剣道部の稽古は相変わらず厳しく、雛絵からの叱られ役も続いていた。雛絵の叱責が弱まることはなかったが、受ける身としては今までと大分違っている。それはなぜかというと、練習が終わって帰宅途中に届く雛絵からのメッセージ。
"今日も皆の前であんなにキツく言ってしまってごめんなさい"
"あんな言い方なかったよね。もっと他に言いようがあるはずなのに、振り返ってみて本当に反省"
など、チャットアプリの"RELAY"を通して送られてくる雛絵からのメッセージは大抵が謝罪であり、しかもかなり自己嫌悪に陥っているようなメッセージが多く、叱られた祐麒の方が時に雛絵を慰めるメッセージを送ることがあるくらいだ。
雛絵の気持ちが全く分からないでもない。叱るという行為にもかなりのエネルギーを要するし、叱ることに慣れていない人は、叱った後は精神的な疲労を覚える。野球部時代、祐麒も後輩を強く叱るようなことは苦手だった。
部活動で厳しく指導され、時に叱られ役として叱責を浴び、帰宅中にメッセージを受け取る。日々の雛絵との接点はそれくらいで、野球観戦の約束などなかったかのような感じで日々は過ぎ、春になって三年生は卒業して春休みになった。部活はあるけれどそこまで激しくはなく、そうしてついに雛絵との約束の日を迎えた。
電車を降りるとユニフォーム姿の人たちでホームが溢れんばかりであった。ファンからしてみれば待ちに待ったシーズンの到来、ホームでの開幕シリーズ、盛り上がらないわけがない。祐麒も久しぶりに訪れる球場に胸を躍らせていた。
人の波に揉まれながら階段を下りて改札へ向かいながら、待ち合わせは改札を出て駅から外に出た場所だと再確認すると、なんだか不意に気恥ずかしくなってきた。野球観戦ということに少し浮かれていたが、考えてみれば先輩とはいえ女の子と二人でなんて、まるでデートではないか。
いやいや、雛絵は単にお礼としてチケットをくれただけでそんな気持ちはないだろう。そう考えながら改札を抜け、雛絵の姿を探しながら駅の外に出る。沢山の人がいて、この中から見つけるのも大変そうだ、なんて思っている祐麒に向かって手を振る人影があった。
「福沢くん」
笑顔を見せる雛絵。
髪は部活動の時と同じく後ろで纏めているけれど、同じなのはそれくらい。薄い水色のブラウスにスプリングコート、そしてデニムのパンツというのは特に変わったものではないけれど、部活の時の姿かもしくは制服姿しか目にしたことがない祐麒にしてみれば、新鮮というか違和感があるというか、不思議な感じがした。
「どうかしたの?」
「え、いえ、なんでもないです」
何も言わない祐麒を不思議に思ったのか、怪訝そうに尋ねてくる雛絵。慌てて返事をして思い出したように頭を下げる。
「今日はありがとうございます」
「そんなかしこまらないで、部活じゃないんだし、せっかくなんだから楽しみましょうよ」
オフだからだろうか、それとも服装のせいか、あるいは周囲の雰囲気のせいか、雛絵の言動はいつもより随分と柔らかい。
「今日はいい天気ね。この陽ざしだと、上着がなくても大丈夫なくらいね」
太陽が元気よく、この時期にしてはかなり暖かいと天気予報でも言っていた。周囲を見ると、中には半袖の人もいて随分と元気なものだと思ったりもする。
そんな風に周囲を観察しながら歩くとすぐにスタジアムが見えてくる、この瞬間が祐麒は好きだった。
「うわぁ、凄い、こんなに駅から近くなんだ。大きい、凄い、わぁ……っ」
初めて来たという雛絵は、スタジアムを見上げて口を開けている。無防備なその横顔はどこか幼く感じられる。
「ねえ福沢くん、球場に入る前にショップに寄っていいかしら。せっかくだから買いたいと思っていて」
「いいですけれど、何を買うんですか?」
「ユニフォームと帽子、あと出来ればタオルも買いたいな」
