ゆかりは疲れていた。星獲りなんかで疲れたわけではない、まさか学園祭での出し物がこんなにも疲れるものだとは思いもしなかった。
クラスのメイド喫茶で、メイド服を着ての接客。他のクラスもかなりの割合でメイドが出し物ということで、メイド服を身に着けていたところで目立つわけでもないのだが、それでもなんとなく、精神的に疲労した。
そんなわけで、学園最初日も終わりが近くなると、ぐったりとしつつあった。このままの流れで行けば、今日は星獲りもなさそうだし、少しくらい気を抜いても大丈夫だろうと、人気のない裏庭に歩いて行き、木陰のベンチに腰をおろした。
おそらく、星獲りは明日、大物獲りになるはずだ。今くらいは、ゆっくりと、気を抜いてもよいだろう。
いつしかゆかりは、うとうとと、眠りの世界に誘われていった。
ふと、側に人の気配を感じた。
優しい、ごく自然な空気。人に寝顔を見られるなんて恥ずかしい、起きなくては、なんて脳の奥の奥で少しは思うものの、睡眠欲という強い欲求にそう簡単にかなうわけもなく、意識は目覚めない。
近くに寄ってきた気配は、笑ったような気がした。
そして。
「…………」
唇に押し付けられる、暖かくて、柔らかい感触。
いい香りがして、心地よくて、いつまででも味わっていたいような、そんな感じ。ゆかりは自然と、唇で「それ」を軽く挟み込むようにして、舌をのばした。つるりとした感触が、舌先に伝わってくる。同時に、熱を帯びた空気が鼻先をかすめる。
まるで、キスされているみたいだと、思った。
「…………ん?」
少しずつ、思考がクリアになる。
キス?
まさか、無防備に寝ているところを襲われた? まさか、順あたりの淫魔にだろうか。いや、順はあれでも本命にしか本当に手は出さない。
では、これは。
目を、開けると。
すぐ目の前に、白くて、つるつるとした、丸い物体が。
「…………にくまん?」
「ぶぶー、中華まんでした」
そう言ってにっこりと微笑んでいるのは、ゆかりの刃友である槙。右手につかんでいる中華まんを、ゆかりの目の前に突き出している。左手にも、同じものをもう一つ。
「屋台で売っていたのが美味しそうだから、買ってきたの。どう、ゆかりも」
「はあ……」
まだ寝起きで、少し鈍い。ゆかりは目をこすって、ぱちくりとまたたきする。ゆかりのそんな様子を見て、槙は笑いながら隣に腰をおろす。
「ふふ、かわいい。そんなゆかりの姿、あまり見られないものね」
「もう、やめてください」
「ごめんね、はい、これ」
と言って、中華まんを一つ、渡してくれる。手のひらの上で、ほかほかと温かな中華まんが、ゆかりのことを見つめている。
「はあ……中華まんだったんですか。私はてっきり、キ……」
言いかけて、慌てて口を噤む。
「てっきり、どうしたのかしら?」
槙は、ゆかりの顔をのぞきこむようにして訊いてくる。
「……な、なんでも、ありません」
ぷいと、反対側を向く。
キスされていたと思っていた、なんて言えるわけがない。言ったら言ったで、誰にされていると思ったのかとか、色々と尋ねてくるに決まっているのだから。
楽しそうな顔をして中華まんにかじりつく槙を横目に、ゆかりも手にした中華まんを食べようと、小さな口を開く。
「…………あれ?」
かじろうとした瞬間、止まる。
何か今、変な感じがしたのだ。
「どうかしたの、ゆかり?」
槙も、いきなり動きを止めたゆかりを不審に思ったのか、食べるのを中断して見つめてくる。
横目でもう一度、槙の様子をうかがう。
いつもと変わらない、どこかのんびりとした表情と雰囲気、優しさがにじみ出てくるような目の優しさ、夕日をあびてほんのりとオレンジ色に輝く白い肌、そして。
「……あ」
気がついた。
