二月が近づくと一気にバレンタインムードが高まってくる。今年のバレンタインはどのようなチョコレートを上げようか、交際しているとはいえ世間にあからさまにできるわけでもないし、凝ったものを手作りできる腕があるわけでもないし、やはり適度なものを購入してあげるべきだろうと結論付ける。
「……ダメよ、そんなの」
「全然なってないわね、まったく」
「なぜ、理砂子と美月に駄目だしされねばならんのだ」
年末以来、久々に顔を合わせた二人の友人に話すなり駄目だしされてむくれる栄子。
「手作りしてあげなさいよ、あとプレゼントなんかも一緒に渡すとか」
「そ、それではまるで本命みたいではないか」
「だって、本命でしょ?」
「だ……大体、私は溶かして固めるくらいしかできん」
「あら、だったら私達で一緒に作りましょうよ。今年はチョコレートケーキを作ろうと思っているの」
「いいわね、それ」
専業主婦で料理、菓子作りのスキルも高い理砂子の提案に、素直に頷く美月。確かに、その案に乗れば栄子も手作りチョコレートを渡すことができるが、そんなことをしたら祐麒が調子に乗らないだろうか。栄子から手渡され、無邪気に喜ぶ祐麒の姿が目に浮かぶようだ。
「……栄子、何ニヤニヤしているの?」
「に、にやついてなどいない!」
「あ~、栄子ちゃん可愛くて和むわぁ。えっと、それじゃあとりあえずどんなケーキを作るか本でも見ながら相談しましょうか」
いつものようにからかわれながらも、結局は二人に引っ張られるようにしてバレンタインの準備に入る。自分からでは恥ずかしくてあまり動けない栄子に対し、こうして背中を押してくれているのだと分かるから強く文句も言えない。
「福沢くん、喜んでくれるかしら」
「チョコレートと裸エプロンで迫る作戦だから大丈夫でしょ」
「って、お前たちも渡すつもりかっ!?」
どこまで本気なのか分からない友人達に、やっぱり文句を言いたくなる栄子だった。
バレンタインを翌週に控え、学園内は微妙に雰囲気が変わってきたように感じられた。今や女の子同士でチョコを贈るなんて当たり前、ましてやリリアン女学園ともなれば大好きなお姉さま、憧れの先輩、そして薔薇様達にチョコを渡すべく、朝から緊張したり気合いが入り過ぎていたり、見ている方からしてみればその辺が可愛らしくも思えてくるのだ。
「栄子先生は、どんなチョコレートが好きですか?」
「あら、私にもくれるの? それとも練習台かしら?」
「いやですよー、本命に決まっているじゃないですか」
「それは光栄ね」
「その代わりホワイトデーは、倍返しを期待していますから」
「調子がいいわね、まったく」
これも毎年恒例のこと、物好きな生徒が何人か栄子にもチョコレートを渡しに保健室までやってきてくれる。
「ちなみに栄子先生は、誰か本命の人にあげるんですか?」
「それは秘密よ」
「えー、なんでですか、教えてくれてもいいじゃないですかー」
「ほら、保健室は遊ぶ場所じゃないんだから、そろそろ戻りなさい」
「はーい、ちぇーっ」
残念そうに退室する生徒を見送り苦笑する。
そんなこんなで、バレンタインの雰囲気を少しばかり肌に感じながら一日の仕事を終えて帰宅したところから、栄子の活動は開始された。
「……それじゃあ、作るか」
一人暮らしのたいして立派でもないキッチンで、チョコレートケーキの材料を前にして宣言するように口にする。
美月たちに指導してもらい、どうにか自力でもレシピ通りに作ることはできるようになり、これからまさに実践しようというところ。そう、仕事も忙しい栄子としては、翌週のバレンタイン当日ではなくこの週末のデートで渡すことにしていた。
当日に渡せと言い張ってくる美月と理砂子だったが、こればかりは仕方ないではないか、忙しくてとても前日に準備なんかできそうになかったのだから。週の前半に頑張って仕事をこなすことで、今日は早めに上がることができ、それによって夜の時間を作ってチョコレートを作ることができる。既製品のチョコを購入して渡すだけなら、今日の夜にちょっと時間を作って渡すことができたというのに。
「まあ、やるからには頑張るか。不器用だと思われるのも癪だしな」
レシピを広げ、栄子はいざチョコレートケーキ作りに奮戦し始めるのであった。
「――――あ」
「ん、どうかしましたか?」