「え、そんなに? 言っておきますけれどユニフォームとか高いですよ」
全部買ったらまとめて一万は軽く超える。下手したら一万五千円くらいになり、平凡な高校生からしてみれば物凄い出費になる。それともやはりリリアンのお嬢様、お金持ちなのだろうかと思って横を見ると。
「――だから、お年玉貯金、おもいきっておろしてきちゃった」
と、少し恥ずかしそうにはにかみながら言う雛絵。少し、どきっとする。
え、今の"どきっ"ってなんだろうと思いつつ、混雑しているショップに入り、様々なグッズを見て回る。
「ねえ、せっかく買ったんだし、もうここで着ちゃっていい?」
ショップを出るなり、待ちきれないかのように雛絵は言うと、別に祐麒の許可を得るまでもなくレプリカユニフォームを取り出し、コートを脱いで代わりにブラウスの上から羽織った。
どうしてだろう。
ユニフォームを着た女子が五割増し可愛く見えるのは。
少し大きめのユニフォームを着て、おまけに迷彩柄のキャップをかぶって束ねた髪の毛をキャップの後ろからちょこんと出した雛絵は、物凄く可愛く見えた。いや、普段が可愛くないと言っているわけではないが、どちらかといえば凛々しいイメージ強かった。
「どう、変じゃないかな?」
腕を広げて見せてくる姿も、なんともいえない。
「変なんかじゃないですよ」
むしろ可愛いです、とはさすがに恥ずかしくて言えなかった。
「……でも、随分と渋い選手のユニを買いましたね」
背番号とその上に書かれたネームを見ると、代打の切り札として活躍しているベテラン選手のものだった。
「だって、ファンだから。もともと好きになったのも、小学生の時学校に選手の人が来てくれたことがあって、それがこの選手だったの。授業で話してくれて、給食も一緒に食べて、その時たまたま私が隣の席になって、色々とお話しもして優しくて面白くて、何よりイケメンで」
「やっぱりそこですか!」
「いいじゃない別に、最初はそういうものでしょう」
「そうかもですけれど……っていうか部長って実は、かなり本気でファンですか?」
「そうよ……って、何よ今さらそれ」
「だって、そんなこと言ってなかったじゃないですか」
「…………」
なぜか、むっとした表情をする雛絵。
「え、えと、そうだ、俺もユニフォーム持ってきてますよ」
「えっ、誰の誰の!?」
ぱっと明るい顔になった雛絵を見て、とりあえず良かったと思うと同時に、本当にファンなんだなと納得する。
互いに戦闘服(ユニフォーム姿)になって球場内に入る。ゲートを通り、通路を進んでいくと視界に広がる青空と人工芝のコントラスト、屋内球場では味わえない色彩感と空気、そして解放感が祐麒は好きだった。
「えーと、席はどこかしら。番号だと、こっち? かしら」
「いや部長、どう見ても反対ですけど」
チケットに書かれた席の番号と、案内表示に書かれている番号を見比べているのに、なぜかおたおたとして見当違いの方に歩き出そうとする雛絵を慌てて止める。
「ご、ごめんなさい、私、こういうの苦手で」
部ではキビキビしているのに、これまた意外なギャップを感じながらチケットの席へと到着する。ペアシートということで二人並びの席、そして通常の席と異なって隣の席との間に鉄枠があって少しだけ間が空いている。ただそれだけなのだが、同じような前の座席には恋人らしき男女が手を繋いで座っていて、なんとなく意識させられる。野球のことでテンションが上がり、緊張も解けて普通に接することが出来ていたのに。
「思っていたよりスペースに余裕あるわね。荷物を置いたら、ちょっとその辺を見てきてもいい?」
雛絵の方は特に気にもしていないのか、珍しそうに周囲を見ながら言う。自分ひとりで何を意識しているのかと恥ずかしくなり、手の平で軽く頬を叩く。
