「加東さん、最近いいことあった?」
「――――えっ」
話しかけられて、読んでいた雑誌から顔をあげ、鏡越しに相手の顔を見る。相手もまた、鏡越しに私に微笑みかけてきている。
馴染みの美容院で、馴染みの美容師さんに髪を切ってもらっている最中。
「そんな風に、見えます?」
「そりゃ見えるわよー」
有里菜さんの手にした鋏が滑らかに動き、まるで魔法のように私の髪の毛を整えてゆく。目の前を、切り取られた髪の毛が落ちてゆく。
「加東さん、急に可愛くなったもん。あ、今までも可愛かったけれどね」
「誉めても何も出ませんよ」
なじみでもあるし、他に客がいないせいもあるのだろうが、有里菜さんの口調もいつにもましてフランクである。
「お世辞なんかじゃないんだけどな。あーあ、いいな、この後デートか」
「な、なんで分かったんですかっ」
私はそんなこと一言も口にしていないというのに。しかし有里菜さん、さも当然のような顔をして言ってくる。
「分かるわよ、加東さんの様子を見ていれば。あからさまにウキウキしているし」
「そ、そんな風に見えました?」
確かに、今日はこの後に蓉子さんとデートの約束をしており、そのために美容院に来たわけではあるが、私はごく平静を装っているつもりだった。感情を読み取らせないのは、昔から得意だったのだけれど。
「まあね、加東さんを愛している私だからこそ分かる、加東さんの微妙な変化」
有里菜さんは、お茶目な人である。しょっちゅう、こうして私に絡んでくる。
「恥しいな……」
鏡に写る私の顔も、心なしかほんのり色づいているように見える。
「あー、悔しいっ。加東さん、とうとう恋人できちゃったの? ずっとずっと、私のことは袖にしてきたのにー」
「あはは」
有里菜さんの指が、私の髪の上を舞い踊る。
「こーなったら、変な髪形にしてあげようかしら。相手から呆れられるような」
「やめてくださいよ、お金払いませんよ」
「それで加東さんが私に振り向いてくれるならー」
言いながらも、見る見るうちに綺麗にカットされてゆく私の髪の毛。店内を流れる有線のジャズを耳に、有里菜さんと適当なお喋りに興じながらの時間。
そしてやがて、有里菜さんの手が離れる。
「――はい、できあがり」
お任せにしていたが果たして仕上がりはどうかといえば、もちろん文句のない出来栄え。普段のストレートをちょっとアレンジした、フェミニンなニュアンスストレート。トップが丸みをおび、動きのある感じになっている。
私は満足の笑みを浮かべ、代金を支払う。
そのまま挨拶をして店を出ようとしたら、有里菜さんに手を握られた。
「どうかしましたか?」
振り返って訊いてみると。
「加東さん。ふられたらお姉さんがいつでも慰めてあげるから、私の胸に飛び込んでおいで。私の体はいつでもウェルカムだから」
「は、はあ……」
真剣な瞳で見つめられ。
ひょっとして有里菜さん、今までも実は本気だったのではないだろうかと訝しげながら店を出たのであった。
一旦、部屋に戻って着替えてから待ち合わせ場所に向かったせいか、少しばかり遅くなってしまった。今まで蓉子さんが約束に遅れたことなど無いし、今日も間違いなく既に来ているだろう。急ぎ足で、向かう。
案の定、待ち合わせ場所には既に蓉子さんの姿があった。
私は更に足を速めていった。
「ごめんなさい、遅れちゃった」
「ううん、そんなに待っていないから」
と、怒った様子も見せずに微笑んでくれる蓉子さん。その笑顔を見ただけで、私の心臓は跳ね上がり、体が熱くなってくる。
やっぱり、いつ見ても可愛い。
こんな可愛い人の恋人になれたんだと思うと、本当に幸せな気分になれる。
「あ、景さん髪型かえたの?」
「う、うん。どうかしら」
「すごい可愛い! 景さんて本当、髪の毛綺麗よね」
言いながら、蓉子さんの指が伸びてきて私の毛の先に触れる。首筋のあたりがくすぐられるようで、なんともむずがゆくて気恥ずかしい。目の前にいる蓉子さんからは、ほのかに柑橘系の香りが漂ってきて、私を眩ませる。
このままだと体温が限りなく上昇してしまいそうなので、私はそっと体を離した。
「そ、そろそろ行きましょうか」
「あ、そうね。遅くなっちゃうわ」
歩き出す。
すると、そっと手を握られる。
目を向ければ、にこやかな笑顔の蓉子さん。
