本当に、偶然だった。
こんなことがあるなんて、思いもしなかった。ひとえに、佐藤さんのいい加減さによるものなのだが、後々考えると恐ろしいほどの偶然による僥倖だった。
「……はぁ? 来ることが出来なくなったって、そんな時間を過ぎてから連絡してくるなんて、ちょっと酷くない? 聞いているの、佐藤さん……え、キャッチ? ちょっと」
私の言葉など置いてきぼりに佐藤さんの声は消え、変わりに耳に届いてきたのは"カノン"のメロディ。
ふざけるな、という思いを込めて携帯電話を切る。
携帯をバッグにしまい、せっかく街に出てきたのだし、これからどこかへ足をのばそうかどうか考えようとしていたら、隣に立つ女性の声がなんとなく耳に入ってきた。
「……ちょっと、どういうことよ、人を呼び出しておいて来られないなんて……こら聖っ、ちょっと聖ったら! ……もうっ」
苛立たしげに切断した携帯電話を睨みつけるその女性は、綺麗な黒髪を切り揃えた、私と同年代くらいの人だった。
と、携帯が鳴り出した。
ディスプレイを見ると、かけてきたのは佐藤さん。
「もしもし? 佐藤さん、あなた約束を……は? ようこ? 何それ、なんで……」
その時、視線を感じた。
携帯を耳にあてたまま首を90度回転させると、先ほどの女性が驚いたような表情でこちらを見ていた。
そして、おずおずと口を開く。
「あの……失礼ですが、その電話の相手って……佐藤聖という人物じゃ」
「あ、はあ……ええと、確かに佐藤聖さんですが」
「ひょっとして、貴女も?」
「ということは、そういう貴女も?」
まったく初めて会う人だったけれど、"佐藤聖"という単語でつながった。どうやら、彼女も佐藤さんに約束をすっぽかされたようだ。
「はい、あの、私、水野蓉子と申します」
「あ、これはどうも、私は加東景です」
お互いに、ぺこりと頭を下げる。
傍から見ていたら、きっと不思議な光景と映ったことだろう。私がこの場所に来たときすでに彼女は立っていて、それからかれこれ二十分以上は隣に並んで立っていた。そんな二人がなぜか今さら、挨拶をしているのだから。
これが、私と水野さんとの出会いだった。
その後、私と水野さんはなんということもなくなぜか一緒に行動をした。お互い、相手に約束をすっぽかされて時間も余っていたし、このまま帰るのも勿体無い。ここで知り合ったのも何かの縁、といった感じである。
初見でどこか買い物に行ったり、遊びに出かけたりというのも難しかったので、とりあえず喫茶店に寄って話すことになった。
実は私は最初に彼女を見て、そして少し話して、『あ、彼女とはあわないかも』と思った。
それは別に、彼女の性格が悪いとか、悪い人とかそういうわけではない。むしろ真面目そうで気が利いて、嫌味のない良い人だという印象だ。
であるならなぜ、あわなさそうだと感じたかというと、いわゆる『同族嫌悪』というやつだろうか。どこか、自分自身と同じような匂いを感じ取ったのだ。
しかし、自分が最初に懸念していたことは、全くの杞憂だったということが分かった。初めの方こそ、多少はぎこちない会話だったものの、私たちはさほど時間をかけずに打ち解けることが出来た。
それは何より、蓉子さんに拠る部分が大きいだろう。
彼女は真面目であったが、真面目というだけではなかった。気配りがよく、私が話すときは上手に話を聞きだし、相槌をうち、そして自身が話すときは分かりやすく、聞くものを飽きさせない話し方だった。
非常に頭の回転が速く、知的だということを素直に感じた。私が言いたいことをすぐに感じ取ってくれるし、水野さんが話すことも整理立てられていて分かりやすい。自分の話はつまらないと言われることが多い、と蓉子さんは言ったが、その点については私と考え方や嗜好が似ている部分が多く、また会話する分野についても私にとっては全く問題なく、つまらないなんていうことはなかった。確かに、真面目な話題が多いけれど、専門的にならず噛み砕いていてわかりやすいし、水野さん自身の考え方とかも混ぜてあって、聞いていて飽きることがない。
『同族嫌悪』なんてことを考えていたけれど、話してみて水野さんを嫌いになる人なんているのだろうか、と思ってしまった。