「俺も一緒に行きますよ。部長だけだと、この席に戻ってこられないでしょう」
「そこまで酷くないわよ、馬鹿にしないで」
そう言う雛絵の後を追って球場内の散策に出て、戻って来た時には食べ物と飲み物を抱えていた。球場内の食べ物は高いのだが、こうしてたまに来たときくらい食べるのも良いだろう。
席に戻って食べたり飲んだりしながら話をする。初めての球場観戦ということで雛絵は色々と尋ねてきたが、その中でこのチームのファンだということは改めて理解した。選手の名前だけでなく、昨年度の成績をもとに今年はどの辺に期待するとか、どういった部分が好きだとか、ファンでないとなかなか話せないようなことを普通に口にしていたから。
「わあ……なんか凄いね、色々なイベントやらセレモニーやら、見ているだけでワクワクするし楽しくなるね」
「まあ開幕シリーズですからね、最初くらい盛り上げないと。始まったばかりだから最下位まっしぐらとか、既に優勝の可能性なくなったとかないですし」
「ちょっと、いきなりそんな後ろ向きなコト言わないでよ。そりゃあ、よく夏頃には『来期に向けて』なんてことになっていたりするけれど」
「いやいや、夏どころかオールスター、いや交流戦明けには」
「そうそう、期待の若手が見られて楽しみ――って、なんでそんな自虐ばっかり!」
言いながら雛絵も笑っているし、祐麒も楽しかった。周囲に同じチームのファンである友人がいなくて、今までこのような話ができる相手もいなかったのだ。それがまさか、部活の部長でそれ以外に接点などないと思っていた雛絵と話しが弾むとは想定外過ぎたが、楽しいことは事実だった。
「ああ、凄い楽しみ」
胸の前で手を組んで言う雛絵の表情は本当に明るく楽しそうだった。
そうして、試合は始まった。
「――ああもう、悔しいなぁ」
球場から外に出て、がっくりと肩を落としながら呟く雛絵。
試合自体は好ゲームであったけれど、残念ながら応援の甲斐なく負けてしまった。だが接戦であったし随所に良いところもあり、チャンステーマも歌えて、横から見ていても雛絵は楽しんでいたと思えた。
「あそこのチャンスでもう一本、出ていればなー」
ちょっと口を尖らせ、思い出しながら胸の前でバットを振る仕草を見せる。
人の流れに沿って歩いていると、周囲では他にも不満の声、負けたけれど楽しかったという声、試合展開に議論をする声などが耳に入ってくる。
同じように帰るため駅に向かう人たちの中、ゆっくりと歩きながら心地よい疲労感を覚える。これで勝っていればもっと良かったのだろうが贅沢は言えない。そもそも、負けているのだから普段ならもっと気が立っているのに、今日はそこまで苛立っていない。理由は明確で、隣を歩く雛絵のお蔭であろう。
「――どうかしたの、福沢くん」
視線を感じたのだろう、雛絵は小首を傾げて言う。
「いえ、せっかく球場まで来たのに負けちゃって残念でしたね」
「本当、でも凄く楽しかった。やっぱり現地で応援するのって、全然違うのね」
「臨場感や迫力が違いますからね。応援の熱気とかも直で分かりますし」
「そうよね、テレビで見るのとも違うし、応援も楽しかった」
「でも部長って意外とリズム感ないですよね。手拍子とかずれていましたし」
「嘘っ? え、嘘よね、そんなことないと思うんだけど」
「本人は意外と気が付かないものなんですかね……」
「え、え、本当に? あ、でもほら、初めてだから慣れていなかっただけよ、きっと……って、何笑っているのよ」
「いえ、笑ってないですよ」
「嘘、笑っているじゃない……もう」
ぷいと横を向いてしまう雛絵。
そうこうしているうちに駅まで到着するが、野球帰りの客が多すぎてホームは大混雑である。
「でもなんか、私ばかり楽しんでいたみたい。もとはといえば福沢くんに対するお礼だったのに」