急に動きを止めた栄子を見て、祐麒が首を傾げている。
週末のデート、映画を観て、ショッピングをして、食事をして、それまで渡そうと思ってなかなか渡せなかったチョコレートを、このままではデートも終わってしまうとようやく取り出そうとして気が付いた。
持ってくるのを忘れたことを。
それもこれも昨夜、レシピ通りに作ってうまくいったケーキを落として駄目にしてしまい、材料が足りなくなり、仕方なく近所のコンビニでチョコレートを買い、溶かして固め、余っていた材料で軽くデコレーションしてと、余計な時間を使って寝不足になってしまったせいだ。
「い、いや……」
口ごもる。
とりあえず今日は諦めて、また来週にするという手もあるが、そうするとバレンタインデーを過ぎてしまう。
「す、すまん。実はその、今日、チョコレートを渡そうと思っていたのだが、家に忘れてしまったようで」
「え、チョコレート、くれるんですか?」
「あ、当たり前だろう」
「そっか、いや、実は諦めていたんですけれど……そうか、当たり前、なんですね」
「馬鹿者、変に言葉尻をとらえるな。とにかくだな、そういうわけで申し訳ないんだが」
ここで、ちらと祐麒を見上げる。
「あぁ、はい」
「すまんが、家まで取りに来てくれないか? もちろん、帰りは送り届けるから」
「え、えーこちゃんの家に、いいんですか?」
「今から取りに行って戻ってくるわけにもいかんだろう。私の落ち度だしな、仕方ない」
「はい、行きます、是非に」
「先に言っておくが、変な期待をするなよ?」
「分かってますよ。でも、嬉しいです」
にこにこと表情が明るいのは、栄子からチョコレートを貰えるからなのか、それとも栄子の部屋に入れるからなのか、よくわからなかった。
電車を乗り継ぎ、駅からマンションへと向かう。住所を教えたところで、祐麒が変に付きまとってくるような人間でないことくらいは、さすがに理解している。
「へえ、この辺に住んでいるんですね……ぶぇっくしっ!」
「大丈夫か? 冷えるからな、今日は」
「そうですね」
朝のニュースでは今年一番の寒さとも言っていたくらいだ。
「…………部屋で、温かいコーヒーでも飲んでいくか?」
「え? え、それって」
「さすがにこの寒さだしな、私の落ち度でわざわざここまで来てもらったんだ、少しくらい温まっていくがいい」
「あ、は、はいっ」
「あ、だけど、変なこと考えるなよっ?」
「だ、大丈夫ですよ。嫌われたくないですからっ」
そんなこんなでマンションに近づいてゆく。
「――よし、このコンビニでちょっと時間を潰していてくれ」
「え、なんでですか」
「なんでって、それくらい分かるだろう。突然のことだからな、少し部屋を整理する……そうだな、二十分くらいでいい」
少し先にあるマンションを指差し、部屋の番号を教える。
「いいか、くれぐれも早く来たりするなよ。来ても、開けないからな」
祐麒を指差して牽制してから素早くマンションに向かい、自室へと入って明かりをつける。室内は決して物凄く汚れているわけではないけれど、それでも食べ終えたコンビニ弁当やら、空になったペットボトルやら、読みかけの本や雑誌やらが適度に散らばっている。それらのものを手早くゴミ袋に投げ捨てたり纏めたりして、室内干しにしてあった下着類も取り込んでしまい、コロコロで細かな汚れを取り、テーブルの上を布巾で拭く。そんなことをしているだけで、あっという間に二十分など過ぎてゆく。
「く、しまった、三十分と言っておくべきだったか……」
焦りながら部屋を片付ける栄子だったが、二十分を過ぎても祐麒がやってこない。二十五分が過ぎ、どうにか室内も綺麗に片付き、エアコンも十分に効いて室内も暖まった。
「どうした? まさか、帰ったなんてことは」
訝しんでいると、ちょうどタイミングよくインターホンが鳴った。少し余裕を持ってやってきただけのようだ。
オートロックを解除し、そわそわと落ち着かない気分で待つ。考えてもみれば、この部屋に異性を入れるなど初めてのことだった。
「べ、別に変なことをするわけでもないし、意識することなどない」
ことさらに口に出して気を落ちつけようとするも、うまくいかない。そうこうしているうちに外の廊下から徐々に足音が大きくなってきて、つられるように栄子の鼓動も心なしか大きくなっていくように思えてくる。