槙の唇に、違和感の原因があった。
それは、槙のつけているルージュとは明らかに色の異なる赤い色がついていること。見間違えようがない、ゆかりが今日、メイド服に似合うだろうと思って選んだルージュの色だった。
無意識に、指で自分の唇をそっとなぞる。
「どうかしたの?」
さらに至近に迫ってきて、思わず後ずさりそうになるが、狭いベンチで逃げようもない。ゆかりの目には、槙の唇が30倍ズームで迫ってくるように見える。
「な、な、な、なんでもないですっ」
明らかになんでもあるような真っ赤な顔をして、それでもどうにか槙の艶めく唇から視線をはがす。
「そお?」
槙は指で顎をつつきながら、何やら考える素振り。ゆかりはもはや余裕もなく、がちがちになって固まっている。
頭の中は、先ほどの唇の感触のことで一杯。隣で無邪気に中華まんを頬張っている槙の姿が、逆にどこか恨めしい。
「ねえ、ゆかり」
「な、なんですか」
「ゆかりのメイドさん、凄い可愛いわ」
「か、からかわないでください」
「からかってなんかいないわ、本当よ。ねえ、台詞、言ってみてよ」
「やですよ、もう、クラスの出し物は今日は終わったんですから」
「お願い、いいじゃない」
「はあ……しようがないですね」
ため息をつきつつも、要望に応えてあげる。これで、話がずれてくれるならばと思って。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
すました、メイド口調。
すると。
「ただいま、ゆかり。あなたの作ってくれた中華まん、とても美味しかったわ」
「は? いえ、中華まんは先輩が買ってきてくれて……」
「あなたの作ってくれた中華まん、とても美味しかったわ」
にこにこと笑いながら、同じ台詞を繰り返す槙。どうやら、お嬢様とメイドごっこはまだ続いているようだった。
内心でため息を吐き出しながら、ゆかりは仕方なく付き合うことにする。
「ありがとうございます。お嬢様のために心を込めておつくり致しました」
「でも、ちょっと油っこかったわね」
「それは、申し訳ありませんでした。次回は、気をつけるように致します」
ぺこりと、頭を下げる。
「唇が油でべたべたするわ。ゆかり、貴女、責任を取って綺麗にしなさい」
「……は?」
顔を上げてみると、なんと槙は目を閉じ、軽く唇を突き出すようにしている。その姿を見て、ゆかりは激しく動揺する。
「あ、あの、先輩?」
「…………」
「……ま、槙お嬢様?」
「早くなさい」
姿勢を変えずに、槙は言う。
ゆかりはおろおろと周囲を見渡しつつ、目の前の槙を見て、その後もまた何度も何度も周囲に目をはしらせてから、ようやく動きを止める。
とはいっても、目はまだせわしなく泳いでいるし、手も宙をさまよっている。
槙は無言のプレッシャーをかけてくる。
ごくり、と唾をのみこむと、ゆかりは槙の頬に手を添え、ゆっくりと上半身を乗り出すようにして顔を近づけていく。
油でほんのりと光る槙の唇を見つめると、自分の唇を上に重ねる。
「んっ……」
心臓が、早鐘のように脈打つ。
口を離す。
「もう、綺麗になったの?」
「いえ……ま、まだです」
「のろまなメイドね。そんな娘には、お仕置きしちゃうわよ?」
「え……ひあっ!?」
槙の手がのびて、ゆかりの太腿を撫でていた。その指は大胆に動きを見せ、ゆかりの内腿をなぞり、スカートの裾をめくるようにして大事な部分に近づいてくる。
「だ……駄目です、お嬢様」
「ふふ、それなら早く、私の唇を綺麗にしてちょうだい」
「は、はい……ん、ふぅっ……ん」
舌を出し、ちろちろと槙の唇を舐めとる。
槙の指は、ゆかりの太腿とショーツの境目あたりを行ったり来たりして、じりじりとゆかりを攻めていく。
