週末の土曜日、夕方。
「はぁ。せっかく教育実習も順調で、久しぶりに早く上がれたのに、どうして」
隣でため息をつく景。
「居候なんだから、仕方ないじゃないですか」
「それを祐麒くん、あなたが言う?」
じろりと、恨みがましい目を向けてくる景。
当初こそ、さすがに色々と遠慮をしていた景だが、一週間も同じ家で過ごしているうちに、祐麒に対しては随分とくだけるようになってきた。夜には一緒にゲームをしたり、仕事で疲れた景の肩を揉まされたりと、共に過ごす時間もそれなりにある。勿論それらは、両親に二人が恋人同士だということをアピールするためでもあるのだが。
「買い物くらいで、文句言わないでくださいよ」
「あ、いい匂い……大判焼きかぁ」
「聞いてます?」
母親に言い遣わされての、夕御飯の買い物に商店街までやってきた。いや、母親の表情からして、どうも余計な気を回したのだとも思える。
祐麒は首を軽く振りつつ、ポケットから財布を取り出す。
「夕飯前だから、一つだけですよ」
「え、買ってくれるの? あー待って待って、さすがに生徒に奢ってもらうわけには」
「そんなもの欲しそうな目で言っても、説得力無いですよ」
「も、モノ欲しそうな目なんて、してないわよっ」
「はいはい、で、何味にします?」
「……粒あんで」
「決めているんじゃないですか」
店のおじさんの前に並び、粒あんとカスタードを注文し、焼き立て熱々の大判焼きを景に手渡す。
「ありがとう、いただきます。って、祐麒くんも食べるんじゃない」
「誰も食べないなんて言ってないでしょうが……熱っ」
「うーん、美味しい~っ」
いい加減、時期的にも蒸し暑い日が続いているというのに、熱い大判焼きをあえて注文するかという気もするが、実際に口にすると美味いのだから文句もない。わずかに汗をかきながら、頬張る。
「うぅ、カスタードも美味しそうね」
「ホント、物欲しそうな目で見ますね景さんは」
「し、失礼ね、だからそんな目はしてないわよっ」
「一口、食べます?」
景の言い分を無視して、カスタードの大判焼きを差し向ける。
すると景は、一瞬、逡巡した後にどうやら欲望に負けたようだった。
「う、いただきます」
「はいはい、それじゃ」
言いかけた祐麒が手にしている大判焼きに、いきなり、「ぱくり」とかぶりついてくる景。
「甘くて美味し~いっ。お返し、粒あんはいかが?」
「え、いえ、それは……」
「なんで? 遠慮しなくていいのよ」
景は首を傾げながら、自分が手にしている大判焼きを祐麒の口元に向けてきた。
「そ、そうじゃなくて、恥しいじゃないですか」
お互いの食べ物を食べさせっこ、しかも人の往来のそれなりにある通りで、まるで周囲に見せつけるバカップルのようではないか。
「なっ……何、恥しいことさせるのよっ?」
「自分が勝手にやっていたんじゃないですかっ」
「お、恐ろしいわ、慣れというものは」
一人、ぶつぶつと呟く景。真面目で落ち着いているが、実は結構な間抜けなんではないかと、このところ思っている。
恥しいのを誤魔化すようにして大判焼きを食べつくし、スーパーに入って買い物をする。食材を選ぶのは景で、祐麒はカートを押しながら景に指示されるままに材料を手に取って籠にいれていく。女子と一緒に夕飯の買い物という、祐麒的にも初めてのイベントだというのに、微妙に心が躍らないのは仕方ない所か。隣を歩く景も、表情を変えずに淡々と足を進めて行く。
「……って祐麒くん、ちょっと何を入れているのよっ」
「え、だから指定された肉を」
「駄目よ、よく見なさいって、脂身の多さが全然違うでしょうが」
「は、はあ、すみません」
「あ、こら、牛乳は奥の方から取りなさい」
「はいっ」
そんなこんなで景に命令されるままに買い物をして、エコバッグにぎっしりと食材を詰めて帰途につく。肩に食い込む重みが、決して不快でない。景は多弁ではなく、帰り道もぽつりぽつりと話す程度であったが、祐麒にしてもお喋りなわけではないので適度な距離感だと思った。
たまにはこんなのもいいなと、素直に祐麒は感じたのであった。
夕食は、クリームシチューだった。
「美味しいわねぇ、本当に」
「うむ、これはいける」
「景さん、料理上手なんですね。今度私にも教えてください」
「あー、でも私、作れる料理はそんなにないから」
和気あいあいとした雰囲気で夕食の進んでいる、福沢家の食卓。