こうして、ごく自然に手を握ってきてくれるのが、純粋に嬉しい。だけれども、いつまでたっても照れてしまうというか、恥しいというかで、嬉しいのだけれども落ち着かない。隣にいる蓉子さんの温もりが、あまりに心地よくて。
小学生かと自分自身に突っ込みをいれたくなるが、こればかりはどうしようもない。
きっと、それくらい私は蓉子さんのことが好きで好きでたまらないのだろうから。
今日のお目当ては、演劇鑑賞である。
今まで、演劇など観に行くことはなかったが、いざ実際に舞台を生で見ると、その面白さに夢中になっていた。
映画とは異なり、役者が舞台で演技をする。リアルな質感、生命力、響く玲瓏な声、どれもが私を圧倒する。
なぜ、今日まで演劇を観ようと思わなかったのか、後悔しそうになるくらいだった。もちろん、観たいと思ってもチケットだってそれなりに高価で、そうそう観に来られるものでもないのだが。
観終えたら、レストランで食事。前々から二人でチェックしていたイタリアンの店に入り、パスタとデザートを満喫する。
店を出たら夜道を散歩がてらにゆっくりと歩く。
好きな人と一緒にいる時間は、濃密な時間は、過ぎてしまうと少しばかり物悲しく感じてしまう。
今日も、楽しかったけれど別れの時間は近づいている。
「……ねえ、景さん」
「ん?」
呼ばれて、隣を歩く蓉子さんに目を移すと。
蓉子さんは私の服の袖をつまみ、そっと目を閉じた。
途端に、動悸が激しくなる。緊張に、身が強張る。今までだって、キスは何回もしているけれど、いつだって緊張する。
繁華街からは少し外れた、人気のない通り。周囲を素早く見てみたけれど、人の姿は目に入らない。
私は唾を飲み込むと、蓉子さんの肩に手を置き、ゆっくりと顔を近づけてゆく。
蓉子さんの息が感じられるくらいに近寄った、そのとき。
不意に、曲がり角の先から話し声が聞こえてきて、慌てて私と蓉子さんは体を離した。角を曲がって現れたのは、学生の集団。賑やかにお喋りをしながら通り過ぎてゆく。
結局その後、キスをする機会もなく別れることとなった。
最近、そんなことが多い。
デートはするのだけれど、なかなかキスをする機会もない。私の部屋にくれば人の目を気にする必要も無いのだが、やはりせっかくだから外出をしたい。外にいると、なかなか好機はない。そんなジレンマが、私を悩ませる。
更に、それ以上に景を悩ませること。
キスだけでは物足りないという、欲求。最近、加速度的に大きくなってくる。
今でも手を繋いだり、腕を組んだり、キスをしたりするときには物凄く緊張するというのに、それ以上のことを強く望んでいる自分がいる。だけれども、恥しいし、もしも嫌だと拒絶されたらどうしようという恐怖もあり、行動には移せない。
悶々としたやるせない日々が、私を苛ませる。
「……それで、私に相談を?」
目の前の女性が、眠そうな目で問いかけてくる。
「ええ」
俯きながらも、頷く。
休日の喫茶店は適度に人が多く、話し声もかき消されるし、人の話を気にするような人もいない。
一人で思い悩んでいても良いことがないし、この先どうすればよいのかもわからず、私はこうして江利子さんに連絡を取り、話を聞いてもらっているわけであるが。
「要するに、性的欲求を持て余していると」
「そ、そういうこと……になるのかしら」
さすがに、正面きってはっきり言われると恥しい。これではまるで、私が淫乱な女みたいではないか。
でも、実際にそうなのかもしれない。
何しろ……
「で、行き所のない性欲を溜めて、いつもどうしているの?」
「それは一人で自分を慰めて……って」
思わず口走ってしまい慌てて抑えたものの遅い。
真っ赤になりながら周囲の様子を窺うが、幸い、私のとんでもない言葉を聞きとめた人はいないようだった。
「あはは、別にいいじゃない、悪いことじゃないし。健康的な証拠よ」
江利子さんは、気にした様子もなく笑っているが、私としては笑えない。昨夜だって、蓉子さんのことを一人想い、淫らな行為に耽ってしまったのだから。
「うーん、つまり、蓉子といかがわしいことをしたいけれど、自分から言うのは恥しいし怖い、ということね」
「い、いかがわしいことって……」
