ふと気がつけば、特徴的な長い髪の毛を目で追いかけていることに気がつき、慌てて視線を別の方向に向ける。
授業中だというのに、何をしているというのか。
ノートにペンをはしらせ、黒板に目を向けるが、斜め前方の座席の可南子に、いつの間にか意識が傾いてしまっている。
思い出すのは、可南子の体。
体育の時は体操着だけだったからより肌の密着度を感じ、運動で少し汗ばんだ芳香、わずかに荒い息づかい。
可南子の家では、可南子の重さを直接、感じとった。思っていたよりも大きな胸の弾力、頬をくすぐる長い髪の毛、見開かれた瞳の奥にうつる光。
そしてどちらも何より、濡れて光る柔らかそうな唇。
あの日、美術室でのシーンを見てしまったせいだろうか、やけに唇に見入ってしまう。味わったら、どんな美味なのだろうか。甘いのか、酸っぱいのか、苦いのか、はたまた味なんてしないのか。
ここ数日、ことあるごとに可南子のことを思い出してしまい、一人、赤面する。
おかしい。
乃梨子は、自分自身の感情がどこか変化していることに気がつき、戸惑っていた。
頬杖をつき、教壇で喋る教師の姿を見つめるけれど、話している言葉は耳を通り抜けてゆくだけ。
手の平に伝わる頬の熱は、いつもよりほんのり、高いような気がした。
そんな感じで数日が過ぎたある土曜日、乃梨子は可南子を自宅に招いた。前に可南子の家で話したDVDを貸すため、家に来ないかと誘ったのだ。
可南子のことを意識してしまう自分を叱咤し、そんなんじゃない、別に変に意識なんてしていないから家に呼ぶことなんてなんでもない、なんて一人で色々と考えて声をかけたのだが、そう考えている時点で意識をしていることに気が回っていない。
部屋はいつもそれなりに片付けているが、さらに念入りに整理をして、変なところがないか気を配っているうちに、インターフォンが鳴り響いた。
可南子がやってきたということを確認し、玄関に出迎える。
「お邪魔します」
「いらっしゃい。何もないけれど、どうぞ」
「素敵なマンションね」
「ありがとう、菫子さんが聞いたら喜ぶわ」
そんな風に話しながら、部屋に招き入れる。
平静に案内できているだろうかと、少し心配になる。と、いうのも、私服姿の可南子に思わずどっきりしていたから。
何せ、ミニスカート。チュールレースを重ねたグレージュのティアードスカートの上から、ブルーグリーンのチュニック。スカートから伸びた長く形の良い足が眩しいし、長い髪の毛をシュシュでまとめ、いつもよりも大人っぽく見える。
チェックのブラウスにショートパンツという乃梨子の格好と比べてみると、同い年なのに随分と差があるように感じてしまう。
部屋に通し、用意しておいた紅茶とクッキーを運んできて、お喋りに興じる。この前、可南子の家で話をしているから、話をすること自体は問題なくなっていたし、もともと女の子はお喋りが得意な子が多い。
さほど饒舌ではないといえ、可南子も乃梨子もごく普通にお喋りをすることは出来るし、共通の話題も見つけてある。
映画の話にうつり、もともとの約束であったDVDを渡すと、嬉々として可南子は受け取った。すごく楽しみにしていること、好きな女優の演技に期待していること、この前も同じようなことを喋ったというのに、好きなことを話すのはこうも楽しいのか。乃梨子もリラックスし、意識することなく自然に接することができた。
リビングに移って海外ドラマのDVDを観て、部屋に戻ってまたお喋りして、そんな感じで二時間ほどがあっという間に過ぎ去った。
過剰に意識もせず、やっぱり単なる杞憂に過ぎなかったんだとちょっと安心。可南子とは良い友達になれそうだと、嬉しくもなる。
そんなとき、可南子がふと、ベッドの上に置きっぱなしにしていて雑誌に目を留めた。