今日の夕食は景の作ったクリームシチューとサラダ。市販のルーを使用したものではなく、ホワイトソースから景が作ったということで、なるほど、味がいつものと異なるのはそのせいかと思う。実際、景の作ったシチューは美味で、祐麒も堪能はしているのだが、団欒の中には微妙に入っていきづらい。
一緒に買い物に行って、帰ってきたら母親と姉も一緒にキッチンに立って三人で仲良く料理して、祐麒もつい景のエプロン姿なんかを横目で見てしまって、作ってもらった料理をいただいて、なんだかこれって。
「祐麒も何か言いなさいよ」
祐巳につつかれる。
「……美味しいよ」
なんだか恥しくて、ぶっきらぼうに言うと。
「あ、うん、ありがとう」
景も気まずそうに礼を口にする。
「うう、なんか初々しい、甘い雰囲気だよねぇ」
恋人なんて今まで作ったことのない祐巳が、なぜかそんな風に評してくる。事実とは異なるのだが、口に出して言われるとなんだか無性に照れる気がするのは、なぜか。
「景ちゃんが祐麒のお嫁さんに来てくれたら、本当に嬉しいわねぇ」
「「ぶっ!?」」
景と二人、同時にむせる。
こういうことを平気で言う親が今時本当にいるとは、祐麒とて驚く。
「二人とも、照れちゃって」
「母さん、変なこと言うなよ」
「何が変なことなのよ、景ちゃんに失礼でしょう」
言われて景の方に首を向けると、ちょうど祐麒の方を見ていた景と目があった。その瞬間、ほんのりと景の頬が赤くなる。
なんでそこで照れるんだよ、赤くなったりしたら余計に誤解が深まるだけじゃないかと思いつつ、今の状況ではそれでいいのかもしれないと思ったり、祐麒も混乱する。
母も父も、景のことを気に入っている。それはそうだろう、景は真面目で、美人で、落ち着いていて、気はきくし、大人しいけれど社交性がないわけでもない。
祐巳もなついている。元々面倒見の良い性格なのだろう、景も祐巳のことは可愛がっているようで、更に祐巳は景と仲良くなっていく。
苦し紛れ、勘違いからの始まりだったのに、今や福沢家では祐麒と景の仲は完全に認められている状態になっている。
だけど、本当にこれで良いのだろうか。
そう思う自分がいることも、確かだった。
週明けの学校では、ごく一部の生徒達がざわついていた。祐麒自身はさして気にもしていなかったし、関係あるとも思っていなかったので耳に入っていなかったが、実は思い切り祐麒に関係あることであった。
小林、アリス、高田の三人は、祐麒のいない場所で互いに情報を持ち寄って話の信憑性について論議していた。
「証言その1、とある生徒が目撃したらしい。学校の中、景ちゃん先生とユキチが話しているとき、景ちゃん先生が『祐麒くん』と名前で呼んだのを。景ちゃん先生は口にした後、あわてて手で口元をおさえ、周囲に聞かれていなかったか気にするように視線をさまよわせていたと」
口火を切ったのは小林だった。
続いて口を開いたのはアリス。
「私も実はちょっと感じていたのよね。前に一緒に皆でお弁当食べた時があったでしょう? その時、先生とユキチのお弁当のおかずが一緒だったの」
「かぶることくらいあるんじゃないのか」
「一品じゃなくて、全部だよ? その出来栄えとか見ても、同じ人が作ったとしか見えなかったし」
押し黙る小林。
「……俺が聞いたのは、週末に二人で仲良く商店街で買い物をしている姿を目撃したとのこと。ユキチが買い物かごを持ち、先生がかごに食材を入れていたという」
他にもいくつか証言があった。
二人が同じ方向から朝、登校してきたのを見た。
廊下ですれ違った際、目と目で会話していたように見えた。
よくわからんがとにかく怪しい、等など。
「……これらの証言と、ユキチの、年上のおねいさん好き、眼鏡っ娘好き、黒髪ストレート好き、スレンダー好き、クールビューティ好きという性癖を合わせて考えるに、結論はただ一つ」
拳を握りしめ、力をいれる小林。
「ユキチのやつ、景ちゃん先生とデキている! ってか、既にヤッている!」
「ええー、でも、あのユキチが?」
「甘い、ああいう奴に限って、意外と手が速かったりするもんなんだ。くそー、ユキチのやつめ、俺の景ちゃん先生を」
「別に小林のじゃないでしょう。それに、小林のタイプでもないくせに」
「畜生、景ちゃん先生の柔肌をあいつは一人で堪能したのか。景ちゃん先生がっ」
「――ん? 先生がどうしたって?」
その時、三人が集まっていた生徒会室の扉が不意に開き、祐麒が入ってきた。
「なっ、いや、景ちゃん先生ならきっと清楚な白系の下着に違いないとだな、高田の奴がアダルトな黒とかに違いないというから、俺は反論してだな、ユキチもそう思うだろ!?」