確かにその通りかもしれないが、もう少し言いようがあるような気がする。しかし、冷静に考えると、こんなことを相談している自分もどうしたものだろうか。
「OK、それなら話は簡単よ」
「えっ!? ど、どういうこと」
あっさりと言い放たれ、私は思わず身を乗り出した。江利子さんはアップルティーに口をつけてから、蠱惑的な瞳で艶めかしい唇を動かす。
「蓉子の方から、景さんを求めるようにさせればよいのよ」
「えっと……」
「蓉子から求めてきたんなら、景さんの悩みは全て解決するでしょう?」
「え、ええ、まあそれは」
頷くが、そんなことが可能なのだろうか。
私の不安を見透かしたかのように、江利子さんは言葉を重ねてくる。
「蓉子だって景さんのこと好きなんだから付き合っているんでしょう。付き合いはじめたら、さらにエッチなことをしたいと思うのは蓉子だって同じよ」
「そ、そうかしら?」
何しろ、蓉子さんは真面目だ。それに、確かにつきあっているとはいえ女同士。どこまで蓉子さんが求めているのかは、分からない。同性愛者でも、性的行為には嫌悪感を示す人はいる。
「そうよ。今まで蓉子がその手の動きを見せなかったのは、景さんのガードが固いからね」
「え、わ、私っ?」
思わず声が大きくなってしまった。
だって、そんなつもりは全く無かったから。
「景さんはそう思っていても、蓉子がそう思うとは限らないでしょう。実際、私も景さんからはこう、お堅い感じを受けるし、クールな感じがするし」
「そ、そう……かしら」
言われて考えると、確かに心当たりが無いわけでもない。高校時代、いやもっと前から馴れ合いは嫌いで、同年代の他の多くの女の子達とはちょっと違うとは思っていた。友達から、冷めているね、なんて言われた記憶もある。
「そうよ。だから……蓉子が手を出したくなるような隙と色気をもっともっと見せるのよ」
「そ、そんなこと言われても、どうすれば良いのか」
戸惑っていると、江利子さんが片目を瞑り、テーブルの上にそっと身を乗り出してきた。ブラウスの胸元から僅かに覗いて見える胸の膨らみに、思わず目が吸い寄せられる。
「大丈夫。私が、"誘い受け" のテクニックを教えてあげるから」
「さ、誘い……受け?」
「ええ。蓉子もメロメロになるような」
「よ、蓉子さんが……」
ごくり、と唾を飲み込む。
「それじゃあ、ちょっと場所を移しましょうか」
江利子さんの言葉に、私は無言で頷くのであった。
☆ ☆
「珍しいね、蓉子の方から連絡くれるなんて」
いつもと変わらない呑気な顔が、私を見つめている。この前会ってから、どれくらい経っただろうか。
「聖、髪の毛切った?」
「あ、うん。これ、今までで一番短いかも。でも、短いと楽でさー」
前髪を指でつまみながら、笑う。
そんな聖の様子に、私もつられて笑った。
ここは、住宅街の中にひっそりと佇んでいる、隠れ家的なカフェテリア。だから、休日だというのにお客は私達以外には老紳士が一人いるだけだった。お店の人も必要がなければ寄ってこないし、静かに話をするにはもってこいである。もちろん、あまり大きな声を出せば聞こえてしまうけれど。
「何、相談事? 蓉子から相談なんて珍しいね、っていうかはじめてかも」
コーヒーを口にして、聖は顔を輝かせる。どうやら、お気に召したらしい。
「で、何? 景さんとどうかしたの?」
「なっ……」
まだ何も言っていないのにいきなり言い当てられて、動揺する。だけど聖は、さも当たり前のような顔をしている。
「あー、当たり? あてずっぽうだったんだけれど、ま、他に理由思いつかないし」
とにかく、勘の鋭い子である。
私は一つ息を吐き出し、聖の言葉を認めた。聖が言うとおり、私は今お付き合いしている恋人、景さんのことで相談をしにきたのだ。
「うまくいっていない……ってわけじゃないよね? この前もデートしてるし、景さんも変わった様子は見られないし」
「ええ、そういうことではないの。ただ……」
「ただ?」
言いよどむ。
ここまで来て何を迷っているのかと思うが、それでも躊躇する。心を落ち着かせるために、紅茶を一口含む。
そんな私を、聖は何も言わずに待っている。きっと私が言い出すまで、聖は優しく私のことを見つめているのだろう。
「あの……あのね、笑わないで聞いてよ?」
「うん」