扉の前で足音が消え、かわりにノックの音が響く。栄子はごく平常心を保つよう意識しながらドアを開け、祐麒を中へと招き入れた。
「お邪魔します」
「たいしたものはないからな。それから、勝手に部屋の中を漁ったりするなよ」
「しませんよ、そんなこと! でも、ここがえーこちゃんの部屋なんですね……」
「キョロキョロしていないで、さっさとその辺にでも座れ」
コートを脱いだ祐麒は、栄子に指示されたクッションに素直に腰を下ろした。
「よし。ええと、コーヒーでいいな?」
「あ、はい、お構いなく」
「ちょっと待っていろ、これから…………わぁっ!?」
「え、ど、どうかしましたかっ?」
「いや、な、なんでもないっ。す、座っていていいから、こっちに来るな」
「そう言われましても、心配じゃないですか」
制止しようとしたが遅く、祐麒は栄子が立っているキッチンの中にまでやってきてしまった。そして目にする光景は。
「ん? どうしたんですか、それが何か」
「な、なんでもない、ただのゴミだ」
慌てて片づけようと栄子が手を伸ばしたのは、落として駄目にしてしまったチョコレートケーキの残骸だった。室内の片づけにばかり気がいってしまい、キッチンにコレが残っていたのをすっかり忘れてしまっていたのだ。
祐麒から隠そうと体で覆うようにしてケーキを捨てようとした栄子だったが、その前に祐麒に腕を掴まれた。
「ちょっと待って、えーこちゃん。それってもしかして……」
「だから、ゴミだゴミ、あっち行ってろ」
「もしかしてそれ、チョコレートじゃないですか? バレンタインの」
「失敗したら、ただのゴミだ」
「ゴミなんかじゃないですよ」
思いがけず強い力で引かれ、場所をとってかわられてしまう。
「えーこちゃん。今日、来たとき目が赤くて寝不足に見えたけれど、もしかして」
「べ、別に、ケーキを作っていて夜遅くなんかなったわけじゃないぞ。ちゃんと、日付がかわる前に作り終えていたんだからなっ。ただ、落としてしまって……」
「俺、これが食べたいです」
「な、何を言っている。そんなの、食べさせるわけにいかないだろう」
「だって、別に落としただけで失敗したわけじゃないんですよね。俺のために、夜遅くまで作ってくれたって思うと凄く嬉しくて……」
「だ、だが」
「あ、もちろん、今日渡そうとしてくれていたのもいただきますよ。二つももらえると思うと、お得な気分ですね」
そこまで言われて、さすがに栄子も断りきれなくなった。
「わ……わかった。じゃあ、これは私が持っていくから、君はコーヒーを用意してくれるか?」
「了解です」
嬉しそうに返事をして、栄子の指示に従って食器やコーヒーを取り出して準備し始める祐麒。栄子は無残な形になっているケーキに向かい、汚れてしまった部分をそぎ落とし、少しでも見栄えがよくなるようにしようとしたが、どう見たところで無様な形にしかならなかった。
「本当に、食べるのか?」
「もちろんですよ。あ、俺もお湯を注いだら持っていきますので、先に戻っていてください」
ぐちゃっとなったケーキの皿を手にして戻り、ついでに渡すはずだったチョコレートも取り出して部屋に戻り座る。
少し遅れて祐麒がコーヒーカップを両手に持って現れ、テーブルの上にコーヒーを置いてから栄子の隣に腰を下ろした。
肩が触れるか触れないかという距離に座られ、ドキッとする。座椅子がないのでベッドを背もたれ代わりにしており、そういう意味では並んで座っても不思議ではないが、自分が後から座るならば祐麒の隣にはいかなかった。かといって今から立ち上がって移動するのもあからさますぎるので、何も気にしてない素振りでコーヒーに手を伸ばす。
「あ、えーこちゃ」
「熱っ!?」
「ああ、淹れたばっかりだから……」
「そ、そういうことは先に言え」
唇を指でおさえる栄子を横目に、祐麒は見た目の悪いケーキにフォークをのばし、欠片を口に運んだ。
咀嚼し呑み込む様を、栄子は横目でうかがう。
「……美味しい! これ、凄く美味いです」
「そ、そうか? 無理しなくていいんだぞ」
「なんで無理しなくちゃいけないんですか。本当に美味しいです、はい」
と、続けて二口目、三口目と頬張っていく祐麒。その表情は明るく笑顔に満ちており、嘘をついているようには見えなかった。