いきなり張本人が現れたことにより少し混乱したのか、小林が変態的なことを口走る。
すると、それを聞いた祐麒は。
「いや、あれで結構パステル系が好きで今日もパステルピンク……」
そこまで言って、固まる祐麒。
目を丸くして祐麒を見つめる小林。アリスと高田も、呆然としているようだった。
「ゆ、ユキチお前どういうことだ!? 今日の景ちゃん先生のパンツの色を知っているのかっ!?」
「お、落ち着け小林、な、なんのことだ!? 俺は別に何も知らんっ」
「嘘つくな、俺は確かに聞いたぞ、パステルピンクだと」
「何かの聞き違いじゃないか、お、俺はそんなこと」
「私も聞いたよ、ユキチ……」
アリスが身を震わせ、高田も無言で頷いている。
祐麒の学生服を掴み、睨みつけるようにしていた小林が、ふと手を離す。少しだけ荒くなっていた呼吸を落ちつけ、眼鏡の位置を直す。
「…………ふ」
なぜかニヒルな笑みを浮かべる小林。
そして。
「ならば、確かめるのみ!」
凛々しく宣言すると、決意を固めた表情をして生徒会室から飛び出して行った。
「……え、ちょ、ちょっと待て、どうするつもりだっ!?」
取り残される形になって、慌てて小林を追いかけて生徒会室を出る祐麒。左右に首をめぐらすと、左手に走っていく小林の後ろ姿を見つけ、走り出す。
廊下を走りながら、余計なことを口走ってしまった自分自身を心の底で呪う祐麒。出会いがしらに訳の分からないことを言われて、勢いで口からポロリと出てしまったのだが、何せ鮮烈に焼き付いていてすぐにでも思い出せるのだから仕方がない。
それは今朝のこと、珍しく早くに目が覚めてしまった祐麒は、顔を洗うために洗面所に向かったのだが、ドアを開けてみればそこに待ち受けていたのは、景だった。
ちょうどショーツを穿いたところだったのか、上半身は前かがみで、ショーツに両手をかけている格好。祐麒から見れば背中を向ける格好だったが、二の腕の下と脇の間には震えるような膨らみがほんのりと見て取れた。
シャワーから出てきたのか、白い肌はほんのりと上気して、黒髪もしっとりとした光沢を帯びている。
「え、ちょ、きゃあああっ!? ななな、何してるのよっ!?」
目を丸くして、両腕で胸を抱きかかえるようにする景だが、パステルピンクのショーツとお尻のラインは、はっきりくっきり目に焼き付けた。
「いつまで突っ立っているのよ、出てけっ!!」
「ご、ごめんっ!!」
怒鳴られて、洗面所の扉を勢いよく閉める。
遅れて、一気に心臓の動きが速くなった。本やビデオで見た女性の体と同じとは思えないほど、生々しかった。顔が急速に熱くなっていく。
その後、洗面所から出てきた景とは、散々な言い合いになった。
「最低よ、覗きなんてっ」
「だからわざとじゃないって言ってるじゃん、不可抗力だって」
「そんなの分からないじゃない」
「我が家には朝シャンするような人間はいないんだから、まさか誰かいるなんて思わないだろが。大体、ちょっと図々しくないか?」
「そ、それは、ちょっと寝汗かいちゃったから……でも、一応小母さまには前に確認しているもの。それより、食い入るように見ちゃって、いやらしい」
「しょ、しょうがないだろ、そりゃ見ちゃうに決まってるじゃん、俺だって男だし」
「や、やっぱり、エッチ! 近づかないで!」
とまあ、そんな感じである。
一応、景も不可抗力だとは分かってくれたのだが、だからといって裸に近い姿を見られては鷹揚な気分ではいられないのも無理ないわけで、気まずいまま学校に来ていた。授業中も景の艶めかしい後ろ姿が脳裏にちらついて、とても勉強など身にならなかった。そんな状態の中でいきなり小林に問われ、つい頭に浮かべていたことを言ってしまったのだ。
小林は走り続けている。放課後とはいえまだ生徒の数も多く、祐麒もなかなか距離を詰めることが出来ず、それどころか見知らぬ生徒にぶつかってしまい、足が止まっている間に高田とアリスに追いつかれて捕まってしまった。
「おい、何すんだよ、離せよ二人とも」
「いや、俺も興味があるし、是非知りたい」
「ユキチ、本当のことを言って」
筋肉自慢の高田に捕らえられてしまうと、抜け出すのも容易ではない。そうこうしているうちにも、前方で小林が景に向けて手を振るのが目に入る。
祐麒も、高田とアリスを引きずるようにして、必死に二人の方に向かおうとする。
「……どうかしたの、小林君?」