「はあっ、はぁ、ん、ちゅっ」
必死に、唇を綺麗に舐めとろうとするが、槙の指がゆかりの集中力を断つ。槙の手はするりと動き、お尻の方にまわった。
「ひあんっ! あ、ん、だ、駄目ぇ、槙お嬢様ぁ」
「何が駄目なのかしら? むしろ駄目なのはあなたの方じゃないの、ゆかり。私の唇を綺麗にするはずが、あなたの唾液で口のまわりがべたべただわ」
「申し訳ありま……ふあぁっ」
言っているそばから、ゆかりの口の端から涎があふれ出し、槙の口に注がれる。
「もっとキツイお仕置きが必要なのかしら?」
言うなり、新たな刺激がゆかりを襲う。槙の空いているもう片方の手が、ゆかりの胸をつかんできたのだ。
メイド服のブラウス越しに、ゆっくりと揉まれる。
「けっこう、大きいのね。お尻も、柔らかいわ」
「はぁ、お、お嬢様……」
「早くしないと、もっとお仕置きしちゃうわよ。それとも、お仕置きされたいのかしら? ふふ、ゆかりはいやらしい娘ね」
「そ、そんなことは……ん、ちゅっ、ちゅっ……」
必死になって槙の唇のまわりを綺麗にしようとするが、一生懸命になるほど、汚していくことになる。
「これは本当に、んっ、お仕置きされ、ちゅ、されたいと思っているようね……ん」
「ち、違っ、あぁ、んちゅ、は、あ」
槙の手は、とうとうショーツの中に滑り込んできた。
「だ、駄目です、お嬢様っ、そんなことされたら、私、もうっ……」
「どうしたの? 言ってごらんなさい」
「駄目ですっ……うぅ、出ちゃ、も、漏れちゃ……いやぁ」
ぶるぶると、涙目で体を震わす。
そんなゆかりの姿を見ても、槙の指は容赦なくゆかりを攻め立てる。
「あらあら、まさかいい歳してお漏らしなんかするんじゃないでしょうね。うふふ、でもいいわ。ゆかりの恥ずかしい姿、私に見せて頂戴」
「いやぁ、私、そんな姿見られ……や、あ、ああああっ!!!」
頭の中が真っ白になる。
次の、瞬間。
「――ゆかり。ゆかりったら、どうしたの?」
目を開けると、槙の顔。
「……え?」
ほんのりと頬を朱に染めた槙が、目の前から見つめてくる。
そして、ふにゃり、と表情を崩す。
「えへへ、でも、まさかゆかりにキスされるとは、思っていなかったわ」
「え……え、え?」
照れている槙に、呆然とする。
槙は一人、恥ずかしそうに髪の毛を手でかいて、続ける。
「唇を綺麗にしてって言ったら、まさかキスしてくるなんてね。私は、可愛いメイドさんにハンカチか何かで拭いてほしいなって思っただけなんだけれど」
照れまくりの槙。かなりだらしない顔になっている。
「ええと……あ、あれ、先輩、お、お仕置きは」
「へ? お仕置き? や、やだ、私、そういうの……で、でもゆかりにされるんだったら、少しくらいなら」
と、なぜか満更でもないように顔を赤らめる槙。
ゆかりのメイド服に乱れもなく、槙の口のまわりも汚れてはいない。しいて言えば、ゆかりの唇の色がさらに付着したくらいか。
どうやら、キスしたことによってスパークしたゆかりの脳が描き出した妄想だったと理解して、ほっと一息。同時に、あんな淫らな妄想をしてしまった自分が、とんでもなくいやらしい女なのではないかと、羞恥心が一気に浮上してくる。
「せ、先輩がいけないんですよっ。あ、あんなこと言われて、あんな態度されたら、誰だってキスをせがまれているように思うじゃないですかっ」
だから照れ隠しに、怒ってみせる。
「えー、そう? でも、そう思ったからって、本当にキスする?」
「そりゃ、好きでもない人にキスなんてしませんっ。私は、先輩だったから……あっ」
口を閉じるが、時すでに遅し。
さすがに、そこまで口にすれば誰でも気がつく。実際、槙もゆかりの言葉を聞いて、恥ずかしそうな、でも嬉しそうな顔をしている。