しかも、それだけではない。
喫茶店を出てから立ち寄ったペットショップでは、子猫や子犬の姿を見て頬を緩ませていたし、ウィンドウショッピングで可愛らしい洋服を見て目を輝かせてもいて、ごく普通の、年相応の少女でもあった。
もっとも、あまりに完璧なところを見せられると、同性からは嫉妬されるという意味で嫌われることがあるかもしれないが。
そうこうしているうちに時間も瞬く間に流れ去り、結局、私と蓉子さんは夕食も一緒にとった。イタリア料理店で食べたパスタはごく平凡な味だったけれど、なぜか物凄く美味しく感じられた。
水野さんとの会話。真面目な話から、ちょっとしたくだらない話、お互いの大学生活について、たいして面白くも無い冗談。
そんなことが、とても楽しく感じられて。佐藤さんと話すのともまた違う、今までに感じたことのない雰囲気。
太っちゃう、とかいいながらデザートまで食し、お店を出る頃にはすっかり周囲は闇に包まれていた。
今日、初めて会ったとは思えないくらい、肩肘はらずに付き合うことが出来た。佐藤さんとだと、目を離せずに疲れたりすることも多々あるけれど、そういうこともなく。
だからだろうか。
別れ際、ごく自然に言うことができた。
「ねえ水野さん。美味しいケーキの店知っているんだけれど、今度一緒に行かない?」
こうして私は、水野さんと次の約束を取り付けた。
私と水野さんはそれからというもの、しばしば外で会った。軽くお茶をするだけの時もあれば、買い物をして食事をするようなこともあった。メールもやりとりするようになり、私たちは急速に仲良くなった。
「加東さんさ、最近、何かいいことあった?」
隣でノートをとっていた佐藤さんが、不意に小声で訊ねてきた。
今は、一般教養の講義で、それほど難しいことを話しているわけでもないので問題ないが、しょっちゅう話しかけてくるのはどうにかしてほしい。
そんなことを思いつつも、ペンの動きを止めてしまう自分が恨めしい。
「何で?」
「いや~、最近やけに表情明るいし。楽しそうだし」
「そうかしら」
「そうだって、絶対」
なんだかんだいって、私と一緒にいる時間が長いのは佐藤さんだろう。その佐藤さんが言うのだから、ひょっとしたらそうなのかもしれない。わざわざ、こんな嘘を言うような人でもないし。
となると、原因はなんだろうか。
思い浮かぶことと言えば、しばらく前に水野さんと知り合って……
「そういえば水」
「恋してる、って感じに見えるかな」
「のさっ……んん?!」
指先で弄んでいたペンを思わず落っことしてしまった。
「なんですって?」
「だから、誰か好きな人でもできたのかなーって」
「す、す、す、好きな人って」
私が、水野さんを?
それはもちろん、素敵な女性だと思うし、仲良くなって良かったと思うし、一緒にいて楽しいけれど、だからといって恋? 私も、相手も女だというのに?
「そ、そんなわけ」
「あれ、やけに動揺。ひょっとして図星? で、相手は誰? あ、ひょっとしてあたしだったりしてー」
嬉しそうに笑う佐藤さん。
そこでようやく、特に水野さんのことを言っているわけではないと気が付く。佐藤さんの言葉に反応して、自分で勝手に思い込んでしまったのだ。少し、落ち着く。
「そんなわけないでしょう。なんで、あなたを」
「うわ、即答? もうちょっと考えようよ、加東さんのいけずー」
ノートをとる気もないのか、腕枕にぐったりと顔を埋める佐藤さん。
だけれども、先ほどの佐藤さんの一言は、確実に私の中に波紋を生じさせたのであった。
大学の講義も終わり、バイトに向かう佐藤さんと別れて、私は一人で駅前に向かう。今日もまた、水野さんと会う約束をしていた。
歩きながら、佐藤さんの言葉が蘇ってくる。
『恋してる、って感じに見えるかな』
恋? だとしたら相手は誰なのか。疑問に思うまでも無い、脳裏に浮かんでくるのは、たった一人しかいないのだから。
大人びた、端正な顔立ちに物腰。でも、少女みたいな可愛らしい一面も持ち合わせている、一つ年下の友人。
目を閉じていても、すぐに思い浮かべることが出来る、彼女の映像。向けられる笑顔。
……あ、あれ?
