春。
それは暖かくさわやかで、過ごしやすく優しいイメージのある季節。『春が来た』なんて言うくらいだから、嬉しいとか幸せなことを最も感じさせてくれる季節。
暦の上ではすでに春だけれども、三奈子にはまだ春は訪れていなかった。
果たしてこれから見事に春を迎えられるのか、それともまた一年、極寒の冬に突入してしまうか、全ては今日にかかっていた。
「……遅い」
すでに授業終わりのベルが鳴ってから、三十分以上が過ぎている。
苛々とした気持ちと不安な思いを抱えながら、三奈子はただ待ち続ける。
三月に入って、さすがに寒さは随分とやわらいではいたけれど、元来寒がりの三奈子としては、まだまだ上着は手放せない。
やるだけのことはやったという気持ちはある。でも、結果がついてこなければどうしようもないのだ。
最近では、たとえば運動会とかでも順位をつけないとか、ナンバーワンじゃなくてもオンリーワンであればよいとか、とかく勝ち負けを気にしないように、傷つかないようにといった風潮が広がっているようだけれども、三奈子としてはそれもどうなのだろうかと思う。
確かに、生まれつき運動神経がそれほどよくない人とか、勉強が苦手な人とか、順位をつけられるというのは嫌だろうと思う。それだけで自分の価値が下がってしまうと感じてしまう人もいるだろう。実際、三奈子だって小学生の頃の体育では鉄棒が大の苦手で逆上がりも出来ず、料理や裁縫はいまだに苦手だし、音楽では縦笛だってろくに吹くことができずに、それぞれの教科で最低の成績を取って泣いたこともあった。
でも、だから頑張った。
成績や順位が全てだとは思わないけれど、目に見える目標があるから頑張れたし、喜びもあった。
……まあ、結果が必ずしもついてきたとは限らないけれど。
とにかくそういうことなので、全力を尽くせばそれでよし、というものも確かにあるだろうけれど、今回はそういうわけにはいかない。やはり、結果を出さないと意味がない。
だからこそ、結果を知るのが怖いのだ。
「……ああ、もう」
怖さを誤魔化すかのように頭を振る。
それにしても一体、何をやっているのだろうか。こんなに人を待たせるとは、マナーがなっていないのではなかろうか。
怒りがふつふつと沸きはじめた頃、ようやくその姿が視界に入った。
「祐麒くん、遅い!」
「うわあっ?!」
突然、横から大きな声をかけられて、文字通り祐麒は飛び上がった。
跳ねる心臓をなだめながら声の方に顔を向けると、そこには見慣れた彼女の姿があった。
「み、三奈子さん?!な、なんでここに」
花寺の生徒も沢山いる校門のすぐ側で、三奈子さんはその姿を衆目にさらしていた。前にもこんなことがあったな、などと冷静に考えている場合ではない。男子校にあって、女の子の存在というのはひどく目立つ。
特に今日の三奈子さんのいでたちはといえば、フェイクファーの白のジャケット、その下に覗くインナーも白のニット。スカートはこれまた白のアシメトリーデザインのラップ風スカート。ブーツだけがピンクでポイントとなっているが、全体的に白くて可愛らしくて、とても女の子らしいコーディネートではあるのだが、詰襟黒ずくめの男子校の中ではとにかく目だって異彩を放っている。
当然のごとく周囲の視線も集中しているのだが、本人はそんなこと気にもしていないというか気がついていないというか。
「何でって、お願いだから一緒に行ってよ」
「行くって、ど、どこに」
周りで様子をうかがっている連中の視線が痛かった。すぐ隣にいる小林は、何も言わずに興味深そうにこちらのことを眺めている。
「一人で行くの、なんだか怖くって……」
三奈子さんは人の言うことを聞いているのかいないのか、そわそわと落ち着きない様子である。一体、なんだというのか。
「あの、だって、私、デキたのかどうか……」
「へっ?!」
「ゆゆゆゆユキチっ?!お、おまえ、まさかっ?!だから、あれほど気をつけろとっ!」
小林が驚愕の表情でこちらを見やる。
「ちょっと待て!」
しかし三奈子さんは一人続ける。
どこか怯えたような表情で、祐麒のことを見つめてくる。
「私、一人で結果知るの不安で……お願いだから、一緒に来てよー」
「そ、そうだユキチ、そういうことなら一緒に行ってやれ」
「そういうことって、どういうことだよ?!大きな勘違いしていないか?」
「ねえ、祐麒くん、私もしも……ああ、どうしよう」
「大丈夫です、三奈子さん!万が一のときにはコイツにきちんと責任とらせますから。あと一年もしたら十八になりますし」
「おい、小林?!」
いきなり余計なことを言い出した小林を睨むと。
「そうですよ、それに、俺らカンパします!」