「あ、乃梨子さんも『Skip!』買っているんだ。私も時々、買うんだけれどこれ、最新号? ちょっと見てもいい?」
可南子が手を伸ばした雑誌は、いわゆる乃梨子達の年代の女の子が買うような雑誌で、ファッションのことをメインに取り扱っている。ファッションに物凄く執着があるわけではないけれど、乃梨子も時々、購入している。
「やっぱり緑ちゃんは可愛いよねー」
ベッドの縁に腰かけ、雑誌のモデルの女の子を見ながら、そんな感想を口にする。
どうしよう、と、乃梨子は内心で思っていた。
なぜなら、数日前にこの雑誌を購入したのだが、中の記事にちょっとばかり、気になってしまうものがある。
「あ」
そんな声を出した可南子に気がつき、ページに目を落としてみると。
『特集、女子高校生のキス事情』
まさに、そのページだった。
メインはもちろん、彼氏、恋人とのキスについてで、ファーストキスだとか、そのシーンだとか、どういうキスが幸せになれるとか、そういうことが書かれているのだけれど。その中に、『女の子同士の友達キス』なるものもあって、それなりの割合で経験が『ある』という結果が出ているのだ。
仲の良い友達、親友なんかと、『ちゅっ』と軽く触れ合うようなキスはしばしばするとか、気持良いからしょっちゅうするとか、そんな意見も掲載されている。もちろん、絶対に嫌だとか、そういう意見もあるわけだけど、雑誌では比較的、好意を持って記事を掲載していた。
バレンタインに女の子同士で友チョコを贈り合うくらいだから、友キスをするのだってごく普通になるかも?? なんて、書かれていた。
「あー、この記事ね、ちょっと気になるよね」
気になるというか、だからこそ思わず、購入してしまったのであるが、何気なさを装って同じようにページを覗き込もうとして、髪の毛を耳にかきあげていた可南子と当たり前だが至近距離で目が合い、慌ててページに目を落とす。
せっかく、自然に接してこられていたのに、余計なことを考えてはまた、変に力が入ってしまう。
変な意識を振り払おうと雑誌に集中すると、ちょうど読者投稿なのか、セーラー服の女の子同士が、笑いながら唇を触れ合わせようとしている写真が目に入り、逆効果。まざまざと美術室のことを思い出し、すぐ隣の可南子のことを必要以上に感じてしまう。
「じゃあ……あのとき見た二人も、そうだったのかもしれませんね」
「ああ、うん、そうだね」
落ち着けと、自分に言い聞かせる。何も意識する必要はない、雑誌にだって書いてあるくらいなのだから、あんまり気にすることではないのだ。ごく自然に話を。
「そっか、友達同士のねぇ……じゃあ、私達もしてみる?」
口に出した直後、乃梨子は心の内で悶絶しながら後悔した。何が、「じゃあ」なのかさっぱり分からない。というか、完全に変な目で見られているのではないか。やばい、どうしよう、と冷や汗が出るのを必死に抑えていると。
「え、あ……別にいいけど」
「ご、ごめん、なんか変なこと……って、ええぇっ!?」
思いがけない返事に、声がひっくり返る。
顔をあげてみると、横顔を向けている可南子。
「その、だって友達同士ならおかしくはないんでしょう? 私たちは友達、よね」
「も、もちろん」
「それなら、しても、おかしくはないということだし」
予想もしなかった展開にパニックに陥りそうになり、どうにか心を落ち着かせようと大きく息を吸い込む。
冗談なのか、それとも本気なのか、あるいは本の内容を信じて気軽に言っているのか、可南子の横顔からだけではよく分からない。とにかく、何か反応を返さなければいけないと思い、口を開く。
「じゃ、じゃあ、しよっか」
と、またも言ってから大後悔。これじゃあまるで、乃梨子が物凄くキスをしたがっているようではないか。
「うん」
小さく頷く可南子。
