授業が全て終了し、部活動にいそしむ他の生徒たちを横目に小林少年は帰宅するところであった。これから真っ直ぐ自宅に帰るか、それともどこかに寄り道して時間をつぶしていくか、毎週読んでいる週刊誌が今日発売されているはずだから立ち読みでもしていくか、などと特にたいしたことを考えるでもない、いつもと変わらないごく普通の放課後だった。
しかし、校門から一歩、外に足を踏み出したところで立ち止まる。
少し離れたところ、さほど目立つ場所ではないが、かといって誰の目にも触れないような場所でもない一角に、一人の人物の姿を目にした。
小林は、何気ない風にして近づいていった。あと5メートル、というところでその人物も小林が歩いてくることに気が付いたのか、顔を上げて視線を向けてくる。
爽やかに手を上げて、挨拶をする。
「こんにちは」
「?」
いきなり声をかけられて、その人は怪訝そうに首を傾げる。
「ええと、三奈子さん、ですよね?俺、ユキチ……福沢祐麒くんの友達で、小林っていいます」
「ああ、祐麒くんのお友達」
そこでようやくその女性、三奈子さんは少し口元をほころばせた。
「わたしは、アリスです」
実は小林の隣にいたアリスも、ぺこりと頭を下げる。
「こんにちは、小林くんに、アリス、ね。よろしくね」
と、人懐っこい笑顔を見せる。
三奈子さんは、生徒会の仲間にして友人である祐麒の彼女だ。祐麒自身は照れているのか恥しがっているのか、ことあるごとに違うと反論してくるのだが、説得力は全くない。しばらく前など、『生徒会長デキちゃった騒動』を巻き起こし、校内でカンパの活動が秘かに、それでいて大々的に行われて、生活指導の教師に呼び出しを食らうという事態にまで発展させた張本人であるというのに。
もっとも、照れる気持ちもわからないでもない。祐麒はあれで結構、恥しがりやなのだということを小林は知っている。
「ユキチを待っているんですか?」
「え?あ、うん」
三奈子さんは素直に頷く。
しかし祐麒のやつ、いつのまにこんな女性と知り合いになったのかと、やっぱり少し悔しくもある。
三奈子さんは長い髪の毛を後ろでまとめた、いわゆるポニーテールがよく似合うなかなかの美少女。少し細い目で、笑うとそれがまた線のようになるところが可愛らしい、などと祐麒はたまに口にする。無意識らしいが、はっきりいってただの惚気である。スタイルもすらりとしていて綺麗、それでいてなかなかにグラマラスで。
今日も、鮮やかな黄色のアンサンブルと、チェックのティアードスカートがとてもマッチしていた。
「今日は掃除当番だから、もう少しかかると思いますよ」
「そうなんだ。でも、それくらいなら待つからいいわよ」
話す三人を、下校途中の生徒たちがちらちらと見ている。やっぱり、どう考えても目立つのだ。
二人の邪魔をするのも野暮だし、では帰ろうかとしたところで、小林の中でちょっと悪戯心が湧き上がった。
「あの、すみません、ちょっと質問してもいいですか?」
「はい?」
「なんか、ユキチのことで面白いエピソードとか、ないですか?」
軽い気持ちだった。何か聞き出すことができたら、今度からかってやろうというくらいの。そんな小林の質問を受けて、三奈子さんはちょっと考えてから。
「うーん……じゃあね、これ、本人には内緒よ」
と、周囲に目を配ってから口を開いてくれた。
「ちょっと前のことなんだけど」
小林とアリスは三奈子さんの言葉に耳を傾ける。
「祐麒くんたらこの前、中で出しちゃって」
「ぶっ?!」
「きゃあっ?!」
いきなりの爆弾発言に、小林もアリスも噴き出した。まさか、そんなネタが提供されるとは思ってもおらず、心の準備もできていなかったのだ。
「な、な、中、で?」
「そうなの、(お酒飲み過ぎて気持ち悪くなって、お店の)中で。お願いだから我慢してって言ったんだけど、どうしてもガマン出来ないって」
「あ、あのヤロウ……」
「まあ、幸いにも(トイレで吐いたから)大事には至らなかったけれど」
「で、でもちょっと前のことなんですよね?じゃあ、まだ大事に至らないかどうかは分からないのではないですか?」
「ユキチのやつ、ついこの前も、同じことで騒動起こしたくせに、懲りずにまた……!」
「え、そうだったの?」
「そうだったの、って……三奈子さんもモロに当事者じゃないですか?!」
「そ、そうだったっけ?」
小林の剣幕に、ちょっとびびる三奈子さん。
「で、でも、仕方ないじゃない。ガマン出来ない、って言うんだから」