「校内新聞にもこのことは載せないようにしますから」
「二人のこと応援します!」
「俺にも女の子紹介してください!」
周囲で様子を見ていた連中もいつのまにやら近くに寄ってきて、口々に勝手なことを言い出し始めた。中にはどさくさにまぎれて、わけのわからないことを口にしているやつもいるが。
呆然としていると、不意に肩を叩かれた。
振り向くと、涙目の小林と視線があった。
「……ユキチ、グッドラック!」
「やかましい!!」
小林の頭をはたき、学園の連中が見守る異様な雰囲気の中、三奈子さんを引き連れるようにして学園を後にした。
「……うわぁ、明日からとんでもないことになりそうだなあ」
「なんか、面白い人が多いね、花寺って」
「三奈子さん、本当は分かって言っているんじゃないでしょうね?」
「ん、何が?」
無邪気な顔をして聞き返してくる三奈子さん。
その顔を見ていると、何も言えなくなってしまう。
「で、結局、今日はなんなんですか?」
諦めて、そもそもの要件を聞いてみると、三奈子さんは頬を膨らませて怒り出した。
「だーかーら、大学の合格発表、結果見るのが怖いから一緒に来てって言っているじゃない」
「そうですか……」
「そうよ?」
「それにしても、合格発表見に行くのにその格好はなんですか。うちの学園で、めちゃくちゃ目立っていましたよ」
上から下まで白くて鮮やかなコーディネートを指摘する。リリアンなら普通こういうとき、学校指定の制服で行きそうなものなのに。
「なんでって言われても、花寺に行こうと思ったからで……あれ、それだけかな?」
首を傾げる三奈子さん。
天然の人に理由を聞いても無駄なのかもしれない。祐麒は大学受験のことに話を変えた。
聞くと、今日これから合格発表を見にいくところが本命の大学ということで、相当緊張をしているらしい。手ごたえはどうだったのかと聞くと、やるだけのことはやったけれど分からない、とのこと。
他にも何校か受けていて、とりあえず滑り止めの学校には受かったらしい。
「でもさ、今考えると不思議なんだけど、なんで滑り止めって受けたんだろうね。そこしか受からなかったとして、そこに行くとも限らないのに……勿論、入ることよりも入った後の方が大事だし、滑り止めっていっても行きたくない学校ってわけじゃないし」
「浪人するのがいやじゃないからですかね」
「まあねー。あ、でも私が浪人したら、祐麒くんと同級生になれるかもね」
不安を隠すためなのか、いつも饒舌ではあるけれど、どこか早口でまくしたてるように喋り続ける三奈子さん。
自分が一緒に行ったところで、何ができるわけでもない。
既に入試自体は終わっているし、結果を今更どうこうできるわけでもない。
三奈子さんが受かっていれば、問題ない。でももし、落ちていたら自分はどんな態度をすればよいのだろうか。
漠然とした気持ちを抱えながらも、自分が暗い顔をしていてはいけないと極力、明るい顔をして並んで歩き、電車を乗り継ぎ、やがて目的の大学にたどり着いた。やはり同様に合格発表を見に来ている人が、次々と門の中に吸い込まれていく。もちろん、すでに見終えたのか門から出てくる人もいて、その中では笑顔で喜んでいたり、曖昧な笑みをうかべていたり、暗い表情で落ち込んでいたりと、さまざまな人の姿が見られた。
「さ、行きましょうか、三奈子さん……」
声をかけて、いざ進もうかとすると。
とうの三奈子さんは、硬い表情で門を凝視して動かなかった。
注意して見てみれば、握られた拳がかすかに震えているのが分かった。
「三奈子さん、ここまで来たら行くしかないんだから」
「分かっているけど、ちょっと、心の準備が」
普段は突っ走りがちなくせに、こういうところではやけに小心になる。いや、それだけこの大学に入りたいという熱意が本物なのか。
「……しようがないな」
だから祐麒は、意を決して。
「ほら、行きますよ」
「あっ、ゆ、祐麒くんっ?!」
震える三奈子さんの手を握ると、引っ張るようにして歩き出した。
「もう、覚悟を決めてください」
「ちょちょ、ちょっと待ってよ」
「このために、俺に一緒に来るよう、言ったんでしょう」
「そうなんだけど、ああ、でも」
まだ何かぶつぶつと言っている三奈子さんだけれども。
握った手から伝わってくる震えは次第に弱くなり、いつの間にか完全になくなっていた。
「で、何番なんですか、受験番号は」
「ええとね、375番。"みなこ"ってね、縁起がいいでしょう」
ポケットから取り出した受験票を顔の前にかざしてみせて、ウィンクをする。ここにきて余裕が出てきたかのように見えるが、受験票が上下さかさまになっているので内心はまだ落ち着いていないことが分かる。