「ほら、えーこちゃんも食べてみたらどうですか? あーんしてください」
と、フォークにケーキをさして栄子に差し出してくる祐麒。
「そ、そんな恥ずかしい真似、出来るわけないだろう」
「別に誰も見ていませんよ」
「誰も見ていないからといってだな」
「ほら、食べてみてくださいよ。あーん」
更に口に近づけられるケーキ。
ケーキを見て、祐麒を横目で見て、目を閉じ、恥ずかしそうに赤くなりながらも小さな口を開ける栄子。
「…………」
「どうですか」
「……美味しい。まあ、当然だがな」
「それじゃあ、もう一口どうぞ」
「あ、ああ、あー……」
口の中に入れられる甘いチョコレートケーキは、味見した時よりも心なしか美味しくなっているような気がした。
そして、祐麒に美味しいと褒められて、思っていた以上に嬉しい自分がいることに驚く。
慣れないお菓子作りに精を出し、その成果として渡すはずだったはずが落として駄目にしてしまい、諦めていたケーキ。
片していなかったのはたまたまだが、そのケーキを食べたいと言い、美味しいと食べてくれる姿をれしいと思っているのだ。
ケーキを食べ終えたところで、用意していたチョコレートを取り出して渡す。こちらはきちんとラッピングもしているものだ。
「やった、手作りチョコだ」
「といっても、溶かして固めただけだぞ」
「だけど、デコレートもしてあるじゃないですか」
「そんな大層なモノじゃない」
「それでも嬉しいです。だって、俺のために作ってくれたんですよね」
「他に誰がいる」
「えへへ」
嬉しそうに笑う祐麒の顔は、年齢に応じて幼く見える。こんなに若い少年が、どうして自分みたいな三十過ぎの女を好きになったのか今でも不思議だが、その思いが本気であることは今さら疑いようがない。
そして、そんな風に好意を寄せられることが女として嬉しい。
「ふぅ、ごちそうさまでした」
「ああ、お粗末様でした」
チョコレートを食べ終え、コーヒーも飲み干して一息つくと、室内には静寂が訪れた。
栄子は既に空になったマグカップを両手で抱え持ち、肩が触れそうな距離の祐麒に目を向けないよう、俯いている。
しばらくして、祐麒の体が動いて腕同士が触れ栄子は内心でビクッとする。
「えーこちゃん」
「な、な、なんだ……?」
小さな声でこたえる。
「じゃあ俺、そろそろ帰りますので」
その返事を聞いて、思わず栄子はずっこけそうになった。
「ちょ、ちょ、ちょっと待て」
立ち上がろうとする祐麒の袖を掴み、留まらせる。
「はい、なんですか?」
「ほ、本当に帰るのか?」
「ええ、もう遅いですし、あまり長居しても悪いですから……」
「その、何もせずに帰るのか」
「ケーキもチョコレートも食べましたし、そもそもえーこちゃんの部屋にあげてもらいましたし、凄い満足ですよ?」
「本当か?」
「本当ですよ。それに、約束じゃないですか。卒業するまでは何もしないって。約束破ったらそれで終わりだって」
「ば、ば、ばかもん。だけどだな、バレンタインデーに、こんな遅い時間に付き合っている女性の部屋に二人きりでチョコレートも貰って、こんな近くに居て何もしないというのか。いくら約束だからって、そんなんじゃ私に魅力がないみたいじゃないか」
早口で非難するみたいに言う。
「魅力がないわけないじゃないですか! そりゃ俺だって、えーこちゃんの部屋で二人きりですし、期待しないわけじゃないですけど、その思いは、今は封印して」
「封印して我慢できる程度の気持ちだったということだな」
「ちょ、ちょっとえーこちゃん何を言ってるんですか……って、え、もしかして……その、いいんですか? その…………しても……?」
祐麒のその問いかけに。
栄子は俯いたまま顔を赤くして無言。
「え、ええっ、でも、え、まさか何かしたら、やっぱり約束破ったとか言って」
「そんな卑怯なことはしない」
「そ、それじゃ本当に…………え、えーこちゃん」
と、祐麒の手が伸びて栄子の肩を掴んできた。そのまま顔を寄せてきてキスをされそうになって、栄子は慌てて祐麒の体を押しのける。
「え~~と、やっぱり、駄目ってことですか?」
「ち、違っ…………そ、その、シャワーを……いいだろう?」
栄子のその言葉に、祐麒は唾を飲み込んでただ頷くのだった。
つづく?