今年の夏は比較的涼しいでしょう、なんて言っていた、どこかの気象予報士の言葉が恨めしくなるくらい、暑い日が続いていた。
こんな暑くちゃあ、受験勉強などできるかと、半ばやつあたりというか、いい訳をして参考書を閉じる。どうして夏は、夜になっても暑さが和らがないのだろう。日中の、直射日光を浴びるのも辛いが、じとじととして息苦しいような暑さを運んでくる夜も辛い。部屋のエアコンが故障中なのが、恨めしい。
扇風機がぬるい風を間断なく送ってくれているが、それだけで快適になるというわけではなかった。
リビングでは勉強に向かないし、この歳になると祐巳の部屋に行くというのもなかなかに躊躇われる。なんといってもこの時期、祐巳も薄着になる。しかも、かなり無防備に。家族という気安さもあるのだろうが、もう少しはわきまえて欲しいものだと思う。無防備なのは、『あの人』だけで沢山だ。
などと考えていると、携帯からメールの着信音が響く。
メールを開いてみると、簡潔な文章。
『明日、午前10時にM駅前にて待つ。遅れたら罰ゲームだからねっ!』
人の都合も確認せずに勝手に約束を決め付けておいて、来なかったら罰ゲームはどういうことだと内心で思いながらも、もはや慣れっこになってしまっているので、諦めて軽く肩をすくめるだけにとどめる。
今年の夏休みは受験勉強もあるし、特に旅行などの予定もないと伝えてあるから、大丈夫だろうと思い込んでいるのだろう……いや、別に伝えていなくても、今までもこんな感じで突然の呼び出しばかりだったか。
携帯の液晶画面に踊る文字を見つめながら、彼女のことを思う。
勝手に呼びつけておきながら、何も応答しないでいると、実は変なところで小心者且つ心配性な彼女は、泣きそうになりながら様子を尋ねてくるのだ。
ちょっと考えた後、返信メールをうつ。
『りょーかい。そっちこそ、遅れたら罰ゲームですからね!』
やっぱり、うなだれている姿なんて見たくない。
だって、どう考えたって、無邪気に笑っている彼女が一番、可愛いから。
天気予報どおり、今日も真夏日。
待ち合わせ場所に辿り着くまでに、すでに汗が流れ落ちてきている。
「遅―い、祐麒くんっ」
「遅いって、時間ぴったりじゃないですか」
「二分、過ぎている」
腕時計を、ずずいと見せ付けてくる三奈子さん。確かに、十時を微妙に過ぎているが、許容範囲内ではないだろうか。
しかし三奈子さんは、なぜか得意げに首を横にふる。つられるようにして、後ろでまとめられた髪の毛が、まさに馬の尻尾のごとくゆらゆら揺れる。
今日の三奈子さんは、ウェスト部分に飾りリボンをあしらったブラウンのキュロットに、ボータイの付いた白に近い薄いパープルのカットソー。下は、ボーダー柄のニーハイソックスにパンプス。
やっぱり、今日も可愛い。キュロットと、ニーハイソックスの間に覗く太腿のわずかな部分が、妙に色っぽく感じてしまう。
「ちょっと祐麒くん、聞いている? ほら、行くよ」
ぐいと、手を引っ張られる。
見とれている間に、何か色々と喋っていたようだけれど、上の空で聞き逃していた。出会ってから一年経ち、高校生から大学生になったというのに、三奈子さんはどんどんと可愛くなっていくような気がする。
「えと、あの、行くって、そういえば今日はどこへ行くんですか」
「もう、聞いてなかったの? だから、プールに行こ」
にっこり微笑む三奈子さんに。
もちろん、祐麒は逆らう術などないのであった。
電車に乗ってやってきたのは、どこかで見たことのあるプール。そう、去年、三奈子さんとやってきた、というか連行された場所だった。
「そうならそうと、昨日のうちに言ってくれれば準備したのに」
「大丈夫、今年は私が買ってあげるから」
園内のショップで、三奈子さんが一人満足そうに頷く。そういえば、昨年は祐麒が水着を買ってあげたのだということを思い出す。その後、水着については痛いしっぺ返しをくらったことも。
「この、ビキニパンツなんかどう?」
と、面白半分に際どいパンツを買わせようとする三奈子さんの攻撃をかわし、ごく普通のトランクスタイプを購入。
待ち合わせ場所を決めて、それぞれ更衣室に分かれる。
さっさと着替えを終え、外に出て待つ。容赦なく太陽が照り付けてくるので、少しでも影のある場所に移動する。
