夏休みも終わって二学期が始まった。
受験生としては勝負の夏を過ぎ、この秋はラストスパートに向けた大事な中盤とでもいったところか。そうなれば当然、栄子と祐麒が会う時間など限られるのは当たり前で、栄子だってそんなことは百も承知なわけだが。
「何よー、せっかくお膳立てしてあげたのに浴衣エッチしないなんて、つまんないわね」
「美月は何を期待していたんだ……」
「え、だから、浴衣えっち」
「素で返すな」
なぜか夏祭りの一件を取って、ああだこうだと言い寄ってくる友人。
「これから受験に向けて遊ぶ暇などない」
「だから、月一くらい会うならいいでしょ。それも長時間じゃなければ」
「駄目だ。というか、なんで美月の方がそんなにプッシュする」
「だって面白いか……ああ嘘だって。栄子のためでしょー」
「本気に聞こえたが……」
栄子はため息をつきながらも、結局は美月の意見に耳を傾けてしまう自分自身にも腹立たしくなる。
受験勉強の邪魔をする気はない。
メールだってやり取りをしているし、それ以上のことは求めるつもりもない。
だというのに。
「とりあえずさ、リリアンだったら夏休みあけてそろそろ学園祭の準備が動き出すんじゃない? 祐麒くん、花寺学院の生徒会長さんでしょう、リリアンに来ることもあるんじゃないの。その時を狙ってみたら」
「そうか、その手があったか。だが、受験の年で手伝いに来るだろうか?」
「栄子が、来てほしいって言えば来てくれるに決まってるじゃない」
「だから、そんなこと言えないに決まっているだろう」
「来るかどうか、訊いてみるくらいはしてもいいんじゃない?」
「そ、それはそうだな……って」
なんだかんだと話に乗り、気が付いて赤面する。
こんなはずではないのにと、歯噛みする。
一方で美月にしてみれば、真面目な顔をして考える栄子がおかしい。わざわざ来るのかどうか尋ねたりしたら、相手は栄子が来てほしいと思っていると考えるかもしれないのに。その辺に気が回らないというか、思いもつかないのだろう。
話している姿からは、来てほしいという気持ちが表に出てきている。祐麒に確認するメールの本文にも、その感情が文章として載ってしまう可能性は高いとみた。
まあ、そんなこと聞かなくたってリリアン女学園に堂々と来ることができる機会、話しを聞く限り祐麒が逃すとは思えなかったが。
「……ま、とにかく頑張りなさいな」
美月はそうして、友人の恋を応援する。
☆
学園祭に向けての準備が徐々に始まり出したが、時間的にはまだ余裕があるので、生徒達も現時点ではさほど忙しないというわけではない。それでも、演劇や演奏など、準備に時間がかかる演目を行う生徒達は、早い時期から力を入れ始める。
毎年のことだが、こういった祭りの前の空気というものが栄子は好きだ。いや、おそらく多くの人が好きだろう。皆と一緒に一つの目標に向かって力を合わせる。学生であるなら尚更、楽しいに違いない。栄子だって学生の頃に組んでいた軽音部で、学園祭ライブに向けての曲作り、作詞、曲合わせなど、楽しんでいたものだ。今となっては、少しばかり恥ずかしくもあるが。
保健室にやってくる生徒も増えて忙しくなるわけだが、皆一生懸命でわざと怪我をしたり体調を崩したりするわけでなし、それを責めることは出来ない。
しかし。
「……なんで、ここに君がいるのかしら?」
養護教諭モードになった栄子の前にいるのは、祐麒だった。菜々に付き添われて、先ほど保健室までやってきたのだ。
「いえ、ちょっと体調が悪くて……」
祐麒のことを見据えつつ、しばらく前、美月に言われて学園祭の準備について祐麒とメールで連絡し合った内容を思い出す。
栄『今年の学園祭では、手伝いでまたリリアンに来たりするのか?』
祐『はい、今年もまた花寺の生徒会として山百合会のお手伝いで参加させていただくことになりました。生徒会長は既に隠居した身なので、あまりでしゃばり過ぎないように注意します』
栄『そうか。今年は、わざと怪我したりして保健室に来るなんてことしないように』
祐『分かってます。困らせるようなことはしません……でも、会えたら嬉しいです』