「俺も凄く楽しかったですよ」
「本当に?」
「本当ですよ。偶然だけどこんな誕生日も良いなぁって」
祐麒の誕生日は四月一日、ちょうどプロ野球開幕のタイミングとはちあう時だけれど、春休みということもあり学校の友人達におめでとうの声をかけられることもなく、家で普通に過ごし家族に祝われるのが例年だった。
「そうなんだ、それはちょうど良……って、え、誕生日だったの? それならもっと早く言ってよ、何かお祝いのプレゼントしたのに」
「今日のチケット、いただきましたし」
「それはお礼だから、誕生日プレゼントじゃないし」
「でも俺、こんな風に誕生日を女の子と一緒に過ごすなんて初めてですし、それだけでもうすげー十分ですし」
祐巳と一緒というのはあるが、それと同じ扱いにはさすがにならないだろう。そんなことを考えて雛絵の方を見ると、中途半端に口を開いて目を泳がせ、なぜか耳が小さく動いている。
そんな雛絵の反応を見て、自分が結構、大胆な発言をしたことに気が付いた。いや、内心では分かっていたけれど気付かないふりしていたことを口にしたというか。即ち、誕生日に同世代の女の子と野球観戦デートをしていたということを。
「え、あの、わたしっ」
何を言おうとしたのか、全てを言う前にホームに電車が入って来たのはどちらにとってもラッキーだっただろう。互いに口を閉じ、電車が走る音だけが響き、やがて開いた扉から車内へと入っていく。
「さすがに凄い人ですね」
「そうだね」
話をそらすけれどその方が雛絵にも良いだろう。それに人が多いのも事実で、次々と乗り込んでくる客で隙間がどんどんなくなっていく。入ってきた扉とは反対側まで押しやられて落ち着いたかと思ったが、発車を知らせる音楽が流れると更に強引に乗り込んできて人たちによって強く押された。
「うわっ」
「きゃっ」
後ろから押された祐麒は、扉に背をつけていた雛絵の体に正面から押し付けられる格好となった。その瞬間、胸にあたった柔らかな感触。あたっただけではない、押されて動いて形が変わるのまで分かった。
「すすっ、すみませんっ」
扉に手をついて力を入れて後ろに押し返し、急いで雛絵との間に距離を開ける。
「仕方ないよ、凄い人だもんね」
驚いた顔をしているが、特に変な目で祐麒のことは見てきていない。単に押されて体が触れてしまっただけだと思っているのか、それとも『フリ』をしているだけなのかは分からないが、いずれにしても祐麒としては有難い。
しかし部活動の時や制服の時は気が付かなかったが、雛絵は以外にも大きいのか、などと考えてつい先ほどのことを思い出した祐麒は、慌ててさらに腰を引いた。
「大丈夫、福沢くん? そこまでしなくても私なら大丈夫だけど」
「あ、いえ、大丈夫です、ハイ」
雛絵は心配そうに言ってくれるが、そうはいかない事情が出来てしまったのだ。リスクを避けるためにも、出来る限り雛絵と距離は離しておきたい。特に下半身は。
「乗り換えでお客も減りますから、二駅くらいの辛抱ですし」
電車が動きだして揺れる。
そこでハッと気が付いたが、すぐ至近距離の目の前に雛絵の顔があった。雛絵の身長は160センチ台だろうか、祐麒とそこまで背の高さに差はなく、正面から見つめ合うような格好になる。
今までこんな風にまじまじと雛絵の顔を見たことはなかったが、こうして見ると瞳が大きくて実は気持ち垂れ目がちなのが意外だった。剣道部で目を吊り上げて叱っている姿ばかり見ていたせいだろうか。睫毛は長くて綺麗に上を向き、小さくて薄目の唇は艶があり、目鼻立ち全体のバランスが良い。
(あれ、なんか部長って、思ってた以上に可愛…………)
そんなことを内心で考え始めて心臓の動きが早まりかけた時、次の駅に到着して扉が開いた。雛絵が寄りかかっていた扉で、自然と二人のそれまでの体勢も解除され、残念なようなホッとしたような気持ちになる。
