一年の終わりも見えてきた頃。
世間一般ではこの先、クリスマスがあって、冬休みに入り、大晦日、お正月と色々な楽しいイベントなどが待っているのだが、受験生にとっては関係ないことで。
祐麒もまた受験生の一人であり、学校と家の往復で日々が過ぎ去ってゆく、灰色の生活をここしばらく送っていた。
今もまた、ノートと参考書を開き、シャープペンシルを手に奮闘している真っ最中であった。
しかし。
「あーっ、疲れたなぁ」
両手を上にあげて体を伸ばす。勉強していたせいで凝り固まった体をほぐすように、首を回したり、肩を叩いたりしてみる。
「少し休憩するか?」
向かいの席の小林が顔を上げ、時間を確認してからペンを置いた。
ここは、生徒会室。
祐麒も小林も図書室で勉強をしようと思ったのだが、出足が悪かったのか図書室の自習机は全て埋まってしまっていた。帰宅するかどうするか迷ったが、生徒会活動が丁度ない日だということに気がつき、生徒会室で勉強を始めたのであった。
「はい、コーヒーいれたよ」
「おう、サンキュー、アリス」
途中で合流したアリスから、インスタントコーヒーの入った紙コップを手渡される。気がつけば勉強を開始してから一時間半ほど経っており、休憩するにはちょうどよかった。むしろ、時間を考えればそろそろ帰宅してもよい頃合である。
「でも、生徒会室で勉強ってのもアリだな。図書室と違ってエアコンないから、暖かくて眠くなるってこともないし」
「それは言えてる」
こうして生徒会室を使えるのも、前生徒会メンバーの特権といえるだろう。
リリアンの薔薇の館には及ばなくとも、小さな冷蔵庫とポットがあるのが、生徒会室のささやかな利点である。
「そーいやさ、坂井のやつ彼女出来たって聞いた?」
「え、何それ。初耳だけど」
「大仲の子だって」
「へー、いつの間に」
「まったく、この時期に、何考えてんだろうな」
「ん、どうして?」
アリスが首を傾げると、小林はため息をついた。
「推薦でもない一般受験組の奴がだよ、この一番大事な時期に彼女作ってどうするんだよって話。男子校で育ってきて、初めて彼女ができたんだぜ。そりゃもう、嬉しくて楽しくて、彼女と一緒にいたくて勉強なんて身が入らないに決まってんじゃん」
「うーん、そういうもの?」
「そりゃそうだろ。付き合い始めなんて、一番楽しいに決まっているだろ。なあ、ユキチ?」
「えっ!?」
いきなり話をふられて、思わずコーヒーをこぼしそうになる。
「な、何が?」
「だから、やっぱ付き合い始めが一番楽しいだろって、経験者に訊ねているんだよ」
「け、経験者って」
もちろん、三奈子とのことを意味しているのだろう。祐麒と三奈子は、今や花寺学院の中では知らぬものなどいないくらい、有名なカップルとなっていた。三奈子の名前は知らなくても、校門の前で祐麒のことを待っている美少女の姿なら、おそらく誰しも一度は目にしたことがあるのではないだろうか。
実際に『つきあっている』というのとは微妙に異なる気がするのだが、もはや今となっては騒いだり囃し立てたりする生徒もいないため、祐麒も完全に放置状態である。
そんな、三奈子との時間を思い出す。
「……いや別に、最初というか、いつだって会っている時は楽しいけど」
振り回されてばかりだが、思い返してみればいつも、どんなときも、楽しかったとしか言いようがないのが事実で、つい、そうこぼすと。
「さすがユキチ、ラブラブだね」
「うおー、こいつ最近、ストレートに惚気るようになったな。あーはいはい、バカップル進行中のお前に聞いたのが間違いでしたよ」
「な、なんだよ、それ」
言われてみて、改めて自分の発した言葉が恥しくなり、赤面する。
これではまるで、本当にバカップルである。
「もういいから」
「いや、よくないだろ。大体、俺は」
「まあでも、さすがのお前も最近は控えているみたいだな。この頃、三奈子さんが校門で待っていることも少なくなったし」
「そりゃそうでしょ。ユキチだって大学受験控えて大事な時期なんだから。いくらなんでも、今までと同じ頻度でデートはできないよねえ?」
「え? あ、ああ」
「受験が終われば好きなだけ遊べるからな、それまでの我慢だよ」
「無事に合格すれば、ね」
「あちゃー、それを言うなよアリス」
いつも通りのやりとりがかわされる。