な、なに、これは。水野さんのことを頭の中でイメージした途端……彼女の笑顔を思い出した途端、心臓がバクバクいいだした。
胸に手を当てると、それは気のせいなんかではないことがわかった。体がほんのりと熱くなり、顔に熱が上がってくる。
やだ、ちょっと、嘘でしょう。
そう思い、頭を左右に振ってみるものの、水野さんの姿は消えてくれない。それどころか、より鮮明になって私に迫ってくる。
「―――加東さん。どうしたの、加東さん?」
「―――っ?!」
いつの間にか待ち合わせ場所に着いていた様で、鮮明に見えたのもそのはず、水野さんそのものだったのだから。
そして、本人が目の前に現れたことによって、私の気持ちは更に激しくスパークする。
脳内で作り上げていたものとは圧倒的に異なる、リアルな彼女。やわらかそうな肌、澄んだ声、感じられる吐息、そんな、彼女から感じられる全てが私を一気に包み込む。
同時に、胸の鼓動が一段と激しくなる。
「どうかしたの?」
何も言わない私のことを不審に思ったのだろう、水野さんが問いかけてくる。
だけど私は、口を開こうとしながら、何も口にすることができない。呼吸困難に陥った魚のごとく、口をぱくぱくさせるだけ。
明らかに、挙動不審だ。
どうにかしなければ、と思っていると。
「……加東さん、なんだか顔が赤いわよ。ひょっとして、具合悪いの?」
「え、い、いえ、別にそういうわけでは……」
ようやく、それだけのことを口にしたが、水野さんは私の言葉など耳に入らないかのように、身を近づけてきた。
どぎまぎしている私をよそに、目の前まで迫ってくる。
水野さんの手があがり、私の前髪をかきあげる。そして、額にコツンとあたる、感触。
「……少し、熱いわね」
目と鼻の先に、水野さんの整った顔。
私の額に、自らの額を押し当ててきたのだ。
目を閉じることが出来ずに、水野さんの潤んだ瞳が飛び込んでくる。鼻の頭同士がかすかに触れあい、こそばゆい。水野さんの口から漏れ出た息が、熱く、甘く、私を痺れさせる。
やがて、そっと離れてゆく水野さん。
離れがたかったが、そうもいかず、ただ佇んで彼女に見惚れる。
「具合が悪いなら、無理しないで。今日は帰ったほうがいいわ」
「そ、そうね……そう、させてもらうわ」
このまま一緒に行動して、まともでいられるか自信が無かった。
私は、逃げるように帰宅したのであった。
家に帰った私は悩んでいた。
それはもちろん、水野さんのこと。なぜ、あんな気持ちになったのか。きっと昼間、佐藤さんに変なことを言われたせい。
だからそう、変に意識をしてしまったのだ。
そう思おうとしているのだけれど、水野さんのことを考えると、やっぱり胸が高鳴る自分がいて戸惑う。
単に、素敵な同性に憧れるとか、親しい相手に感じる友情とか、その類の感情ではないかとも考えたが、しっくりこない。むしろ、しっくりくるのは。
「……うそ」
両手で頬を挟むようにしておさえる。信じたくはない。
自分は女で、水野さんも女なのだ。もちろん、世の中にはそういった形の恋愛もあるとは知っているけれど、自分がそうだとはすぐには信じられないし、信じたくなかった。
でも、それでは今のこの感情はなんなのだろうか。もっともっと、水野さんを知りたい。もっとたくさん、彼女の側にいて時間を共有したい。
結論を出すこともできず、結局私は、彼女に向けているのは親しい友情なのだと無理に自分を納得させることにした。
次の日曜日、私は水野さんと美術館に行く約束をしていた。今まではなんということもなかったが、この前彼女のことを意識した途端に、これはひょっとしてデートなのではないかと考えてしまう。
いや、違う。何を考えているのか。単に、親しい友達と遊びに行くだけではないか。別に私達ではなくても、誰でもやっていること。なぜ、特別に考えてしまうのか。
