七月に入り、梅雨の晴れ間がのぞいた休日。蔦子とのデートの待ち合わせ場所に祐麒は落ち着かなく立っていた。
蔦子とのデートについて江利子に告げた時のことを、何度となく思い出す。
江利子と再会する前に約束していたこととはいえ、黙ってデートするというわけにもいかず、果たしてどんな反応をするだろうかと恐る恐る切り出してみると、以外にもあっさりと江利子はOKした。
「だって、入学前から約束していたんでしょう? さすがに約束を破れとまでは言わないわよ」
江利子とのこともあり、今まで曖昧になっていて忘れられていたと思っていただけに、蔦子から半ば強引に約束のことを持ち出されてデートすることになった時は、さすがに落ち着かなかった。浮気をしているつもりはないが、傍から見れば単なる浮気、もしくは二股に見えるだけ。
知られずに済ませて終わらせてしまうのが一番かとも考えたが、同じ大学、同じサークルでそううまくいくとも思えなかったし、そもそも自分の性格的に嘘をつきとおせるとも思えない。だから、いっそのこと全てを白状して許して貰うしかないと、半ば決死の覚悟で江利子に告げただけに拍子抜けでもあった。
「……でも、デートだけよ? キスとか、お泊まりとか、そんなことしたら許さないんだから」
そう言って頬を膨らせて睨みつけてくる江利子だったが、申し訳ないがやきもちを焼いている姿は可愛いとしか思えなかった。普段、そういった姿をみせることがほとんどないからだ。
しかし、やきもちを焼いてくれるということは、江利子も本気で祐麒のことを想ってくれているということだろうか。そう考えると嫌な気持ちもしない。
蔦子を待ちながらも江利子のことを考えるという、デート相手に失礼なことをしながら待つこと十分ほど、ようやく蔦子が姿を現す。
「ごめん祐麒くん、遅れちゃった」
「え? あ、いや、そんなに待っていないから大丈夫」
「そう? でもごめんね」
蔦子の雰囲気に、違和感を覚える。
大学生になったから私服姿が珍しいというわけではない。今日はデートということで普段より服装は変えてきていて、ラベンダー色のチュニックをベルトで留めて花柄のショートパンツにサンダルと、全体的に爽やかなコーディネート。眼鏡もいつもと異なるデザインと色で、髪にはリボンもついている。
だけど、祐麒が感じたのはそういった部分についてではなかった。
「――――あ、蔦子さん、カメラは持ってきてないの?」
そう、蔦子のある意味トレードマークともいえるカメラ。いつでもどこでも撮影機会を逃さないようにと下げていたカメラが、見つからない。バッグの中にいれてあるのかもしれないが、いつもだったら首から下げているはず。
「今日はデートだから、カメラの優先度は低くしたから」
少し照れ気味に、そんな風に言う蔦子。
蔦子が一番だと公言して憚らないカメラよりも祐麒とのデートを優先すると言われて、さすがに祐麒もドキリとする。
「それじゃあ、行こうか」
平然を装ってデートの一歩目を刻む。
江利子がいる身であるし、デートとはいっても仲の良い女友達と一日遊ぶだけだと、たいしたことではないのだと思わなければならない。
難しいことだとは分かっていても、改めて自分自身を律しなければ理性を保つのが難しいものなのだ、男とは。
夏になって露出の多くなりつつある蔦子を見て、祐麒はなるべく視線を向けないようにして歩き始めた。
デートは、さして珍しいコースを辿るものではなかった。この夏公開の大作映画を観て、そしてショッピング。蔦子は新しいパソコンを買いたいようで、大型電気店に寄って最新機種を見比べた。
デートの最中、蔦子の距離感は実に微妙というか絶妙というか、何とも言い難いものであった。
付き合っているわけではないので腕を組んだり、手を繋いだりすることはない。だけど不自然に距離を開けすぎるほどでもない。自然と話が出来て、時には腕と腕が触れ合うようなこともある。人の多い場所では更に少し近づいて、祐麒のシャツの袖をつまんでくることもあった。