コーヒーを飲み終えたところで時間も丁度よくなり、帰宅の途につく。帰り道もまた、他愛もないお喋りに費やされる。こんな日常もあと数ヶ月で終わるかと思うと、微妙に寂寥も感じる。
やがて二人と別れて一人で歩きながら、祐麒は物思いにふけっていた。
小林やアリスが言うとおり、確かにここしばらくは三奈子と会う機会はなかった。だがそれは、祐麒が連絡を取ってもなかなか三奈子の時間がとれないからであった。
確かに祐麒は今、大学受験に向けて時間を無駄に出来ない大事な時期ではあるが、三奈子と会う時間が全く取れないというわけではない。生活している全ての時間を勉強にあてるなど不可能だし、会って少し話をするくらいであれば息抜きにもなる。
しかし、三奈子の都合があわないのであれば、無理を言うわけにもいかない。
昨夜もまたメールを送ったものの、忙しいとの一点張り。今までは、祐麒の都合などお構いなくしょっちゅう誘ってきたというのに。
こうしていざ会わなくなってくると、会いたくなってくる。三奈子の邪気のない笑顔を見たい、どうでもいいお喋りに興じたい、一緒に街を歩きたい、といった想いが胸の中で膨らんできて、慌てて頭を振る。
「……なんか、大丈夫かな、俺」
会っている時は思わなかったことを、こうして会わないことによって色々と気づかされる。いかに、自分の時間の中に三奈子が存在していたかを思い知らされる。
ここ二、三日は、精神的にも落ち着かないし、苛々とする。勉強にもいまひとつ集中できないし、やる気もわきあがってこない。
「やばい……」
いつの間にか、そこまで祐麒の世界を侵食してきている三奈子。
ぶるっ、と体を震わせたのは寒さのせいか。そろそろコートを着ないと、朝や夕方は外を歩くのが厳しくなってきた。 暗くなってきた空の下、一人で歩いていると本当に灰色の生活を送っている気にさせられる。
はぁ、と知らず知らずのうちに重い息を吐き出してしまう。
すぐに家に帰る気にならず、駅の周辺をあてどなく歩く。
ゆっくりと、力ない足取りで歩を進めていたのだが。
(――――え?)
今何か、祐麒のアンテナにひっかかるものが視界に入ったような気がした。立ち止まり、周囲を見回してみるが、すぐにはそれが何だったのか分からない。少し戻ってみて、また近くに目を配る。
(あ――――)
何に引っかかったのか気づき、近寄ってみる。
店のガラス越しにちらりと見えた姿を確認し、間違いないと思ったときには体は動き出していた。
「いらっしゃいませ――あれ?」
扉を開いた祐麒にかけられた声が、途中で途切れる。
「三奈子さん……」
「ありゃ、祐麒くん。なんでここに?」
それはこちらの台詞だと言いたかったが、実際には何も言うことができなかった。なぜなら、目の前の三奈子の姿に目が釘付けになっていたから。
五分丈袖の白いブラウスに、淡いオレンジのサスペンダースカート。腰にはスカートと同系色のスカーフを巻いている。髪の毛はポニーテールではなく、お団子のようにまとめている。
「おっと、仕事中だった。ええと、食事に来たの?」
タメ口で、全く仕事モードになっていないじゃないか、と突っ込みをいれたくなったけれど、黙って頷くだけにした。
案内されて席についたが、さっさと離れていこうとする三奈子を、慌てて呼び止める。
「ん、何? もう注文決まったの?」
「そうじゃなくて。三奈子さん、何してんの?」
「何って、見て分かるでしょう。働いているのよ。アルバイト」
祐麒が入ったのは、カジュアルな感じのするパスタの店。三奈子が着用しているのは店の制服のようで、他にも同じ格好をした女の人が何人か歩き回っている。だから、聞くまでも無く店で働いているであろうことは分かったけれど、聞かずにはいられなかった。何しろ、アルバイトをするなど全く聞いていなかったから。
「それで、注文は? あ、ちなみにねえ、うちのお薦めはペスカトーレかな」
「じゃあ、それ……じゃなくてっ」
危うく注文しそうになったが、時間も早くて腹もそれほど減っていないし、そもそも懐具合も豊かではない。慌ててメニューを見直し、安めのデザートに言い直す。
「それより三奈子さん、いつの間にバイトなんて」