分かっている。
分かっているつもりなのだけれど、それでも今までと同じような感覚で会うことなんて出来なくなっていた。
「お待たせ、加東さん。待たせちゃったかしら?」
「あ……いえ、まだ約束の二十分前だし、私が勝手に早く来ただけだから」
実は一時間も前に着いてしまっていた。明らかに、意識過剰だ。
それにしても、水野さんはいつ見ても綺麗だ。今日もまた、特に何の変哲も無いブラウスとスカートの組み合わせなのに、まるで女優さんのように輝いて見える。
「加東さん、今日はとても綺麗で可愛いわね」
「えっ……」
水野さんに見とれてぼーっとしていたら、いきなりそんなことを言われた。はっとして、自分の格好を見下ろす。
いつもは、それほど着る物に執着しない私はパンツを好むことが多い。色も、全体的にモノトーン調でまとめることが多いのだが、今日は違っていた。水野さんと会う、と思ったら、途端に今までと同じような格好をしていくのが恥しく思えてきたのだ。
アイボリーのベアトップにミントのカシュクールセーターでトップをまとめ、あわせるスカートはブラックの生地に花柄プリントのミニスカート。ひらひらの三段フリルにリボンベルトと、普段の私だったら絶対に身につけないようなコーディネート。
脚も、胸元も、スースーしてちょっと気になる。
ちなみに、下着も新品にしたのはやりすぎかもしれないが、一度気になるとどうしてもそうせずにはいられなかったのだ。
「そ、そう? 私、変じゃないかしら?」
「そんなことあるわけないじゃない、すごい素敵! 私、惚れちゃいそうよ」
軽く冗談のつもりで言ったのだろうけれど。
その言葉を耳にして、私の体温は上昇する。
「これじゃ私、加東さんに見劣りしちゃうわね。もっと、ちゃんとした格好してくればよかった」
「そんな! 水野さんは今のままで十分に綺麗だし、素敵だから!」
「えっ」
しまった、と思ったときには遅かった。私は思わず、大きな声で、力いっぱいに言ってしまった。
変な女だと思われただろうか。
不安になる。心配になる。
だけれども。
「ありがとう、加東さん」
水野さんはふんわりと、柔らかく微笑んでくれた。
その笑顔を見るだけで、私の心は何か温かいもので満たされてゆく。優しい熱が、私を包み込んでゆく。
「それじゃ、いきましょうか」
水野さんが腕時計を見る。
別に、美術館は映画と異なり時間指定があるわけではないのだが、条件反射的なものだろう。
細い手首、しなやかな指、水野さんの手に目が吸い寄せられた私は、無意識のうちに下ろされた水野さんの手に触れようと、自らの手を動かしていた。
わずかに触れたところで、その感触に自分自身が驚いて、動きが止まる。
視線を上に上げると、水野さんが私のことを見ていた。
右手の指先には、わずかに水野さんの指の感触。触れるか触れないか、微妙なところでさまよう自らの手。
また、余計なことをしてしまった。これで、変に思われたらどうしよう。
内心、おそろしく怯えながらも、体がかたまってしまい、離すことも、近づけることもできない。
そんな状態を動かしたのは、当然のごとく私ではなく水野さんで。
「……ふふ、行きましょうか」
「あ……」
ふんわりと、私の手を包み込むような、水野さんの手。
私も、おそるおそる力を入れ、そっと彼女の手を感じる。
「どうしたの、行きましょうよ」
「あ、う、うん」
まるで子供のように頷き、子供のように手を引かれる。
きっと今の私は、恥しいくらいに真っ赤になっていることだろう。
右手から伝わってくる温もりが、何物にもかえがたいものに感じる。
もはや、何も疑いようがない。
この胸の、ときめき。
私は、水野さんに恋をしているのだ―――