ここでもう一度静かにゆっくりと深呼吸して、覚悟を決めて私は口を開いた。
「わ、私って、魅力ないのかな?」
「――――はい?」
聖が怪訝な顔をする。私は恥しさで顔が熱くなってくるのを感じたが、一度口を開いてしまった勢いで、思っていることを次々と吐き出した。
「だ、だって、付き合い始めてもう随分と経つのに、景さんってば私と手をつなぐとき笑顔が引き攣るし、なかなかキスもしてくれないし、そのキスだって私がそういう雰囲気に持っていくとようやくしてくれる感じだし、キス以上のこととなると全くしてくれる気配もないし……私にそういう魅力がないのかしらって。あ、それとももしかして、付き合うとはいっても、やっぱり女の子同士でのそういった行為に嫌悪感を持っているのかしら? だとしたら私、どうすれば」
と、そこまで一気に言ったところで。
「……ぷっ、く、くくくくくっ」
前に座っている聖が顔を伏せ、妙な呻き声を上げだした。いや、呻きというよりもむしろ。
「な、なんで笑うのよっ!?」
「あ、は、ははっ、ごめん、ごめん。でもさ、蓉子ってば」
「もういい。聖に話したのが間違いだったわ」
私は腹を立て、バッグと伝票を手にして立ち上がろうとした。
「あー、ごめんごめん! 別にそうじゃないの、蓉子が勘違いをしているからさ」
「――勘違い?」
掴まれた腕をほどき、私は再びゆっくりと席に腰を下ろした。
どういうことなのかと、目で聖に問いかける。
「蓉子が魅力がないなんてわけないって。あ、これはお世辞でもなんでもなくて、カトーさんの様子を見ていれば分かるから。デートの日とか翌日とか、明らかにウキウキしているし、幸せオーラが出ているし」
「そ、そうなの?」
「これは私の推測だけれど、多分カトーさんは照れているんだと思うよ」
「照れ……て?」
そう、なのだろうか。私は考え込む。
「カトーさんは生真面目だからね、ある意味、蓉子よりも。だからさ、もっと深い関係になりたいなら、蓉子の方から積極的にいったほうがいいんじゃないかな」
「ふ、深い関係って」
「あれー、それを望んでいるんじゃないの、蓉子は」
「そ、それは」
聖の言葉に、俯いて指先をあわせて口ごもってしまう。確かに、キスよりも先に進みたいという思いはあるけれど、面と向かって口に出されると恥しいというか、物凄く自分が淫らな人間のように感じられるというか。
「でも、カトーさんがもしもそういうの、嫌だったら……」
考えると、どうしても怯んでしまうのだ。もしもそれで、二人の関係がギクシャクしたものになってしまったら。キスですら、私が恥しいのを堪えて求める素振りを見せても、なかなかしてくれないというのに。
そんな風に私がうじうじ、ぐじぐじしていると。
聖がいきなり、指を鳴らした。静かな店内で、思いのほか大きく音が響いたようで、鳴らした聖自身がなぜかびっくりした顔をしている。
「……なに?」
「あ、あー、それだったらさ、少し試してみれば?」
「? 試すって、何を?」
私は眉をひそめる。
「だから、蓉子の方からさ、カトーさんを誘ってみるんだよ」
「誘う……って?」
「そうねー、抱きつくふりしておっぱいを押し付けたり、しゃがみこんでパンチラ、ブラチラ見せたり、もう少し大胆にいくなら……」
それから聖は、静かなカフェには全く似つかわしくないようなことを、恥ずかしげもなく述べてゆく。
聞いている私の方が赤面するようなことで、他のお客さんやお店の人に聞こえていないか、慌てて聖の口を止める。
「わ、わ、分かったから、もういいから」
「え、これくらいでもういいの? もうちょっと効果的なことはこれから」
「もう、十分に分かったから」
「そう?」
にやにやと、私のことを見ている聖。
私は無言で紅茶を口にするが、聖に言われたことを頭の中で繰り返し、考える。聖の示した内容は極端で過激だが、方向性としては一考の余地があるのではないだろうか。
あからさまに迫るようなことをしたら引かれてしまうかもしれないが、わざとらしくない状況に持ち込んで、景さんの反応を見るというのは一つの手である。もしも景さんにその気がないようであれば、誤魔化してしまえばよい。あとは、いかにしてそういうシチュエーションに持ち込むかである。
私は真剣に考え始めるのであった。