そのような内容だ。
だから、今年はまさか来ることないだろうと思っていたのに。
「……疲労からくる軽い貧血ね。少し、ベッドで横になって休んでいなさい」
診察して結論を下す。
実際、祐麒の顔色は悪くて青ざめており、元気もなかった。
「有馬さん、彼は少しここで休ませていくから、もう戻ってもいいわよ」
「はい、それではよろしくお願いいたします」
菜々は礼儀正しく頭を下げ、保健室を出て行った。
「はい、君もさっさと休んでいなさい。忙しいんだから」
忙しいのは事実だが、祐麒が近くにいると落ち着かないというのも事実だった。栄子は祐麒をベッドで休ませると、机に向かい書類仕事を手にかけるべくペンを取る。
「――すみません、栄子先生、いらっしゃいますか」
「はい、どうしたの?」
「ちょっと部活中に衝突しちゃって」
書類は置いておいて、とりあえず生徒の応対をする。
この日はその後も生徒達の来訪が途切れることなく続いた。暇な日はほとんど人が来ない時もあるのだが、こうして集中する時はやたら集中するものだ。それでも、重複してやってこないだけマシだといえる。
何人もの生徒の治療を行い、話を聞き、結局は殆ど書類に手がつかないまま夕方を迎えてしまった。
最後に残っていた生徒を送りだしてようやく一息つく。時計を確認し、さすがにこの時間になって、今からやってくる生徒はいないだろうと思うし、いないことを願う。
「……やれやれ、今日は疲れたな」
右手で左の肩の凝りをほぐし、息を吐き出す。
「お疲れ様です、保科先生」
「うわっ!?」
いきなり後ろから肩を掴まれ、驚いて飛び退る。
「そ、そんなに驚かなくても。ちょっと、肩を揉んであげようとしてあげただけなんですけど」
「いや、すっかり忘れていたから……そもそも、いきなり肩を掴むな」
「わ、忘れられていたんですか。ちょっとショックかも」
「仕方ないだろう、忙しかったんだから」
肩をぐりぐりと回し、首を左右に倒して筋を伸ばしていたが、こういう姿を見せると年寄くさいだろうかとふと思い、咳払いをしつつ動かすのをやめる。
「大体、今回は来ないと言っていたじゃないか」
「わざと怪我してまで来たりはしないって言ったんですよ。実際、勉強でちょっと寝不足のところ、肉体的なお手伝いしたせいで、気分悪くなっちゃって」
「わざとでないのなら、尚更悪い。本当に具合が悪いということだろう。心配させるな」
「え、心配、してくれてたんですか?」
「当たり前だろう、それは養護教諭として、生徒の体調を気遣うのは当然のことだ」
嬉しそうな顔をした祐麒を見て、取り繕うようにそのようなことを口にする。本当のことではあるが、祐麒だから心配した部分がないわけではない。
「でもまあ、良くなったのならそろそろ戻りなさい。下校時刻も迫って……」
時計を改めて見て、祐麒を送ろうかと思っていると。
「え、えーこちゃん」
「のわあっ!!?」
「ぐふっ!!?」
いきなり祐麒が背後から抱きついてきたので、慌て驚いた栄子は咄嗟に肘打ちをかました。モロに鳩尾にくらってしまった祐麒は、その場に力なく膝をつく。
「き、君が悪いんだぞ。急に、発情して」
祐麒から距離を取りつつ、栄子は言う。まさか、祐麒が栄子に断りもなく襲い掛かってくるなんて思っていただけに、少しショックを受けている。
「そ、そんなこと言ったって……せ、先生が」
よろよろと立ち上がりながら、祐麒が栄子を見つめてくる。
「わ、私がなんだ。人のせいにしようというのか」
「だって先生が、あまりにエッチな格好してるから」
「なっ!? ど、どこがだ、失礼なっ」
「どこがって、全部ですよっ。そんな、白衣にレザーのショートパンツ+黒タイツ、おまけに今日は、眼鏡までかけて」
「なっ……そ、そうなのか? だ、だが、眼鏡は関係なくないか……」
祐麒の発言に動揺する栄子。
今まで、自分の格好が扇情的だなんて思っていなかったのだ。
「眼鏡だからこそ、余計に引き立つんじゃないですか……って、すみません、落ち着いてきました。何を言ったところで、俺が悪いことに変わりはないですね、すみません」
