子の方もどこか嬉しくなり、サービスしてやろうと少し強めに手を握ってやる。
海の家はさすがに混雑しているが、二人で並んでいる間も手を繋いでいた。
「おじさん、えーと、フランクフルトとコーラ」
「はいよっ。彼女さんの方は?」
「えっ!? わ、私のことかっ!?」
「ん? 他に誰がいるってんだい」
「そ、そうか、ちゃ、ちゃんと彼女に見えるのか……」
「えーこちゃん? まだ迷ってるんですか? でも後ろの人も待ってるから……」
「あ、ああ、わ、私はビー……いや、そ、ソフトクリームお願いします」
「あいよーっ、ちょっくら待ってな」
威勢の良いおっちゃんが手際よく準備をする間、祐麒が金を出す。
「こら、私が払う」
「いや、でもえーこちゃんにはここまで連れてきてもらったし、これくらいは俺が払いますよ」
「そんなこと、子供が気にする必要はない」
教師として、社会人として、生徒に支払いをさせるなんて出来るわけがない。そう思い、栄子が金を取り出そうとすると。
「少しくらい、彼女の前で格好つけさせてくださいよ」
「なっ…………」
と、栄子が固まっている間に支払いを済ませてしまう祐麒。
「くっ、不覚……」
「そんなに悔しがらなくても……それより、遠慮しないでビール頼んで良かったのに」
「う、うるさいっ。酔っぱらって海とか、危ないだろ。帰りの運転だってあるし、あれはつい弾みで言いそうになってしまっただけだ。それに……」
「ん?」
「そ、そふとくりーむのほうが、女らしくて可愛いじゃないか……」
「どうしたんですか、さっきから何か」
「な、なんでもない! そ、それより店のおじさん、わ、私たちのことをカップルと思ったようだな」
「はい、嬉しかったです」
「そうだよな。何せ私みたいな……」
「えーこちゃんみたいに素敵な女性の隣にいるのが俺みたいなガキじゃあ、そんな風に見られないと思っていたから」
祐麒の言葉に、はっと顔をあげる。
特にどうという表情でもなく祐麒は話し続けていて、栄子はちょっと顔を伏せ、ソフトクリームに舌を這わせて舐める。冷たくて甘くて美味しいけれど、日差しが強くて暑いので、早く食べないと溶けてしまう。
「うわっ、もう溶けだした。早いな」
「あ、溶ける前に俺にも一口くださいよ」
「え? ちょ、ちょっと待て」
いきなり顔を寄せてきた祐麒に驚き、慌てて腕を引いたらソフトクリームのアイスの部分がカップからずるりとずれた。
「って、ぎゃあっ!?」
ぼとりと、栄子の胸元に落っこちる。
「つ、冷たいっ! もったいないっ! うわ、わっ」
とりあえず、勿体ないから落ちないように腕で胸を挟みこんで谷間を大きくし、そこにアイスを留めさせる。
「ううぅっ、ど、どうする? 勿体ないから祐麒、食べるか?」
「――え?」
「――あ」
突然のことに、とんでもないことを口走ってしまった。貧乏根性が変な方向で出てしまった。
「ち、違う、今のは違うぞ。物の弾みというやつで……っ」
といいつつ、やはり勿体ないので腕を離すことも出来ない。
「は、はい。いただきますっ」
「え、ちょ、ちょっ……」
真面目な顔をして祐麒は栄子の両肩を掴んだかと思うと、おもむろに顔を屈めて胸に近づけてきた。
そして。
「――――っ!!」
ぺろりと、谷間に残っていたアイスに舌を這わせてきた。
祐麒の舌が栄子の肌をざらりと舐め、ゾクゾクとするような感覚が栄子を襲う。
「お、美味しいです、えーこちゃん。もう一口……」
「あっ……って、ば、この馬鹿者――――っ!!!」
「あがぁっ!?」
更に口を近づけてきたところ、さすがに我に返った栄子が強烈な肘鉄をお見舞いし、祐麒は砂浜に崩れ落ちる。
「こ、この、破廉恥なやつめ。公衆の面前で、とんでもないことするな」
「す、すいません、つい……」
「ったく……あぁ、べとべとだ。うぅ、くそっ、私のそふとくりーむが……」