去年と同じようだけど、同じじゃない。一年前は、ただ意味もわからずに振り回されていただけだが、今はきちんとした自分の意思で一緒に来ているのだ。
「祐麒くん、お待たせー」
横から、声がかけられる。
覚悟を持って、祐麒は声がした方を向いた。なんといっても、三奈子さんの水着姿なのだ。きちんと心の準備をしてから見ないと、魂をどこかに持っていかれてしまうのは分かっている。
だから、今日は大丈夫。頭の中で数種類のシミュレーションを行って……
「―――あ」
三奈子さんを見て、時が止まる。
ネイビーに白いドットの描かれたビキニ。トップスのドットは小さく、ボトムのドットは大きめと、同じドットでも上下でイメージが異なって見える。一方で、胸元とボトムのサイドを飾るリボンはボーダー。アクセントも効いた、非常にポップな水着。
そして、そんな水着に身を包んだ三奈子さん。頭の中でのシミュレーションなど全く役に立たないくらい、生身の身体というのは別物であった。
瑞々しい肌、盛り上がった形の良い胸に、ほっそりとした腰まわり、すらりと長い脚。芸術的な陶器を女性にしたらこうなるのではないか、と思えるようだった。
「どう、かな?」
落ちかかる髪の毛に軽く指をからませながら、祐麒の表情をうかがうようにして聞いてくる。どうして、こういう時に限って、いつものような自信を持ってこないのだろうか。そんな、心をくすぐるような仕種をされると、平常心を保てなくなるではないか。
「う、うん。凄く似合ってます……とても、可愛いです」
だから、いつもだったら口にしないようなことを、素直に、真面目くさって言ってしまった。口にした後で、物凄く恥しくなる。
でも、三奈子さんは。
「えへへ……ありがと」
わずかに頬を染めながら、照れたように、それでも物凄く嬉しそうに笑った。
「じゃ、行こうか」
手を差し伸べてくる三奈子さん。
祐麒は素直に、そのしなやかな指に触れるのであった。
幾つかのプールで遊び、途中で食事をしたり休憩したり、時間はあっというまに過ぎ去ってゆく。
しかし、なんとゆうか三奈子さんは凄い。三奈子さんのボディが凄いというべきか。スタイルが良いのはわかっていたが、とにかくまず目に入るのが、胸だ。水着のブラからはみ出さんばかりのボリューム。いや、実際にはみ出しているわけなのだが。
そして、三奈子さんが走ったり、跳ねたりするたびに、揺れる。迫力満点だ。前かがみの格好になれば、更に迫力を増すその谷間。昨年よりも、成長したのではないかと思えるくらいだ。
三奈子さん自身は気にしていないというか、プールに来て水着になって、気にしてばかりいても仕方ないのだろうが、祐麒にしてみたら気にならないわけが無い。
遊びに夢中になっている時は良いが、ふとした瞬間に目に飛び込んでくると、反射的に目を背けてしまう。
すると、その態度が気に入らないらしく、三奈子さんは口をへの字にして祐麒のことを睨みつけてくる。
そんな、なんでもないようなことでも、三奈子さんと一緒だと特別なことのように感じる。それこそが、幸せというものなのかもしれない。
やがて、定番の『波のプール』にやってきた。
押し寄せてくる波をかき分けながら、膝、腿、腰と、徐々に深くなってくる。波もあるから、余計に深さを感じる。
子供達はきゃあきゃあと歓声をあげて喜び、カップルも波とたわむれるようにして、いちゃついている。
祐麒と三奈子さんは、どちらが先に最奥部に辿り着けるか競争をしていた。群集が邪魔をし、奥に行けば行くほど深さは増し、波の抵抗も大きくなって進みは遅くなる。波に押し返されながらも、手で水をかき分けるようにしながら進み、波を発生させている最奥部を目指す。三奈子さんは、わずかに遅れてついてきているが、既にゴールは目の前に見えている。ここまで来たら、逆転は難しいだろう。負けたほうは、夕飯を奢ることになっている。豪華なディナーは貰った、と思いながら軽く後ろを見ようとしたら。
「……ゆ、祐麒くんっ!!」
いきなり、三奈子さんの悲鳴のような声。
しかし、劣勢にある三奈子さんが、こちらの油断を誘おうとしているのかもしれない。祐麒は多少、警戒しながらも振り返ると。
「うわっぷ?!」
いきなり、三奈子さんが抱きついてきた。
「み、三奈子さんっ……?!」
「痛っ、足、つったっ!!」
「えっ」
