祐麒は、微妙に重い足取りで大学を目指していた。
江利子さんと同級生達との遭遇というハプニングから、まだ一夜しか明けていないというのが信じられないくらいであった。
週初めだというのに、どこか憂鬱な気分になるのは今後の展開にあまり良い予感がしないから。
そんな思いを抱えたまま大学の正門から中に入ったところで、いきなり腕をつかまれた。見るまでもなく、江利子さんだということは分かった。
「おはよう、ダーリン」
「あ、朝から変なテンションはやめてくださいよ」
「失礼ねえ、せっかく親愛をこめているのに。昨夜はあんなに情熱的に、激しく私のことを求めてくれたのに」
「ご、誤解されるようなこと、言わないでくださいよ」
「あら、誤解なのかしら? 私の胸とお尻を愛撫してきたのは」
江利子さんの発言に、慌てて周囲に視線を巡らすが、幸い会話を聞かれている様子はなかった。
「あの、手、放してくださいよ。まずいんじゃないですか、ミス・キャンパスがそんなことしていたら目立ちますよ」
そう言っているこの瞬間も、周囲からちらちらと視線が注がれているのが分かる。ミス・キャンパスと腕を組んでいる冴えない男は誰なのかと、皆の鋭い目が無言で問いかけてきている。
「悪いことしているわけじゃないし、いいじゃない。恋人同士が腕を組むのは、ごく普通のことでしょう?」
「こ、恋人同士って」
「それに正直、色んな男の人から告白されたり言い寄られたり、断るのも疲れるのよ。この辺でちゃんと、決まった相手がいますとアピールした方が寄ってこなくなると思うのよね」
「だ、だからって」
「昨日、自分にできることだったら何でもするって、言ってくれたわよね?」
にっこりと、だが有無を言わさぬ迫力で江利子さんは祐麒の方を見上げた。その話を持ち出されると、祐麒の方が弱い。しかし、このままの状態で大学内を練り歩くというのも、正直いって怖い。
「しようがないわねぇ。腕を組むのが恥しいなら、手をつなぐのでどう?」
「そ、そうですね。それくらいなら……」
言い終わらないうちに、するりと江利子さんの小さな手が祐麒の手の平に入り込んできた。
そして、祐麒は間違いを悟った。
腕を組んでいる状態であれば、江利子さんが一方的に祐麒の腕をつかんでいるという見方も出来た。しかし手をつないでいる状態は、明らかにお互いが合意の上でというか、むしろ祐麒の方が積極的に見えてもおかしくない。加えて、江利子さんは指と指を絡めてきて、俗に言う恋人つなぎの格好となっている。
祐麒的には余計に恥しい状況となってしまったが、自分が手をつなぐことを許しただけに、振りほどくというわけにもいかなかった。
心なしか、周囲の視線もまた厳しくなってきている気がする。
「あ、あの。そろそろ手を離すわけには」
「まだ、つないだばかりじゃない」
「でも俺、緊張してか手に汗かいているから。気持ち悪くないですか?」
「あら、そう言われてみれば」
そこで江利子さんが手を放してくれたのでほっとしたのだが、それも束の間。
江利子さんはバッグから綺麗なハンカチを取り出すと、手をつないでいたほうの祐麒の手を取り、自ら祐麒の手の平を拭いてくれた。
「これで、大丈夫でしょう?」
「は、はは……」
「ふふ、でも緊張して汗をかいちゃうなんて、祐麒くんてば可愛いんだから」
江利子さんは上機嫌に、再び祐麒の手を握ってきた。周りから突き刺さる視線が、とにかく痛い。これが単なる男女カップルであれば大した騒ぎにもならないのだろうが、何せ相手はミス・キャンパスだ。しかも噂では、ここ十年では断トツナンバーワンの美女と言われ、ファンも多数存在するとか。
おそらく、多くのファンの恨み、妬み、嫉みが向けられているのだろう。祐麒は胃まで痛くなってきた気がした。
辛さと嬉しさを微妙にない交ぜにしたまま、大学校舎に近づくと、二人組みの女の子が祐麒の姿に気がつき、近づいてきた。
「あ、おはよう、福沢くん……て」
声をかけてきた少女の動きと口が止まる。
その目は、しっかりとつながれた祐麒と江利子さんの手に向けられている。
「あら、宝来さんと大友さん。昨日は楽しかったわ」
江利子さんは全く動揺する様子も見せず、親しげに、空いているほうの手を上げた。一方、宝来さんと大友さん(昨日、祐麒の部屋に遊びにきた女の子達)は、目を見張っているというか、物凄く動揺している。
大友さんが、背の高い宝来さんを肘でつつき、口を開く。
「ね、ねえ。鳥居先輩の服……」
「う、うん。昨日と同じだね」
「てゆうことはぁ、やっぱりぃ」
「昨日もお泊まり?!」
二人して声を潜めて話しているつもりなのだろうが、赤くなってきゃあきゃあ言っているので、はっきりいって丸聞こえである。
そして、祐麒は迂闊にもそこで初めて、江利子さんの服装が昨日と同じということに気がついた。見ると、江利子さんは素知らぬ顔をしている。