「あ、甘いですよ三奈子さん!それで泣くのは三奈子さんなんですよ!あいつまだ、高校生なんですから」
「うん、だから、悪いのは私だし」
「いや、やっぱりそういうのは男がきちんとしないと。高校生だっていっても、もうそれくらいの分別はつけないと。気持ちよくなればいい、ってもんじゃないですから」
「そうよねー、最初は気分良くても、後で最悪な気分になっちゃったらね」
「そうそう」
これは再度、祐麒にきちんと言っておく必要があるなと小林は唸った。そして、いつの間にか自分が未体験である高みに登ってしまった友人を、羨みながら恨むのであった。
小林の気持ちなど知らない三奈子さんは、更に続ける。
「その日はねー、私もちょっと調子に乗っちゃってて。祐麒くんのミルクを飲んじゃったりして」
「ぶふっ!!」
「きゃあっ?!こ、小林、大丈夫?」
最初の一撃に勝るとも劣らぬダメージを受けて、小林は鼻を押さえた。幸いにも、鼻血は出ていなかった。
「み、みる……?」
「うん、祐麒くんの(注文したカルーアミルク)をね。初めて飲んだんだけれど、ちょっとそれがクセになっちゃって、続けて飲んじゃって」
「そ、それって…………く、く、口で?」
「?それ以外にどこで飲むの?」
「ぬおおおおおおおっっ!!」
小林の鼻から今度こそ鼻血が噴出した。
「それで私もいい気分になっちゃって、祐麒くんに(お酒を)ガンガンいかせて。だからまあ、祐麒くんがそうなっちゃったのも仕方ないことではあるのよねー」
あっけらかんと言う三奈子さんであったが、小林とアリスはといえば、三奈子さんのトンデモ発言に顔を真っ赤にしたり、身悶えたり、鼻血をおさえたりと大騒ぎ状態であった。
「大丈夫?二人とも、なんか変よ」
「お、俺たちのことは心配なく……そ、それよりも、そんなこと俺らに話しちゃっていいんですか?む、むしろ三奈子さんのほうが恥しくないですか?」
「うーん、だから、内緒ね?」
三奈子さんは片目を瞑る。
しかし、そこまで開けっぴろげに喋ってしまった後で、内緒も何もあったもんではないと小林は思った。
「おい、お前ら何やって……って、み、三奈子さんっ?!」
そこでようやく、掃除を終わらせた祐麒がやってきて、小林やアリスと一緒にいる三奈子さんの姿を見て大きな声をあげた。
「あ、やっほー、祐麒クン!」
そして、それに負けず劣らず大きな声を上げ、さらに祐麒に向かって元気よくぶんぶんと手を振る三奈子さん。
やっぱり、どこからどう見てもラブラブ状態全開の(バ)カップルにしか見えない。
「なんで、三人で?」
三奈子さん、小林、アリスの順に見て、祐麒は疑問を投げかけた。妙な組み合わせの三人だと思ったのだろう。
「祐麒くんを待っている間、お話をしていただけよ」
「話って……」
小林の方に視線を向ける祐麒。小林は、そんな祐麒の肩をつかみ。
「ふふ、ユキチ……お前には今度、レポート提出を要求する!そうだ、きちんと報告書にまとめて週間レポートを出せ!俺が、俺が、チェックしてやるぅ!!」
「ななな、なんだなんだ?おい、小林、しっかりしろ」
「俺なんかより、お前がしっかりしろ!!」
「ど、どうしたんだよ、一体?!」
「あはは、ご、ごめんユキチ、小林もちょっと錯乱して。ほら、三奈子さんが待っているから行ってあげて」
「違うだろアリス、イかせてあげるんだろ?!今畜生ぉーーー!!」
「小林、落ち着いて。ユキチ、じゃあ、またね」
「お、おう?」
「こら離せ、離せったらアリスぅ!!」
アリスに引き離される小林。それを呆然と見つめる祐麒。
「あ、そうだユキチ。やっぱり、男の子なんだからちゃんとしないとダメだと思うな、わたしも。自分のことばかり考えてちゃダメよ、ちゃんと相手のことを考えてあげないと」
「は……?」
呆気にとられる祐麒と、状況を理解できていない三奈子さんを残して、小林とアリスの二人は去っていった。
祐麒はかける言葉もなく、小林とアリスの姿が消えていくのを見送った。
「……なんだったの、いったい?」
「さあ、俺にきかれても。三奈子さん、なんか変なこと話したんじゃありませんか?」
「べ、別に変なことは言ってないわよ」
目線が泳いだのを、祐麒は見逃さなかった。
「じゃあ、何を言ったんですか?」
「う……」
祐麒の静かな迫力に気おされる三奈子さん。
「そんな、たいしたことじゃないわよ。この前飲み過ぎちゃって、祐麒くんがちょっと大変なことになったこと話したくらいで」
「あー……あの時はひどい目にあったなぁ」