合格発表掲示板の前では、歓喜の叫び声があがったり、逆に失意の叫びが響いたりしていて、また離れたところではテレビでしか見たことのない胴上げなんかされている人がいたりして。
「じゃあ、ほら見てきてください」
「え、ええっ、一緒に来てくれるんじゃないのっ」
「ここまできたら、こういうのは自分で見ないと駄目でしょう」
受かっているのだとしたら真っ先に見たいだろうし、落ちているのだとしたら本人になんと言っていいのか分からない。
「ええ~、ねえ、一緒に行ってよぉ」
しようがない、と思いつつも並んで掲示板の前に行く。
三奈子さんは、真剣な目で掲示板に並ぶ数字の列を追いかけていた。
こういうとき、待っている祐麒も辛い。
そして、やがて。
「…………ない……」
「え」
絶望的な響きを持った声が耳に入ってきた。
見ると、心なしか蒼い顔をして、震えるように掲示板を見つめる三奈子さんの姿がそこにあった。
「やっぱり、無理だったのかなぁ」
がっくりとうなだれる。
しかし祐麒は、落ち着いていた。
「……三奈子さん、さっきの受験票、見せてください」
「え?」
訝しげに出した受験票を見て、次に掲示板に目を移してため息をつく。もしかしたらとは思っていたけれど、こうまで予想通りだとある意味清々しい。
「見てる学科、違くありませんか?」
「え、ウソっ?!」
受験票をひったくるように奪うと目の前に持っていって食い入るようにして見つめ、合格発表の板に視線を移す。
「あ、ホントだ?!そっか、この学校は他と学科違うんだった」
「しっかりしてくださいよ」
「え、じゃあ、これはっ……?!」
「うわわっ」
祐麒の手を掴んで三奈子さんは人の間を縫うようにして走り出し、異なる発表版の前に来て止まった。
「…………」
息を切らせながら掲示板を見上げる。
「あっ…………た……」
呆然としたように呟く三奈子さん。
見ると、"00375"の番号は見事に合格者の数字の中にあって、輝いていた。
「おめでとう、三奈子さん」
素直に、祝福の言葉を贈ると。
信じられない、といった感じで見入っていた三奈子さんが祐麒の方に顔を向ける。そして、その表情は徐々に歓喜のものへと変わってゆき。
「――やった、受かった!受かったよ、祐麒くんっ!!」
「わあっ?!」
突然、祐麒に飛び掛ってきた。
(―――み、三奈子さんっ?!)
言おうとしたが、声にならなかった。
顔に押し付けられる、柔らかく弾力のある膨らみが、幻暈感を伴うような甘い香りで包み込んでくる。
また、両の手のひらに伝わってくる、暖かくて、柔らかくも張りのある感触。
それが、抱きついてきた三奈子さんの意外に豊満な胸であり、また抱きとめる形となった手が触れたお尻であると理解すると、祐麒の脳髄はスパークしそうになった。
押し返そうにも、感極まった三奈子さんは想像を超える強い力で祐麒の頭部をがっちりとロックして離さない。勢いよくとびつかれたため、祐麒は三奈子さんを抱きかかえる格好のまま、転ばないようにバランスをとってふらふらとその場で回転する。
「あはは、うわ、やったよ、やったーー!」
歓声をあげて喜んでいる三奈子さんを支え、ようやくのことでその体を地面に降ろすと、二人は正面から抱き合う形となっていた。
目と鼻の先に、喜びに満ちた三奈子さんの顔がある。
手は腰に回されている。服の上からにもかかわらず、触ってみて、こんなにも細いものなのかと少しびっくりする。
そしてそれ以上に、あとちょっと顔を近づければお互いの唇が触れてしまいそうな距離に胸が高鳴る。間近で見つめても、やっぱり三奈子さんは綺麗だった。いや、嬉しさを前面に押し出している今の表情は、むしろ可愛いといったほうがいいかもしれない。
顔の後ろに回された三奈子さんの指がうなじに触れ、電気で痺れたかのような刺激が背筋を走る。
吐き出された白い息が首筋をくすぐり、きらきらと光る瞳は底が見えないくらいに深くて、じっと見つめられるとどこまでも吸い込まれそうになる。
どうにかなってしまいそうだ、そう思った瞬間、祐麒の腕をすり抜けるようにして三奈子さんはその身を離した。
「ねえ、お祝いを兼ねて、どこか遊びに行こうよ!」
祐麒の心の中などお構いなしに、元気に言う。
「めでたく合格して、受験も終わって、うーん、今まで遊べなかった分を取り戻すぞー!」
元気よく、気勢をあげる三奈子さん。
さっきみたいなことがあっても、三奈子さんは何も感じたりはしないのだろうかと内心では思いながらも、いつものように引きずられていってしまう。
そしてすぐに三奈子さんのペースに乗せられ、ちょっとした疑問も忘れてしまう。