昨夜はきちんと実家に帰ったはずだから、わざと同じ服を着てきたのに決まっている。江利子さんに限って、他に服がないとか、うっかりしてしまったなんてことはないだろう。綺麗に整えたように見せて、微妙に皺や乱れたところがあり、昨日の江利子さんを見た人間からすれば、いかにも、という感じに見えるだろう。
明らかに確信犯であり、その姿を見せたい相手は宝来さん、大友さんではなく、もう一人の女の子。
「つ、蔦ちゃん蔦ちゃん。見た? 鳥居先輩の……」
「―――ええ、勿論。ふふ、ふしだらね、祐麒くん」
いつの間にか、蔦子さんが眼鏡のレンズを不敵に光らせて立っていた。当たり前だけれど、服装は昨日とは異なっている。
「あら、今時大学生にもなれば、それくらいするわよねえ」
火に油をどばどばと注ぎこむ江利子さん。
蔦子さんの目は、江利子さんの全身を見つめた後、つながれた二人の手に向けられた。
「そう、仲良さそうですね、お二人とも。だけど、祐麒くんにとっては迷惑だったりするんじゃないですか?」
我慢も限界を越えたのか、攻撃的に口を開く蔦子さん。しかし、それくらいでひるむような江利子さんではない。わざとらしく更に祐麒に身を寄せ、むしろ涼しげな表情で迎撃する。
「迷惑だったら、こんな風に手つながないわよね。それにしても蔦子ちゃん、さっきから怖い顔して睨んできてどうしたのかしら……ひょっとして、ヤキモチ妬いているのかしら?」
「ま、まさか」
「そう、良かった……あ、私、教室向こうだから。それじゃあ、今日もゼミが終わったらご飯作りに行くから、それまで待っていてね」
くるりと蔦子さんに背を向けた江利子さんが、祐麒に向けて意味深に片目を瞑ってみせる。反論しようとした祐麒は、それで口を封じられてしまった。弱みを握られているのだから、どうしようもない。
「う、うん、分かった」
強い視線を感じながらも、頷くしかない。
江利子さんは去り際、ご丁寧に投げキッスまで見せてから消えていった。
「うっわ、ラブラブなんだぁ」
「鳥居先輩、可愛いっ」
「うふ、ふふ、うふふふふ」
地獄の底から響くような笑い声が、恐ろしい。
果たして、ヤキモチを妬いてくれていると喜んでいいものか分からない。ただ今は、この後の追及と、今後に訪れるであろう暴動をどう対処するか、頭を痛めるのであった
そして数日後。
祐麒は走っていた。大学構内を逃げるように、ただひたすらに走っていた。後ろを振り返れば、凄い形相で追いかけて来る集団の姿が。
そう、文字通り逃げていたのだ。
「こら、待て、福沢祐麒! どういうことなのか説明してもらうぞ」
声が追いかけてくる。
無言で祐麒は走り続けるが、随分と息が切れてきた。対して、相手はアメフト部に所属しているというだけあり体力もあって、まだ余裕に見える。
「お前のような容姿も、成績も、身体能力も、家柄も、何の取りえもないような男が江利子さんの恋人などと、俺達は決して認めない!」
「そうだ! 鳥居江利子さんファンクラブ会員No.1のこの俺が認めない!」
追いかけているのはまさに江利子さんのファンの集団であり、祐麒が不安に思っていた通りの展開となっていた。
江利子さんとのラブラブ登校(周囲談)の後、目撃者各位、及び宝来さんと大友さんからの口コミにより、二人のことは凄まじい速度で大学内に広まっていった。何しろ、今まで大学内の様々な男達に告白され、交際を申し込まれながら、全てを袖に振ってきたミス・キャンパスに恋人が出現したわけである。翌日の大学新聞号外として学内に配布されたくらいであるから、祐麒の名前、顔はあっさりと知れ渡ってしまった。
そのツケが、これである。
新聞が広まって以来、毎日のように問い詰められ、興味本位で尋ねられ、追われていた。なんとか今日を乗り切れば明日は日曜日のため、少し落ち着くことが出来るのだが、体力的にかなり厳しくなっていた。
日にちが経てば落ち着くと信じたいが、江利子さんのファンはなかなかに熱烈で強力なため、果たして祐麒の希望通りになるか怪しいところだった。
「こら、待て!」
言われて待つわけも無く、校舎内を駆けてゆく。
走って、走って、校舎を出たところで彼女は待ち受けていた。勢いのついていた祐麒は、急制動をかけ直前でなんとか踏みとどまる。
「うわっ!? え、江利子さんっ」
「相変わらず、大変ねぇ」
「だ、だ、誰のせいだと思っているんですか」
そうこうしているうちに、後続の江利子さんファンクラブの一団が追いついてきて、江利子さんの姿を認めて立ち止まる。
「え、え、江利子さん! 俺達は、そんな奴との交際など、認めませんからねっ」
「うーん、そう言われても困るのよねえ。あなた達に認めてもらうものでもないし」