肌についたアイスはすぐに溶けてしまし、栄子は名残惜しそうに呟く。
「あ、俺、もう一度買ってきますよ」
「いや、別にそこまでしなくても」
「一口食べたら、俺も食べたくなっちゃったんですって。あ、これ持っててもらえます?」
と、祐麒にフランクフルトの皿とコーラを手渡される。
それじゃ、といって走り出そうとする祐麒に、慌てて声をかける。
「はい、なんです?」
「あ……その」
言いかけてやめて、でもやっぱり口を開く。
「えと……ば、ばにらとちょこの、みっくすで頼む……」
口にしてから急激に恥ずかしくなり、でも目をそらしたら負けだと思って祐麒のことを見据える。
顔が熱くなってくる。
「な、なんだ、文句でもあるのか?」
「わかりました、ミックスですね、すぐに買ってきますから!」
凄い勢いで砂浜の上を走り出した。
なんだどうしたと思って走る背中を見ていると、しばらく先で祐麒が叫んだ。
「えーこちゃん…………かわいすぎるだろーーーーーーーーーーっ!!!!」
と。
栄子の耳にもはっきり届くくらいに。
「なっ……ば、馬鹿か、アイツは」
そう小声で言いつつ。
別に悪い気はしない栄子であった。
十分に遊んでの帰り道。
車中には気怠い空気が漂う。
「絶対に寝るなよ。私を一人で運転させるような男は、願い下げだからな」
「えーこちゃんの車の助手席にいたら、嬉しくて寝るわけないじゃないですか。勿体ないですもん」
「ふん」
音楽を流しつつ、会話はあまりせずに車を走らせる。助手席の祐麒は終始穏やかな笑みを浮かべていて、確かに眠そうな素振りは見せない。運転している栄子の方が疲労から眠気を少し覚えているのに、これが若さというやつか。
「あの、今日は楽しかったですか?」
おそるおそる、問いかけてくる祐麒。
「私の事より、君の方だろう。受験勉強の息抜き、骨休みに来たんだから」
「俺は、えーこちゃんと一緒ならどこでも楽しいですよ。でも、今日は水着姿も見られたから、凄く楽しかったです」
「わ、私なんかの水着姿でか? 海にはたくさん、若くて綺麗な女の子がいたぞ」
「だから、俺はえーこちゃんだけですから」
「そ、そうか」
なんだか祐麒なら確実にそう答えるだろうと思っていたのに尋ねてしまったのは、その答えが聞きたかったからなのだろうか。いや違う、でも口にして言われると嬉しくはなる。
「それに、えーこちゃんが楽んでくれたかが重要ですから……」
「ま、まあまあ、楽しかったぞ」
「本当ですか? よかった」
「…………」
「…………」
「……嘘だ。本当は違う」
「えっ!?」
「…………凄く、楽しかった」
やっぱり嘘はつけず、そう言う。
タイミング悪く信号につかまり停車してしまったので、止まった車内で祐麒がまじまじと見つめてくる。栄子はその視線から腕で顔を隠すようにしつつ、目だけで祐麒のことを見る。
「はい、俺も凄く楽しかったです!」
「……と、ところで、いつも私と会う時は親に何て言っているんだ?」
「無難に、友達と会うって言ってます。今日も同じです」
「そうか……その……なんだ……友達と夕飯を食べて帰るというのは、アリか?」
「え?」
「お腹も空いたし、今日は楽しかったし、それはなんだかんだいって誘ってくれたからだし、そのお礼もかねてだな……」
「アリですっ、はい、全然問題ありません! いくらでもつきあいますっ!」
「そ、そうか。だが、高校生なんだし8時までには帰すぞ」
「なんでもいいですよ、少しでも長く一緒に居られるなら」
信号が青になり、アクセルを踏む。
浮かれている祐麒は、エンジン音に紛れた栄子の小さな、小さな呟きを聞き逃す。
「わ……私も、もう少しだけなら、一緒に居てやってもいいし…………」
フェアレディZは、あくまで安全運転で街の中を走っていった。
尚、栄子が翌日、筋肉痛に陥ったことは言うまでもない。
おしまい