「ごめん、仕事中だからあまり話しているわけにいかないの。あ、でも今日はお昼から入っているから、あと一時間もすればあがれるけれど……それまで待ってくれる?」
と、首を三十度ほど傾ける三奈子。
祐麒としてみれば、頷くほかに選択肢などなかった。
一時間などあっという間だと思っていたが、意に反して 時計の針はなかなか進んではくれなかった。
何より、三奈子が気になって仕方ない。
さして露出が高い制服ではないのだが、サスペンダーによって強調された三奈子の豊かな胸、そしてブラウスの胸元が微妙に緩くてお辞儀をする時などに覗いて見える艶のある肌と膨らみ。
そんな三奈子に明らかに目を向け、見惚れ、鼻の下を伸ばしている男性客。
はっきりいってストレスがたまるし、詰め寄っていやらしい目で見るなと説教でもかましたくなってくる。
三奈子がバイト終了するまでの小一時間、身を焼かれるような気持ちでただ耐えて過ごす祐麒であった。
「お待たせー」
仕事を終え、私服に着替えてやってきた三奈子の姿を見て、祐麒は胸を撫で下ろし大きく息を吐き出した。
そんな祐麒の姿を見て、三奈子は可笑しそうに笑う。
「なにー、待ち疲れちゃったの」
「いや……」
「それじゃ、行こっか」
言葉を受けて、伝票を手に立ち上がる。
「三奈子ちゃん、今度紹介してねー」
「築山さん、ラブラブぅ?」
店を出る際に、そんな声が三奈子にかけられた。
「もー、うるさいなぁ」
困ったような笑顔を、同僚に向ける三奈子。はたして、祐麒のことをどのように説明したのか、それとも勝手に邪推されたのか。好奇の視線に背中に感じながら、二人は店の外に出た。
途端に、冷たい風が頬を撫でる。
「やー、今日もよく働いたー」
隣で万歳をするようにして、背筋を伸ばす三奈子。
「いつの間にバイトなんか始めたんですか?」
「んーと、半月ほど前かな」
丁度、三奈子と会わなくなり始めた時期である。どうやら避けられていたわけではなかったようで安心するが、そうなるとまた別の疑問がわいてくる。
「なんで、教えてくれなかったんですか?」
「何、拗ねてるの? あはは、祐麒くん可愛いー」
「べ、別に拗ねてるわけじゃ」
言いながら、どう考えても拗ねているようにしか見えないよなと、冷静に分析をしている自分自身もいる。
そうだ、祐麒は三奈子がバイトを始めたことを教えてもらっていなくて、内心は面白くなかったのだ。三奈子だったら、喜んでバイトを始めたことを祐麒に言ってきて、店に遊びに来いと言いそうなものなのに。
「ちょっと、お金が必要でねー」
「欲しいものでもあるんですか」
「うん、まあ時期的に」
「時期?」
「あ、えっと、ちょっとね」
お団子頭のまま、三奈子は軽く空を見上げるように顔を上げ、指でこめかみのあたりをかく。
つられるように視線を上に向けたが、特に何があるわけでもない。
「それより祐麒くん、よく私があの店で働いているってわかったね」
「たまたま、店の前を通りかかったら三奈子さんの姿が目に入っただけですよ」
「なんだなんだ、私の可憐な制服姿に見惚れたな、さては」
「そんなことっ」
ない、と口にしようとして、でも三奈子の言ったことは事実で、そこで言葉は止まってしまった。
「まあ……確かに、ちょっとは」
小声で呟くと。
「えっ」
隣で三奈子が目を丸くした。
「えと、やだな、あはは」
珍しく、照れ笑いをする。
いつもならば、素直に受け取って喜んだり、あるいは更に祐麒をからかってきたりするというのに。
普段と異なる反応をされるものだから、祐麒も困ってしまう。微妙に顔が熱くなってくる。
今までだったら二人でくだらない話をして、無言なんて隙間ができることなどないのだが、どうしてだか今は会話が出来ない。
ちらと横を見れば、丁度こちらに視線を向けてきた三奈子と目があい、お互いにわざとらしく顔を背ける。
恥しいけれど、くすぐったいような雰囲気。
それを打ち破ったのは、かなり豪快な三奈子のお腹の鳴る音であった。
「わ」
「あれ、お腹すいているんですか」
「うん、飲食店で働いているからって、別に私が食べられるわけじゃないしね」
お腹を手でさすりながら、照れたように舌を出す三奈子。
「何か、食べて帰ります?」
「んー、今日はいいや。家に帰れば夕飯が待っているし」
「そう、ですか」