調子に乗って、色々なお酒を飲んだ、いや飲まされた記憶が蘇ってくる。あの時は浮かれていて、すすめられるままに飲んでしまった祐麒である。
「やっぱり、花寺学院って真面目な子が多いのね。この話をしたら、小林くんもアリスも大騒ぎしちゃって」
「そ、そうなのかな。それくらいで騒ぐようなやつらじゃないんだけど……」
「ま、いいじゃない。ほら、行こうよ」
足取りも軽やかに、弾むようにして三奈子さんは先に立って歩き出す。揺れるポニーテールと、ひらめくスカートの裾を見ながら追いかけるのが、一緒にいるときの祐麒の常となっていた。
しばらくはただ、どこへ向かうでもなく適当に足の向くままに進み、三奈子さんの話すどうでもいいようなことに相槌を打ちながら歩く。やがて歩き疲れてきたところで、どこかに腰を下ろす。今日は、オープンカフェの一席に落ち着いた。なんでも、大学の友人に連れてきてもらって、ホットケーキの美味しさに舌を巻いたとか。そういうわけで、祐麒の目の前には焼きたてのホットケーキが置かれていた。
むしゃむしゃと頬張る祐麒。それは、三奈子さんが誉めるというのも分かるくらい、美味しかった。もっとも、三奈子さんがそれほど味の違いが分かるグルメだとも思ってはいないが、それでも祐麒自身よりかは味にうるさいのは確かなので、三奈子さんが美味しいといったものは、たいてい祐麒にとっても美味であった。
口の中にたまりやすいホットケーキを食べながら、オレンジジュースを飲む。
「さすが男の子、凄い勢いで食べるねー」
目の前の席で、三奈子さんはほっそりとした手に顎を乗せて、祐麒がホットケーキを食する様をにこにこと見つめている。何がそんなに楽しいのだろうかと、食べながら祐麒は思った。
「三奈子さんは、食べないんですか?」
「うん、来る前に軽く食べてきちゃったから」
ミックスジュースにちびちびと口をつけるだけの三奈子さん。
以前は、このようなオープンカフェで、二人だけでお茶することに祐麒は躊躇していたものだが、最近ではすっかり慣れてきてしまった。誰かに見られたら見られたで、どうにでもなれという気持ちである。自分よりもむしろ、三奈子さんの方は大丈夫なのだろうかと心配になる。
「で、今日は何の用があったんですか?」
「ん?」
三奈子さんは、きょとんとした顔で祐麒のことを見つめている。
「えっと、だから、わざわざうちの学校にまで来て。なんかあったんじゃないんですか?」
「え、別に」
気の抜けた返事を耳にして、祐麒はがくりと頭を垂れる。
「なんなんですか、それ。何もないのに、わざわざこっちまで来たんですか?」
愚痴のようにこぼしながら、ホットケーキの残りを半分に切り、片方を口の中に放り込む。三奈子さんの気まぐれはいつものことだし、まあいいかと祐麒が内心で思いかけたとき。
三奈子さんは首をわずかに傾け、心底、不思議そうに口を開いた。
「なんで?祐麒くんに会いに来るのに、何か特別な理由が無いといけないの?」
「――――っ!!」
その一言を耳にした瞬間、食べかけていたホットケーキを呑み込み、喉につまらせてしまった。慌てて流そうとするが、オレンジジュースのグラスはすでに氷だけになっていた。
「なにやってんのよ、ほら、これ飲んで」
三奈子さんから差し出されたミックスジュースを、急いで流し込んだところで、ようやく一息ついた。
「ドジねえ」
むせている祐麒のことを見て、三奈子さんは苦笑している。
誰のせいでそうなったのかと、祐麒は内心でちょっとばかり舌打ちする。三奈子さんが、あんなことを無防備に口にするから、うろたえてしまったというのに。
要は、三奈子さんは、ただ単に祐麒に会いに来ただけだと言うのだ。即ちそれは、「祐麒に会いたい」ということの裏返しにも聞こえてしまえるわけで、更に言うなら恋人同士とか、そういう二人にこそぴったりに思える台詞なわけで。
しかし、三奈子さんはというと。
「そうねえ、講義が休講になっちゃって、時間が空いたから来た、っていうのじゃ理由にならないかしら」
などと真剣な表情をして言っている。
「はあ……」
「あ、あ、じゃあ、このお店を祐麒くんに紹介したかったから、っていうのじゃダメなのかなあ?」
祐麒のため息を別の意味に取ったのか、三奈子さんが取り繕うように言う。
「いいですよ、もう何でも。なんとなく、っていうのも一つの理由のような気がするし」
平静を装っていたけれど、祐麒自身、内心はいまだ落ち着いていなかった。三奈子さんの一言一句が、祐麒の胸をストレートに貫いてゆくから。