当たり前のことだが、当たり前の論理が通用しないのが熱烈なファンというものである。案の定、口々に祐麒のことを否定する言葉や、江利子さんを賛美する内容を発している。
「ど、どうしましょうか、これ。今回は逃げられなさそうな感じが」
ずらりと並んだ面々には運動部のエース級の顔も見え、江利子さんも一緒にいることを考えると、逃げ切るのは難しそうだった。
「そうね、私も今日は走れそうもないし」
今日の江利子さんは、オフホワイトで膝が隠れるくらいの長め丈のシャツワンピースに黒のレギンス、シルバーのTストラップパンプス。そのスカートの裾を軽く持ち、ひらひらと揺らめかせて見せる。
「じゃ、せめて隙を作るから、あとは頑張ってね、祐麒くん」
「は?」
問い返す間もなく、江利子さんは祐麒の首に手を回して抱きついてきた。そして、居並ぶ面々に向けて、口を開く。
「―――ごめんなさい、皆さん。私、既に祐麒くんに全てを奪われちゃって、祐麒くんのモノだから」
台詞を発した直後、途端に空気が重苦しくなる。Gが倍増したみたいに感じられた。
しかし、それだけではなかった。
江利子さんは祐麒に顔を近づけてきたかと思うと、唇にほど近い場所に、その柔らかな唇をそっと押し付けてきたのだ。恐らく、周囲の人間から見れば、普通に唇にキスしているようにしか見えないだろう。
なんか、以前にもこんなシーンがあったような、などと考えながら、気持ちの良い、わずかにひんやりとした感触を感じていると。
同時に、ひんやりとした空気も流れてくるように感じて見回してみれば、ファンクラブの面々が凍りついたように二人のことを凝視していた。
ある者は大口を開けて唖然として、ある者は世界の終わりを見たかのように愕然として、そしてある者は腰砕けになり地に膝をついて呆然として、その場で凍り付いていた。
周囲の大げさともいえる反応に、祐麒も立ちすくんでいたが。
「ほら、祐麒くん何やっているのよ。今でしょう」
わずかに離れた唇から、媚薬のような甘い息と声が密やかに吐き出されるのを肌に感じ、我に返る。
確かに逃げるならこの隙をついてだが、江利子さんをどうするか。
「じゃ、よろしくね」
祐麒の迷いを知ってか知らずか、江利子さんはそう言うやいなや、首に回してきた手に力を入れてきた。というよりも、全体重をかけてぶら下がってきている。咄嗟に首に力を入れ、腰を落として足を踏ん張り、同時に倒れそうに後ろに傾く江利子さんの背中に手を回して支える。
「え、江利子さん?」
「頑張ってね、ダーリン」
ふざけている江利子さんに対し、もはや、どうこう言っている場合ではなかった。
祐麒はもう片方の手を、江利子さんのワンピース越しに太腿の裏あたりに差し入れ、そのまま腰に力を入れて持ち上げた。
「きゃあ、やったぁ」
「お、重……」
「馬鹿、なんてこというのよっ」
いわゆる『お姫様抱っこ』をする形となって、祐麒は駆け出した。
その信じられないような光景を、周囲の連中は呆気にとられたように見つめていたが、しばらくしたところでようやく正気に返ったのか、慌てて追いかけてこようとする。しかしまだ立ちすくむ者も大勢いて、押し合い、へし合い、倒れたり転んだりして騒然となっている。
混乱している連中を尻目に、祐麒は江利子さんを抱えたまま、葉桜となった緑の並木道を駆けてゆく。周囲を歩く学生が好奇の目を向けたり、口笛を吹いてきたり、黄色い声で歓声をあげてきたりしている。
江利子さんは祐麒の首に抱きつき、その豊かな胸を押し付け、目を大きく見開いて輝かせ、楽しそうに笑っている。
「ねえ、私達ってなんか、この大学の伝説になりそうじゃない?」
「な、なりたくないですっ……っていうかコレ、普通に走ったほうが速くないですか?」
「何言っているの、男の子でしょう。それに、この方が面白いじゃない」
「お、面白くないっす!」
「ほらほら頑張って! あ、門のところにタクシー停まっているから、あそこまで逃げ切れば、晴れて私は祐麒クンの物よっ」
「いや、そういうもんじゃないでしょうがっ!」
呼吸も荒く、それでも何とか駆ける祐麒。
腕の中で、本当に楽しそうに顔を輝かせている江利子さん。
「―――あ、そうだ」
今度は何を思いついたのか、江利子さんは祐麒の首に抱きついたまま、何やらごそごそと動いた。
そして。
「こういうことした方が、それっぽくて良いでしょう?」
言いながら、手にした『それ』を後ろに放り投げた。
「あははっ、サイコーっ!!」
江利子さんの声が、息が、笑顔が、祐麒を包み込む。
乱れた髪の毛が風に揺れ、祐麒の額をくすぐる。
宙高く放り投げられた純白のヘアバンドは、春の太陽の光を受けて燦然と煌めき。
葉桜の緑と交じり合ってキャンバスに奔放に絵を描き。
江利子さんのように自由に空を舞っていた。
~ スウィート・イリュージョン ~