痛みに顔をしかめながら、三奈子さんは暴れる。しかし、既に最奥部近く、かなり深いところまでやってきている上に、波が押し寄せてくる。つった足を揉もうとすれば、波に呑まれ溺れかねない。かといって、足がつった時の痛みは、耐えようとして耐えられるものではない。
パニックに陥りかけている三奈子さん。こういう時に限って、周囲に人の姿が少ない。
「お、落ち着いて三奈子さん。俺が支えているから、その間にゆっくりとマッサージして」
「うぅ……」
口で言うのは簡単だが、深いプールと、波にもまれている中では、とても難しいことだった。祐麒自身、さして背が高いわけでもない。それでも、三奈子さんの腰を抱え、出来る限り波をかぶらないようにする。
三奈子さんは身体を丸めるようにして、懸命に足をマッサージしている。その間も波は容赦なく押し寄せ、何度も水を飲んだ。それでも、無言でただ必死に支え続けた。
やがて、強張っていた三奈子さんの身体から、力が抜けた。
「……落ち着きました?」
「う、うん、なんとか……ありがと」
「いえ……」
お互いに、安堵の息を吐き出す。
と、落ち着いたところでようやく気がついた。二人が、どのような体勢でいるか。
元々、祐麒が振り返ったところ、抱きついてきた三奈子さんを受け止め、そのまま支え続けていた。すなわち、真正面から抱き合っていたのだ。
三奈子さんの手は祐麒の首の後ろに回され抱きつく格好となっており、祐麒の手は変わらず三奈子さんの腰を支えている。持ち上げるようにしていたから、三奈子さんの方が、わずかに体が上にある。
支えているときは必死で気がつかなかったが、三奈子さんの腰は驚くほどほっそりとしていて、強く力を入れて抱きしめれば折れてしまいそうだった。にも関わらず、柔らかい。
そして、押し付けられる両の胸。三奈子さん自身が祐麒に抱きついてきているから、本当に強く押し付けられている。昨年も抱きつかれた記憶はあったが、確か背中からだった。正面から、こんなに肌と肌が触れ合ったのは、始めてかもしれない。柔らかく、圧倒的なボリュームを胸に感じ、顔が熱くなる。
いつもは傍若無人に接してくる三奈子さんも、今回ばかりは意識をしてしまっているようで、見下ろしてくる目は見開かれ、頬は朱に染まっていた。
「あ、ご、ごめん。えと、お、下ろしますね」
慌てて、腰にまわした手を離したけれど。
三奈子さんは、まだ離れていなかった。あれ? と思っていると、祐麒とほぼ同じ視線に降りた三奈子さんは、まだ顔を赤くしたまま恥しそうに、でもはっきりと祐麒の瞳を見据えて。
「まだちょっと、足が痺れていて……もうしばらく、このままでいいかな?」
と、小声で囁くように聞いてきた。
「あ、うん」
頷くしかない。
祐麒は一度離した手を再び、腰と、肩のあたりに回して抱きしめる。もともと、体のほとんどは水の中のため、浮力によってあまり支える力は必要ない。だから、祐麒が力を込めたら、今度は三奈子さんが力を入れる必要はほとんどなくなって。首の後ろにまわしていた手をほどき、祐麒の肩に軽く置く。
「えへへ……ありがとね」
はにかむように、目と口を細める三奈子さんに祐麒は何も言えず、ただ波に揺られるまま彼女を離さないよう、抱きしめる手にわずかに力を加えるのであった。
遊びつくし、プールを後にする。
夏だから、日はまだ高いけれど、それなりの時間になっていた。傾いたとはいえ、それでもまだ肌をひりつかせるような太陽の光を浴びながら、二人並んで歩く。
髪の毛をほどいた三奈子さんは、また別人のように見える。しなやかなウェイブを描いて胸元まで垂れてくる、ココアのような色をした髪が、なぜかしら艶めかしい。
鼻歌でも歌いそうなくらい上機嫌で、三奈子さんは足を運ぶ。
「受験勉強の、いい息抜きになったんじゃない?」
「そうですね、でも、明日は体が張りそうだなー」
「何よ、若いくせにだらしないわね」
あははと、声をあげて笑う。
一年が過ぎたけれど、三奈子さんとの関係は変わることなく続いている。いや、それとも変わったのだろうか。こうして、ごく自然に遊びに行くくらい親しくなっている。遊びに行く頻度も、日が経つにつれ増え、メールに関してはほぼ毎日。なんでもない、一日に起きたことの報告なのに、三奈子さんは喜んでくれるし、思いもしないような感想や思いを告げてくれる。
それでも未だに、三奈子さんの考えることというのは、読めないのだが。
「そういえば、さ」
「ん?」