何より、三奈子さんの心からの笑顔を見ていると、そんなことはどうでもいいような気がしてしまうから。
彼女の笑顔を見られることが、一番大事だと思えてしまうから。
街に繰り出してからの三奈子さんは、リミッターが外れたかのようにはしゃいでいた。第一志望の大学に見事に合格したこと、長かった受験がようやく終了したこと、受験期間中のストレスから解放されたこと、それら全ての要素が掛け合わさったせいだろう。
デパートでショッピングして、軽く食事をして、ゲームセンターではしゃいで、カラオケで熱唱して。
全てに付き合わされた祐麒も疲れはしたけれど、それ以上に三奈子さんの方が疲労したようで。
前から思っていたけれど、三奈子さんは何をやるにしても全力でぶつかっていく。それはもう、傍から見ていて呆れるというか、気持ちいいくらいに全力で。だから、時には暴走してとんでもないことにもなったりするけれど、周囲に迷惑をかけたりするけれど、憎みきれないのだ。
そして、今。
「…………」
カラオケボックスの中、今までの疲れが押し寄せてきたのか、三奈子さんはいつの間にか眠ってしまっていた。緊張で昨夜はなかなか寝付けなかったというから、そのせいもあるのだろう。
「う~ん……」
三奈子さんがなにやら寝言をつぶやく。寝息が聞こえてくる。
そう、三奈子さんは祐麒の肩にもたれかかって安らかに眠っていた。
祐麒は、肩にかかる三奈子さんの重さを感じ、インナーを着ていてもはっきりと分かる胸の膨らみにどぎまぎし、スカートから覗いた膝小僧になぜか目を奪われ、自分の太ももに置かれた三奈子さんの手に体が熱くなっていた。
顔を少し動かすと、鼻の頭に三奈子さんの髪の毛が触れ、こそばゆい。
「まいったな……」
体を動かしたくても三奈子さんを起こしてしまいそうで出来ない。しかし、この状況で動けないというのは拷問に近い。祐麒自身、自分の中の悪魔と天使がつばぜり合いをしているように感じられた。
本当に、三奈子さんは祐麒のことを安全だと信じて無防備な姿をさらしてくるのだろうか。だとすると、少しばかり微妙な心境にもなってくる。男として、全く意識されていないということだから。
「全く……」
「ううん……」
少し身じろぎした三奈子さんの長い睫毛がかすかに震える。
寝言だろうか、何か呟いている。なぜか気になって、祐麒は少し耳を近づけてみた。
「……ん……祐麒くんはぁ……」
三奈子さんの口がもごもごと上下する。
人の名を呼んで、どんな夢を見ているというのだろうか。さらに耳を澄ますと。
「…………滑り止めなんかじゃ、ないよ……」
その一言に。
身体も心も、固まって。
「なっ……」
変わらず寝息は規則正しく聞こえてくる。
意識して口にしたわけではないだろうが、さりとて本心なのか嘘なのかも判断はつきかねる。
ちょっと手を伸ばせばその肌に、その髪に、幾らでも触れることはできるのに、心はどこにあるのか想像もつかない。
なんて、ずるいのだろうか。
祐麒はそっと手を伸ばして、滑らかな三奈子さんの髪の毛を指で梳いた。
と、その時、室内のベルが甲高い音で鳴り出した。
「ふわっ?!……あ、わたし、寝ちゃってた?」
音にびっくりして三奈子さんはびくりと体を起こし、目をこすりながら室内を見回す。祐麒は受話器を取るために立ち上がり、ごく自然なふりを装って三奈子さんから体を離した。
もし、この時間終了5分前を告げるベルが鳴らなかったらどうなっていただろう。
そんなことを考えながら、祐麒は店を出たのであった。
暗くなった道を歩き、別れ際。
三奈子さんは振り向いて無邪気な笑顔を見せて。
「じゃあ、またね。4月になったら、キャンパス案内してあげるね」
すでに気持ちは大学生活に羽ばたいているようだった。
でもその一言で、大学生になっても祐麒と会う気があるのだなと分かった。そして、それを知って内心で喜んでいる自分がいることにも気がついた。
「楽しみにしてますよ」
素直にそう返してから、そんな自分の内心に驚いていない自分がいることを知る。
振り回されていながらも、いつの間にか三奈子さんと会うのが普通になっていることをごく自然に受け止めていた。
「……三奈子さん。合格、おめでとう」
改めて、口にする。
すると三奈子さんはちょっとびっくりしたようだったけれど、すぐに柔らかい表情になって。
「ありがと、祐麒くん」
月光に照らされた三奈子さんの姿がとても綺麗に映えて見えたのは、鮮やかな白い服を着ているからだけではないように思えるのであった。
……ちなみに翌日、祐麒が学院に登校すると、すでにカンパが始まっていた。
おしまい