景の声が聞こえる。
「先生、こっち来てもらえます? ちょっと相談がありまして」
深刻そうな表情と声で、景を人の少ない方に誘導していく小林。二人の姿が廊下の角を曲がって消えて見えなくなり、祐麒はさらに力をこめて高田を引き剥がそうとするが、高田もそう簡単には離れない。
一方の小林は、祐麒が追いかけてきていることに気がついているので、早く景から情報を引き出そうとする。
「それで、相談って何かしら小林くん?」
景は小林のことを疑った様子もなく、聞いてくる。
そんな景を見て小林は申し訳なく思ったが、躊躇するわけにはいかなかった。
「……実は、どうしても確認したいことがありまして」
「何かしら」
「その、非常に言い辛いのですが」
「他言はしないわよ。なんなら、もう少し場所を変えましょうか?」
左右を見回す景。すぐ近くに生徒はいないが、少し離れた場所まで目を向ければ、何人かの生徒の姿が見える。
「いえ、ここで大丈夫です。すぐに済みますから」
一つ、咳払いをする小林。
そして、おもむろに口を開き。
「えっと、景ちゃん先生、今日の下着の色はパステルピンクですか?」
直球ど真ん中で切り込んでしまった。
ひねくれ者の策士のはずが、咄嗟に妙案が思いつかず、焦りのまま聞いてしまった。景も、何を言われたのかすぐには理解できなかったようで、きょとんとしている。
「ユキチが、祐麒がそう言っていたんです、景ちゃん先生の下着について。パステル系が好きで、今日はパステルピンクだと」
ここまで来たら突入するしかないと開き直り、小林は攻め込んだ。あくまで真面目な表情は崩さずに。
すると、小林の攻めに景が反応した。
みるみるうちに顔が赤くなっていき、目が潤みだす。
「な、な、なっ……」
ぱくぱくと口を開閉させる。
耳の方まで、赤みは広がっていく。
「や、やはり本当に」
「ま、待て小林っ!!」
その時、祐麒が高田を引きずりながらも、角を曲がって姿を現した。しかし次の瞬間、高田の腕を振り切った、というよりもむしろ祐麒を掴んでいた高田の手がすっぽ抜けた。後方に引っ張られる力をいきなり失った祐麒は、その反動によって前方に勢いよく突っ込んでいく羽目になった。
「うをっ!?」
咄嗟に体をひねり、突っ込んできた祐麒を回避する小林。
「え?」
その先には、棒立ちの景がいて。
「きゃあっ!?」
「うわっ!!」
勢いを失うことなく、そのまま景にタックルするように衝突すると、二人は廊下に倒れ込んだ。
平衡感覚を失う。目の前が真っ暗になる。
「いっ……! 痛っ……つっ、く」
痛みに唸る景の声が聞こえる。
しかし、祐麒は痛みを感じてはいなかった。むしろ、柔らかなクッションのようなものに顔面は守られていた。
決して十分とはいえないが、それでも柔らかさはきちんと感じられるもの。これは。
言うまでもなく、倒れた景の上に祐麒も倒れ込んだ形になっていて、その景の胸に祐麒は顔を押し付けている格好となっていたのだ。
「…………痛……って、ん……!? ちょっ」
ようやく状況に気がついたようで、景が身じろぎする。
「なっ、何するのよ祐麒くんっ!?」
両手で祐麒の顔を挟み、強引に胸から引き剥がす。
「い、家ならまだしも、こんな学校でまで」
「ちょ、ちょっとストップ、声、大きいって景ちゃん!」
ヒステリかけた景を、慌てて押しとどめる祐麒。景も頭の回転は良いので、すぐに悟って言葉を飲み込むが、遅かった。少なくとも小林、高田、アリスの三人は、景の言葉を聞いてしまったのだから。
「ね、ね、小林。先生が転んだ時に私、見えちゃったんだけど……ユキチの言っていた通りだった、先生の」
「な、何っ!? ユキチ、お前やっぱり」
更に、他の生徒達も騒ぎだす。
「なんだなんだ、どうかしたのか?」
「福沢先輩が、景センセを押し倒したんだよ、凄いぜ」
「え、こんな白昼の学校で堂々と?」
「やっぱあの噂、本当だったってことか?」
「えー、マジショック。俺、先生の超ファンなのに」
遠くから見れば、いまだに景の上にのしかかっているようにしか見えない祐麒。人の数は、どんどんと多くなる。
「お前ら、何見ているんだよ、見世物じゃないんだからなっ」
景の上からようやく退き、集まってきた生徒達を追い払おうとする祐麒だったが、その生徒達の群れを割るようにして登場した人物を見て、止まる。
「――加東先生、それとお前達、ちょっと指導室まで来なさい」
学年主任である宮澤の声が、冷たく廊下に響き渡った。