結局その後は、なんとなく微妙な雰囲気となって二人が別れる乗り換えの駅に到着した。このまま別れるところだが、その前に祐麒は雛絵に声をかけていた。
「あの部長、今日は本当にありがとうございました。それで、今日のお返し、にしてはしょぼすぎるんですけれど、良かったらこれ」
祐麒はグッズショップで購入していたマスコトットキャラクターのぬいぐるみキーホルダーを取り出して雛絵に渡す。祐麒が鞄につけているのとは別バージョンだ。
「え、もらえないよ、私何もしていないのに」
「そんなことないです、むしろ受け取っていただけないと俺の気が」
「?」
首を傾げる雛絵の胸元につい目がいってしまい、急速に顔が熱くなり、ついでに下半身の血流が良くなる。
「と、とにかく、受け取ってください。そ、それじゃあ俺はこっちなんで失礼しますっ」
雛絵の手に半ば強引にキーホルダーを握らせると、下半身の変調に気付かれないうちに背を向けて逃げ出すようにその場を離れる祐麒だった。
★
帰宅して自室のベッドに腰を下ろし、大きく息を吐き出す。
今日一日だけで色々なことがあった。
初めての野球観戦、球場での応援、男の子と二人での外出、そして思いがけず手を握られたこと。実際にはキーホルダーを渡された際に手を掴まれただけだが。
更に思い出すのは帰りの電車の中でのこと。
「あれが……『壁ドン』ってやつなのかしら……?」
大勢の客で溢れた電車内、雛絵を守るため扉に腕をついていてくれただけだとは分かっていても、体勢的には立派な『壁ドン』だった。しかも、両手で顔の左右を挟まれていて真正面から見つめられる格好となった。
祐麒のちょっと女の子みたいな中性的な顔、まだ幼いながらも凛々しさを持ち合わせた男の子の顔。あんな風に男の子と至近距離で見つめ合うなど初めてのことで、実は物凄くドキドキしていたことを気が付かれていなかっただろうか。
ゆっくりと、ベッドに倒れ込む。
疲れたけれど、楽しかった。
学校だってつまらなくないし、剣道は好きだ。友達とのお喋りも楽しいけれど、そういうのとは全く違った楽しさを感じた。好きなものが同じで、その好きなもののことを思い切り話して良いというのはとても心地よくて、嬉しかった。何しろ今までは家族も友人も誰とも話せなかったし、そもそも野球が好きでどこそこのチームのファンだなんて、家族だって知らないかもしれないのだから。
「楽しかったなぁ……」
もらったキーホルダーを顔の前に掲げて見つめる。とぼけた顔をしたマスコットに、思わず頬が緩くなる。
楽しかったことは間違いないけれど、終わってしまったことも事実。そう考えると寂しくなってくる。
「……また、一緒に…………」
そこまで口に出して、急速に顔が熱くなる。
何を考えているのだろうか、『また』、だなんて。今回は部活動でのお礼ということで誘ったけれど、それが終わってしまった今、もはや祐麒を誘う理由など何もないのに。他に理由もなく誘うほどの勇気を雛絵は持ち合わせていなかった。
それに、自然と祐麒と一緒になんて考えてしまったけれど、自分は祐麒のことをどう思っているのだろうか。部活で、部長として困っているところを助けてくれた優しい後輩の男の子、だけだったとしたらお礼として半ば強引に誘ったりしただろうか。
分からない。分からないけれど、今日の今の時点であれば分かる。
『福沢祐麒とまた一緒に野球を観に行きたい』
そう思っている自分がいること。
でも、誘うことなんかできない。
それが雛絵の結論だった。
「ごきげんよう、雛絵さん」
「ごきげんよう、令さん」
新学期が始まり、下足入れで登校してきた令と会い、互いに挨拶をかわして教室へと向かう。
「――あれ。雛絵さん、前からそれ、つけていたっけ?」