「今日はなんで、いきなりプールに? ま、いつものことといえば、いつものことだけど」
ただの気まぐれ、思いつきだろうと予測していたのだが、違っていた。三奈子さんは小走りで祐麒の前方に進んでから体の向きを変え、口を開いた。
「だって、ちゃんと自分で選んだ水着、見てもらいたかったから」
本人はきっと意識していないだろう。
だけれども、祐麒としたら、まるでとっておきの笑顔を見せられた気分だった。肩をすくめ、にっかりと歯を見せ、沈みかける夕陽を背にする三奈子さん。
去年は、何の準備もなく訪れたから、園内で即席に選んだ水着だった。それでも十分に似合っていたと思うけれど、三奈子さんにしてみれば納得のいくことではなかったのだ。だから今年、再度二人で訪れて。
「嬉しかったよ、似合っているって言ってくれて。可愛い、とも言ってくれたよね」
「うわ……」
改めて言われると、無性に照れくさい。
言ったことには嘘も誇張もないのだが、恥しいものは恥しい。だから、さっさと話題を変える。
「……そういや、夕飯はどうしましょうか」
「もちろん、祐麒くんがご馳走してくれるんでしょう?」
「え、なんで。賭けは無効でしょう?」
結局、あのハプニングで有耶無耶になったというか、それどころではなくなったというか。
「でも祐麒くん遅刻したから、ほら、罰ゲーム」
「えーっ、あれで?!」
「その辺は厳正なのだよ。いくら私と祐麒くんの仲でも、けじめはきちんとしないと」
「今日、助けてあげたじゃないですか」
「あ、あれは……あぅ」
口ごもってしまう三奈子さん。
祐麒も、あのときの感触を手に、胸に思い出して赤面する。
「あ……はは、じゃあ、やっぱり割り勘ってことで」
「そ、そうですね」
「祐麒くんは、何か食べたいものある? 私はねー、今日は中華の気分かな。杏仁豆腐がすっごく食べたい!」
「俺はエスニック系がいいかな」
「えーっ、何よ、私がリクエスト言ったのに、違うところがいいっていうの?」
「だって、三奈子さんから、何か食べたいものあるかって、聞いてきたんじゃないですか」
「でもでも、杏仁豆腐が食べたいっ。あー駄目、一度思い浮かべたら、もう食べないでは帰れないわ」
「分かりました、分かりました。じゃ、中華にしましょうか。『紅楼夢』にします?」
「んー、どっちかというと『七天京』の玉子スープがいいかなー」
「だったら、最初からそこ行きたいって言えばいいじゃないですか」
「喋っていたらそう思ったんだもん、仕方ないじゃない」
途切れることの無い、軽口の応酬が心地よい。
「……ねえ、祐麒くん」
そして彼女はまた、こちらを向き―――
「……もういい、いつまでお前のラブラブいちゃいちゃ話を聞かねばならんのだ」
うんざりとした口調と表情で、小林が話を遮った。
生徒会室の中、特に急ぎの仕事も無いので小林たちと話をしていたのだが。
「なんだよ、お前が、夏休みに何かなかったのか、聞いてきたんじゃないか」
「聞いたけど、もうお腹一杯ですから」
「仕方ないだろ、生徒会の活動はお前だって知っているし、後、受験勉強の他といったら、それくらいしかないんだから」
「それくらい、ってユキチ! 恵まれているやつはいいよなあ。大体、三奈子さんと会ったのだってそれ一日じゃないだろ」
「まあ、なあ。でもイベント的なのはそれくらいだぜ。あとは、ただお茶したり話したり、特に変わったこともなく」
「はいはい、いつものデートということですね。聞いた俺が間違っていたよ」
「仕方ないよ、小林。いつまでたっても二人は新婚さん気分なんだから」
これは、アリス。
というか、散々せがまれて話した挙句がこれでは、恥を忍んで話した甲斐がないではないか。
「恥を忍んで? 嘘付け、惚気たくて仕方なかったくせに」
「まあまあ、小林。やっぱりわたしたちが間違っていたのよ」
二人の話を聞き流し、夏のあの日のことを瞼の裏に浮かべる。
祐麒の方を向いた彼女は、手の平をこちらに見せ、日中の陽射しが反射した水面よりも輝く笑顔を見せながら、口を開いた。
「来年は一緒に水着、見に行こうね」
と。
そう、今年だけではない。これで終わりではない。彼女との夏は、またやってくる。きっと来年も、今年と同じくらい、いや今年を上回るくらいに光り輝く季節になっている。
祐麒はただ三奈子さんを見返し、差し出された手の平に黙って拳をぶつけるのであった。
おしまい