話も楽しい。
蔦子は撮影するために色んな場所に足を運んでいるせいか、祐麒の知らないようなことを色々と知っていて、それをうまいこと話して聞かせてくれる。更に、うまいこと祐麒が突っ込んだり、質問したりするように話すのだ。
単に聞いているだけではなく、祐麒自身も会話のやり取りを楽しめる。
あっという間に陽は落ち、夕食はカジュアルなイタリアン。夜遅くならないうちに、帰途に就く。
電車の中でも話は弾んでいた。
「今日は楽しかったわ。ありがとう」
「いや、こちらこそ」
蔦子の降りる駅が近づいてきた。
「あー、でも新しいパソコン、どれがいいかなー」
「機能にあんまり差はないんだし、好みでいいんじゃない」
「そうだけどね」
特に女性の場合、色やデザインで決めてしまうことが多いようだが、蔦子は性能面も気にしている。画像の保存、編集などでも多用するせいかもしれない。
「ねえ祐麒くん。良かったらまた今度は、パソコン買いに行くの付き合ってくれない?」
「えっ!? それは」
次の約束を蔦子の方から切り出されるとは予測していなかった。甘いと言えば甘いかもしれないが、そういうのは男性の方から口にするものではなかろうか。それとも、今時は女性の方が積極的なのか。
「祐麒くん、結構詳しいじゃない。ね、いいでしょう、買い物くらいなら」
当然、江利子という存在がいるのを知っていながらの発言。ならば深い意味はなく、本当に単に買い物に付き合ってほしいだけなのかもしれない。デジタル製品なら女性よりも男の方が詳しい可能性が高いし。
「ね、少しくらい、いいでしょう。学校帰りとかなら」
攻めてこられる。
そうこうするうちに駅に到着して扉が開く。もう、蔦子は降りなくてはならない。早く応えて欲しいと目が訴えている。
「ま……まあ、それくらいなら……」
とうとう、そんな風に答えてしまった。
途端に、蔦子の顔は明るくなる。
「本当? ありがとう、それじゃあまた、連絡するわね」
「え、あ、うん」
「それじゃあ、おやすみなさい」
「ああ、また学校で」
蔦子がホームに降り、扉が閉まる。
ゆっくりと動き出す電車の扉の向こう側、蔦子が可愛らしく手を振っているので祐麒も振り返す。
やがて蔦子の姿も見えなくなって。
「…………ふうっ」
小さく息を吐き出した。
『――――また一緒に出掛ける約束をしたですって?』
デートが終わって家に帰り江利子にメールをすると、すぐに電話がかかってきた。
『……祐麒くんの、浮気者』
電話の向こうの声が明らかに硬くなる。初めて耳にするような江利子の声色だった。
「あの、だから、買い物に付き合うだけだし、こうして包み隠さずに話しているんだから浮気とかそういうのじゃ」
『何でも話せば、女の子と二人で出かけても浮気にはならないと?』
「いや、学校帰りとかって言ってたし、他の友達とかも一緒だって」
『そんなこといって、その友達は途中で消えてどうせ二人きりになるんでしょう』
「そんなことないって。なんで、そんなことばかり言うんですか」
『だって、きっと私ならそうするもの』
「とにかく、本当に何もないですから。それじゃあまた連絡しますね」
『え、あ、ちょっと祐麒くん』
江利子の声を聞きながら通話を切って無理矢理終わらせる。
今まで江利子と何度も話をしたけれど、こんなにも疲れたのは初めてかもしれない。なんで江利子は、そこまで気にするのか。大体、浮気者も何も、祐麒と江利子はいまだ肉体関係を持っているわけでもなんでもないし。
そんな言い訳めいたことを考えている時点で、祐麒の気分もかなり落ちている。江利子にあんな声を出させてしまったことで、自己嫌悪に陥る。
江利子があんな声で、あんなことを言うなんて初めてだった。それだけ、祐麒の言動に傷ついているということか。