先ほどの興奮もどこへやら、冷静になった祐麒は逆に落ち込み始めた。そんな姿を見せられると、栄子の方もなんだか自分が少しだけ悪いような気がしてくる。
「じゃあ、俺そろそろ戻りますね……って、一人じゃ戻れないのか。えーと、それじゃあ誰かを呼んで……」
「ま、待て」
戻ろうとする祐麒を呼びとめる。
「はい、なんですか」
「その……ちょ、ちょっとくらいなら、いいぞ」
「何が…………って、もしかして」
「あ、ああ……って、ちょ、ちょっと待て、待て」
察して早速接近してきた祐麒を、慌てて押しとどめる。
「い、いきなり、危ないだろうが。まったく」
ぶつぶつ呟きながら栄子は保健室の扉に鍵をかけ、さらに窓にカーテンをかける。
「見られたらまずいからな。これで、思う存分できるぞ」
「お、思う存分……」
「馬鹿っ、へ、変なことは禁止だからな」
「えと、あの、じゃあ、キスは……」
「き、キスまでだったら、まあ、許しても良い」
言いながら、ごくりと唾を飲む。キスなら、受験勉強の息抜きだからと、毎度のような言い訳を内心で呟く。もはや、この言い訳によって自分自身を許してしまっていることに栄子は気が付いていない。
許可を得て、祐麒が正面までやってくる。そのまま栄子の背中に腕をまわし、抱きしめてくる。
「あ…………」
温かく包まれる感じが心地よい。
祐麒のワイシャツをぎゅっと握り、顔をあげる。祐麒と目があい、そっと目を閉じる。
次の瞬間、これではなるで自分がキスされるのを待ち焦がれているみたいじゃないかと思い、慌てて顔を伏せる。
「えーこちゃん、顔、上げてください……」
祐麒に頭を撫でられ、そう言われる。
だが、それでも意地を張ったように俯いたままでいると。
頭頂部に祐麒の唇が押し付けられるのを感じた。
「こ、こらっ、何をする……」
慌てて上を向くと、祐麒の目につかまった。
「キス、してもいいですか……?」
「ば、馬鹿、そういうことをわざわざ口に出して聞くな……」
祐麒の顔が近づいてきて、目を閉じる。
重ねられる唇。
「んっ…………は……ぁ……」
夏祭りの日以来の、久しぶりの感触を堪能する。
やばい、キスってなんで、こんな唇を重ねるだけの行為がこんなにも気持ちが良いのだろうか。
祐麒の唇に、下唇をつままれる。
「ふぁっ…………ん」
おそるおそる、祐麒の舌が栄子の唇を舐めてくる。更に今日は積極的で前歯をなぞってきて、そのまま栄子の口内にまで侵入してきた。
「………………っ、ば、馬鹿者っ、調子に乗るなっ!!」
懸命に力を振り絞り、祐麒の胸をドンと押して体を離す。
「誰が、舌を入れていいといった」
胸の前で腕を組み、精一杯の力をこめて睨みつけると、祐麒もしまったという表情をして動きを止める。
「す、すみません、つい」
「つい、じゃない。ついでやられたらたまったもんじゃない、獣か君は。まったく、ちょっと甘い顔をしたらすぐこれだ」
「だから、謝ったら良いというものではないだろう。まったく、今日はもう帰れ」
「そんな、え」
「ああ、とりえず口を拭け。誰かに見られたらまずいからな」
栄子の口紅が付着してしまった唇を慌てて拭う祐麒。ちょうどタイミングよく菜々が祐麒の様子を見るため再びやってきたので、保健室から追い出してしまう。
祐麒の姿が菜々とともに保健室から消えたところで、栄子はどさっと倒れこむように椅子に腰を下ろす。
「……まったく、舌とか…………」
文句を言った栄子だが、実は舌で口の中を舐められた瞬間、ぞくぞくするような気持ちよさを感じてしまい、怖くなって慌てて距離を取ったのだ。そんなことを悟られたくなくて、わざと強気の態度で接していたのだが、祐麒がいなくなったところで気が抜けたのだ。
思い出し、赤面し、首を振る。
「違う、私は別に、そんな……」
誰もいないのに、言い訳のようなことを口にする。
たかがキス程度でと、美月に知られてら笑われてしまうかもしれないが、キスとは危険な魔法のようなものだと思う栄子。
だが、そんな思いすら美月は笑い飛ばすだろう。
キスが魔法なのではない、栄子が陥っているのは恋という魔法なのだと。
おしまい