しかし、どうしたらよいものか、乃梨子も分からない。
「とりあえず、もう少し近くに寄った方が」
「ああ、うん、そうね」
雑誌をどかして、可南子の隣に乃梨子も腰をおろす。間に雑誌がなくなり、可南子との距離は十センチほど。しかし、ただ横に並んで座っていてもキスは出来ないので、ゆっくりと上半身をひねるようにして、顔を可南子の方に向ける。
可南子もまた、首をまわして乃梨子の方を向いた。
「えと、じゃ、じゃあ」
「は、はい」
とは言ったものの、このあとどう動くのが自然なのか。とりあえず、顔をもっと近づけないといけないのだろう。しかし、可南子の方が顔のポジションが高い。体を伸ばさないといけないな、なんて思っていると、悟ったのか可南子がゆっくりと上半身を斜め前方に倒し、目線を同じ高さにあわせてきた。
可愛らしい唇に、目が吸い寄せられる。艶やかに光っているのは、グロスだろうか。吸い寄せられるように近づいていく。
「あ、あの、乃梨子さん」
「ん?」
「その、じっと見つめられたままだと、なんだか恥ずかしいです」
「え、ごめん。で、でもそれを言うなら、可南子さんだって」
お互い、ぱっちりと目を開いて見合っていたから、確かに恥ずかしい。だけど、目を閉じていては、唇の着地点を誤ってしまうかもしれない。さて、どうすればよいのか。
「では、近づきながら徐々に薄目にしていくのはどうでしょうか」
「うん、そ、それなら大丈夫そうだね」
キスをしようというときに、何を話し合っているのか、しかし乃梨子と可南子は至って真面目に考えていた。
「じゃあ、今度こそ……」
「は、はい」
一旦、身を離して気取られないように深呼吸して、また顔を近づけていく。可南子の顔が近付いてくる。白い肌、流れる長い髪の毛、黒真珠のような瞳、そしてわずかにすぼめられた薄紅色の唇。
近づけながら、言われたとおりに少しずつ目を細めていく。可南子のまぶたもまた、ゆっくりと落ちていく。
やがて、唇同士が触れ合う直前まで来て、乃梨子の視界は完全に閉ざされる。
それでも可南子が目の前にいることはわかる。
あと少し、顔を前に出せば触れる。そこで、ベッドについていた乃梨子の手が滑った。
『ガチッ!』というような音が響き、不意の衝撃と痛みに思わず口をおさえる。
「い、イタタ……ご、ごめん可南子さん、大丈夫?」
「う、うん」
言いながらも、ちょっと痛そうに眉をハの字にしながら、可南子も指で唇を撫でている。体勢を崩した乃梨子は、そのまま勢いあまって可南子に激突してしまい、歯と歯がぶつかるような格好になってしまったのだ。
歯がぶつかったということは、必然的に唇同士も触れあったのだろうが、痛みの方と驚きにばかり意識があって、本当に触れたのか全く覚えていない。
「あ……はは、ごめん。なんか、よくわからなかったね」
「そ、そうですね」
おかしくなって、思わず二人して笑ってしまうが、内心では少し安堵する。思いがけない展開になってしまったが、アクシデントが発生したことにより笑える話になった。キスだってしていないわけでもないし、これはこれで結果オーライか、なんて思っていると。
「じゃあ、もう一回、してみる?」
長い髪の毛を人差し指にくるくる巻きながら、可南子がまたとんでもないことを言ってきた。
ここは、笑って「また冗談ばかり言って」とでも流すべきかと一瞬のうちに頭の中で考え、乃梨子は返事をする。
「あ、うん、そそ、そうだよね。じゃあ、もう一回?」
頭で考えたこととは全く異なる言葉が、口を開いた途端に出て、乃梨子は一人で悶絶する。なんで、肯定してしまうんだと。
「で、でも、またさっきみたいに失敗しちゃったりするかも」
「あー、うん、そうね、さっきのは何がいけなかったのかしら」
「ちょっと、体勢が変だったのかな、やっぱり」