自己嫌悪と苛々が同時に襲い掛かってきて、余計に気持ちが落ち着かなくなっていた。
「おーい、これの方が良くね? スペック高い割にお得感あるし」
「えー、そんなの可愛くないじゃん」
「そうだよ、こっちの方が可愛いし」
「いや、可愛さよりも実用性だろ」
大手の量販店のPCコーナーで、最新のPCを物色しているのは祐麒の友人である笹山、大友、宝来、そして蔦子を含めた合計五人である。一つ思ったのは、五人で同時に同じコーナーを見ているのは、人数が多くて邪魔になるなということだった。
「蔦ちゃんは、何を優先するの?」
「実用性もデザインも、どちらもよ。あ、値段もね」
「欲張りだな」
「当然でしょう?」
先日の蔦子との約束を果たすため、こうして学校帰りに皆で遊びがてら買い物にきているのだ。今日はとりあえず目星をつけるだけで、購入まではしないつもりとのこと。パソコンだけでなく、最新のデジカメ、携帯端末、そんなものを見て回る。
江利子は心配していたが、これなら本当に友人達と買い物に来ていてその中に蔦子が入っているだけであり、問題ないだろう。
しかし、その風向きが変わったのは、映像ソフト売り場に入ろうとしたときだった。
「……おっと、誰だ?」
先頭を歩いていた笹山の携帯が鳴った。
「もしもし? おう、そうだけど……今? ちょっと買い物中。ああ、そう……は? 今から来い? いやしかしだな……えっ、マジかよ!? 分かった、これから向かうからちょっと待っててくれ、おう、じゃあなっ」
通話を終えた笹山が皆の方を向く。
「悪い、高校時代の友人に呼ばれてさ、ちょっと行かざるをえなくなったから今日はこれで抜けるわ」
「え? なんだよそれ」
「悪い、でも今日の目的はもう果たしただろ?」
笹山の言う通りで、無理に引き止める理由もないのだが。
「あ、それじゃあ、あたしたちもそろそろバイト行かないといけないから」
すると、笹山に便乗するかのように大友、宝来も手をあげた。
「ちょっと何よソレ、そんなの聞いてないわよ」
「そうだっけ? でもマジ、今日は抜けられないからさ」
「ごめんね、蔦ちゃん」
口を尖らす蔦子だが、こちらもまた無理に引き止めるわけにもいかない。結局、あっという間に三人がいなくなり、祐麒と蔦子の二人が残される形となった。
「えと……もう少し、見ていってもいい?」
「え? あぁ、うん、いいよ」
返事をするものの、どこか後ろめたく感じるのは、結局は江利子の言った通りの状況になってしまったから。
望んでやったわけではないし、偶然のことだと思いたいが、あまりにもタイミングが良すぎる。
「あ、これもう発売されていたんだ。祐麒くん、これ観た?」
「映画で人気だったやつだよね。俺も観てない、レンタルしようと思ってたんだ」
「今度、一緒に観ようか……あ、みんなでね」
「そ、そうだね」
しかし、だからといって蔦子に問いただしてみるというのも躊躇われる。また、ここで祐麒まで帰ってしまっては蔦子を置いてけぼりにするようで心が痛むから、祐麒としては買い物に最後まで付き合うしかない。
悪いことをしているわけではないし、不可抗力だしと心の中で自分に言い聞かせ、蔦子とのショッピングを続ける。
「――色々と引っ張りまわしちゃってごめんね」
「別にいいよ、俺も欲しいモノとか色々あるし」
「それなら良かったけど。と、もうこんな時間か。ね、今日は付き合ってくれたお礼に、何かご馳走してあげるわ」
「え、そんなのいいって」
「どうせそんな高級なところは無理だから、気にしないで」
「そういうわけにはいかないって」
「何よ、祐麒くんって意外と頑固ね……じゃあ、割り勘なら?」
「それなら、まあ」
「じゃあ決まりね、どこに行こうか?」