鞄につけていたキーホルダー、即ち祐麒からプレゼントされたものを見て令が問いかけてきた。
「え、あ、うん、貰い物なんだけど、可愛いから」
「確かに可愛いわね」
にっこりと令の顔に笑みが浮かぶ。王子様みたいな外見だけれど、可愛いものが好きだということを知ったのは、部長、副部長となって今まで以上に話すことが多くなってからである。
「最近、流行っているのかしら? 確か祐麒くんも同じキャラのを鞄につけていたような気がするけれど」
何気なくそう言った令の言葉にドキッとする。
そんな風に祐麒の鞄にさげられているキーホルダーのことを覚えていることと、それ以上に何より、令が『祐麒くん』と親し気に下の名前で呼んだことに。
「ゆ、祐麒くん……って、令さん、その、彼と親しいの?」
「え? ああ、彼、祐巳ちゃんの弟さんでしょう。由乃……私の妹が祐巳ちゃんの親友で、話す機会とかあって、それで」
思いがけないつながりに、なぜか心がざわめき出す。
「……そういえば、同じようなのが由乃の部屋にもあった気がするなぁ」
「えっ!?」
「確かにあったような……なんだっけ」
「あ、それじゃあまた放課後、部活動で」
この話題を続けたくなくて慌てて打ち切り令と別れる。そして内心では驚いていた。令の話が事実だとすると、由乃ももしかしたら同じチームのファンかもしれず、その由乃と祐巳が親友どうして、祐巳の弟が祐麒で、既に二人は交流もあるようで。
自分でも不思議なくらい焦り出していた。
授業中もそのことばかり考えていて集中できず、いつの間にか放課後となって部活の時間になっていたが、そこでも落ち着かなかった。祐麒の方に目を向けたいがそれも出来ず、今日は叱ることも出来ず、部活動が終わってしまった。
それでもどうにか出来ないかと片付けの間にチラチラと祐麒を見ていると、目が合った。ふいと顔をそらし、それでもチラリと祐麒を見る、などということを繰り返すと、帰り際の道場で鍵を閉めているところで祐麒に声をかけられた。
「野島部長、何か俺に言いたいことありました?」
「あっ――」
言葉が出てこない。焦っていたけれど、そこからどうしたら良いのかまで深く考えられておらず、咄嗟にどうすれば良いのか分からない。とはいえ、意味ありげなことをしていたのは雛絵の方で、このまま黙っていては祐麒も困るだろうし帰ってしまうだろう。
どうしようか混乱している中、目に入ったのは祐麒の鞄からぶら下がるキーホルダー。
「あのっ、また今度、野球観に行かない?」
「えっ」
「だってほら、負けたまま終わりじゃ悔しいし、勝ったところみたいし、でも私一人で行くのはちょっと、でも女の子の友達でファンとかいないし…………」
早口のうえ、最後の方はどんどん声が小さくなっていくし、話しているうちに自分自身でも恥ずかしくなり、とうとう赤面して俯いてしまった。
情けないしみっともないし、このまま走り去ってしまいたいくらいだった。
だけど。
「えっと、俺で良かったら、はい」
「ごめんなさい、私勝手なことばかり……えっ、いいの?」
「はい。俺も、楽しかったですし」
「え、えと、じゃあ、日にちとか、あの」
「それはまた今じゃなくても良いんじゃないですか。連絡しますよ」
「あ、そうよね、うん」
「それじゃ俺、他のやつら待たせているんで行きますね」
そう言って歩き出した祐麒だが、立ち止まって振り返ると。
「えっと……今回のこともまた、他の人には秘密に、ですよね?」
祐麒の言葉に、無言でコクコクと首を縦に振る雛絵。
「それじゃあ、また。楽しみにしています」
ぺこりと頭を下げると、今度こそ走り去っていく祐麒。
その後ろ姿を見つめながら。
「た、た、楽しみに――――」
その一言で、なぜか頬が熱くなるのを止められなくなる雛絵であった。