二人して真面目に、上手にキスするための体勢について意見を出し合うというのは、傍から見たらおかしなことだろうが、このときの乃梨子と可南子はいたって真面目であった。ああでもない、こうでもないと話し合った結果、たどり着いた結論はというと。
ベッドの上で、ペタンと女の子座りをしている可南子。その可南子の太腿の上からまたがる格好で腰を下ろす乃梨子。可南子の方が背がずっと高いため、顔の位置をちょうど良くあわせるため、こうなったのだが。
いざ、その体勢になってみると、実は物凄い体勢なんじゃないかと今更ながらに恥ずかしくなる。可南子も同じことを感じているのか、微妙に頬が紅潮しているように見える。しかし体勢上、逃げることもかなわず、微妙に視線をそらすくらいしかできない。この恥ずかしい状況を終えるには、さっさとキスをしてしまうしかないだろう。
「じゃ、じゃあ、今度こそ、いきます」
「は、はい」
可南子の顔を正面にとらえる。
手をのばし、まずは可南子の長い髪の毛を手で梳き、邪魔にならないように後ろに流してあげる。そのまま肩に手を置き、深呼吸。
それでもやっぱり恥ずかしくて、視線をちらりと下にそらすと、乃梨子が跨ったことでミニスカートの裾が乱れて捲れ、下着が見えそうなほどになっていた。肉付きのいい健康的な太腿が美味しそうで、また興奮度が上がる。
「あの、乃梨子さん?」
なかなか動かない乃梨子を不審に思ったのか、可南子が心配そうに声をかけてきた。
「ご、ごめん。それじゃあ、改めて」
何が改めてなんだ、なんて思いつつも、乃梨子は再び可南子の唇をめがけて顔を近づけていく。
「……ひあっ!?」
いきなり、変な悲鳴をあげたのは乃梨子。
「か、可南子さん?」
「あ、ご、ごめんなさい。手持無沙汰だったもので、つい」
可南子の手は、乃梨子の腰をつかんでいた。くすぐったいような、むずがゆいような感触が不意に襲って来て、おもわず声をあげてしまったのだ。
「べ、別にいいの。ちょっと、驚いただけだから」
互いがより、密着する形となる。
可南子の熱を帯びた息が、ほんのりと顔にかかる。おそらく逆も同じで、乃梨子の吐息が可南子の頬をくすぐっていることだろう。
可南子の手が動き、意識的にか無意識にかは分からないが、乃梨子のブラウスの裾の下に入り込んできた。
「ん……」
腰をなぞる指を感じながら、ゆっくりと顔を近づけていく。
二人とも、目を開けたまま、お互いの顔を見つめたままに。可南子の瞳に映る乃梨子自身の顔が、少しずつ大きくなってゆく。
さらに近づき、二人のまぶたがゆっくりと落ちてゆき、まさにあと数ミリで触れようかというその時。
玄関の鍵が開けられる音が、わずかにだが耳に届いた。そして続いて、
「ただいまーっと」
そんな菫子の声が聞こえてきて、動きが止まる。
「リコ、お友達がきているの?」
玄関に置いてある靴を見たのだろう、言いながら菫子が中に入ってくる様子が聞こえてくる。
「あ、あの、乃梨子さん」
「え……あ、ああ」
いまだ可南子の太腿の上に座り、抱き合うような格好となっていたことに気がつき、慌てて降りる。ようやく自由に動けるようになり、可南子もそそくさとわずかに乱れた服装を直す。スカートの裾を直す際、ちらりと白い下着が目にうつり、どきっとする。
「リコ、いるんだろう?」
「あ、はーい。今、友達が来ているの」
部屋の外から菫子に呼びかけられて、返事をする。
「ちょうどいい、シュークリームを買ってきたからお友達と一緒に食べな」
「うん、ありがとう」
答えながら、考える。
もし、菫子が帰ってくるのがあと数秒でも遅かったら、どうなっていただろうかと。
甘い、甘いシュークリームを頬張りながら。
乃梨子の心は熱く、とろけてゆく。
つ・づ・く