あ、と思った時には蔦子の話につられて一緒に夕食を食べに行く流れになっていた。これも今さら行かないというわけにもいかず、同じビルに入っていたレストラン街へと足を向ける。幸か不幸か、江利子との約束も入っていなかったので、食事をすることは問題ないのだが。
江利子に話したら、果たしてどんな反応をするだろうかと考えると肝が冷える。
「どうかした、祐麒くん?」
「……なんでもない、えと、どこにしようか」
あまり違うことばかり考えているのもよくない。食事をして、あとは真っ直ぐに帰れば良いのだ。
「――それじゃあ、今日はどうもありがとう、楽しかった。ばいばい」
「あ、ああ、うん」
笑顔で手を振る蔦子に、手をあげて挨拶を返す。
夏に入り気温が上がり、薄着になった蔦子の体はどことなく目の毒だ。一緒に居る間は目のやり場に困り、こうして解放されてようやく落ち着く。
携帯を確認すれば、江利子から何通かのメールが届いている。
「…………ふぅ」
どうしてここのところ、こんなにも上手くいかないのだろうか。
確かに、江利子との関係は振り回されることが多かったし、ちぐはぐなところも多分に存在したが、こんなもやもやとした気持ちになったことはない。
自分のアパートへと向かいながら。
祐麒は一つ大きなため息をつくのであった。
一方。
「――もう、なんで返信寄越さないのよ」
江利子は自分の部屋のベッドの上で携帯を忌々しげに睨みつけていた。
今日は友達と学校帰りに買い物に行き、おそらくそのまま夜ご飯も食べてくると言っていたから、遊びに夢中で気が付かないだけかもしれないが。
どうしても、落ち着かない。
それはやはり、先日の蔦子との一件が尾を引いているから。
喫茶店での一幕。祐麒の女装の件。祐麒は女装するのは嫌だと言ったという。江利子が本人の口から直接に聞いたわけではないけれど、嘘というわけでもなかろう。江利子だって本当は分かっている、好きで女装をしているわけではなことくらい。それでも、心の底から嫌なら分かると思う。色々と言ってはいるけれど、本当の意味での強制力などないのだから、やめてしまえば済むことなのだ。
それとも、やはり単なる甘えなのだろうか。
祐麒の女装が可愛いというのは本心だ。もっと可愛い格好をさせて、綺麗になった姿を見てみたい。恥ずかしがっている姿もまた可愛らしい。本人にとっては堪らないことかもしれないが、それならば口にして言ってほしい。今までなんだかんだと受け入れてくれていたのは、江利子が望んだから。それ即ち、江利子のことが好きだからではないのか。
思っていたことが、蔦子によってぐらついてきている。
「まったく……いくら私が『いい』って言ったからって、本当にデートするなんてね」
しかも、楽しかったというのだから。
二度目のデートまで約束しちゃうくらいなのだから。
文句を言う江利子のことが煩わしいというような感じで、電話も切られた。今頃はもしかしたら蔦子と楽しく食事でもしているのか。
「失礼しちゃうわよね」
これも自業自得なのか。
今まで少し曖昧な感じでやってきた祐麒との関係。対外的には恋人同士だと公言し、公認されているものの、実際にはちょっと違って。
でもしばらく前にその関係にも変化が見られて、前に進むかと思いきや蔦子によって止められ、むしろ逆行、コースアウトしかねない状態。
「あーもう、やめやめっ」
がばっ、と身を起こす。
「負けないって決めたしね、順調よりも、障害があった方が面白いでしょう?」
自分に言い聞かせるように、あえて声に出す。
そうだ、退屈こそ人生の敵と思っていた、これくらいでちょうど良いはず。これで、媚びたり、縛り付けたりするようなことをするなんてみっともない。いつもと同じように振る舞い、いつもと同じように接するのだ。動揺などしていないと思わせるためにも。
「……そうよね、うん」
もちろん江利子は、そのように考えている時点でいつもと同じとは程遠いということに、気が付いていなかった。