「あはは、よかったー。て、あれ、あーっ、祐麒くん、私のジュース、全部飲んじゃったのっ?!」
「えっ」
言われて見ると、確かに手にしたグラスは空になっていた。慌てていたので、残量などまったく気にしていなかったのだ。
「あ、す、すみません」
そっと、グラスを三奈子のさん方に戻すが。
「うーっ」
唸り、恨みがましく目を細めてじーっと祐麒の方を見る三奈子さん。と、その視線が下に下がった。
それは、祐麒が手にしている、ホットケーキの最後の一切れを刺したフォーク。
「じゃあそれ、ちょうだい」
「へっ?」
何か言い返す間もなく、三奈子さんはテーブルに少し身を乗り出して、
「あー」
と、口を開けた。
「…………っ?!」
つまり、食べさせろと身を持って主張した。
祐麒は愕然とした。
フォークを手にする前であれば、どうぞ、と皿ごと渡せばすむことだったのだが、フォークは祐麒の手中にあり、なおかつ最後のパンケーキはそのフォークの先に刺さり宙に浮いている状態だ。
祐麒は躊躇った。当然だ。ここはオープンカフェ、周囲には人通りもあるし、そうではなくても他の席に客は入っている。素早く目だけを動かして周りを見てみると、近くの席に座っている老人夫婦が生温い目でこちらを見ているし、ちょっと離れた席に陣取っている女子高生らしき集団は二人の方を見て何やらきゃあきゃあ騒いでいる。こうなると、気のせいかもしれないが、道行く人からも見られているような気がして。
「もう、祐麒くん、早くちょうだいよー」
三奈子さんはそんな周囲の視線を無視しているのか、あるいはそもそも気が付いていないのか、おねだりしてくる。
(―――ええい、ままよ!)
こうなったら、さっさと済ましてしまうしかないと腹をくくった祐麒は、手にしたフォークを前方に伸ばした。
「――んっ」
という声とともに、フォークに力が加わった。
祐麒は、そっと腕を引く。女子高生がきゃらきゃら騒ぐ声が聞こえてくる。額から汗が一粒流れ落ち、顔は熱くなっていた。
はっきりいって、恥しかった。
一方の三奈子さんはといえば、そんな祐麒の様子にはお構いなく、ホットケーキをゆっくりと咀嚼して飲み込んだ。
そして
「――うわ、これ冷めちゃってるじゃん、ちょっとイマイチ――」
などと言って、顔をしかめた。
「そ、そりゃそうでしょう!」
照れを隠すように、祐麒は意識的に大きな声を出して文句を言った。
知り合ってからかなりの月日が流れたけれど、いまだに三奈子さんには振り回されっぱなしの祐麒なのであった。
結局、一緒に歩いてお茶をしただけだった。でも、そんな何でもないような時間が、とてつもなく楽しいということを祐麒は感じていた。夕暮れになじむ街を歩きながら、隣に居る三奈子さんを見れば。
なぜか、とても幸せそうな顔をしているように見えて。
「――ん、なぁに?」
「いえ、別に」
首を振る。
素っ気無くしているわけではない。今は、何を言ったらいいのか、言葉が見つからなかったのだ。
「あー、でも、今日から色々と考えなくっちゃなあ」
「なにをです?」
三奈子さんは頭の後ろで両手を組んで、空を見上げて口を開いた。
「祐麒くんに、会いに来る理由。だって祐麒くん、怖いんだもん」
ふざけたような、それでいてどこか真剣にも思える口調で呟く三奈子さん。
「別にいいですよ、そんなの。本気で言ったわけじゃないですから」
「そう?良かったー」
理由を考え付かなかったから、ずっと会いにこれない、などということになっても困るから――と、ふと思ってしまったとは、祐麒も口には出せなかった。
「あ、ちなみにねえ」
「なんですか?」
「私に会いたくなったら、別に理由なんかいらないからね」
言いながら祐麒の方を見て、三奈子さんは、笑った。
細い目がさらに細くなり、まるで線のようになって、でもそんな笑った顔が祐麒の心を揺するほどに可愛らしくて。
「うーん、いきなり、三奈子さんに会いたくなったりするかなあ?」
「何よ、本当はこの三奈子さまに会えないときは寂しくて仕方ないんじゃないの?」
「まさか」
口ではそんなことを言いながら、三奈子さんに大きく惹かれている自分が居ることを、自身で認識しはじめていた。
「ホントにー?」
くすくすと笑いながら言う三奈子さんの身体からは、まるでホットケーキのような甘い香りがするような気がした。
……ちなみに全くの余談だが、後日、小林やアリスから散々身に覚えのない説教される羽目になる祐麒なのであった。
おしまい