「あ、はは、ありがとう、うん。私も、ゆかりだったから全然嫌じゃなかった、というかむしろ、嬉しかった、うん」
「え、そ、それって」
槙の言葉の意味を悟り、体が熱くなる。いや、実のところ先ほどの妄想のせいで、すでに全身が熱を帯びているのだが。
「へへー、でも、あー、ゆかりにキスされちゃった……うふふ」
両手で頬を挟み、くねくねと体を左右に揺らす。
「ああもう、だから、そういう言い方しないでくださいよ。それじゃあ、まるで私の方が強引にしたみたいじゃないですか」
「え、だって事実そうでしょう?」
「違いますっ」
「じゃあ、さっきのは?」
「あ、あれは……先輩が、口を拭けっていうから、それで、あの」
「ふーん。じゃあ、もう一回、口を拭いてくれる?」
「へっ?」
ゆかりが目を丸くしている前で、槙は先ほどと同じように目を閉じ、顎をちょこんと上げて、口をわずかに開いた状態でゆかりに対する。
魅惑的な光沢を放つ唇がゆかりを魅了し、ふらふらと、吸い寄せられていく。
あとわずかでまた唇が重なるというところで、槙が逃げるように体を後ろに退いた。しかしゆかりは手をのばして逃げる頭を両手で挟み込むと、力を込めて引きよせて唇に吸いついた。舌で槙の唇をなぞり、唇で唇を噛み、さらに舌を槙の口内に差し入れ、槙の舌に絡め、歯茎を嬲り、唾液を啜る。
「はっ……あ、はぁっ」
たっぷり、三十秒ほどはキスしていただろうか。充分に堪能したゆかりは、のぼせたような顔をして口を離した。
一方の槙も、呆然としたような表情。
「す……すごいわね、ゆかり。あんなディープキス……私」
「え、あっ、すす、すみませんっ」
「いいけれど、今のは完全に、私が、ゆかりにキスされたわよね、強引に」
「ええと……はい」
何も言い返すことが出来ない。
「うん、そういうこと。私はゆかりに強引に唇を奪われた、と」
「……もう、それでいいです」
反論するのを諦めたように、細く息をつくゆかり。
「それじゃ、そろそろ戻りましょうか……て、あれ?」
「どうかしたんですか、先輩?」
「あはは……さっきのキスがあまりに強烈だったから、あ、足腰たたなくなっちゃったみたい」
どうにか力を入れて腰を浮かせようとしているが、足が震えて、一ミリもお尻が浮かないようである。
仕方なく、ゆかりは肩を貸す。
「ごめんね、頼りない先輩で」
「そんなことないですよ」
「でも、と、わっ」
「きゃっ、し、しっかりしてください」
「ふふ、ゆかり」
肩に寄りかかっていた槙が、くるんと回転するようにして正面にまわりこみ、抱き合う格好になる。
「ねえゆかり、どんな人にだったら、キス、するんだっけ?」
分かっているだろうに、わざとらしく首を小さく傾げて訊いてくる。黙ってやり過ごそうかと思ったが、「ねえ?」と続けて尋ねられて、ゆかりは渋々、小さな声で答えた。
「……す、好きな人だったら、です」
「ありがと、それは、私も同じよ」
「え……」
ふわりと、まるで新雪に触れたかのような感触、でも冷たくなくて、春の小川のような潤いと心地よさ。
「せ、先輩?」
「……そういうこと、と、自惚れてもいいのよね?」
「わ、私の口から言わせないでください、先輩の方が年上なんですから」
「でも、強引に迫ってきたのはゆかりの方じゃない」
「だ、だからぁ、またそういうこと言って」
「うふふ、照れなくてもいいのに」
学園祭の騒々しさの余韻が残る中、人気の少ない校舎裏で抱き合い、言い合う二人。真面目だけどどこか抜けていて、マイペースだけど優柔不断、先輩だけれどどこか守ってあげたくなる。
そんな、上条槙という少女に。
いつしかゆかりは、完全に魅せられていたのであった。
おしまい