誘っても乗って来ないというのも、ほとんど記憶になかった。避けられているわけではないと分かっても、少し寂しい気がする。
「もう、そんな顔しないの。バイト代出るまでの我慢だから」
「そこまでしてほしいものって、なんですか?」
「えっ!? え~と、それは」
なぜか口ごもる三奈子。
祐麒には言いにくいものなのだろうかと、首を傾げる。
「そうね、例えば祐麒くんだったら、何が欲しくてお金をためる?」
「え、なんで俺なんですか」
「人に聞く前には、まず自分のことを話すのが礼儀でしょ。ほらほら」
「なんですかそりゃ。そうですねえ……でも改めて考えてみると、いまいちないかな」
「何も?」
「というか、受験勉強に追われて、あまりそういうこと考えられなかったから」
「ちぇーっ。つまらないの」
口を尖らす三奈子。
つまらないと言われても、事実なのだから仕方がない。物欲は、受験が終了してから考えればよい。
「それじゃあ、何にしようかな……うーむ」
顎に手をあてて、眉間に皺を寄せて、何か考え込んでいる三奈子。
「あれ。欲しいものがあるからアルバイトしているんですよね?」
「そうだけど、うーん」
腕を組んで、唸りだす。
本当に、一年半近くつきあっているけれど、いまだに三奈子のことは分からないことが多い。
「……まあ、いいか。もともと一人で考えるつもりだったし」
しばらくして、なにやら勝手に納得したらしく、三奈子は一人頷いた。
先ほどの妙な雰囲気となったときから、完全に立ち止まって話し込む格好になっていたが、ようやくまた歩き出す。
「最近、都合があわなかったのって、バイトがあったからなんですね」
「うーん、それもあるけれど、ほら祐麒くんは今受験生で大事な時期じゃない。だから、あんまり邪魔するのも……って。あーっ、もしかしてぇ」
そこでいきなり三奈子が祐麒の方を向き、にんまりと目を細めた。
「もしかしてもしかして、私と会えなくて寂しかったのかなー? んー?」
「そ、そんなことないですよっ」
「それとも、私に避けられているとでも思ったのかしら?」
重ねて問われて返答に窮した祐麒は、歩調を速めて三奈子に背を向け、顔を見られないようにした。
きっと今、あまり見られたくないような顔をしているから。
後ろからは、弾むような足取りの三奈子。
「まあまあ、受験が終われば好きなだけ会えるから、我慢しなさいな」
無言で歩く。
「あと少し頑張ればさ、解放されるから。そしたらまた、色々と遊びに行こ」
振り向かずに歩く。
「もー、なんで拗ねてるのよー」
拗ねているわけではない。
ただ単に、恥しくて顔を見られないだけである。
「ちょっと祐麒くんてばー」
「だから別に……っくしゅ」
「寒いの? そういえばコート、着てないもんね」
肩をすくませ、身を縮める。
「私のコートに入れてあげようか?」
「やめてください、恥しい。というか、入りっこないじゃないですか」
「分からないよー、試してみよっか?」
コートの裾を広げてくる三奈子。
身をよじって逃げようとしたが、腕をつかまれた。そのまま、三奈子の腕がからみついてくる。
「み、三奈子さん?」
「じゃーせめて、腕だけでも暖めてあげる」
ぎゅっ、と抱きついてくる。
腕が、三奈子の暖かさと柔らかさに包まれる。
顔を動かしてみれば、満面の笑みで見上げてくる三奈子。
「んー、まだ寒い? 顔、真っ赤だよ」
「い、いえ」
むしろ、体温はぐんぐんと上昇している。
「あ、歩きづらいですよ」
照れ隠しに、そんなことを言ってみる。
だけど三奈子は、離そうとしない。
「歩きづらいなら、ゆっくり歩けばいいじゃん」
腕をほどくこともできず、言い返すこともできず、結局祐麒は三奈子の言うとおりに歩く速度を落とした。
満足そうな表情をする三奈子。
「……ね、肉まんでも買ってかない?」
「帰れば夕飯が待っているんじゃなかったんでしたっけ」
「だから、半分こしよ。それくらいなら大丈夫でしょ。あったまるし」
祐麒の返事も聞かず、コンビニの方に向かってゆく。
息を吐けば、白い靄が立ち昇る。
季節はすでに冬。受験も迫りつつあり、寒さも重圧も厳しくなっているけれど。
「あー、焼き芋も美味しそうだよねえ。うわー、迷うなー。ね、祐麒くんはどっちがいい?」
三奈子の笑顔が、何もかもを吹き飛ばしてくれるような気がするのであった。
おしまい